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2015年2月

ヒドゥン・カリキュラムを意識する

男女混合名簿が大きな話題となった時代がありました。フェミニズムの方々からの批判が要因でした。出席番号の先に男子、後に女子という呼ばれ方を小・中・高と十二年も続けられると、無意識的に男子優先という規範が身につけられてしまうのではないか、というのがその要諦です。現在、男女混合名簿はかなり少なくなりましたが、もしこれが普及していたらと思うとゾッとします。身体測定や体育行事など、男女を分けて運営しなければならないものが学校にはたくさんありますから、男女混合名簿が採用されていたらそれらの行事における私たちの事務作業は三割増し程度にはなっていたことでしょう。

さて、男女混合名簿は現実的な理由から不採用の流れになりましたが、フェミニズムの方々が提起した「出席番号の先に男子、後に女子という呼ばれ方を小・中・校と十二年も続けられると、無意識的に男子優先という規範が身につけられてしまうのではないか」という論理の立て方は、学校教育を考えるにあたって大きな問題提起となりました。このことから〈ヒドゥン・カリキュラム〉が、つまり〈隠されたカリキュラム〉という問題が教育界に大きく提起されたからです。

〈ヒドゥン・カリキュラム〉とは、教師が日常的に意識せずに結果として教えてしまっている指導事項とでも言うべきものです。教師は日常的に男女別の名簿を使い、出席番号最初が男子、男子が全員終わってから女子という整理の仕方を行っているわけですが、これを「子どもたちに男子優先の規範を無意識的に植え付けよう」などと意識しながらやっている教師は皆無でしょう。しかし、フェミニズムの方々が指摘するように、これが実質的に義務教育に近い形になっている高校まで十二年間も続けられたら、なんとなく男子が先なのだという雰囲気がこの国に無意識的に醸成されたとしても不思議はありません。

実は学校教育には、このような教師が意図も意識もしないままに結果的に教えることになってしまっている事柄がたくさんあるのではないか。そういう指摘が教育哲学の世界から大々的に行われるようになりました。

例えば、私たちは授業中に意見を求めてある子を指名します。しかし、その子は指名されたのに黙っています。教師はしばらくその子が発言するのを待っていますが、もうこれ以上待ってもこの子に切ない思いをさせるだけだなと判断して次の子を指名します。

「あとでもう一度当てるから、ちゃんと考えておくんだよ。じゃあ、○○くん。」

授業中によく見られる現象です。しかし、この行為は、実は「授業中に当てられても少しの時間我慢して黙っていれば、先生は次の子へと指名を移すものだ」ということを教えてはいないでしょうか。もちろん、教師はそんなことを教えようとは意図も意識もしていないのですが、結果的に教えてしまっているのではないでしょうか。しかも、あとでもう一度当てると言ったにもかかわらず、授業時間が足りなくなって後半が急ぎ足になってしまった結果、教師がその子に再び当てることを怠ってしまったとしたらどうなるでしょう。「ああ、先生が授業中に何気なく後回しにしたものは、先生の都合によってなきものになることが多い」ということを教えてしまうことにならないでしょうか。

これが〈ヒドゥン・カリキュラム〉なのです。

日常的に口では「掃除をきちんと」と言っているのに、先生は掃除時間に生徒指導をして教室を空けたり、教卓でなにか事務士仕事をしていることがある。実は先生は掃除をそれほど大切だとは思っていないのだ。こんなこともあるでしょう。

四月に学級通信を毎週出すと言ったのに秋にはその周期がくずれてしまった。四月にくじ引きでの席替えはしないと宣言したのに、秋にはくじ引きで行うようになった。ああ、四月の約束事は変更可能なんだな……。こんなこともあるかもしれません。

〈ヒドゥン・カリキュラム〉と同じ構造は学級経営ばかりでなく、職員室運営においてもあり得ます。学年主任や教務主任として仕事をするとき、一度宣言したことを年度途中に緩めてしまうことは、仕事を機能させない最大の要因にもなるということです。

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知識が思考に広がりと深まりをもたらす

現在、文科省は次の学習指導要領に向けてさまざまな提案を始めています。

例えば、アクティブ・ラーニングを例に考えてみましょう。

アクティブ・ラーニングはおそらく次期学習指導要領の目玉になると目されていますが、この流れに乗ってアクティブ・ラーニングの書籍が次々に刊行されるはずです。それを手にとって勉強することは大切なことです。

しかし、それは現行要領ができる過程で提示された「言葉の力」や「言語活動」とどのような関係を結ぶのでしょうか。或いは前要領で提示された「総合的な学習の時間の創設」や「選択履修枠の拡大」とどのような思想的なつながりをもっているのでしょうか。その前の要領の「新学力観」との相関はどうでしょう。四十代はこのあたりまではリアルタイムに経験している人が多いので、このような九○年代の学習指導要領までは視野に入れて考えることができるのではないでしょうか。

次期要領について試行錯誤するにあたって、現行要領と次期要領の範囲内でしか実感的には捉えられない若手教師よりも、四十代はかなり広くここ三十年近い教育思潮を視野に入れて考えることができます。その意味では、四十代は若手教師よりも広く深くアクティブ・ラーニングについて思考することができると言えるでしょう。

しかし、もしも戦後の学習指導要領の変遷について学生時代に深く学び、昭和二十年代の「新教育」以来の学習指導要領における経験主義教育と系統主義教育の綱引きの歴史を知っているならば、ここ三十年前後の変遷しか知らない人とは比べ物にならないほどにアクティブ・ラーニングについて思考できるはずです。特に経験主義教育を基調とした昭和二十二年版がどのような批判を浴びて短命に終わったのかを知れば、よりよいアクティブ・ラーニングを考えるうえでは大きく参考になるはずでもあります。

さて、あなたは学校教育がどういう経緯で成立したかをご存知でしょうか。学校教育は明治政府のもと、富国強兵・殖産興業政策の一環として、工場で黙って働く労働者をつくるために生まれたという側面があります。つまり、学校教育は国民に「産業的身体」(『教育幻想』菅野仁・ちくまプリマー新書)をつくるために生まれたのです。工場で良い労働者として働くためには時間通りに出勤し、集団の規律を守ることが身体的に身についている必要があります。そうでなければ工場の生産性は上がりません。

実は近世までの庶民は農業を中心に労働していました。菅野仁によれば、農業は日の出とともに労働が始まり日の入りとともに労働を終えます。毎日決まった時間に働き始め、決まった時間に働き終わっていたわけではなかったのです。また、近世までは農作業をしながら雑談をしたり歌を歌ったりすることも日常のことだったと言います。つまり明治政府は学校教育によって、時間割通りに動き雑談しないで労働に集中するという「産業的身体」の育成を目指したのだということです。それほど当時の工場管理者は私語をさせずに仕事に専念させることに苦労していたのだということでもあります。

さて、この経緯を知っているだけで、アクティブ・ラーニングに対する見方が大きく変わらないでしょうか。アクティブ・ラーニングと言えば、どうしても欧米から導入された教育思潮というイメージを抱きますが、それに対置される日本的な一斉授業の在り方というのは実はここ百数十年の国家政策によってできあがったものに過ぎないのだということです。とすれば、もしかしたら、アクティブ・ラーニングは本来の日本人のもっている特性に実は合致するのかもしれない。そういう想像さえ可能なのです。

私は別にアクティブ・ラーニングに対するこうした考え方自体を推奨しているわけではありません。ただ、知識をもっているということはなにか新しいことを思考しようとする場合に、これだけの広がりと深まりをもたらすのだということを言いたいのです。一般に年齢を重ね経験年数を重ねると、教師は新しい知識を求めずに経験則だけで判断しようとするようになります。私の言いたいのはそれではいけないということなのです。

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ストレスを回避する日常

〈上機嫌〉でいるのは思いの外難しいものである。いつでもどこでもだれとでもとなると尚更だ。昨夜の夫婦喧嘩のイライラをすっかり忘れて教室に行ける人はまずいない。さきほどのクレーム電話の落ち込みを教室にもちこまないでいられる人もまずいない。しかし、〈上機嫌〉でいようと意識することはできるはずだ。努力することはできるはずだ。教室に入る前にちょっとだけ笑顔をつくってみる。教室に行く前にトイレでちょっとだけヘン顔をつくってみる。教室への階段を昇りながら少しだけ前のめりになって上を見てみる。意識してポジティヴな姿勢をとってみると、心も少しだけ浮上するものである。そしてその少しだけ浮上したあなたの姿は、何もせずイライラや落ち込みのまま教室に入っていくあたなの姿よりも、子どもたちにとってずっと良い影響を与えるはずなのだ。

もちろん、そうは言っても……というときはあるだろう。それはだれにだってある。でも、〈上機嫌〉であることが何よりも重要である、それも心からの〈上機嫌〉こそが子どもたちに良い影響を与えるのだということを意識するならば、自分を極力〈不機嫌〉から遠ざけようとする意識もはたらくはずである。イライラを回避するとか、落ち込みを最低限に抑えるとか、そういう意識がはたらくはずである。

また、自分はどんなときにイライラするのか、自分はどんな事象に落ち込みやすいのかといった自己分析にも目が向くはずである。自分で自分の感情をコントロールすることはできないが、ネガティヴな感情に陥りやすい事象をできるだけ回避しながら日常を過ごすことは可能である。〈上機嫌〉を職能の第一と考える在り方は、このようにストレスを避けようとする日常に向かっていく。精神衛生的にも効果があるわけだ。

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口ほどにもの言う背中

師は背中で語ると言われる。しかし、人は自分の背中を見ることができない。ましてや自分の背中がなにを語っているかなんてことは一生わからない。

有り体に言えば、背中が語るのはその人の〈徳〉である。だから人は〈徳〉をもちたいと願う。教師だけでなく、人のうえに立つ者のだれもがそう願っている。でも、自分で見ることさえできないものを意識的に身につけようなどということが果たして可能なのだろうか。そりゃ無理な相談だよ、と背中の側も言うのではないか。

しかしながら、その人の機嫌の善し悪しならば、背中は雄弁に物語る。例えば、あなたが学校の廊下を歩いていて、三、四人の子どもたちが額を突き合わせながらひそひそ話をしているのを見つけたとしよう。あれはなにか悪い相談をしているな。あれはなにか楽しげな相談をしているな。このどちらをもあなたは一瞬で見破らないだろうか。悪い相談のときは背中がこうこうこういうふうになっていて、楽しげな相談のときはこんなふうになっている……そう言葉で説明することはできないけれど、瞬時にわかってしまうのではないだろうか。なぜわかるのかと問われても、「いやあ、わかるとしか言いようがないんです」としか応えられないけれども、私たちにはわかるのである。

だから私たちは、その子たちに近づいていくとき、「注意をしよう」とするのか、「なんだなんだ?なに楽しそうな相談してんだ?」という興味をもって話しかけるのか、既にその構えは決まってしまっている。「どうした?」とかける言葉は同じでも、声のトーンはまったく違うし、表情もまったく違う。そういうものだ。

ではそれは、私たちが教師だから、大人だからわかるのだろうか。もちろん、そんなことはない。そういうことは子どものときから瞬時にわかってきたはずだ。なにかを企んでいる背中となにかにわくわくしている背中とは、だれもが見分けられるほどに異なるのである。そう。私が言いたいのもこのことだ。教師は常に、子どもたちに〈上機嫌〉な背中を見せようではないか。少なくともその努力をしようじゃないか。そういうことである。 口ほどにものを言うのは目だけではない。背中だって同じなのだ。教師は背後にも口ほどにものを言う部位をもっているのだと思ったほうがいい。

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〈上機嫌〉でいること

教師にとって最も大切な職能を一つだけ挙げろと言われたら、皆さんは何と応えるだろうか。私は「何を措いてもこれだよ」と言えるものをもっている。私の四半世紀にわたる教職経験から言って、教師の職能として何よりもこれが優先される、そう確信できるものをもっている。それは、いつでもどこでもだれとでも「常に上機嫌でいること」だ。

なんじゃそりゃ……そう感じる向きもあるかもしれない。でも、仕事がうまく行かないとき、街を歩いていて上機嫌なおじさんに声をかけられたら、なんとなくうざったいなあとは感じながらも、自分の気持ちも浮上してきはしないだろうか。切ないことがあって落ち込んでいるとき、大阪のおばちゃんに囲まれて「ほれ、飴ちゃんあげるわぁ」と飴を差し出されたら、なんかうざったいなあと思いながらも、楽しくなってきはしないか。

そう。上機嫌は伝染するのである。

教師は子どもを指導しようとする。もちろん、子どもが悪いことをしたとき、子どもが何かにつまずいているとき、子どもがいま一つ一歩上へと踏み出せないとき、教師は指導しなければならない。たしなめ、はげまし、みちびく言葉をもたなければならない。でも子どもが悪いことをしたときにたしなめるのも、子どもが何かにつまずいたときにはげますのも、子どもが一歩を踏み出さないのをみちびくのも、どれも対症療法である。教師の目の前に子どものよどみが顕れて、初めてそのような指導が必要となる。

しかし教師に必要なのは、もっと日常的な、ありふれた、珍しくもなんともないいつもの風景において、教師がどう在るかということではないだろうか。そんな教師の定番が、教師のお決まりが〈上機嫌〉として子どもたちの前に現象しているとしたら、もうそれだけで抜群の教育効果をもつはずだ。

もしかしたら、その〈上機嫌〉が子どもたちにも伝染して、子どもたちが悪いことをする率が下がるかもしれない。子どもたちがちょっとくらいつまずいても気にしなくなるかもしれない。子どもたちが前向きに一歩を踏み出そうとするようになるかもしれない。私は、近くにいる大人が〈上機嫌〉であることには、そんなはかりしれない効果さえもつような気がしている。教師が常に〈上機嫌〉でさえいれば、学校現場で起こるマイナス事案の八割くらいは消滅してしまうのではないかとさえ思う。

