« 外の仕事には覚悟を要する | トップページ | なぜ人を殺してはいけないのか/鮎川教授最後の授業 »

校内研究を大切にする

三十代のなかに勤務校の校内研究に意義を感じていない教師がいます。実践研究が嫌いな教師なら、世代を問わずにそういう教師はたくさんいます。そうではなく、実践研究が必要だと感じていて、実践研究に対する意識も高いのに、自分の学校の研究には意義を感じていないのです。

そうした教師は、官民問わず、学校外の研究に日常的に触れているものですから、その理論形態の違いや想定範囲の広さの違い、実践研究の機能度の違い、参加する教師たちのモチベーションの違いなどを目の当たりにして、「校内研究なんて…」という結論に達してしまった教師なのだろうと想像します。そういう教師は校外の団体や校外の論者から積極的に学ぼうというライフスタイルをもっています。たぶん本書を購入された読者のなかにも少なからずそういう方がいらっしゃるはずです。私は民間畑で主張しているタイプの論者の一人ですから。

講演会やセミナーなどで出会う方々と話をしていても、「うちの学校の研究は研究の体をなしていなくて…」とか、「うちの学校の先生はやる気がなくて…」とか、「うちの学校の研究はしょーもなくて……」とかいった声をよく聞きます。そういう先生に対しては私は軽く微笑んで「そういう学校もあるよね」と多くを語らないことを常としています。そして、「この教師はダメだな…」と思います。

教師個人にとって最も有意義な実践研究の場は校内研究です。校内研究は同じ子どもたちに実践し、同じ学校システムで仕事をし、地域に対する同じ問題意識を抱いている教師が一同に介して実践研究に取り組んでいる場です。あなたの学級の子どもたちと隣の学級の子どもたちは同じ地域に住み、同じものから刺激や影響を受け、同じような特性をもつ子どもたちなのです。そうした共通したタイプの子どもたちに接している教師が集まって議論する場が、いま自分の目の前にいる子どもたちのためにならないなどいうことがあるはすがありません。それはその教師個人の心持ちの問題なのです。

そもそも「うちの学校の研究はしょーもなくて…」と言っている教師は、間違いなくその学校研究の「しょーもない」実態に加担しているはずです。「しょーもない」からと、一所懸命には取り組んでいないはずなのです。

もしほんとうに「しょーもない」ならば、その教師自身が「しょーもない」状態から脱却させれば良いのではないでしょうか。その教師が本気で校内テーマにかかわる文書を五枚程度つくってごらんなさい。必ず賛同者が現れるはずです。その教師がちょっと校内研究テーマにかかわる授業を考えてみたので、お手すきの先生がいらっしゃいましたら参観していただきたいのですが……という動きをしてごらんなさい。その授業が参観者ゼロになることはまずないはずです。

外の世界でさまざまな提案をしている人たちは、決して自分の足場である校内の仕事を蔑ろにはしていない人たちです。学校の仕事よりも外の仕事を大切にしている人というのもまずいません。外で提案をするには自分の足場が固まっていることが必要です。外でいくら良いことを言っても自分の学校がうまく行っていないのでは、口ではああ言ってるけど足場はぐらついてるよという評価しか得られません。あくまで自分の足場で、校内研究や日々の学級づくりにおいてさまざまに取り組んできたことを整理することによって、たまたま外でも提案しているに過ぎないのです。

このことは外で学ぶ教師たちに声を大にして言いたいことです。自分が勤務している学校こそを中心に考えるべきなのです。こんなあたりまえのことをわざわざ言わなくてはならないほどに、「勘違いしている教師」が増えている現状があります。

外の学びの場は自分で選ぶことができます。つまりはやめてもいいのです。しかし、校内の実践研究をやめることは許されません。手を抜くことも許されません。教師はその学校の教師であることによって収入を得ているのですから。

|

« 外の仕事には覚悟を要する | トップページ | なぜ人を殺してはいけないのか/鮎川教授最後の授業 »

書斎日記」カテゴリの記事

コメント

この記事へのコメントは終了しました。

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 校内研究を大切にする:

« 外の仕事には覚悟を要する | トップページ | なぜ人を殺してはいけないのか/鮎川教授最後の授業 »