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鍋ぶた組織の負の側面を意識する

あなたにはいま、「部下」が何人いるでしょうか。教科の主任とか校務分掌のある係のとりまとめとか校務分掌の長とか、三十代になればなにか一つくらいは任されているはずです。なかには学年主任を務めている人もいるかもしれません。地方の学校であれば、三十代で後半で教務主任という学校も珍しくはありません。一人の係ではなく、所属する教員が自分のほかに何人かいる組織長となれば、組織上はその先生方はその仕事において自分の部下ということになります。「いやいや、私はその先生方を部下とは思っていない。一緒に仕事をする仲間だと思っている」と感じる読者がいるかもしれません。「部下」という言葉は嫌いだと。

もっともです。実は私も「上司」とか「部下」とかいう言葉が大嫌いです。教員世界では、職員室にある上司と部下の関係は管理職と教諭の間だけであり、一般教諭は年齢や経験年数を問わずに横並びだと意識が強いからです。いわゆる「鍋ぶた組織」ですね。学校の先生にはこうしたメンタリティが必定に高いのです。私もその一員です。

では、あなたがとりまとめを任されている組織のなかに、思った通りに働いてくれなくてあなたを困らせている先生はいませんか? 或いはメンタルが弱かったり他の部署の仕事が忙しくて、はたまた職場の人間関係がうまくいかなくて、思った通りに働けていないという先生はいませんか? そしてもう少し突っ込んで言うなら、そんな先生をあなたが批判的に見ているということはないでしょうか。その先生に対して、「ちゃんと一人前に働いてくれよ」とか「あの先生は職業人として自立していない」とか、そんな感覚を抱いたことはないでしょうか。

実はこう考えてしまうのが、「鍋ぶた組織」の負の側面なのです。管理職と横並びの大勢の一般教諭という「鍋ぶた組織」は、すべての教諭が自立し独立しているというイメージの組織です。その前提にはすべての先生方が自立し独立するだけの力量をもっていなければならない、ということがあります。学級を荒らすこともなければ、校務分掌の仕事の在り方がわからないなどということもない。そういう前提です。しかし、すべての先生がそうした力量をもっていると信じている人は一人もいません。先生方は実際には力量も特性もばらばらです。

かつては他の先生の仕事の仕方を見ながら自分なりに力量形成を図ってきました。他の人のワザを盗むという職人的なイメージで力量形成を図っていたわけですね。なにかに挑戦しては失敗し、それを反省して次に進む、力量形成とはそういうものです。

ところが、現在の職員室には先生方が隙間時間がないほどに仕事に追われ、失敗が許されない雰囲気があります。二○○○年代半ばの指導力不足教員論議や保護者クレーム問題が職員室にそういう雰囲気を蔓延させました。説明責任があるから、結果責任があるからとさまざまな文書をつくることが義務づけられ、保護者クレームを回避するために小さなミスもなくそうとする雰囲気が醸成されます。

実は若い先生や力量の低い先生が自立・独立して、他人のワザを盗みながら主体的に力量を高めていくのが当然だと考えるのは、かつての古き良き時代の職員室の風習として捨てなければならないのではないか、私はそう考えています。「上司」や「部下」という言葉を使う必要はもちろんありませんが、「鍋ぶた組織」のイメージを捨て、自分のとりまとめる組織にそうした先生がいる場合には、その人を職員室で充分な戦力になるまで育ててあげる責任を自分は負っているのだと思うようにする。一歩先を行く先生方が日常的に、自然にそう感じるような状態になる。これができれば、若い先生、力量の低い先生も数年間で最低限の力量には到達することができるのではないかと思うのです。

職員室がこのメンタリティをもつこともなく、ただ「自立しろ」「独立しろ」というのはそうした先生には少々酷です。それは〈強者の論理〉に過ぎません。三十代はこうしたことに敏感になるべき年代なのだと思います。

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