自分の仕事に「厳しい眼差し」をもつ
私は冒頭に「一芸」の例として、①学習発表会や文化祭のステージで子どもたちや同僚のだれもが感心するような大規模なエンターテインメントを実現する、②合唱の指導で同僚のだれもが「あの人の合唱指導には適わない」と思うような圧倒的な成果を上げる、③研究授業においては常に教材研究から学習者研究に至るまで細かく分析した100枚規模の指導案をつくる、④部活動の指導において県大会レベルの常連になるほどの成果を上げる、という四つの例を挙げました。ここまでを読んで、改めてこの四つの例を見てみると、どれもこれもがそう簡単に達成できないレベルの「芸」であることがおわかりかと思います。
特に、部活動で県大会の常連になるほどの成果を20代で上げるなどということはほとんど神業に近いも言えるでしょう。そんなことは無理だ……と思われる向きもあるかもしれません。正直に言うなら、私もまず無理だと思います(笑)。もともと県大会の常連である部活をもつなら別ですが……。
しかし、私の言いたいのはこういうことです。
例えば、部活動を指導する場合、「とにかく頑張ろう」「自分たちなりに精一杯やろう」と取り組むのと、「数年後には県大会の常連になることを目指して頑張ろう」と取り組むのとでは、取り組み方に大きな違いが出るのです。前者は結果にかかわらず自己満足に陥りがちですが、後者は常に結果を意識しながら日々練習の仕方、子どもたちへの言葉がけ等を具体的に考え、それどころかどうしたら保護者の協力を最大限に得られるかということまで真剣に考えざるを得ない日々を送ることになるのです。
その他の例も同様です。ステージ発表や合唱指導は一般的に、結果がぼろぼろだったとしても「自分たちなりに頑張った」「自分たちにしかわからない成果があった」と独善的に評価することが可能です。研究授業もやったというだけで、やらない人よりはるかに多くのことを学べたと自己満足することができます。
しかし、「威厳」や「畏敬」の基盤になるような取り組みとしての仕事の在り方は、そのような自己満足の余地のある「甘えた仕事の仕方」ではいけないのです。常に数字や結果と意識的に闘いながら毎日を具体的に変化させていく、常に他人(子ども・保護者身・同僚)の目を意識しながら彼らの期待を凌駕していく、そういう仕事の仕方が必要なのです。
主観だけなら自分の仕事はどうとでも評価できます。
「自分なりに頑張った」
「子どもたちは精一杯やってくれた」
「子どもたちには何かが残った」
「この体験は子どもたちの人生に生きるはずだ」
どれもこれも美しい言葉です。しかし、何の根拠もありません。それを測る基準もありません。どうとでも解釈でき、どうとでも評価できる。バイアスの嵐なのです。だからこそ自己満足なのです。自分自身の自分自身に対する「甘え」がそう評価させているに過ぎないのです。
私が20代のうちに「一芸」を身につけなければならないという真の意味は、実は自分の仕事に対してこの手の「厳しい眼差し」をもつ姿勢を若いうちに身につけた者と身につけなかった者との間には、数年後、計り知れないほどの差異が生まれるということなのです。
さて、この姿勢をもつために必要なのは二つのことです。
第一に、自分の好きなこと、やりたいこと、得意なことを仕事に活かそうとする姿勢をもつことです。一見学校教育とは無関係と思われるような特技、学校教育には馴染まないと思われるような趣味でも構いません。実は学校教育という場は、人間世界にあるありとあらゆるものを取り込める懐の深さをもっている世界です。スポーツや芸術は言うに及ばず、物真似やマジックや落語といった芸事、オタク系の趣味、異業種に勤める学生時代の友人との人脈、親や友人とのトラブルの経験、もう何でも来いです。
必要なのは、そうした自分の趣味・特技を自分の教育活動に活かせる手立てはないかと、本気で考えてみることです。言うまでもなくスポーツは部活動の指導に直結します。芸術や芸事は行事に活かすことができるでしょう。オタク系の趣味が活かせる行事がないなら、そういう小さな行事をつくれば良いではありませんか。オタク系児童・生徒のスペシャリストになる、という教師の在り方だってあり得ます(これがもし体系づけられたら、教育界では全国を席巻する一大提案になるはずです・笑)。異業種の友人がたくさんいるなら、彼らに学校に来てもらってゲスト・ティーチャーを中心とした総合的な学習の大単元を構築することができるでしょう。親や友人とのトラブルの要因を分類して、親子関係や友人関係のトラブル要因を体系化することができたら、あなたは生徒指導の達人になれるはずです(これまた体系化することができたら、全国規模の提案になります・笑)。
要はこうした一見夢みたいな話を具体的な現実にしようと本気で考えてみることなのです。むしろ、ミスしないように、失敗しないようにと小さく縮こまる仕事の在り方こそが、若い教師にとっては一番の敵と言えます。
さて、「一芸を身につける」のに必要な第二は、耳の痛い指摘をしてくれる先輩教師の話に謙虚に耳を傾けるということです。人は耳の痛い指摘をする人を遠ざけがちです。しかし、自分の仕事に自ら「厳しい眼差し」を向ける人間になるためには、そもそも「厳しい眼差し」の観点をたくさん持つ必要があるのです。他人の指摘はその意味で、観点の宝庫です。
言っておきますが、その指摘する先輩教師がどういう人かは一切関係ありません。その教師が自分のことを棚に上げていても良いのです。毎年学級を崩壊させるような力量のない教師でまったく構わないのです。目的はあくまで、自分の仕事に対する厳しい見方の「観点」を学ぶことにあるのです。その指摘者がどういう人物であろうと、どのような力量であろうと、世の中には確かにそういう観点があるのです。その観点自体には、謙虚に学ぶ価値があります。
こうした姿勢は、目的は自己本位でありながら、周りからは謙虚な態度に見えますから、たとえ相手が腹黒かろうと変人であろうと力量不足であろうと、人間関係がうまく行くようになるから不思議です(笑)。
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