もう一度繰り返す。

教師はいつでもどこでもだれとでも、常に上機嫌でいるべきなのだ。

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〈情〉を制すのが近道である

教師には転勤がつきものです。教員人生で一般に六~八校くらいは経験します。みなさんは三十代ですから、既に一~三回の転勤を経験しているはずです。転勤はこれまでをリセットして新たな気持ちで始められるという利点もありますが、仕事の作法が前任校と異なっていて戸惑ってしまうストレスの大きな転換点でもあります。

三十代以上になって転勤すると、まず間違いなく浮かんで来るのが「この学校はおかしい……」という疑問です。二十代の転勤なら「まあ、こんなものかな」となにも感じないところを、三十代はある程度仕事も覚えていますからいろいろなことに疑問をもってしまいます。その結果、転勤当初はかなりストレスを感じながら仕事をするということになります。なかには学年会議や職員会議で堂々と改革を提案する教師もいます。自分に自信をもっている教師に多い在り方です。

しかし、私はこれをよくないと思っています。

新しく赴任した学校の仕事の作法をおかしいと思うのは、自分がまだまだ前任校の慣れ親しんだ仕事の作法に囚われているということです。前任校を規準に判断しているということです。判断する眼に大きなバイアスがかかっているということです。実は前任校のやり方だって、一つの学校のやり方に過ぎないのかもしれません。そこに慣れている自分の感覚が一般的である保証はどこにもありません。多くの場合、自分の眼のほうが偏っているのです。

百歩譲ってその学校の在り方がおかしいのだとしましょう。しかし、あなたが即座に気づく程度のおかしさにその学校にもともといた先生方が気づいていないなんてことがあり得るのでしょうか。その学校にはそのおかしさをそのままにしておく方が都合が良い、もしかしたらそんな事情があるかもしれないのではないでしょうか。そしてあなたにはまだ来たばかりだからそれが見えていないのではないでしょうか。

私は五十に近くなったいまでも、転勤して最初の一年間はどんな仕事に就いてもなにも改革しないことにしています。その学校がどういう理念で、どういう作法で動いているのか、それを把握することに専念します。その組織のことをよくわかっていない人間がなにか一つを変えることによって、あらぬところに悪影響が出るということがあります。風が吹けば桶屋が儲かるように、こちらの部署の仕事とあちらの部署の仕事が裏でつながっているということがよくあります。新しく着任した人間には絶対に見えないレベルでです。改革はそれが見える人にしかできないのです。

そもそも新しく着任した人には、その学校を愛する気持ちがありません。その地域に対する愛着もありません。早急な改革というのは、実は〈情〉がないからできるのです。そして〈情〉のない人の提案を一般的に人は受け入れません。もちろん職員会議で通すことは不可能ではありません。声の大きい人の提案や正しいことを論理的に主張する人の意見に異を唱えること一般に難しいことですから。しかし、その提案がたとえ職員会議で通ったとしても、もともといた先生方がそれを機能させてくれない可能性さえあります。人間の営みとは〈情〉を制しない限りは機能させ得ないのです。学校改革はその学校を愛する者にしかできません。

だいたい転勤せずに同じ学校に勤めていたとしても、新しい管理職が来れば「この管理職のやり方はおかしい」と違和感を抱くのです。学校が変わったのですから、少しくらい自分の作法に合わないことがあるのは当たり前ではありませんか。

ただし、二年目になって、自分がその学校をよく理解し、その学校に対する愛着を抱いてきたならば、必要な改革はどんどん行っていくべきです。子どもが育つような改革、意味もなく職員に過剰な負担を強いている現状の改革、若い先生が必要以上に苦労するような仕組みの改革、どんどんやっていくべきです。

ただし、これだってあれもこれも早急にやってはいけません。一つ改革したらその悪影響が出ていないかとよく観察する。よく点検する。それが確かめられたら次の改革。年に一つくらいずつ提案して確実に改革していくという在り方が理想的です。例えばその学校に五年勤めたら四つ、七年勤めたら六つ、そのくらい大きな改革をして次の学校に行けたなら自分も満足できるのではないでしょうか。この学校ではよく働いたなと自己評価して次の学校へと移動できるのではないでしょうか。

そのときには周りの同僚たちもかなり入れ替わり、あなたのことを慕ってくれ、別れを惜しんでくれる先生方もたくさん得られているはずです。しかしそれさえ、あなたがその学校を、その職員室を愛した人だからなのであって、決して大きな改革を断行した功績が評価されているわけではないのです。

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配慮のない管理職には敢然とものを言う

私が生徒指導主事を務めていたときのことです。

二月のある日、私は市教委に提出するある報告書をつくろうとしました。その報告書は年に二回の報告が義務づけられている文書です。九月に一度、私がつくった中間報告を教頭先生に提出してもらっています。同じ年度度の報告書ですから、前回と今回の内容には整合性がなくてはなりません。当然、私は前回の報告書に上書きしようとします。

そこで教頭先生に前回の報告書のファイルをくださいと言いました(実は、私はこの手の学校を代表する公文書に関しては自分がなくすと困るので、バックアップを取ることなく、上司に渡してしまうことにしています。要するに校長名で提出する文書ですから私の責任下のものではありませんよ、という意味ですね・笑)。ところが、教頭先生はそのファイルがも見当たらないと言います。コンピユータから削除してしまったのか見つけられないのかはよくわからないのですが、要するに見当たらないのです。結果的に私は前回書いたことを必死に想い出しながら、もう一度イチから文書を作成することになりました。

一般に、学校の先生は上司のこういうことに腹を立てます。教頭なのに文書管理もできないのか、というわけですね。確かにそうした文書管理は教頭先生の仕事ですから、そういう責められ方をしたら教頭先生としては「ごめんなさい」と言うしかないでしょう。でも、私はこの件については笑って「いいですよ。つくりなおしくらい」と言って、どうということもなくつくりなおしました。

こういうことに腹を立てるのは大人げないと私は思っています。この手のことに腹を立てる人は「私だって忙しいのよ」ということなのでしょうが、どんな人にもミスはあります。こういうことを頻繁に起こす教頭先生なら責められても仕方ないでしょうが、ほどほどであれば笑って許してあげるべきです。そうですね、年に数度くらいまでなら(笑)。だいいち、こんなことを厳しく責め立てていたら自分の首を絞めかねません。自分だって同じようなミスをする可能性は充分にあるわけですから。この手のことは持ちつ持たれつで考えるのが平和に過ごすコツです。

しかし、管理職が自らの立場、権力を利用して職員に仕事上・生活上の不利益を与えたという場合には、敢然と立ち向かう必要があります。

例えば、新任の管理職が歓迎会の二次会で女性職員にセクハラまがいの発言をしたとします。だれもが認めるようなセクハラ発言ならもちろん大きな問題になりますが、当の女性職員も酒の席だし、新任のまだよくわからない管理職だし、ということで我慢してしまいナアナアになってしまうような事案ですね。こういうときには、多くの先生が裏では噂にしたり悪口を言ったりということをするものの、だれも面と向かって指摘するということをしません。これがいけないのです。女性職員にとっていけないだけでなく、その管理職の先生にとってもいけません。「先生、あれはセクハラの疑い大ですよ」と釘を刺してあげるべきなのです。それによってその先生も気をつけるようになるのですから。

例えば、職員室である先生が元気がないことにだれもが気づいているという場合があります。その先生が仕事上のミスをして管理職に厳しく叱責されたとします。管理職が叱責すること自体は組織上なんの問題もありません。しかし、私なら、自分が学年主任でその先生が学年所属の先生ならばかなりの勢いで管理職に文句を言いに行きます。「仮にも管理職ともあろう人間が、部下の現在の状況も把握せずになにをやってるのか」と。

また、かつて学年主任をしているときに、学級経営がうまく行っていない先生に学校事情で年度途中から期間限定で他学年の授業にも行ってくれという話が来たことがありました。これも私は同じ論理で管理職にかなりの勢いで釘を刺しました。

管理職のミスにも、人間としてあり得る事務的な失敗と、人への配慮の足りなさという失敗との二種類があります。管理職は意識するしないにかかわらず職員の人生にかかわっています。配慮のなさについては小さいうちに指摘しておくことが大切です。

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鍋ぶた組織の負の側面を意識する

あなたにはいま、「部下」が何人いるでしょうか。教科の主任とか校務分掌のある係のとりまとめとか校務分掌の長とか、三十代になればなにか一つくらいは任されているはずです。なかには学年主任を務めている人もいるかもしれません。地方の学校であれば、三十代で後半で教務主任という学校も珍しくはありません。一人の係ではなく、所属する教員が自分のほかに何人かいる組織長となれば、組織上はその先生方はその仕事において自分の部下ということになります。「いやいや、私はその先生方を部下とは思っていない。一緒に仕事をする仲間だと思っている」と感じる読者がいるかもしれません。「部下」という言葉は嫌いだと。

もっともです。実は私も「上司」とか「部下」とかいう言葉が大嫌いです。教員世界では、職員室にある上司と部下の関係は管理職と教諭の間だけであり、一般教諭は年齢や経験年数を問わずに横並びだと意識が強いからです。いわゆる「鍋ぶた組織」ですね。学校の先生にはこうしたメンタリティが必定に高いのです。私もその一員です。

では、あなたがとりまとめを任されている組織のなかに、思った通りに働いてくれなくてあなたを困らせている先生はいませんか? 或いはメンタルが弱かったり他の部署の仕事が忙しくて、はたまた職場の人間関係がうまくいかなくて、思った通りに働けていないという先生はいませんか? そしてもう少し突っ込んで言うなら、そんな先生をあなたが批判的に見ているということはないでしょうか。その先生に対して、「ちゃんと一人前に働いてくれよ」とか「あの先生は職業人として自立していない」とか、そんな感覚を抱いたことはないでしょうか。

実はこう考えてしまうのが、「鍋ぶた組織」の負の側面なのです。管理職と横並びの大勢の一般教諭という「鍋ぶた組織」は、すべての教諭が自立し独立しているというイメージの組織です。その前提にはすべての先生方が自立し独立するだけの力量をもっていなければならない、ということがあります。学級を荒らすこともなければ、校務分掌の仕事の在り方がわからないなどということもない。そういう前提です。しかし、すべての先生がそうした力量をもっていると信じている人は一人もいません。先生方は実際には力量も特性もばらばらです。

かつては他の先生の仕事の仕方を見ながら自分なりに力量形成を図ってきました。他の人のワザを盗むという職人的なイメージで力量形成を図っていたわけですね。なにかに挑戦しては失敗し、それを反省して次に進む、力量形成とはそういうものです。

ところが、現在の職員室には先生方が隙間時間がないほどに仕事に追われ、失敗が許されない雰囲気があります。二○○○年代半ばの指導力不足教員論議や保護者クレーム問題が職員室にそういう雰囲気を蔓延させました。説明責任があるから、結果責任があるからとさまざまな文書をつくることが義務づけられ、保護者クレームを回避するために小さなミスもなくそうとする雰囲気が醸成されます。

実は若い先生や力量の低い先生が自立・独立して、他人のワザを盗みながら主体的に力量を高めていくのが当然だと考えるのは、かつての古き良き時代の職員室の風習として捨てなければならないのではないか、私はそう考えています。「上司」や「部下」という言葉を使う必要はもちろんありませんが、「鍋ぶた組織」のイメージを捨て、自分のとりまとめる組織にそうした先生がいる場合には、その人を職員室で充分な戦力になるまで育ててあげる責任を自分は負っているのだと思うようにする。一歩先を行く先生方が日常的に、自然にそう感じるような状態になる。これができれば、若い先生、力量の低い先生も数年間で最低限の力量には到達することができるのではないかと思うのです。

職員室がこのメンタリティをもつこともなく、ただ「自立しろ」「独立しろ」というのはそうした先生には少々酷です。それは〈強者の論理〉に過ぎません。三十代はこうしたことに敏感になるべき年代なのだと思います。

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読書尚友の原理

読書尚友──読書によって先人を友とすることです。

私は教師が本を読まなくなったと感じています。自分の本の売り上げが良いとか悪いとか、そんなケチな話をしているのではありません。私の本も含めて、現在の教育書コーナーを賑わしている現場人や若手研究者の書いた本は、私の言う「本」には入っていません。それらは研究書ではありません。実践書でさえありません。これらは教師を対象としたビジネス書に過ぎません。こんなものは、まあ読んでもいいけれど、読まなくてもいい、その程度のものです。私は正直、そう捉えています。

私が「教師が本を読まなくなった」と言うのは、教師が教養書を読まなくなったという意味です。まあ、教養書自体の出版点数が明らかに減っていますから、教職に必要な教養書を探すこと自体が難しくなっている事情もあります。新書の出版点数にはすごいものがありますが、主張の深みもなく、学術的な裏づけもない、雨後の竹の子のような読みやすいだけの新書も少なくないですから、新書の新刊は玉石混交どころか玉を探すのに四苦八苦するのが実態です。

実は、ある友人(本を何冊も書いているような実践者です)に「堀先生の文章は読みにくい。僕は読者が読んですぐにわかる書き方にこだわっている。」と言われたことがあります(実は山口県に住んでいる小学校教師です)。そういう書き方もあるのでしょうが、私は私のいまの文体でも、「わかりやすさの限度」だと感じています。これ以上わかれやすくするためには、情意表現を更に多用しながら、一つ一つの段落を短くして、全体としてスカスカにしていくということになっていきます。想定範囲の限定や場合分けの具体例なども排除しなければなりません。しかし、それでは本を書く意味がありません。セミナーで語ったりDVDにしたりするほうが良いと言うことになってしまいます。私は本でしか伝えられないことを本にしたい。本で伝えられることとセミナー等で伝えられることは分けて考えたい。そう思っています。

この中村健一のような発想で考える人(あっ、言っちゃった……)が、実は読者にも多くなってきていると感じています。多くなったというよりも、ほとんどになったと言っても過言ではありません。「私は読みやすい本誌か読まない」と公言する人たちですね。私が『学級経営10の原理・100の原則』を出したとき、何人もの方々から「こんな字ばかりの教育書が売れたのは奇跡だ」と言われました。仲間の教師たちからも言われましたし、編集者からも言われました。私はそれを聞いて笑ってしまいました。「字で伝えるのが本でしょう。いつから教育書は画集や漫画になったのか」と。「余白で某かを伝える意図でもない限り、余白を極力少なくして情報量を多くするのが著者の誠意でしょ」と。

