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〈織物モデル〉の横糸

〈織物モデル〉の横糸は「子ども-子ども関係」の比喩である。

「横糸」だから子どもと子どもをつなぐこと、子ども同士の間に対話を生み出すことを指す。もしかしたら、読者の皆さんは、そんな関係性なら放っておいても子どもたちが勝手につくるだろうと感じるかもしれない。教職経験が長ければ長いほど、そうした思いを抱く読者が増える傾向にあるとも想像する。しかし、そうではない。拙著『教室ファシリテーション10のアイテム・100のステップ』(学事出版・二○一二年三月)でも強調しだが、現在、子どもたちは教師が意図的につなげてあげなければ学級や学年がつながらない状況にある。まずはこの現状認識に立つ必要がある。

読者の皆さんは、最近の子どもたちがかつてと比べて小グループ化の傾向が強くなり、学級運営がしづらくなったと感じてはいないだろうか。もちろん、こうした指摘は昔からあったわけだが、二○○○年前後を境にかつてと比べてその傾向が著しく強くなってきている。しかもその進行が急激化している。そうした傾向が要因となって、文化祭や合唱コンクール、旅行的行事の体験学習などが成立しにくくなっている(詳細は拙著『必ず成功する「行事指導」魔法の30日間システム』明治図書・二○一二年七月)。私は子どもたちのこの傾向こそが九○年代から二○○○年代にかけての最も顕著な変化だと感じている。現在の子どもたちには、教師がただ放っておいたら、一年間、同じクラスなのに一度も会話をしないというような状況がごく普通に起こってしまう。しかも、他ならぬ子どもたち自身がそのことに違和感を抱いていないのだ。

皆さんは加藤智大という名前をご記憶だろうか。そう。あの秋葉原無差別殺傷事件を起こした若者である。彼は事件直前の携帯掲示板に「勝ち組はみんな死んでしまえ」と書き残して、交差点へとトラックを走らせた。時代は「格差社会」が話題の中心。この事件を契機に、マスコミも政治も、派遣社員の待遇を題材に若者たちの収入格差やキャリア格差を是正せよという論調一色になった。加藤は「格差社会」の象徴的人物として描かれた。

しかし、意外と知られていないというか、大きな話題にならなかったのだが、「勝ち組はみんな死んでしまえ」という加藤の言の直前には、次のように書かれていたのだ。

「一人で寝る寂しさはお前らにはわからないだろうな。ものすごい不安とか。彼女いる奴にも彼女いない時期があったはずなのに、みんな忘れちゃってる。勝ち組はみんな死んでしまえ。」 

少なくとも加藤智大の言う「勝ち組」とは、経済的に豊かな者を指すわけでも学歴の高い者を指すわけでもなかったのである。人間関係の充実している者、無償の愛を得られる者を指していたのだ。いわゆる「リア充実」である。つまり、ここで言われている「勝ち組」「負け組」とは、「コミュニケーション格差」「人間関係調整力の格差」だと捉えることができる。

もちろん、学校教育が加藤智大を生み出したなんて言うつもりはない。コミュニケーションの「負け組」がみな、加藤のような事件を起こすわけでもない。しかし、時代が、かつてと比べて円滑なコミュニケーションを図ることのできる若者たちを多く生み出しているのと同時に、その陰に隠れてかつて以上にコミュニケーション不全に陥る若者たちを輩出していることを考えるとき、この構造に無頓着に「コミュニケーション能力の向上」や「学力の向上」ばかりを主張し、ポジティヴな面ばかりに目を向けてきた学校教育の責任は決して小さくないのではないかと感じるのだ。子どもたちをつなげること、つながる体験を保障すること、つながり方を教えること、他人との対話の在り方を教えること、これらはある意味で学校教育が施すことのできるセーフティネットなのではないか、私はそう考えている。

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