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口ほどにもの言う背中

師は背中で語ると言われる。しかし、人は自分の背中を見ることができない。ましてや自分の背中がなにを語っているかなんてことは一生わからない。

有り体に言えば、背中が語るのはその人の〈徳〉である。だから人は〈徳〉をもちたいと願う。教師だけでなく、人のうえに立つ者のだれもがそう願っている。でも、自分で見ることさえできないものを意識的に身につけようなどということが果たして可能なのだろうか。そりゃ無理な相談だよ、と背中の側も言うのではないか。

しかしながら、その人の機嫌の善し悪しならば、背中は雄弁に物語る。例えば、あなたが学校の廊下を歩いていて、三、四人の子どもたちが額を突き合わせながらひそひそ話をしているのを見つけたとしよう。あれはなにか悪い相談をしているな。あれはなにか楽しげな相談をしているな。このどちらをもあなたは一瞬で見破らないだろうか。悪い相談のときは背中がこうこうこういうふうになっていて、楽しげな相談のときはこんなふうになっている……そう言葉で説明することはできないけれど、瞬時にわかってしまうのではないだろうか。なぜわかるのかと問われても、「いやあ、わかるとしか言いようがないんです」としか応えられないけれども、私たちにはわかるのである。

だから私たちは、その子たちに近づいていくとき、「注意をしよう」とするのか、「なんだなんだ?なに楽しそうな相談してんだ?」という興味をもって話しかけるのか、既にその構えは決まってしまっている。「どうした?」とかける言葉は同じでも、声のトーンはまったく違うし、表情もまったく違う。そういうものだ。

ではそれは、私たちが教師だから、大人だからわかるのだろうか。もちろん、そんなことはない。そういうことは子どものときから瞬時にわかってきたはずだ。なにかを企んでいる背中となにかにわくわくしている背中とは、だれもが見分けられるほどに異なるのである。そう。私が言いたいのもこのことだ。教師は常に、子どもたちに〈上機嫌〉な背中を見せようではないか。少なくともその努力をしようじゃないか。そういうことである。 口ほどにものを言うのは目だけではない。背中だって同じなのだ。教師は背後にも口ほどにものを言う部位をもっているのだと思ったほうがいい。

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