そもそも読みやすい本しか読まない人が、どうやって子どもたちに文章の読み方を教えるのでしょうか。一読してわかる文章を読むことを「読解」とは言いません。教科書教材は発達段階から見て自力では読めないような文章だから掲載されているのではありませんか。自力で読める文章なら自力で読ませれば良いのです。わざわざ授業で取り上げる必要なんてないではありませんか。なのに教師が、自分では自力で簡単に読めるものしか読まないと公言するのは、どう考えても背理なのではないか、私にはそう思えてしまうのです。

実は自力では読みにくい、調べながらでないと読めない、そういう文章を読み解いて理解する能力を高めるには、自力では読みにくい本こそ数を読むということしか方法がありません。脳味噌に汗をかいて読むのです。何度も何度も立ち止まり、それでもわからなければ繰り返して読むのです。「読書百遍意自ずから通ず」と言いますが、日本語で書かれている限り、調べながら読んだり繰り返し読んだりすれば、その意見は自然に理解されてくるものです。その労苦を最初から放棄しておきながら、子どもたちはなぜこんなに理解できないのかと考えたり、私は教師として成長したいと言ったりというのは、おこがましいのではないかと私は思うのです。

正直に言いましょう。私は年間三十冊程度の教養書を読まない教師には、教師としての資格がないと本音では思っています。少なくとも国語を教える資格はない、そう感じています。子どもたちに「いいかい?一度読めばすぐに内容を読み取れる、わかりやすい本だけを読もう。そしてね、読めばだれでも理解できる、そういう文章こそが良い文章なんだ。」と子どもたちに語る自分を想像してみるといい。どう考えてもその指導は教師の読書指導・作文指導として相応しくない。そもそもわかりやすい文章しか読まない人は、わかりやすい文章しか読まない人ではなく、それしか「読めない人」なのです。その証拠に、そういう人の多くはわかりやすい文章、伝わりやすい文章を書くことができないではありませんか。そういう人に限って、恥ずかしげもなく内容のない学級通信を出しているではありませんか(ちょっと辛口が過ぎますかね。笑)。

私は平均して週に五冊の本を読みますが、そのうちに一冊は教養書にするよう心掛けてきました。教養書の語に値しない本を読むときにも、なるべく偏らないように広いテーマをとか、小説を週に一冊は必ず読もうとか、いまでに意識しながら読書生活を楽しんでいます。もしも「教養」を古くさい知識だと思っている読者がいるとしたら、それは違います。「教養」とは先人を友としながら、社会に貢献するための自分なりの叡智をつくっていく営みのことなのです。

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〈補助線型思考〉の体得

学校教育の〈後ろ向き〉な仕事の多くは、学校現場にある「邪悪なもの」を撲滅しようとするものである。その事情は邪悪なものだから撲滅しなければならない……この枠組みだけで考えてしまうと、なかなか現実的な対応は生まれてこない。その「邪悪なもの」の側にいる子どもたちがただ悪者にされ、その「邪悪なもの」の被害者とされる子どもはただ守られるのみである。次第にいじめた側は少しずつ、しかし確実に教師との人間関係が離れていき、いじめられた側は少しずつ、しかし確実に守られ慣れていく。その結果、前者は他のターゲットを探したり他のカタルシスの対象を求めて非行化したりし、後者は無意識のうちにフォローしてもらうことが当然と思うようになって人間関係軋轢への耐性を更に失っていく。そういう例のなんと多いことだろう。

「邪悪なものはない方が良い」「邪悪なものはただ撲滅するのが良い」という思考停止が、実は必要な指導、必要な対応を見えなくさせるということがたくさんあるのだ。私が「〈邪悪肯定論〉の補助線を引く」という思考を奨励するのも、こうしたほんとうは必要な指導や対応を見えない場所から引きずり出し、顕在化させるための思考の枠組みとして有効であると確信しているからだ。

逆に、「学力向上」「思いやり」「協調性」「人とのつながり」「まじめ」などなど、学校現場で無条件に「良いこと」とされている概念・観念に対しても、一度、それらの負の側面がないかと〈補助線〉を引いて考えることが大切である。「学力向上」からは「学力」概念への疑いが、「思いやり」には偽善的な押しつけが、「協調性」には度を超えた同調圧力の可能性が見えてくる。「人とのつながり」には交友関係の拡大に走りすぎることで自らを省みない傾向が大きくなり、精神な不安定に陥る人が多くなっていることが見えて来るだろう。「まじめ」であることは確かに美徳だが、そうした傾向をもつ人たちがバランス感覚を失い、周りのまじめでない人たちを責める傾向をもっていること、人間関係に軋轢を生じることが決して少なくないことなどが見えてくる。

「邪悪なもの」をただ「邪悪なもの」として撲滅しようとする思考も、「良いこと」をただ「良いこと」として疑わない思考も、実は広く物事を見て現実的な対応策を考えるという枠組みを放棄しているのである。

教師は〈補助線型思考〉を体得する必要があると強く感じる。

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〈邪悪肯定論〉の補助線

学校教育で〈後ろ向き〉な仕事の代表と言えば、なんといっても「いじめ対応」である。いじめはない方がいい。それはだれもが言う。でも、いじめゼロということが仮に実現したしとして、そのこと自体には何の意味もない。それはマイナスがゼロになることを意味するだけで、決してプラスの何かが産み出されるわけではないからだ。人間の目はマイナス事象に向く。そのマイナス事象をなくそうともする。それは仕方ない。しかし、教師たる者、どうせ某かの努力をするのならば、プラスを産み出したいとは思わないだろうか。 基本的にゼロ運動、撲滅運動が起こるのは、その事象のマイナス面が大きいからだ。その事象は忌み嫌われる「邪悪なもの」だ。だからこそ、その撲滅が望まれる。しかし、その「邪悪なもの」はなぜ世の中に存在するのだろうか。学校教育全体、社会全体としては確かに忌み嫌われるのかもしれないが、そのマイナス事象を望んでいる者もいる、必要としている者もいるのではないか。だからこそ、その事象は存在するのではないか。一度、そんなふうに思考してみるのはどうだろう。

例えば、一度、いじめを肯定的に考えてみるわけだ。いつこいようだが、いじめを肯定したいのではない。私が言いたいのは、現実的に有効な対応を編み出すためには何が必要か、というあくまで「思考の枠組み」の話である。

まず、いじめがいじめる側にとって心の中のモヤモヤやイライラを昇華させる、ある種の〈カタルシス機能〉をもっていると仮定してみよう。

前章で私はいじめが事実を確認を徹底すれば解決できると述べたが、もしも徹底した事実確認とその後の指導によって解決されたとしよう。しかし、その場合、いじめた側のモヤモヤやイライラの行き場はどうなるのだろう。それらはただ、行き場なく陰に籠もるしかないのではないか。もしかしたらいじめ指導は、そのいじめ事案が解決すれば終わりとするのではなく、教師が同時に、いじめる側のカタルシスの行き場にも配慮しなければならないものなのではないか。一度、「いじめ肯定論」を措定してみるだけで、こうした発想が生まれて来はしないだろうか。

いじめられる側をも考えてみよう。社会にはいじめがはびこっている。上級学校に進めば、或いは社会に出れば、年長者からさまざまな指導を受け、さまざまに落ち込む場合があり得る。今回、いじめ被害者として教師にフォローされた子どもは、いま確かにいじめの解決に安心している。だが、この子は今後、上級学校や社会に出てからそうした事案に自力で対処していけるのだろうか。とすれば、教師は今回のいじめが解決したから良しとするのではなく、辛い思いをしたのだからとこの子をフォローすることばかり考えるのではなく、将来この子がたくましく生きていけるようにとこの子を「強くする指導」にも目を向けるべきではないのか。もう一度言うが、一度、「いじめ肯定論」を措定してみるだけで、こうした発想が生まれて来はしないだろうか。

もちろん、教師がこうした発想でものを考えていることは、子どもにも保護者にも言ってはいけない。もしも口にしたらクレームを受ける程度では済まないかもしれない。ただ一度こうした枠組みで考えてみることによって、いじめ指導の在り方がただ①そのいじめ事案を解決することのみに止まらず、②いじめた側のバイタリティの行き先を用意することと③いじめられた側を強くする指導を用意することとの三つをセットで考えられるようになるとしたら、この思考の枠組みはとても有効なのだといえないか。

私はこうした「邪悪なもの」の肯定論を想定して、自らに〈見えないもの〉を潜在化させようとする思考の営みを「〈邪悪肯定論〉の補助線を引く」という言い方をしている。

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〈前向き〉な仕事と〈後ろ向き〉な仕事

学校教育も撲滅運動の嵐である。表立っては「いじめをなくそう」「不登校をなくそう」「落ちこぼれをなくそう」がその代表格だ。裏では「クレームをなくそう」が大きな意識としてある。それが学校の現状である。しかし、極小規模校でない限り、いじめも不登校も落ちこぼれもクレームも皆無という学校はないはずだ。

例えば、こう考えてみよう。自分の学校に新しい校長が赴任してきたとする。当然、新年度一日目には、朝から学校長の施政方針演説がある。当然そこでは、校長が今年度の目標を挙げるだろう。今年度の重点として四つ挙げられ、それが「いじめゼロ」「不登校ゼロ」「落ちこぼれゼロ」「保護者クレームゼロ」だったとしよう。果たしてあなたは、このが校長の下で一年間頑張ろうと思えるだろうか。

これが「人間関係を醸成する授業づくり」「アクティヴ・ラーニングの授業開発」「学力テスト平均点10点アップ」「子どもが熱中する行事づくり」「保護者とともにつくる学校行事」ならどうだろう。ああ、何か自分にもできそうだ……と思えるのではないだろうか。先の四つの例と比較すれば、それは一目瞭然である。先の例がすべてマイナスをゼロにしようという後ろ向きの方針だったのに対し、これらの例は前向きの方針なのだ。

実は、仕事には〈前向き〉のものと〈後ろ向き〉のものとがある。プラスの何かをつくろうとするものと、マイナスの何かをなくそうとするものと言い換えても良い。

現在の学校教育には後ろ向きな仕事がたくさんある。いじめをなくそう、不登校をなくそう、落ちこぼれをなくそう、クレームをなくそう、確かにこれらが代表的だが、よく考えるとまだまだたくさんあるのだ。例えば、対症療法的な生徒指導はもとより、予防の生徒指導、感染症予防の保健指導、アレルギー予防の給食指導などなど数え上げればキリがない。最近流行のゲートキーパー論も同質の根をもっている。不登校児童・生徒をなんとか学校に復帰させようとするカウンセリング対応や、パニック回避のみを目的とした特別支援教育など、理念的な〈前向き〉の隙間に〈後ろ向き〉が入り込んでいる場合さえある。

人は〈後ろ向き〉な仕事に対して、強いモチベーションを抱きにくい。〈前向き〉な仕事に参加するほうが、教師として以前に人としてワクワクする。先の校長のゼロ四連発が意欲を喚起しないのはそのせいなのだ。ついでに言うなら、〈後ろ向き〉の仕事の多くは行政による失策の挽回や批判の回避のためにつくられる傾向もある。「~ゼロ」という方針を校長が打ち出した場合に保身に見えてしまうのはそのためである。

そして、実はここが肝心なのだが、実は〈前向き〉な仕事よりも〈後ろ向き〉な仕事のほうが技術的にもはるかに難しいということだ。〈ないもの〉をつくることと〈あるもの〉をなくすことでは、後者のほうが何倍も何十倍も難しいのだ。〈ないもの〉をつくるということは、実は〈まったくないもの〉を新たに創り出すことではない。実際には、〈これまでにあるもの〉のいくつかをミックスしたり、〈これまでにあるもの〉に付加価値をつけたり、〈これまで意識されなかったもの〉に価値を認めたりといった作業なのである。

ところが、既に〈あるもの〉をなくすとなるとそうはいかない。まず、その〈あるもの〉は現段階で強い存在感をもっている。既に〈ある〉ことが強く意識されるほどに存在感を示しているからこそ、それをなくしたいわけだ。それを皆無にしようというのだから、そこで必要な技術は並大抵ではない。原発を例に考えてみるとよくわかる。原発をなくす技術の開発と代替エネルギーの開発と、どちらが技術的に困難だと思われるか。加えて、どちらか一方の仕事を選べるとしたら、あなたはどちらの仕事に就きたいか。〈前向き〉な仕事と〈後ろ向き〉な仕事とはこういうことなのだ。

学校現場の〈後ろ向き〉な仕事も同様である。いじめゼロ、不登校ゼロ、落ちこぼれゼロ、クレームゼロ……。起こってしまってからの生徒指導、感染症予防、アレルギー対策、ゲートキーパー、復帰カウンセリング、パニック技術……。どれもこれも、学校現場では対応が難しい事案の代表格として認知されている。熱意や経験則だけでは決して対応できない。教師にかなり深い知識と高いスキルが求められることがわかるはずである。

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自分自身で選ぶことから始まる

三十代後半。実践研究もあれもこれも手を出していられる時期ではなくなってきます。自分に向いているのはこれだな…、向いていないのはこれだな…という自分の特性もわかってきます。そろそろ自分の生き方を整理しなおして、自分がこれからなにをしたいのかなんて考えるのもこの時期です。

管理職になろうとか、指導主事になりたいとか、そういう地域の既定路線に乗ろうとしている人は明確な目標があります。自分は一教師として学級経営に勤しむんだと決めている人、部活動の指導に熱心に取り組んで成果を上げることに悦びを感じている人、そういう人たちは迷いがなくて幸せだなとも思います。また、無理をせずに仕事をそこそこに、普通にこなしていき、趣味や家族との時間を大切にするという生き方を選んでいる人たちも幸せそうに見えます。自分にはなにもないなあ…、いったい自分はなにをしたいんだろう…、そんなふうに自分の人生を振り返りながら、これからのイメージが描けないことに不安感を抱くのもこの時期です。

