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心でっかち

喧嘩やいじめの指導において、皆さんは子どもに「なんで僕だけが悪者なの?」とか「僕だけが悪いんですか?」などと言われたことがないだろうか。そして、どうしてこの子はちゃんと自分の非を認めないのかとその子を責める気持ちを抱いたことはないだろうか。こうした経験が皆無という教師はおそらくいないだろう。しかし、そういう子が一人でも出たとしたら、やはりあなたの指導は適切ではなかったと言わなくてはならない。

理屈ばかりこねて行動力が伴わない人のことを、俗に「頭でっかち」と言う。これになぞらえて社会心理学者の山岸俊男は多くの日本人の性向を「心でっかち」と名付けた(『心でっかちな日本人 集団主義文化という幻想』日本経済新聞社・二○○二年二月)。人に迷惑をかけない、集団の利益を追求するのテーゼのもとに、こういう行動をするのは思いやりがないからだ、ああいう行動を取るのは心の在り方に欠陥があるからだというふうに結論づける発想の在り方、簡単に言うならこれが「心でっかち」である。

喧嘩なら両成敗にもっていこうという心性が働くけれど、いじめとなると最初から加害・被害をはっきりさせて指導に臨んでしまう。しかも、いじめ加害の子には人をいじめるなどというとんでもないことをしているのだから、心の在り方についてしっかりと指導しなければならない、「心でっかち」の教師はこうした発想で指導に臨む。教師のこうした心持ちが、指導する教師の態度や言葉の端々に無意識的に顕れてしまうため、当の指導された子は「自分だけが悪者にされている」「先生は僕だけが悪いと思っている」という印象を抱いてしまうわけだ。

しかも、「心でっかち」の教師はその子に対して、「なぜ、自分の非を認めないのか」「なぜ、言い訳して罪から逃れようとするのか」と更にその子の心の在り方を問題にする。納得できない子は更に感情的になって反抗したり、何を言っても無駄だと教師に理解してもらうことを諦めて無気力になったりして、指導が更に行き詰まる。

その結果、加害者とされる子が自分の気持ちを保護者に訴え、保護者クレームにつながることも少なくない。担任一人では対応仕切れなくなり、生徒指導の先生や管理職の先生も同席して、指導の在り方が不適切だったと謝罪の場を設けることになる。そんな例もよく見られる。

いずれにしても、いじめの指導はすっきり解決ということになかなかならない。被害者側も、加害者側も、そして教師も、ときには周りの子どもたちまで、なんとなくどんよりとした気持ちのままに「一応の解決」が図られる。ときにはそのどんよりが時間が解決するまで何ヶ月も続くということさえある。

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