分を知る
若い教師がよく、中堅教師やベテラン教師の「在り方」系の指導を真似するのを見ることがあります。例えば、集会で話をするというときに前に立って子どもたちが静かになるまで待つというようなことですね。
しかし、ベテラン教師と異なり、ざわついた子どもたちはなかなか静まってくれません。業を煮やした若手教師はざわつきの中心になっている子を睨みつけたり指さしたりします。しかし、それは優れたベテラン教師の「在り方」とは似て非なるものです。優れたベテラン教師は笑顔で子どもたちの前に立ったとしても、子どもたちが自然に静まるのですから。若手教師のやり方はあくまで威圧であって、ベテラン教師のそれとはまったく質が異なるのです。
それどころか、威厳もなく畏敬を感じさせることもない力量の低い教師が、優れたベテラン教師の真似をすることはときに滑稽でさえあります。実は子どもたちにもその余裕のなさを見抜かれているということも少なくありません。長い目で見ると、そうした行いは子どもたちになめられていく大きな要因ともなっていきます。むしろさっさと話を始め、枕を工夫するなどして技術的に引きつけてしまうほうが得策だとさえいえます。私は同僚の若手にそうした行為が見られたとき、「お前がそんな手立てを取るのは10年早い」と言うことにしています。そんなもんは自然に身について行くものだ。むしろ話す内容や話す技術を磨け。笑顔でこうたしなめます。
先ほどから、私は教師が学年集会・全校集会で子どもたちの前に立つことばかりを例にしていますが、実はその教師が子どもたちに(意識的に無意識的に)どう評価されているのか、その教師の「在り方」が子どもたちにどう受け止められているのか、それが一番よくわかるのが集会で前に立ったときなのです。
全校児童・全校生徒の前に立つということは、日常的に深いかかわりをもっていない子どもたちにもこちらを向かせることを意味します。要するに、ラポートのない子どもたちにどれだけの影響力を与えられるか、それも一瞬で与えられるかということなのです。自分の学級にこちらを向かせるのとはわけが違います。その意味で、自分の学級にさえ静かに話を聞かせることができない教師というのは、ほんとうに力量がない、とことん力量が足りないのだと自覚すべきなのです。こうした「分を知ること」は、若い時期の教師の力量形成にとってとても大切なことです。そしてそれを測ることができるのが、学年集会・全校集会なのだと言っているわけです。
ここで言う「威厳」「畏敬」といった言葉を、子どもたちが怖がる、怖れるという意味で捉えてはいけません。実名を挙げるのは避けますが、小学校教師出身の自爆芸で知られる新潟県のあの大学准教授も、一見軽いノリに見えるカエルの被り物で知られる山口のあのミニネタ教師も、いつも優しい笑顔で語りかける横浜のあの団塊世代の超ベテラン教師も、キャラクターはそれぞれ軽かったりソフトだったりするのに、間違いなく「威厳」を纏い、聞く者に須く「畏敬」を抱かせます(実名を挙げているのと変わりませんでしたね・笑)。そして彼らの纏う「威厳」の在処が、そのだれもが真似できないような彼ら独自の「芸」にあることは、一度でも彼らの話を生で聴いたことのある者ならだれもが理解できるはずです。
私は先に、若いうちに「一芸を身につける」ことが、「威厳」を纏い「畏敬」を抱かせるような「立ち姿」や「所作」を身につける基盤となっていくと言いました。「芸は身を助く」とは言いますが、もちろん若いときに一芸を身につけたからといって一生涯の教師生活が安泰というわけにはいきません。一芸を身につければ二芸を、二芸を身につければ三芸をと貪欲に身につけていくことが必要なわけですが、少なくとも若いうちに私の言うレベルの一芸を身につけたならば、生涯の教師生活においていかなる学校に行ったとしても(たとえ地域の附属小中学校に赴任しようとも)、職員室で軽く見られることは決してなくなります。職場でそれなりのステイタスをもって仕事に取り組むことができるようになります。そしてそれは、実は教師にとって、仕事がしやすくなることを意味するのです。
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