しかし、管理職になるならないを決めるのはもう少し先で間に合います(地域によっては、特に郡部においてはそうでない地域もあります)。管理職として同僚の先生方を支える存在になるとともに地域の教育に貢献するのか、それとも一人の担任として子どもたちと接することに悦びを見出し続けるのか、それはもう少し経ってから自分で判断ですれば良いのです。あと数年の猶予があります。

指導主事は正直なところ、三十代後半の時点で一度もその手の話に触れたことがないなら、既にもう可能性はありません。部活動に悦びを見出すにももう遅いと言わざるを得ません。部活動も三十代後半から本格的に取り組んでものになるほど甘い世界ではありません。そもそも、地域の教育を担うにしても部活動の指導者としてやっていくにしても、そういう人たちは二十代の頃からそういうルートの仕事の仕方をしているのです。後発の参入者が入っていける世界ではありません。

組織を前提としてアイデンティティを見出そうとするには、三十代後半という年齢は既になにかを始めるのに遅い時期です。やはり、この年代から某かの生き甲斐をと考えるならば、それは組織を頼りにしない、他人を頼りにしない生き方を見出そうとする必要があるでしょう。もしあなたが独身ならば婚活をとも考えるかも知れませんが、それも他人をあてにする生き方であることにはかわりありません。そもそも婚活は時間・労力・お金をたくさん費やさなければならない割に、成功する可能性が非常に小さい投資活動です。婚活を「投資」ではなく「投機」だと言う人さえいるほどです(笑)。その意味では、趣味は割と確実かもしれませんが、夢中になれる趣味を見つけるのもこれまた難しい。

ただし、一つ考えなくてはならないことがあります。生き甲斐を見出すためにはとにかくなにかを始めなければならないということです。夢中になれる趣味はないかと探していたのでは、いつまでたってもそんな趣味は見つかりません。夢中になれる実践研究はないかと探していたのでは、いつまでたってもそんな研究は見つかりません。それは恋愛において夢中になれる人はいないかと探し続けるのに似ています。最初から夢中になれる恋愛などなく、人は時間を共有しある種の歴史を形成することで「夢中になっていく」のです。

いま取り組んでいること、いま学んでいることに対して、あなたは本当に本気で取り組んでいるのでしょうか。しがらみでやっていたり、特にすることもないからと時間つぶしに取り組んでいたりはしないでしょうか。或いはあまりにもいろいろな学びの場に手を出しすぎて、どれもこれも中途半端になってしまっている人もいるかもしれません。

それではこれからの二十数年を乗り切れないのです。充実させられないのです。これから仕事はどんどん〈自分のやりたいこと〉から〈自分がやらなければならないこと〉へと移行していきます。仕事の中心が〈自分のこと〉から〈他人のフォロー〉へと移行してもいきます。そんなとき、やらなければならないことや他人のフォローにある種のやり甲斐を感じるためには、それらの仕事や関わりを通して自分が成長しているという実感を抱けるか否かにあります。

そろそろ「こんな世界もあるのか、あんな世界もあるのか」と迷うのではなく、「私はこれ」或いは「私はこれとこれ」といった自分の仕事の軸となるものを定めなければならないのです。そういうものを定めて本気で取り組んでいけば、自分の日常が、自分の仕事に対する見え方が変わっていきます。その観点で自分の仕事のすべてを見つめ直すことが自分の毎日の仕事をフィールドワークにしていきます。次第にそれに夢中になれるようになります。やらなければならないことや他人のフォローにも自分の仕事に役立つ部分を発見できるようになります。だって、やらなければならない仕事というのは、学校にとって必要だからあるのですから。他人のフォローをするにしても、その先生が一人の人材としてちゃんと機能することは学校にとって大きなプラスになるはずです。その人が自分に新たな学びを提供してくれることだってあるはずです。

自分の人生はこれだという軸を手に入れる必要があります。そしてそれは、自分がいまもっているもののなかで幾つかを選択することから始まるのだと私は思います。そしてそれは〈自分自身で選ぶ〉ということからしか始まらないのです。

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なぜ人を殺してはいけないのか/鮎川教授最後の授業

なぜ人を殺してはいけないのか…。2回連続の「相棒」のテーマだった。輿水泰弘の脚本である。1回目は斬新なアイディアで設定もおもしろく、緊迫感があってとても良かった。だから2回目も期待して観た。でも、まったくダメだった。解決が強引すぎるのだ。納得できないのだ。だから入り込めないのだ。このことは正月特番にも感じた。

1時間の単発ならば一つのアイディアでおもしろくつくれる。でも、2時間になると魅せ続けるにはもうひと段階が必要なのだろう。そんなことを感じた。
2時間ものを最後まで魅せるものにする古沢良太とか太田愛とかといった脚本家は脚本を後ろからつくり、2時間を成立させられない脚本家は脚本を前からつくっているのではないか。そんなことをふと感じた。前者は解決のアイディアからつくり、後者は設定のアイディアからつくっているのではないか、と言い換えるとわかりやすいかもしれない。

今回の「なぜ人を殺して…」だって正月特番だって、設定は斬新だった。でも、それを展開していくだけの説得力がないのだ。さまざまな布石を打ち、小さなどんでん返しをたくさん配してはいるが、物語を展開させる軸に視聴者を惹き付けるだけの説得力がない。そんなことを感じた。

僕は古沢良太の脚本が好きだ。正月特番の「バベルの塔」(2007年)も「聖戦」(2011年)も素晴らしかった。最後まで目を離せない物語の展開力があった。大塚寧々と南果歩の演技力も素晴らしかったが、やはり脚本が良いのだ。「相棒」はどの作品もカメラワークは常に素晴らしい。ゲスト俳優によって今回はダメだと思うこともほとんどない。水谷豊の演技は安定し、杉下右京のキャラクターも安定し過ぎている。だから脚本の善し悪しがものすごく観る者の印象に影響を与えてしまうのだろうと思う。

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校内研究を大切にする

三十代のなかに勤務校の校内研究に意義を感じていない教師がいます。実践研究が嫌いな教師なら、世代を問わずにそういう教師はたくさんいます。そうではなく、実践研究が必要だと感じていて、実践研究に対する意識も高いのに、自分の学校の研究には意義を感じていないのです。

そうした教師は、官民問わず、学校外の研究に日常的に触れているものですから、その理論形態の違いや想定範囲の広さの違い、実践研究の機能度の違い、参加する教師たちのモチベーションの違いなどを目の当たりにして、「校内研究なんて…」という結論に達してしまった教師なのだろうと想像します。そういう教師は校外の団体や校外の論者から積極的に学ぼうというライフスタイルをもっています。たぶん本書を購入された読者のなかにも少なからずそういう方がいらっしゃるはずです。私は民間畑で主張しているタイプの論者の一人ですから。

講演会やセミナーなどで出会う方々と話をしていても、「うちの学校の研究は研究の体をなしていなくて…」とか、「うちの学校の先生はやる気がなくて…」とか、「うちの学校の研究はしょーもなくて……」とかいった声をよく聞きます。そういう先生に対しては私は軽く微笑んで「そういう学校もあるよね」と多くを語らないことを常としています。そして、「この教師はダメだな…」と思います。

教師個人にとって最も有意義な実践研究の場は校内研究です。校内研究は同じ子どもたちに実践し、同じ学校システムで仕事をし、地域に対する同じ問題意識を抱いている教師が一同に介して実践研究に取り組んでいる場です。あなたの学級の子どもたちと隣の学級の子どもたちは同じ地域に住み、同じものから刺激や影響を受け、同じような特性をもつ子どもたちなのです。そうした共通したタイプの子どもたちに接している教師が集まって議論する場が、いま自分の目の前にいる子どもたちのためにならないなどいうことがあるはすがありません。それはその教師個人の心持ちの問題なのです。

そもそも「うちの学校の研究はしょーもなくて…」と言っている教師は、間違いなくその学校研究の「しょーもない」実態に加担しているはずです。「しょーもない」からと、一所懸命には取り組んでいないはずなのです。

もしほんとうに「しょーもない」ならば、その教師自身が「しょーもない」状態から脱却させれば良いのではないでしょうか。その教師が本気で校内テーマにかかわる文書を五枚程度つくってごらんなさい。必ず賛同者が現れるはずです。その教師がちょっと校内研究テーマにかかわる授業を考えてみたので、お手すきの先生がいらっしゃいましたら参観していただきたいのですが……という動きをしてごらんなさい。その授業が参観者ゼロになることはまずないはずです。

外の世界でさまざまな提案をしている人たちは、決して自分の足場である校内の仕事を蔑ろにはしていない人たちです。学校の仕事よりも外の仕事を大切にしている人というのもまずいません。外で提案をするには自分の足場が固まっていることが必要です。外でいくら良いことを言っても自分の学校がうまく行っていないのでは、口ではああ言ってるけど足場はぐらついてるよという評価しか得られません。あくまで自分の足場で、校内研究や日々の学級づくりにおいてさまざまに取り組んできたことを整理することによって、たまたま外でも提案しているに過ぎないのです。

このことは外で学ぶ教師たちに声を大にして言いたいことです。自分が勤務している学校こそを中心に考えるべきなのです。こんなあたりまえのことをわざわざ言わなくてはならないほどに、「勘違いしている教師」が増えている現状があります。

外の学びの場は自分で選ぶことができます。つまりはやめてもいいのです。しかし、校内の実践研究をやめることは許されません。手を抜くことも許されません。教師はその学校の教師であることによって収入を得ているのですから。

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外の仕事には覚悟を要する

三十代ともなると、学校外の仕事というのをたくさんもっているはずです。地域の研究団体で中心的な仕事をしているとか、他校の公開研究会の研究協力者になっているとか、行政機関の研究協力委員になっているとか、部活動の大会運営に中心的にかかわっているとか、そうした仕事ですね。

こうした外の仕事は、正直に言えば息抜きになっているのではないでしょうか。日常の仕事から解放されて外勤に出ることにはそういう側面があります。いつも顔を突き合わせている人から少し離れて、別の世界の人たちと会話するのは良い気分転換になります。自分の学校はこうだ、相手の学校はこうだと愚痴をこぼし合うことも精神衛生上悪いことではありません。特に五年研修、十年研修などで大学同期や初任者研修同期の人たちと会う場合などは、自分が二十代だった頃に戻れて良いものです。

さて、年次研修でノスタルジーに浸ることには何の問題もないのですが、その外勤の対象が研究や部活動といった今後の仕事の在り方と密接にかかわるものである場合は、自分のこの先の教員人生のイメージを見据えて、一度しっかりと考えてみることが必要です。 例えば、小学校教師がある教科の研究団体にかなり忙しくかかわっているという場合。今後もその教科の研究を中心に教員人生を送っていこうというのならば、その研究の場は自分にとってこれからも有意義な場になりますが、そうでない場合には校内の仕事がこれからどんどん忙しくなるに連れて、その研究の場に所属していることが苦しくなっていく可能性が非常に高いのです。特に、官民問わずどんな研究団体でも必ず毎年、一定数の実務を担う運営委員が必要です。三十代になってくるとそうした仕事を頼まれる場合があります。それを引き受けるべきなのか否かは、自分の今後の教員人生を他ならぬ自分自身がどうイメージしているのかということと密接な関係をもちます。ちょっと断れない性格で…とか、取り敢えず何事もやってみようといまは思ってる…とか、そうした感覚で引き受けてしまうと、後々、トラブルに発展する怖れさえあります。

三十代でそういう場の運営委員に誘われるということは、頼む側からすればその後も更に事務局に入るとか、その後は事務局長になるとか、そうしたことを期待しています。それほど教員生活イメージの中心にはない場においてそういうものを引き受けてしまうと、数年後には「そんな重要なポストまで引き受ける気はなかったのに…」というポストにまで誘われることになっていきます。その段階になって断りにくくてその会への出席自体がしづらくなる、一度さぼると次からは無断欠席になる、誘ってくれた人から電話がかかってくるとのらりくらりと応える、そんな義理に反する行いをしてしまうことになりかねません。その場を生涯の仕事として一生懸命にやっている先輩教師に大きな迷惑をかけ、しかも信用も失ってしまいます。更に言えば、それが地元の研究団体であれば、「あの人は信用できない」という噂が広がり、知らぬは自分ばかりなりということにもなりかねないのです。こういうことは、最初に小さな仕事を引き受ける段階でよく考えなかったことに起因しているのです。

部活動でも同様です。自分はほんとうにその競技が好きで、その競技の指導をすることが教師としての生き甲斐なのだという場合には何の問題もありません。大会運営委員やその競技の連盟事務局になることはかえってその競技における人間関係をも豊かにし、人脈をもつくっていくわけですから是非とも引き受けるべきです。しかし、本当は野球部の指導をしたいのに、いまは学校事情でサッカー部をもっているとか、ゆくゆくは結婚をして部活動から退いて家庭を第一に生きていきたいとか考えているのであれば、いまその仕事は引き受けることは自分を取り立ててくれた人に後に迷惑をかける可能性が高いのです。

研究も部活動も校内の付き合いとは異なり、転勤してもその関係は続きます。役職には責任が伴い、覚悟を必要とされるのです。一度要職を引き受けてしまったその世界からはなかなか抜けられないのだということを肝に銘ずる必要があるのです。

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現実的に有効な対応

私はこう見えて〈ウルトラマンおたく〉である。元〈ウルトラマンおたく〉と言ったほうがいいのかもしれない。新しいものはてんでわからないからだ。若い読者にはわからないかもしれないが、「ウルトラQ」から「ウルトラマンA」までの怪獣・宇宙人・超獣ならば、写真を見せられれば即座に名前を言える。まあ、元〈ウルトラマンおたく〉を名乗っても真の〈ウルトラマンおたく〉から非難は受けないだろう。

私はこう見えて〈仮面ライダーおたく〉でもある。元〈仮面ライターおたく〉と言ったほうがいいかもしれない。新しいものはからっきしわからないからだ。若い読者にはわからないかもしれないが、「初代1号ライダー」から「仮面ライダーストロンガー」までの怪人ならば、写真を見せられれば即座に名前を言える。元〈仮面ライダーおたく〉を名乗っても真の〈おたく〉から抗議は受けないと思う。

