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ヒドゥン・カリキュラムを意識する

男女混合名簿が大きな話題となった時代がありました。フェミニズムの方々からの批判が要因でした。出席番号の先に男子、後に女子という呼ばれ方を小・中・高と十二年も続けられると、無意識的に男子優先という規範が身につけられてしまうのではないか、というのがその要諦です。現在、男女混合名簿はかなり少なくなりましたが、もしこれが普及していたらと思うとゾッとします。身体測定や体育行事など、男女を分けて運営しなければならないものが学校にはたくさんありますから、男女混合名簿が採用されていたらそれらの行事における私たちの事務作業は三割増し程度にはなっていたことでしょう。

さて、男女混合名簿は現実的な理由から不採用の流れになりましたが、フェミニズムの方々が提起した「出席番号の先に男子、後に女子という呼ばれ方を小・中・校と十二年も続けられると、無意識的に男子優先という規範が身につけられてしまうのではないか」という論理の立て方は、学校教育を考えるにあたって大きな問題提起となりました。このことから〈ヒドゥン・カリキュラム〉が、つまり〈隠されたカリキュラム〉という問題が教育界に大きく提起されたからです。

〈ヒドゥン・カリキュラム〉とは、教師が日常的に意識せずに結果として教えてしまっている指導事項とでも言うべきものです。教師は日常的に男女別の名簿を使い、出席番号最初が男子、男子が全員終わってから女子という整理の仕方を行っているわけですが、これを「子どもたちに男子優先の規範を無意識的に植え付けよう」などと意識しながらやっている教師は皆無でしょう。しかし、フェミニズムの方々が指摘するように、これが実質的に義務教育に近い形になっている高校まで十二年間も続けられたら、なんとなく男子が先なのだという雰囲気がこの国に無意識的に醸成されたとしても不思議はありません。

実は学校教育には、このような教師が意図も意識もしないままに結果的に教えることになってしまっている事柄がたくさんあるのではないか。そういう指摘が教育哲学の世界から大々的に行われるようになりました。

例えば、私たちは授業中に意見を求めてある子を指名します。しかし、その子は指名されたのに黙っています。教師はしばらくその子が発言するのを待っていますが、もうこれ以上待ってもこの子に切ない思いをさせるだけだなと判断して次の子を指名します。

「あとでもう一度当てるから、ちゃんと考えておくんだよ。じゃあ、○○くん。」

授業中によく見られる現象です。しかし、この行為は、実は「授業中に当てられても少しの時間我慢して黙っていれば、先生は次の子へと指名を移すものだ」ということを教えてはいないでしょうか。もちろん、教師はそんなことを教えようとは意図も意識もしていないのですが、結果的に教えてしまっているのではないでしょうか。しかも、あとでもう一度当てると言ったにもかかわらず、授業時間が足りなくなって後半が急ぎ足になってしまった結果、教師がその子に再び当てることを怠ってしまったとしたらどうなるでしょう。「ああ、先生が授業中に何気なく後回しにしたものは、先生の都合によってなきものになることが多い」ということを教えてしまうことにならないでしょうか。

これが〈ヒドゥン・カリキュラム〉なのです。

日常的に口では「掃除をきちんと」と言っているのに、先生は掃除時間に生徒指導をして教室を空けたり、教卓でなにか事務士仕事をしていることがある。実は先生は掃除をそれほど大切だとは思っていないのだ。こんなこともあるでしょう。

四月に学級通信を毎週出すと言ったのに秋にはその周期がくずれてしまった。四月にくじ引きでの席替えはしないと宣言したのに、秋にはくじ引きで行うようになった。ああ、四月の約束事は変更可能なんだな……。こんなこともあるかもしれません。

〈ヒドゥン・カリキュラム〉と同じ構造は学級経営ばかりでなく、職員室運営においてもあり得ます。学年主任や教務主任として仕事をするとき、一度宣言したことを年度途中に緩めてしまうことは、仕事を機能させない最大の要因にもなるということです。

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