〈学校的リアリズム〉の体現
教師はなかなか伸びない子に「きみはやればできる」と言い続けなければならない。「だれしも無限の可能性をもっている。限界なんてない」と言い続けなければならない。「だれにも良いところはある。悪いところではなく良いところを見るように心掛ければ、嫌いな人、苦手な人でも好きになれる」と言い続けなければならない。「先生には嫌いな人なんていないな」という大嘘を吐き続けなければならない。「いま頑張れば、後に素晴らしい人生が待っているんだよ」という根拠のないポジティヴ思考を肯定しなければならない。〈学校的リアリズム〉を肯定するなら、教師は「嘘つき」でなくなるのだ。少なくとも、教師の嘘が「必要悪」にはなるはずだ。教師が良心の呵責を感じることなく「きれいごと」を言えるようになるはずだ。
確かに世の中は「ぎれいごと」だけでは生きていけない。それは大人になればイヤというほどにわかる。わかりたくないのにわからざるを得ない。いや、思春期から少しずつきれいごとの欺瞞が曝かれるのをだれもが少しずつ目にするようになる。私たちだってそうして大人になってきた。いま、私たちの目の前にいる子どもたちも、そんな欺瞞を少しずつ目にしながら毎日を過ごしているはずである。そんな子どもたちに、「世の中、悪いことばかりじゃないよ。」「頑張れば良いこともあるんだよ。」「努力は必ず報われるんだよ。」と語ってあげることが教師の仕事なのではないか。
自分が教師になってからを振り返ってみよう。逆境に身を置かざるを得なかったとき、そこで諦める人と諦めない人との違いは何だろうか。それは、そこで前を向けるか否かであるはずだ。逆境において前を向ける人は、どこか世の中を信じ、どこか周りの人たちを信じている人ではないか。そんな印象はないだろうか。
だれだって前を向きたい。でも、前を向くためには前を向くための基礎体力のようなものが必要である。その有無を決める大きな要素の一つに学校でどう過ごしたかがあるのではないか。前を向くための基礎体力を培う、そのためにこそ〈学校的リアリズム〉は必要なのである。教師は子どもたちのためにこそ、「大嘘つき」であることを怖れてはいけないのだ。
〈学校的リアリズム〉は、社会に出て〈学校的リアリズム〉に反する事象に出会ったときにこそ効力を発揮する。将来、子どもたちが社会の矛盾を目の当たりにして後ろ向きになりかけたとき、子どもたちの頭にふと自分の顔が浮かぶ。彼らのイメージに浮かんだ自分が「仕方ないよ。人生うまくいかないこともある」「仕方ないよ。すべての人と仲良くやっていくことはできない」などと語ることを私たちは望むだろうか。「もう少し頑張ろうよ。前向きにならないと人生は切り開けないんだぜ」「わかってもらえないのはつらい。でも、その人にも事情があるかもしれない。もう少し働きかけてみたら?」と語る自分でありたいとは思わないだろうか。
そのためにも、教師は〈学校的リアリズム〉を体現しなくてはならないのだ。それが仕事なのだ。たとえそれが、自分自身で「大嘘だなあ……」と感じられたとしても。
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