人間の生存を脅かす怪獣も、地球を征服しようと企む○○星人も、世界征服を企むショッカーも、悪の存在・悪の組織と認知され、駆除すべき、撲滅すべき対象と見なされる。そして事実、彼らは毎回殲滅される(ジャミラのようなごく一部の例外を除いて)。でも、私はこう考えてしまう。レッドキングやテレスドンをこの世から除いてしまったら、その地域の生態系は崩れないのだろうか。バルタン星人やメトロン星人を殺してしまったら、はるか宇宙の彼方。バルタン星やメトロン星にいる彼らの両親は悲しまないのか。

まあ、馬鹿げた論議はこのくらいにしておこう。

フィクションの世界なら悪と見なされたものをただ除けばいいかもしれない。しかし、現実世界では話はそれほど単純ではない。例えばゴキブリ。あれほど忌み嫌われる動物もいないわけだが、どれだけ世の主婦たちが全滅を望んだとしても、やはり世にある一つの「種」を、すべてを駆除してしまってはどこかにアンバランスが生じようというものである。オニグモだって大量発生されてはかなわんが、いなくなられても生態系が崩れてしまって困る。ここまでなら読者の皆さんもさほどの異論はあるまい。

では、原発ならどうだろう。原発では思想がからむと言うなら、公害ならどうだろう。犯罪はどうか。公害と犯罪、どちらもなくしてしまったほうがいいと言うのではないだろうか。まして戦争をや……。言うまでもあるまい。

しかし、ここで私が言いたいのは、非原発・犯罪撲滅・戦争反対と叫ぶことが、果たして現実的に有効な対応たり得るかということである。

原発依存から脱却しようとすれば、現段階までの核廃棄物処理に関するとてつもない技術開発が必要になる。加えて、現段階の原発依存度を視野に入れながら、代替エネルギーに移行できるまでの技術開発を具体的に予測せねばならない。更に言うなら、予算措置も開発までの年数を予測しながら具体的に講じねばならないだろう。まったく、気の遠くなるような努力が必要になる。犯罪の減少には犯罪者の心理を研究したり景気の動向に配慮したりといったことが不可欠である。戦争回避には、仮に二国間対立としても、両国の国益に配慮した対話が何より必要だろう。どれもこれも「ただ無くせ」という話ではない。

言うまでもないことだが、原発や犯罪や戦争を肯定したいのではない。私が言いたいのは、現実的に有効な対応を編み出すためには何が必要か、という思考の枠組みの話である。

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通知表の所見欄──書き方十か条

昨年度のことである。1年生34名を担任した。2学期末のとある金曜日、隣の席の若い女性担任が通知表所見と格闘していた。勤務校の所見は二百字弱である。

「何人書いたの?」と僕が訊くと、「いま8人目です」とのこと。僕が更に「締切いつだっけ?」と訊くと、彼女は「来週の月曜日です」と応える。あらら…。それじゃあ、今日中に片付けないと間に合わないじゃん。僕は一週間が見開きの手帳を使っている。今日は来週の頁を一度も開かなかったから、どうやら月曜日の通知表締切を失念していたらしい。

時計を見ると16時10分である。しょうがねえなあ…と思いながら、僕は校務用のパソコンを開いて、所見を打ち始めた。何も資料を見ることなく、立ち止まって考えることもなく、ただ集中して打ち込む。34人分を打ち終わると同時に、パソコンを閉じた。

「えっ?できたんですか?」

隣の女性担任が驚きの声を上げる。

「うん。できたよ。」

そう言って、彼女のパソコンを覗き込む。彼女は12人目を打っていた。時計を見ると、16時50分だった。

「じゃ、お先に…。」

羨ましそうな、それでいてどこか恨めしそうな、そんな彼女の視線を背中に感じながら、僕は職員室を後にした。

一 通知表所見十箇条

若い教師はもちろん、ベテラン教師にも意外と多いのが通知表所見を苦手にしている人。学期末になると、職員室に憂鬱そうな顔が並ぶ。原理・原則をしっかりと確認して、「いい文章」「格好いい文章」よりも、「伝わる文章」を書くことを心がると良い。

第1条
「記録として残る」を念頭に置くべし
通知表は一生残るものです。あなたの両親だって、あなたが小・中学校でもらった通知表をいまだに大切に保管しているのではないでしようか。両親のみならず、ときには祖父母や親戚が集まって、子どもの成長を語り合うときの話の種にもされるものです。問題点の指摘はもちろん、粗雑な言葉遣い、正しくない言葉遣いも避けなければなりません。

第2条
1年間の見通しを持つべし
通知表所見を書くにあたっては、各学期に大筋でどのようなことを書くのかについて、明確に意識しておくことが大切です。
1学期 長所の発見と肯定的評価
2学期 1学期からの成長点の評価
3学期 更なる成長への期待

第3条
所見でしか書けないことを書くべし
「国語を頑張りました」「生活委員として責任感をもって取り組みました」など、評定欄や特別活動の記録、行動の記録を見ればわかることを、繰り返すだけでは意味がありません。成果や活動の様子をかみくだいて、所見でしか書けないようなことに絞って書くべきでしょう。

第4条
担任の目を最大の武器にするべし 
子どもたちの学校生活について最もよく理解しているのは学級担任です。学級担任は、自分の目に自信をもって所見を書くべきです。

第5条
すべての子に平等に書くべし
子どもたちの中には所見を書きやすい子と書きにくい子がいます。どちらかというと、目立たない子の所見は書きにくいものです。それが無意識のうちに「所見の分量の差」や「所見のパターン化」に繋がっていきます。しかし、最近の子どもたちは昔と違い、互いに通知表を見せ合うことが多いようです。分量に差をつたりパターン化に陥ったりということは、絶対に避けなければなりません。

第6条
あくまで本当のことを書くべし
褒めるところがなくて、書くことに困って、その子が本当にはできていないことをさもできているように記述してしまったことはありませんか。これは通知表をもらった本人にとっては、事実に反する「お世辞」に見えてしまいます。

第7条
〈エピソード+評価言〉を基本とすべし
二文で書くのならエピソードを一文、評価言を一文、三文書けるのならば、これに学習所見を加えたり、エピソードをもう一つ付け加えたりということもできます。いずれにしても、基本は「エピソード+評価言」で構成することです。

第8条 100%褒め言葉で構成すべし
子どもの批判を通知表所見に書くということは、実は日常の指導がしっかりとなされていないということをあらわしています。所見で書くべきことと、日常の指導で行うべきこととを明確に分けて意識することが大切です。所見では100%褒め言葉に徹することが大切なのです。

第9条
課題ではなく期待を書くべし
「~が来学期の課題です」と書かれるよりも、「来学期、~を期待しています」と書かれた方が、抵抗なく読むことができます。

第10条
できれば自己評価をとるべし
できれば、事前に自己評価をとってから書くと良いでしょう。

二 ライターズ・ハイ

作家が夢中になって、ある種の陶酔状態になって原稿を書くこと、これを「ライターズ・ハイ」と言う。真夜中にラブレターを書くような状態を思い浮かべればわかりやすいかもしれない。あとで読むと自分でも恥ずかしくて先を読めなくなってしまうような、ある種異常な心持ちで書かれた文章がライターズ・ハイで書かれた文章である。

真夜中のラブレターは素人が書くからそうなってしまうわけだが、教師は作家がライターズ・ハイで整合の取れた文章を書けるように、少なくとも子どもを描写し評価する文章くらいは書けるようになるべきではないか(もちろん、作家ほどうまい文章が書けるようになる必要はないけれど)。そんなふうに感じている。

僕が約40分で34人分の通知表所見を書けたのは、①長年の経験によって数数の文例が頭に入っていること、そして②周りを遮断し、自己陶酔にも似た状態をつくって夢中になれる、即ち「ライターズ・ハイ」の状態に自分をもっていけること、この二つが備わっているからなのである。前節で挙げた十箇条が自らのなかに溶けるほどに精進すれば、きっとだれもがその域に達することができると信じている。

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時間蘇生の原理

これまでを読んで、私の仕事術の提案が「時間をケチること」にあるように感じたかもしれません。確かに私はこれまで、時間に限りがあることを意識して、余白時間をつくらずにコン詰めて仕事して早く帰るということを中心に提案してきました。読者の皆さんのなかには、こんなせせこましい時間の使い方はいやだ、堀先生のようにはなりたくない、そう感じた方がいらっしゃると思います。しかし、私はそれを断固として否定します。

時間には「活きている時間」と「死んでいる時間」があります。

例えば、「こんな議論しても無駄なのになあ……」とイライラしながら会議に参加しているとき、その時間は死んでいます。「なんでこんな文書をオレがつくらなきゃならないんだ……」と不満に思いながら連絡文書をつくっているとき、その時間は死んでいます。「早く終われ、急いでるんだから……」と機械をせかしながら印刷しているとき、その時間は死んでいます。

例えば、忙しい時期に子どもがトラブルを起こすことがあります。人間ですから、どうしてもイライラとしながら指導してしまいます。しかし、とにかく早く終わらせたいとイライラしながら指導をしているとき、その時間は死んでいます。

授業が想定していたとおりに進まずに滞り、「ああ、明らかに失敗だ」と認識することがあります。とにかくできるところまで進めようと、アリバイづくりのような授業を進めるとき、その時間は死んでいます。

勤務校の呑み会が開かれます。それほど出席したいわけではありません。でも義理があるから一次会だけは出席します。「早く終わらないかな……」が基本ですから、同僚との会話もはずみません。そんなとき、あなたの時間は死んでいるのです。

更に言いましょう。家に帰って特にすることもないからとテレビを眺めながら缶ビールを飲んでいるとき、日曜日に特に予定もないからとベッドのなかでうだうだしているとき、ひまつぶしになんとなくユーチューブをサーフィンしているとき、用もないのに携帯電話をいじって友達とつまらないメールをしているとき、みんなみんな、あなたの時間は死んでいるのです。

なぜ、どうせテレビを見るなら見たい番組だけをちゃんと見ないのでしょう。どうせ寝るなら、「よし!今日は休むぞ!徹底して寝るぞ!」と惰眠という名の休養を前向きに取ればいいではありませんか。ネットサーフィンもメールも、ひまつぶしではなく目的をもってやれば何杯も充実するのではないでしょうか。呑み会も同じです

授業が失敗したのなら、惰性で授業を続けるのではなく、なぜ失敗したのかを分析しながら授業してみてはどうでしょう。「先生はこう考えていたんだけど、みんなはそうならなかった。どうしてなんだろう」と子どもたちに訊いてみれば良いではありませんか。忙しい時期に子どもがトラブルを起こしたとしたら、さっさと予定の仕事のことなんか忘れて、よし!この事案で子どもたちと一つ深くつながるぞ、この事案からも何かを学ぶぞ、発見するぞと気持ちを切り替えることはできませんか?

印刷なら「効率的な印刷の仕方を開発してみよう」、つまらない文書づくりなら「つまらなくない文書にするのための工夫点はないか」と考えてみれば、生産的な時間になります。無駄な議論の応酬が続く職員会議は、実は自分に成長をもたらす反面教師のオンパレードなのではありませんか? そう考え始めた瞬間に、すべての時間が生産的になるのです。息を吹き返すのです。私が時間を区切ってルーティンワークに臨めというのは、時間を区切って工夫しようと思い始めれば、そういう生産的な時間の使い方をするようになりますよ、ということなのです。

私は二十代の頃から、自分のすべての時間を「活きている時間」にすることを夢想してきました。もちろん、いまだに到達はしません。きっと生涯、到達することはありません。それでも私は、おそらく何も考えずに仕事をするのと比べれば、「時間を生き返らせる!」という強い意識をもって取り組んできた私の教師生活には、「活きている時間」が何千倍も何万倍もあったと感じているのです。

私は時間をケチッているのではありません。時間を生き返らせようとしているのです。できれば自分の時間のすべてを「活きている時間」にしようとしているのです。

その証拠に、私は放課後、子どもたちや同僚と馬鹿話をしたり、同僚や管理職と議論したり、ある子が気になってずーっと観察し続けたり、ある先生の仕事振りが気になって話を聞いたり、ある保護者の相談を受けて解決策を多様に考えてみたりということに、まったく時間を惜しみません。これらが自分で努力しなくても目の前に現れてくれた、明らかな「活きている時間」だからです。しかし、そういう時間は、自分から働きかけないと訪れません。待っていてもなかなか向こうからやってきてはくれません。

「活きている時間」が突如現れたとき、それに没頭できるためには、常に時間に余裕をもっていなくてはなりません。当然、ルーティンワークのごときは効率的に進めておく必要があります。時間を殺さないためには、ルーティンワークの時間さえ密度を濃くする必要があるのです。

「活きている時間」は待つものではなく、自分で創り出すものなのです。

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〈人柄志向〉と〈事柄志向〉

いじめ対応を例に、〈事実確認〉の大切さについて幾分しつこく書いてきた。教師が陥りやすい〈事実〉と〈感情〉の混同の構造を教育社会学者菅野仁が非常にわかりやすい生理をしている(『教育幻想 クールティーチャー宣言』ちくまプリマー新書・二○一○年三月)。簡単に言えば、こういうことだ。

教師には〈人柄志向〉の人と〈事柄志向〉の人とがいる。

熱心な教師は自分がどういう「つもり」で行動しているかということに常に重きを置いている。日常的にそういう意識で過ごしているものだから、子どものトラブルにおいてもその子がどういう「つもり」でそれを行ったのかということを問題視しやすい。「つもり」は感情や性格などと連動することが多いので、どちらかと言えば〈人柄志向〉で教育することになる。うまく言っているときは良いのだが、なにかトラブルがあったときには子どもの性格や人格を問題にしてしまうことになる。過去にあれもやった、これもやったと指摘してみたり、成績が悪いことや服装がだらしないことなどと今回のトラブルを結びつけて指導する傾向がある。

