「在り方」を意識する
20代のうちに、できれば初任校に勤めている間に、是非ともやっておきたいこと、是非とも到達しておきたいことがあります。それは「一芸を身につける」ということです。
崩壊させることなく毎年の学級経営をそれなりにこなすとか、校内研究や地区の教育団体における授業研究に勤しむとか、部活動の始動に毎日一生懸命に取り組むとか、そうしたレベルのことを言っているのではありません。そういうのは多くの場合ただの自己満足に過ぎないものであって、「芸」とは言いません。
私の言う「一芸」とは、学習発表会や文化祭のステージで子どもたちや同僚のだれもが感心するような大規模なエンターテインメントを実現するとか、合唱の指導で同僚のだれもが「あの人の合唱指導には適わない」と思うような圧倒的な成果を上げるとか、研究授業においては常に教材研究から学習者研究に至るまで細かく分析した100枚規模の指導案をつくるとか、部活動の指導において県大会レベルの常連になるほどの成果を上げるとかいったレベルを指します。要するに、ちょっと得意……といった程度のものではなく、若手ながら「その学校で一番」とだれもが認めるようなレベルの成果を安定的に上げる、これを「芸」と言います。「だれもが認める」の「だれも」は同僚だけでなく、子どもたちも保護者も認める……という意味合いがあります。
みなさんの学校に、自分が指導したのでは子どもたちは言うことを聞かないのに、その先生が指導すると子どもたちがなぜか納得して自分の非を認めてしまう……、いったいどうやって指導しているんだろう……、その秘密を知りたいと指導場面に同席してみるのだがどうも特別なことをしているようには見えない……、自分との違いは何なのかとあなたを悩ませる……、そんな先生がいないでしょうか。
実はあなたの見立て通り、その先生は何か特別な指導をしているわけではありません。何か神業を身につけているわけでもありません。具体的な指導場面における言葉や行動はあなたとそれほど異なるわけではないのです。
しかし、そうした先生は、須く一芸を身につけています。子どもたちも、保護者も、そして同僚も、「○○ならあの先生だ」と認めるような一芸をもっているのです。そのだれもが認めるような一芸をもっているというオーラが、子どもたちに「この先生が言うのなら仕方ない」という思いを抱かせてしまうのです。
具体的な指導場面のディテールも去ることながら、その先生はあなたとは存在感そのものが違うのです。実はその先生の指導の秘密は「教え方」にあるのではなく、「在り方」にこそあるのです。私が「一芸を身につけよ」と言うのも、20代のうちにその「在り方」の基礎を自分自身につくろうということです。「一芸」は決してその「一芸」のために身につけるのではありません。教師が自らの「在り方」に威厳をもたらし、教師が自信をもって堂々とした「立ち姿」で子どもたちの前に立てるようにすること、そこにこそ「一芸を身につける」ことの効力があります。
あなたの学校に、学年集会や全校集会でその先生が前に立っただけで子どもたちが静かになってしまう……という先生はいないでしょうか。どんな学校にも一人か二人、そういう先生がいるはずです。その先生にそうしたことができるのは、怖い先生だからでも怒鳴る先生だからでもありません。その「立ち姿」に子どもたちがある種の威厳を感じ、その「所作」にある種の畏敬を感じるからこそ、子どもたちは思わず静かになってしまうのです。
そうした「立ち姿」や「所作」を身につける基盤となるのが、「一芸」なのだと私は言っているわけです。
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