まあ、ご愛敬
しかし、現実的に考えて、人のすべての行為に対して、心の在り方が間違っているから不適切な行動を取るのだという因果関係で捉えてしまうことは、少々短絡的過ぎるのではないかと思う。わかっているけどやってしまった、わかっているけどやめられないという例は、世の中にたくさんある。「心でっかち」の人たちにも覚えがあるはずだ。
今日は朝から通知表所見を書くはずだったのに、昼間はだらだらして過ごしてしまう。
始めたのは夜の十時過ぎで、結局仕上がったのは朝方だった。こんな話をよく聞く。これは心の在り方に欠陥があるのだろうか。
健康のために毎朝五時に起きてウォーキングをしようと決意したが、三日ともたなかった。一週間酒を断とうと決意したが、今日も呑んでしまった。今月から節約生活に入るはずだったのに、ついつい無駄遣い……。ダイエットしようと決意したのについつい……。研究授業に向けて夏休みはしっかりと教材研究に取り組むはずだったのに……でも、まだ時間があるからいいや。私たち教師だって、実はこんなふうに生きてはいないか。これらは心の在り方に欠陥があるのだろうか。だとしたら、すべての人間が心の欠陥だらけではないのか。そう、私たちは欠陥だらけなのだ。
自分の態度には「まあ、ご愛敬」と許しておいて、子どもには「どうしてそんなことするの!」では、ちょっと人としてどうなのかなあ……と思えてくる(笑)。いま例に挙げたのはすべて、他人に迷惑をかけないタイプのものだったが、今日が締切なのはわかっているのに行事反省を提出せずについつい帰ってしまったとか、考え方の異なる同僚の職員会議での発言についつい腹を立ててしまったとか、自分のことに忙しくてみんなでやるべき仕事で他の人もいるからとついつい手を抜いてしまったとか、そんなことは日常茶飯である。これは心の欠陥だろうか。
私は断言するが、これはご愛敬である。ご愛敬と言って悪ければ、人間たるもの、そういうこともある。こういうことをすべてなくそうと思ったら、人間ではなく機械になるしかない。人間のままこれらを完璧にしようとしたら間違いなく鬱になる。私にはそんなふうに思えてしまうのだが、どうだろう。
そして何より、例えば行事反省を出さずに帰宅した次の日、その反省を集約する担当の先生に、「昨日が締切だったはずです。まったくだらしないんだから。どういう気で提出せずに帰ったんですか。」と心の在り方を問題にされたら、一瞬でその担当者を大嫌いになってしまいまはしないか。それも、口では「すみません」と謝りながら……。しかも、仲のいい同僚の先生に、「まったくあの先生の言い方はないよな。別に忘れたくて忘れたわけじゃないし。」と、ついつい愚痴りたくならないだろうか。ほら、これは教師に逆らえずに自分だけが悪者にされ、保護者に訴え出る子どもと同じ気持ちではないか(笑)。
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