これに対し、〈事柄志向〉の教師たちはものごとを分けて捉えることができる。普段のことは取り敢えず括弧に括って、今回起こったことだけを問題にして解決しようとする。普段のだらしなさに対する指導は取り敢えず別のことであって、結びつけて指導しようとはしない。指導するにしても今回の事案が解決し、最後の最後になって補足事項として付け加えるという指導の在り方をとる。

後者がまずは事実のみをクールに見ようとするのに対し、前者は最初から背景や人となりから判断しようとする。両者の志向性はこのように異なる。

学校教育には学級担任が自分でプロデュースして良い領域というのが確かにある。しかし、トラブルにおける〈事実確認〉とか、学校の規律を守るために設定される〈ルール〉などは、学校の共通基盤として全教師が普通にできなくてはならない職能なのである。

子どもたちが大好きで体当たりで臨む教師、自分のやりたいことを教育に活かそうとする教師などなど、〈人柄志向〉の強い教師ほど、〈事柄志向〉で行くべきときがあるのだということを意識したいものである。

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身に纏うオーラ

一般的ないじめの指導が混沌に嵌まるのは、〈起こった事実〉の確認が甘いからだと言ってほぼ間違いない。

そもそも被害側の立場への共感を前提とし、加害側にいじめを認めさせて指導するというあり方は、加害側に遺恨を残しやすく、被害側に「先生は自分の味方だ」と思わせやすい。意識的・無意識的に加害・被害の双方が抱くこの感覚が更なる軋轢を生じさせる。継続的なフォローをと言うのは簡単だが、声かけの頻度を上げることくらいしか手立てがないのが現実である。こうして、多くのいじめ事案が解決しないのだ。

そもそも被害側に寄り添い、共感する教師が加害側から事情を聞くとき、教師本人がいかに気をつけたとしても、教師の言葉の端々、教師の表情の一つ一つに〈おまえが悪い〉オーラは出てしまうものだ。人間だからこれはいかんともし難い。

でも、これが事態を深刻化させるのだ。事実、保護者からのクレームは「先生が一方的におまえが悪いと言ったとうちの子が言っている」というものではなのいか。被害側であろうと加害側であろうと、事情を聞く際には、教師は「〈起こった事実〉を徹底的に解明しよう」と意識して臨むべきなのだ。そうすれば教師が無意識に発するオーラの質も変わり、子どもの側も「自分に都合の良い言い方は許してもらえないな…」となるのだ。

そして実は、この教師がどうしようもなく身に纏(まと)ってしまう〈おまえが悪い〉オーラは、
熱く、熱心な教師ほど強力に纏ってしまうという特徴がある。一般的に、熱心な教師ほど正義感が強く、被害者への共感力も強いからだ。教師の熱意がうまく回っているときはいい。しかし、いったん歯車が狂い始め、少しずつ齟齬が生まれ始めたとき、実は熱心な教師ほど、子どもからの信頼失墜や保護者クレームが自分の熱意に比例するように大きくなってしまう傾向があるのだ。

もちろん、私は熱意を捨てろと言っているのではない。熱意を失った教師など、教師の名に値しない。それは確かだ。

しかし、その熱意が自分本位の熱意であり、子どもたちに機能させるスキルもなければ子どもたちを納得させる段取り力もない熱意ではかえって逆効果になる。熱意や正義感は抱きながらも、「ここはまず事実の確認から」と冷静な対応が求められるのだと言いたいのである。〈心でっかち〉は想定外の出来事が起こると、冷静さを失わせるところがある。それを自覚しようということである。

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起こった事実

ここでは、いじめ対応を例に考えてみよう。

いじめ事案が起こったとき、一般的に教師はいじめられた側に寄り添うことを基本とする。それは本人から訴えがあった場合でも目撃情報から事実が発覚した場合でも変わらない。そこで被害側から事情を聞き、どんな思いをしたかを聞き、教師はいじめられた子に共感する。その子の保護者にこれから加害側の指導をする旨を連絡して理解を求める。こうしていじめの指導が始まるはずだ。

最初に加害者とされる子ども(たち)を呼んで事情を聞く。まずはその子(たち)にいじめを認めさせようとする。とにかくこの子(たち)がいじめを認めないことには始まらない。逆に言えば、この子が認めればすんなり指導が進むが、認めなかった場合には指導に暗雲が立ちこめる。

いじめはあってはいけないし、絶対に認められない行為であると教師は考えている。最終的には加害側にもそういう指導をしようと思っている。子どもの側もそれがよくわかっているからこそ、なかなか認めない。「みんなでいじっていただけだ」「本人も楽しそうだったからあれはいじめではない」「そんなに嫌だったのなら言って欲しかった」といった、加害側の〈つもり〉を盾になかなか認めようとしない。なかでも教師を困惑させるのは、加害側の子が自分だって被害側の子にいじめられたことがある、これは仕返しだとフィフティフィフティを主張する場合である。仲の良い(少なくとも教師の側からはそう見える)小グループのなかでいじめられたと一人が訴えて場合に多い事例だ。

指導が長引くうちに、加害側の保護者からのクレームも来る。こうして多くのいじめ指導が、子どもだけでなく保護者をも巻き込んだ混沌に嵌まり込んでしまうわけだ。

しかし、実はこの展開は当然のことなのだ。①被害側に共感する、②加害側にいじめを認めさせる、③いじめは許されないと指導するという三段階で行われる指導のあり方は、実はこれがいじめ事案であるか否かの決定権を子どもの側が握っているからである。ここはまず、何を措いても〈起こった事実〉を把握しなければならない。それもできるだけ細かくである。いつ、どこで、だれが、だれに、何をしたのか、何を言ったのか、古馬の端々や声の大きさ、言葉とともに机や壁を叩いたとか椅子を蹴ったとか、そうしたことまで具体的に確認しなくてはならない。それも、被害者・加害者だけでなく、周りで見ていた子どもたちにもすべて確認しなければならない。更にはそれぞれの証言に矛盾があった場合には、一つ人つ確認し直して、嘘はもちろん、子どもたちの勘違いや忘れていたことまで明らかにしなければならない。そうしたやりとりのあと、目撃者も含めて関係の子ども全員が「うん。こういうことだった。」と言うような事実確認をしなくてはならないのだ。そして事実の全貌がわかった段階で、初めてそれがいじめ事案であるか否かを教師が判断する、という流れにもっていかなければならないのである。

ひと言でいうなら、〈事実確認〉においては、加害者側はもちろん、疎外者側の子にさえ、一切の「つもり」を訊いてはならない。何を考えたのか、どう思ったかは取り敢えず措いておいて、何が起こったかの全体像を具体的に明らかにすることが必要なのだ。教師はそれに専念しなければならないのだ。あくまで〈裁き〉はその後の話なのである。

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自分自身で選ぶことから始まる

三十代後半。実践研究もあれもこれも手を出していられる時期ではなくなってきます。自分に向いているのはこれだな…、向いていないのはこれだな…という自分の特性もわかってきます。そろそろ自分の生き方を整理しなおして、自分がこれからなにをしたいのかなんて考えるのもこの時期です。

管理職になろうとか、指導主事になりたいとか、そういう地域の既定路線に乗ろうとしている人は明確な目標があります。自分は一教師として学級経営に勤しむんだと決めている人、部活動の指導に熱心に取り組んで成果を上げることに悦びを感じている人、そういう人たちは迷いがなくて幸せだなとも思います。また、無理をせずに仕事をそこそこに、普通にこなしていき、趣味や家族との時間を大切にするという生き方を選んでいる人たちも幸せそうに見えます。自分にはなにもないなあ…、いったい自分はなにをしたいんだろう…、そんなふうに自分の人生を振り返りながら、これからのイメージが描けないことに不安感を抱くのもこの時期です。

しかし、管理職になるならないを決めるのはもう少し先で間に合います(地域によっては、特に郡部においてはそうでない地域もあります)。管理職として同僚の先生方を支える存在になるとともに地域の教育に貢献するのか、それとも一人の担任として子どもたちと接することに悦びを見出し続けるのか、それはもう少し経ってから自分で判断ですれば良いのです。あと数年の猶予があります。

指導主事は正直なところ、三十代後半の時点で一度もその手の話に触れたことがないなら、既にもう可能性はありません。部活動に悦びを見出すにももう遅いと言わざるを得ません。部活動も三十代後半から本格的に取り組んでものになるほど甘い世界ではありません。そもそも、地域の教育を担うにしても部活動の指導者としてやっていくにしても、そういう人たちは二十代の頃からそういうルートの仕事の仕方をしているのです。後発の参入者が入っていける世界ではありません。

組織を前提としてアイデンティティを見出そうとするには、三十代後半という年齢は既になにかを始めるのに遅い時期です。やはり、この年代から某かの生き甲斐をと考えるならば、それは組織を頼りにしない、他人を頼りにしない生き方を見出そうとする必要があるでしょう。もしあなたが独身ならば婚活をとも考えるかも知れませんが、それも他人をあてにする生き方であることにはかわりありません。そもそも婚活は時間・労力・お金をたくさん費やさなければならない割に、成功する可能性が非常に小さい投資活動です。婚活を「投資」ではなく「投機」だと言う人さえいるほどです(笑)。その意味では、趣味は割と確実かもしれませんが、夢中になれる趣味を見つけるのもこれまた難しい。

ただし、一つ考えなくてはならないことがあります。生き甲斐を見出すためにはとにかくなにかを始めなければならないということです。夢中になれる趣味はないかと探していたのでは、いつまでたってもそんな趣味は見つかりません。夢中になれる実践研究はないかと探していたのでは、いつまでたってもそんな研究は見つかりません。それは恋愛において夢中になれる人はいないかと探し続けるのに似ています。最初から夢中になれる恋愛などなく、人は時間を共有しある種の歴史を形成することで「夢中になっていく」のです。

いま取り組んでいること、いま学んでいることに対して、あなたは本当に本気で取り組んでいるのでしょうか。しがらみでやっていたり、特にすることもないからと時間つぶしに取り組んでいたりはしないでしょうか。或いはあまりにもいろいろな学びの場に手を出しすぎて、どれもこれも中途半端になってしまっている人もいるかもしれません。

それではこれからの二十数年を乗り切れないのです。充実させられないのです。これから仕事はどんどん〈自分のやりたいこと〉から〈自分がやらなければならないこと〉へと移行していきます。仕事の中心が〈自分のこと〉から〈他人のフォロー〉へと移行してもいきます。そんなとき、やらなければならないことや他人のフォローにある種のやり甲斐を感じるためには、それらの仕事や関わりを通して自分が成長しているという実感を抱けるか否かにあります。

そろそろ「こんな世界もあるのか、あんな世界もあるのか」と迷うのではなく、「私はこれ」或いは「私はこれとこれ」といった自分の仕事の軸となるものを定めなければならないのです。そういうものを定めて本気で取り組んでいけば、自分の日常が、自分の仕事に対する見え方が変わっていきます。その観点で自分の仕事のすべてを見つめ直すことが自分の毎日の仕事をフィールドワークにしていきます。次第にそれに夢中になれるようになります。やらなければならないことや他人のフォローにも自分の仕事に役立つ部分を発見できるようになります。だって、やらなければならない仕事というのは、学校にとって必要だからあるのですから。他人のフォローをするにしても、その先生が一人の人材としてちゃんと機能することは学校にとって大きなプラスになるはずです。その人が自分に新たな学びを提供してくれることだってあるはずです。

自分の人生はこれだという軸を手に入れる必要があります。そしてそれは、自分がいまもっているもののなかで幾つかを選択することから始まるのだと私は思います。そしてそれは〈自分自身で選ぶ〉ということからしか始まらないのです。

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まあ、ご愛敬

しかし、現実的に考えて、人のすべての行為に対して、心の在り方が間違っているから不適切な行動を取るのだという因果関係で捉えてしまうことは、少々短絡的過ぎるのではないかと思う。わかっているけどやってしまった、わかっているけどやめられないという例は、世の中にたくさんある。「心でっかち」の人たちにも覚えがあるはずだ。

今日は朝から通知表所見を書くはずだったのに、昼間はだらだらして過ごしてしまう。
始めたのは夜の十時過ぎで、結局仕上がったのは朝方だった。こんな話をよく聞く。これは心の在り方に欠陥があるのだろうか。

健康のために毎朝五時に起きてウォーキングをしようと決意したが、三日ともたなかった。一週間酒を断とうと決意したが、今日も呑んでしまった。今月から節約生活に入るはずだったのに、ついつい無駄遣い……。ダイエットしようと決意したのについつい……。研究授業に向けて夏休みはしっかりと教材研究に取り組むはずだったのに……でも、まだ時間があるからいいや。私たち教師だって、実はこんなふうに生きてはいないか。これらは心の在り方に欠陥があるのだろうか。だとしたら、すべての人間が心の欠陥だらけではないのか。そう、私たちは欠陥だらけなのだ。

自分の態度には「まあ、ご愛敬」と許しておいて、子どもには「どうしてそんなことするの!」では、ちょっと人としてどうなのかなあ……と思えてくる(笑)。いま例に挙げたのはすべて、他人に迷惑をかけないタイプのものだったが、今日が締切なのはわかっているのに行事反省を提出せずについつい帰ってしまったとか、考え方の異なる同僚の職員会議での発言についつい腹を立ててしまったとか、自分のことに忙しくてみんなでやるべき仕事で他の人もいるからとついつい手を抜いてしまったとか、そんなことは日常茶飯である。これは心の欠陥だろうか。

私は断言するが、これはご愛敬である。ご愛敬と言って悪ければ、人間たるもの、そういうこともある。こういうことをすべてなくそうと思ったら、人間ではなく機械になるしかない。人間のままこれらを完璧にしようとしたら間違いなく鬱になる。私にはそんなふうに思えてしまうのだが、どうだろう。

そして何より、例えば行事反省を出さずに帰宅した次の日、その反省を集約する担当の先生に、「昨日が締切だったはずです。まったくだらしないんだから。どういう気で提出せずに帰ったんですか。」と心の在り方を問題にされたら、一瞬でその担当者を大嫌いになってしまいまはしないか。それも、口では「すみません」と謝りながら……。しかも、仲のいい同僚の先生に、「まったくあの先生の言い方はないよな。別に忘れたくて忘れたわけじゃないし。」と、ついつい愚痴りたくならないだろうか。ほら、これは教師に逆らえずに自分だけが悪者にされ、保護者に訴え出る子どもと同じ気持ちではないか(笑)。

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二芸の世界観を自らに溶かす

あなたは担任をしていて、自分の特性に合う子どもと合わない子どもがいることに気づいていますか? 三十代になればきっと気づいているはずです。この子は自分が担任だから育っている。この子は自分よりも、ほんとうは別の担任の方が力を伸ばせる。自分が担任になってしまってちょっと申し訳ないな。そう感じたことのない教師はいません。

実は、どちらかというと〈大胆さ〉で勝負する教師は、大雑把にものを考える傾向が強いですから、何事にもしっかり取り組みたい、何事もちゃんとやりたいと感じている子どもたちの感覚と齟齬を来す場合が多いのです。特別支援教育の観点でいえば、自閉傾向の子を担当するのには向かない教師のタイプと言えます。

また、どちらかというと〈緻密さ〉で勝負する教師は、すべてがきちんとしていないと気が安らぎません。その結果、自分にも他人にもきちんとすることを求めます。そうした感覚は、細かいことを気にせずにのびのびと過ごすタイプの子どもの感覚と齟齬を来します。やはり特別支援教育の観点でいえば、多動傾向の子を担当するのには向かない教師のタイプと言えるでしょう。

しかし学級編制は、必ずしも担任教師のタイプ合う合わないを基準に行われるわけではありません。多少は加味され、配慮されることはあるにしても、それは学級編制全体の方針を覆すほどの観点ではありません。その結果として、心ならずも自分と合わないタイプの子どもたちに切ない思いを抱かせる、自分が一生懸命やればやるほどその子が離れて行ってしまう、そういう子が出てしまうのです。

このことは、実は教師が「素(す)の状態」「素の特性」をそのまま子どもたちに顕してしまってはまずい、ということを示しています。しかし、仮面をかぶって教師然とした態度で子どもたちに接するのもよくありません。それでは子どもたちが教師に人間味を感じることができず、どうしても人間関係が遠くなってしまいます。とすれば、教師が〈大胆さ〉も理解し、〈緻密さ〉も理解する、双方がなぜそうした心持ちになるのかということを体験的に理解している、そういう人になってしまうのが一番の近道なのです。

私が毛色の異なる〈二芸〉をもつことを意識しようというのも、実はこの意味においてなのです。確かに細かいことを気にせず、大雑把にものを考える人にはそういう人なりの良さがあります。細かいことを蔑ろにせず、さまざまに配慮しながら、何事も完成度を高めようとすることも良いことです。しかし、あなたのそうした特性によって、学級のなかに窮屈な思いをしている子どもがいるとなると話は別です。その子が窮屈な思いを抱かなくて済むように、教師が自分自身を変えていくことが必要になります。

しかし、変わろうと思って自分が簡単に変われるほど、人間というものはもてる資質を変えられるものではありません。変わるためには真剣にそうした感じ方、考え方をしながら、自分でも納得できるような経験を重ねてみなければ実感的にその必要性を理解することなど不可能なのです。そうした意味で、教師が自分の時間のほとんど費やす仕事上の問題において、自分の特性とは異なる仕事の在り方を希求してみるということは貴重な体験となります。間違いなく、仕事に対してだけでなく、子どもに対しても、保護者に対しても、教職という仕事の世界観に対しても、広いイメージをもって向かうことができるようになっていきます。

こう考えてきますと、職員室内で付き合う人にも同じことが言えると気づくはずです。職員室には、なんとなく気の合う同僚とそうでない同僚とがいるものです。大胆な発想でおもしろいものを希求するタイプの先生方はそういう人たちだけで集まることが多いですし、何事も計画的にきちんとやり遂げようとするタイプの先生方はそういう人たち同士で仲が良いという傾向があります。毛色の異なる〈二芸〉を意識的に身につけようとすれば、自分とは違うタイプの人間とも深くかかわっていくことを意味します。要するに、どちらのタイプの先生方とも人間関係を築きながら学ぶことができる、そういう状況に自分を置くことにつながっていくわけです。

職場の同僚というのは、学生時代の友達とは違います。趣味や趣向の合致する同じような傾向の人間とだけつるんでいては、自分が成長しないばかりか、仕事にも支障を来してしまいます。自分と同じようなタイプとしか付き合わない教師には、そのことが図らずも来しているネガティヴな側面が見えていないだけなのです。

三十代にもなると、自分を慕ってくれる二十代の後輩教師が職員室にいるはずです。その後輩も、もしかしたら自分と似たようなタイプなのではありませんか? そして、あまり話もしない、一緒に飲みに行くこともない別の後輩教師は、自分とは異なるタイプの教師だったりはしませんか? 三十代はどんな二十代をも可愛がってあげることが仕事の一つなのです。年齢も近いですし、彼らが悩んでいることのほとんどは、ついこの間自分が悩んでいたことと同じなのですから。あなたにも二十代の頃、そんな気の置けない先輩教師に励まされたり、議論したりして現在があるのではないでしょうか(笑)。

〈二芸〉を身につけ、その世界観を自らに溶かしていく。必要なのはそんな力量形成の在り方なのだと思います。

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心でっかち

喧嘩やいじめの指導において、皆さんは子どもに「なんで僕だけが悪者なの?」とか「僕だけが悪いんですか?」などと言われたことがないだろうか。そして、どうしてこの子はちゃんと自分の非を認めないのかとその子を責める気持ちを抱いたことはないだろうか。こうした経験が皆無という教師はおそらくいないだろう。しかし、そういう子が一人でも出たとしたら、やはりあなたの指導は適切ではなかったと言わなくてはならない。

理屈ばかりこねて行動力が伴わない人のことを、俗に「頭でっかち」と言う。これになぞらえて社会心理学者の山岸俊男は多くの日本人の性向を「心でっかち」と名付けた(『心でっかちな日本人 集団主義文化という幻想』日本経済新聞社・二○○二年二月)。人に迷惑をかけない、集団の利益を追求するのテーゼのもとに、こういう行動をするのは思いやりがないからだ、ああいう行動を取るのは心の在り方に欠陥があるからだというふうに結論づける発想の在り方、簡単に言うならこれが「心でっかち」である。

喧嘩なら両成敗にもっていこうという心性が働くけれど、いじめとなると最初から加害・被害をはっきりさせて指導に臨んでしまう。しかも、いじめ加害の子には人をいじめるなどというとんでもないことをしているのだから、心の在り方についてしっかりと指導しなければならない、「心でっかち」の教師はこうした発想で指導に臨む。教師のこうした心持ちが、指導する教師の態度や言葉の端々に無意識的に顕れてしまうため、当の指導された子は「自分だけが悪者にされている」「先生は僕だけが悪いと思っている」という印象を抱いてしまうわけだ。

しかも、「心でっかち」の教師はその子に対して、「なぜ、自分の非を認めないのか」「なぜ、言い訳して罪から逃れようとするのか」と更にその子の心の在り方を問題にする。納得できない子は更に感情的になって反抗したり、何を言っても無駄だと教師に理解してもらうことを諦めて無気力になったりして、指導が更に行き詰まる。

その結果、加害者とされる子が自分の気持ちを保護者に訴え、保護者クレームにつながることも少なくない。担任一人では対応仕切れなくなり、生徒指導の先生や管理職の先生も同席して、指導の在り方が不適切だったと謝罪の場を設けることになる。そんな例もよく見られる。

いずれにしても、いじめの指導はすっきり解決ということになかなかならない。被害者側も、加害者側も、そして教師も、ときには周りの子どもたちまで、なんとなくどんよりとした気持ちのままに「一応の解決」が図られる。ときにはそのどんよりが時間が解決するまで何ヶ月も続くということさえある。

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分かれ道

昨夜脱稿した原稿をすべて読み直して推敲。フォーマットも整える。予定していたよりも意外と手間取り、3時間くらいかかる。1時間半で仕上げて、次に進もうと張り切っていたのだが、出鼻をくじかれた。少し休むことにしよう。これまでの経験から、この「少し」が危険であることは重々承知しているのだか……。まあ、いいだろう。

そもそも、この土日はこの原稿を完成させることが目標だったのだから。考えてみれば、この土日は遊んでもいいという話でもある。

ほら…少し休もうと思うと、次々に悪い考えが浮かんで来るものだ。いけないいけない。仕事というものはノッてるときにやらないと絶対に溜まっていくものなのだ。きっとこれは人間界の普遍的な構造なのだと思う。敬愛する外山滋比古もそう言っていた(笑)。

でも、せっかくだから映画でも借りてきて観るかな…。コン詰めて無理して書いた原稿なんてろくなもんじゃねえ…。ほら…、やっぱり悪い考えが浮かんで来る。とにかく煙草買いに行こう。コンビニからまっすぐ帰ってくるか、TSUTAYAに向かって車を走らせてしまうか、10分五くらいのその判断が分かれ道だな、きっと……(笑)。

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諸事記録の原理

私はいわゆる「メモ魔」です。メモというと一般に、「To Doリスト」や備忘録、講演メモ、情報発信するための構成メモなどが思い浮かぶと思います。しかし、私の言う「メモ」は少し違います。日常生活のなかで「これは使える!」と思うようなことを必ずメモするのです。しかも子どもとのやりとりや同僚とのやりとり、授業中の出来事や職員会議の揉め事など、良いこと・悪いことにかかわらず、「あっ、この出来事には何か発見がありそう」とか「あっ、この出来事には複合的な要因がありそう」とかと直感的に感じた事柄ついて、細かく手帳にメモをとるのです。私は「日々のエピソード記録」と呼んでいますが、まあ、ほとんど日記であると思っていただければそれほど大きくはずれないと思います。

こういう習慣がついて、もう十八年になります。十八年分もたまりますと、もうその手帳は学校教育に関して考えるべきことの宝庫です。私が原稿執筆に使うエピソードはすべて、この手帳に記録されている過去のエピソードから見つけたものなのです。

例えば、生徒指導のとき、子どもを追い込む場面。お前は何月何日にこういうことをしてこんなふうに反省の弁を述べた、何月何日にはこういうことを「もう二度としない」と約束した、何月何日には……とすべて挙げることができます。また、それを紙に書いてその子に示しながら、「ほら、最初は毎週のように指導されていたのに、ここは1ヶ月間空いてるだろ?そして今回は二ヶ月半振りの指導だよ。股間会もまた失敗はしちゃったけど、先生はお前が頑張っていないとは思っていないよ」などと、事実に基づいた説得力ある指導もできるようになります。

また、授業中のエピソードは、子どもたちの実態の把握にはもちろん、日々の教材研究や日々の授業技術の開発にとても役立っています。授業中に子どもが自分が想定していない、考えたこともない意見を言い出したとき、或いはできる子がちょっとした勘違いで大きなミスを犯したとき、グループ討議で一つだけ他のグループとは違った見解を示したとき、こうしたすべての出来事は実は分析に値します。職員会議の激論は、職員室の人間関係や力学、いろいろなタイプの教師のこだわりポイントを分析するための最高のネタを提供してくれています。職員室のチームビルディングを考えるうえで大切な大切な出来事なのです。

しかし、こうした出来事は、放っておくと二、三日も経てばなかったも同じになります。忘却の彼方へと去って行きます。このエピソード記録こそが私の仕事を充実させているのです。

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〈織物モデル〉の縦糸と横糸

新しい学級を担任したとき、教師はまず何を措いても子どもたちとの間に縦糸を張らなくてならない。先生ときみたちは立場が違うんだよ、先生はきみたちを守る責任をもっているんだよ、きみたちは先生に指導される立場なんだよ、こうした縦関係をしっかりと構築しなければならない。これを怠り、教師と子どもとがフラットな関係を築くことこそが理想だなどと考える者は、少なくとも学校教育において、教師として子どもたちの前に立つ資格がないと言えるだろう。

ただし、現在、この縦糸を張るだけでは学級経営は成り立たない。生徒指導畑のベテラン教師や子どもたちになめられないようにと怒鳴るタイプの教師が、学級崩壊を起こしたり子どもたちに反発されたりする事例が多くなっていることが、その何よりの証拠である。現在、教師は縦糸を張ることと同じくらいの重きを置いて、子どもたちに横糸を張らせる手立てをとることが求められる時代になっている。子どもたちがわからなくなった、学級担任をもつ自信がなくなった、そう嘆くベテラン教師たちは、この発想がないからうまくいかないのだ。

教師は縦糸を張ると同時に、手を換え品を換えて横糸を張らせる手立てをとらなければならない。子どもたちに他人とつながる経験を与え、つながる喜びを意図的に体験させなければならない。学校行事はもちろん、教科の授業においても、道徳の授業においても、特別活動においても、総合的な学習の時間においても、この発想を片時も忘れてはならない。横糸を張らせる手立ては一度や二度施してもすぐに効果が顕れるものではない。繰り返し繰り返し行うことによって、その効果を発揮するタイプの指導である。しかし、三ヶ月、半年、一年と長いスパンで見たとき、その効果には計り知れないものがある。多くの教師はあまりにもせっかちであるために、そして時代が待つことを許さなくなってきているために、その効果を実感するまで続けられない現状があるだけだ。

横糸は次第に太くなっていく。「教師-子ども関係」以上に「子ども-子ども関係」が太くなっていくのはある意味必然である。横糸が太くなっていくことによって、少しずつ少しずつ、教師と子どもたちとの間に張られた縦糸を隠していく。しかし、大切なのは縦糸は横糸によって隠されただけ、見えなくなっただけで、決してなくなったわけではないということだ。

しかも、子どもたちそれぞれの横糸は教師には想像もできないような様々な彩りを示し始める。それらのコントラストが学級全体の彩りを形成していく。レッド、オレンジ、イエロー、グリーン、ブルー、インディゴ、バイオレット……彩りは美しい虹のように美しいコントラストを奏でる。そしてその彩りはあくまで、教師と子どもたちとの間に張られた強靱な縦糸によって一つに織りなされているのである。

以上が横藤雅人先生が提唱した〈織物モデル〉に対する私なりの解釈だが、ここでその概略をまとめてみよう。

(1)〈縦糸〉だけでも〈横糸〉だけでもいけない。

(2)ただし、〈縦糸〉があってこその〈横糸〉であって、〈縦糸〉がなければ〈横糸〉はほつれてしまう。

(3)とはいえ、〈縦糸〉はできるだけ見えない方が良い。織物を美しく見せるのはあくまで〈横糸〉のコントラストである。

(4)織物は、強靱な〈縦糸〉と美しく織りなす〈横糸〉とが互いに補完し合っている。

教師は学級の実態に違和感を抱いたとき、なんとなく落ち着かないなと感じたとき、「縦糸」の強化に向かいがちである。多くの教師が「最近のきみたちはおかしい」という説教に向かうわけだ。しかし、〈織物モデル〉を念頭に置くなら、「ああ、子どもたちの関係性を深める活動が必要なのかもしれない」という視点が浮かんでくるはずだ。先にも述べたように、〈織物モデル〉は教師にって、学級経営の指標となるだけでなく、学級を点検する観点としてこそ機能するのだ。

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〈織物モデル〉の横糸

〈織物モデル〉の横糸は「子ども-子ども関係」の比喩である。

「横糸」だから子どもと子どもをつなぐこと、子ども同士の間に対話を生み出すことを指す。もしかしたら、読者の皆さんは、そんな関係性なら放っておいても子どもたちが勝手につくるだろうと感じるかもしれない。教職経験が長ければ長いほど、そうした思いを抱く読者が増える傾向にあるとも想像する。しかし、そうではない。拙著『教室ファシリテーション10のアイテム・100のステップ』(学事出版・二○一二年三月)でも強調しだが、現在、子どもたちは教師が意図的につなげてあげなければ学級や学年がつながらない状況にある。まずはこの現状認識に立つ必要がある。

読者の皆さんは、最近の子どもたちがかつてと比べて小グループ化の傾向が強くなり、学級運営がしづらくなったと感じてはいないだろうか。もちろん、こうした指摘は昔からあったわけだが、二○○○年前後を境にかつてと比べてその傾向が著しく強くなってきている。しかもその進行が急激化している。そうした傾向が要因となって、文化祭や合唱コンクール、旅行的行事の体験学習などが成立しにくくなっている(詳細は拙著『必ず成功する「行事指導」魔法の30日間システム』明治図書・二○一二年七月)。私は子どもたちのこの傾向こそが九○年代から二○○○年代にかけての最も顕著な変化だと感じている。現在の子どもたちには、教師がただ放っておいたら、一年間、同じクラスなのに一度も会話をしないというような状況がごく普通に起こってしまう。しかも、他ならぬ子どもたち自身がそのことに違和感を抱いていないのだ。

皆さんは加藤智大という名前をご記憶だろうか。そう。あの秋葉原無差別殺傷事件を起こした若者である。彼は事件直前の携帯掲示板に「勝ち組はみんな死んでしまえ」と書き残して、交差点へとトラックを走らせた。時代は「格差社会」が話題の中心。この事件を契機に、マスコミも政治も、派遣社員の待遇を題材に若者たちの収入格差やキャリア格差を是正せよという論調一色になった。加藤は「格差社会」の象徴的人物として描かれた。

しかし、意外と知られていないというか、大きな話題にならなかったのだが、「勝ち組はみんな死んでしまえ」という加藤の言の直前には、次のように書かれていたのだ。

「一人で寝る寂しさはお前らにはわからないだろうな。ものすごい不安とか。彼女いる奴にも彼女いない時期があったはずなのに、みんな忘れちゃってる。勝ち組はみんな死んでしまえ。」 

少なくとも加藤智大の言う「勝ち組」とは、経済的に豊かな者を指すわけでも学歴の高い者を指すわけでもなかったのである。人間関係の充実している者、無償の愛を得られる者を指していたのだ。いわゆる「リア充実」である。つまり、ここで言われている「勝ち組」「負け組」とは、「コミュニケーション格差」「人間関係調整力の格差」だと捉えることができる。

もちろん、学校教育が加藤智大を生み出したなんて言うつもりはない。コミュニケーションの「負け組」がみな、加藤のような事件を起こすわけでもない。しかし、時代が、かつてと比べて円滑なコミュニケーションを図ることのできる若者たちを多く生み出しているのと同時に、その陰に隠れてかつて以上にコミュニケーション不全に陥る若者たちを輩出していることを考えるとき、この構造に無頓着に「コミュニケーション能力の向上」や「学力の向上」ばかりを主張し、ポジティヴな面ばかりに目を向けてきた学校教育の責任は決して小さくないのではないかと感じるのだ。子どもたちをつなげること、つながる体験を保障すること、つながり方を教えること、他人との対話の在り方を教えること、これらはある意味で学校教育が施すことのできるセーフティネットなのではないか、私はそう考えている。

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ノリノリ

今日は二日酔いのなか、まずは「児童心理」の原稿の校正。読み直してみると、我ながら、割とおもしろい原稿が書けているな…という印象。こういうことは珍しいので、ちょっと嬉しい。「児童心理」からの依頼されるテーマは僕自身にも勉強になる。テーマについてあれこれ考えているうちに新しい発想が生まれる。こういうとき、編集者というのはありがたい存在だなと実感させられる。

『THE 教師力ハンドブック 教師力入門』『よくわかる学校現場の教育原理~教職を生き抜く10のメソッド』が編集作業に入ったようで嬉しい。前者はさまざまな仲間たちがさまざまなテーマで書いている。西川純先生の立て続けの刊行は驚きである。後者はシリーズ化していく予定。今後数年かけて、僕の大きな仕事になっていく。

「日本教育新聞」に半年間、コラムを連載することになった。全12回。3月から始まるようだ。夏には二つの学会からオファーが来ている。これも珍しいことだ。仕事よ、来い来い。今年の僕は自分でも不思議なくらいにノリノリだ(笑)。いまはどんなテーマでなにを依頼されてもできそうな気がする。こういう感覚は人生初だ。

さて。いつまで続くのやら…(笑)。

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〈織物モデル〉の縦糸

〈織物モデル〉の縦糸は「教師-子ども関係」の比喩である。

「縦糸」という語が示すとおり、ごくごく簡単に言えば、教師と子どもたちとは立場か異なるのだ、決してフラットな関係ではないのだ、子どもたちは教師の指示をきかなければならないのだ、そんな両者の関係を指している。

こういう言い方をすると、教師と子どもは同じ一人の人間として、フラットな関係を構築するのが良いのではないか、そんな声が聞こえてきそうである。しかし、それはいけない。私たちは二○一一年春、いわゆる「三・一一」を体験した。かつての阪神・淡路大震災のときには、地震が早朝だったこともあって学校教育が全国的な話題にのぼることはほとんどなかった(もちろん、地元では大変でしたが……)が、東日本大震災はまさに学校で授業が行われている真っ最中の出来事だった。既に下校していて帰宅途中という小学校低学年の子どもたちがたくさんいる時間帯でもあった。私には気仙沼に親しい小学校教師の友人がいるだが、彼の話を聞くと子どもたちを導いての、それはもう壮絶な避難が行われたとのことで、聞いているだけで怖ろしくなったほどだ。

東日本大震災が私たち教師に与えた教訓は、私たちの仕事がいざというときには子どもたちを安全に避難誘導しなければならない立場にあるのだという、平時では忘れがちな、それでいて本質的な視座だったのではないだろうか。もっとわかりやすく言い換えるなら、私たちの仕事はいざというときには、警察官や自衛官のように命を賭けなければならない仕事だということではなかっただろうか。

もちろん、東日本大震災のようなことはそうそう起こることではない。しかし、年に数回行われる避難訓練を消化行事的に行っている、少なくとも東日本大震災のごときを想定した高い緊張感の中で行っているという学校はそうそうないのではないか。

教師も子どもも避難しなければならないと慌てている。死の恐怖がすぐ目の前にある。そんなとき、人は友達のようなフラットな関係の人の言うことがきけるのだろうか。低学年より中学年、中学年より高学年、高学年より中学生、中学生より高校生、学年が上がるに従って「自分で判断したい」と感じてしまう、それが現実なのではないだろうか。事実、被災地の大人たちが津波を見に行ったり家に私物を取りに行ったりしたことによって、多くの方々が命を落とすことになったのだ。

私は中学校の教師だが、「三・一一」以来、勤務校の若手にも研究会に参加する若手にも、教師と生徒との縦糸(縦関係を成立させること)の重要性を強く主張するようになった。東日本大震災には学校教育において、教師の有事における存在意義について改めて考えさせられる機会となった……そういう側面がある。学校教育では基本的に、「平時」に行われる案件ばかりが検討されがちである。教師は一般に〈平時のリーダー〉としてのイメージのもと、子どもたちの人間関係の調整や楽しい行事の運営、学力を向上させる授業の在り方などを中心に日常を過ごしている。しかし、教師は「有事」においてもそのリーダー性を発揮しなければならないのである。東日本大震災はもちろんだが、附属池田小学校や大津のいじめ事件など、危機管理の在り方が問われた様々な事件の教訓を忘れてはならないだろう。話が大袈裟だなどと思ってはいけない。教師は〈平時のリーダー性〉とともに、〈有事のリーダー性〉について常に意識しながら日常を過ごさなければならないのだ。これは重大なテーゼである。学級経営における縦糸(=教師-子ども関係)の在り方を軽視してはならないと思う。

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すらすら

昨日から世代別の力量形成に関する本を最初から書き換える作業を始めた。20代本は文体を少々変えて、具体例をたっぷり入れながら読みやすくすることを心掛けている。1章14頁ずつの10章だから、平日に1日1章ずつ書いて、休日に3章くらい書けば1週間程度ででき上がる計算になる。まあ、そう機械的に進むものでもないだろうから、これは皮算用にしても、それほど時間はかからない予感がある。いずれにしても、今月中に取り敢えず20代本は完成するだろう。それにしても原稿がすらすら進む。どうしちゃったんだろう、オレ……(笑)。こういう時期ってあるんだよな。人生に何回か。

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〈織物モデル〉の効用

読者のみなさんは〈織物モデル〉を御存知だろうか。私も懇意にさせていただいている北海道の横藤雅人先生が提唱された学級経営の理想像を提示したモデルである(『必ずクラスがまとまる教師の成功術~学級を安定させる縦糸・横糸の関係づくり』野中信行・横藤雅人著・学陽書房・二○一一年年三月)。おそらく横藤先生は河合隼雄の新聞連載「縦糸・横糸」(新潮文庫)から着想したのだろうと私は想像している。

〈織物モデル〉は学級経営の心構えをもつうえで、学級担任にとって指標となるような大変に有意義なモデルである。私の教師人生において、これほどまでに学級経営の本質をシンプルかつ的確にとらえたモデルに出逢ったことはない。その意義はおおまかに言えば二つある。一つは、学級担任が学級づくりをするうえで確かな方向性をもつことができること、いま一つは、学級担任が自分の学級づくりがうまくいっているかどうかの点検の観点となることだ。しかもこの二点において、〈織物モデル〉を指標とすればまず間違いない、それほどまでにこのモデルの完成度は高い、私はそう確信している。このモデルが長く教育界で議論されてきた二つの方向性、二つの主義主張をバランスよく配置しているからである。いわば〈織物モデル〉は戦後七十年の議論を踏まえ、それをシンプルかつ的確に構造化することに成功した、そう言えると思う。

織物は強靱な縦糸と美しく彩られた横糸とでできている。縦糸がなければ織物はほつれてしまう。しかし、横糸の彩りが様々なコントラストを構成することによってこそ織物の美しさは成り立つ。いわば織物は、縦糸と横糸とが相互補完することによって、織物の強さと美しさとが互いにマッチングして成り立っているわけだ。

〈織物モデル〉はこの縦糸と横糸を、それぞれ〈教師-子ども関係〉〈子ども-子ども関係〉に比喩的に置き換えることによって、学級経営の理想像を提示したものである。一部に縦糸・横糸ともに〈教師-子ども関係〉の比喩として捉える向きもあるが、そういう意味ではない。少なくとも私はそう捉えている。

つまり、〈織物モデル〉は、教師と生徒とがどのような関係を結ぶべきなのか、生徒同士にどのような関係を結ばせるべきなのか、更には二つを総合して〈教師-子ども関係〉と〈子ども-子ども関係〉とがどのような関係性をなすべきなのか、この三点を一つのモデルとして提示している。しかも、しつこいようだが、シンプルかつ的確にだ。私が驚嘆するとともに高く評価するというのもこの点においてなのである。

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情報化社会

現在はほんとうに情報化社会なんだろうか。先週の木曜日、湯川さんと後藤さんの話を職員室でしていてるうちに、若い教師たちがスンニ派とシーア派の違いを知らないのだということがわかって卒倒しそうになった。こんな基礎的な、というかテレビのニュースを見ていればわかるような一般常識を、というより今回の事件の起こる背景と切り離せないレベルの知識をもたずして語られる「テロはやっぱり許してはいけないですよね」は、いったいどんな意味で語られているのだろう。少なくとも僕には想像すらできない。例えば、彼らのなかで、それはアメリカの猟奇殺人に近い感覚で捉えられているのではないだろうか。アメリカの猟奇殺人と今回の殺害の違いを彼らは自分なりの言葉で説明できるのだろうか。「テロを許してはいけない」は「殺人を許してはいけない」と同様の意味で語られているのか。情報化社会とは無限のどうでもいい情報によって、世界を認識する最低限の知識さえ埋没させてしまう社会なのかもしれない。

いずれにしてもいわゆる「学力低下」とは異なった問題がこの国で起こっている気がする。学力低下よりは平和ぼけに近いイメージの深刻なものが。

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備忘徹底の原理

学年協議会(学年の学級代表委員会)で今月の目標が決まりました。学年協議会の代表も副代表もスムーズに議事を進行してくれました。あとは書記の子に学年協議会便りを書いてもらい、それを印刷して学年全体に配付することになります。書記の子に用紙を渡して「明日の朝までに書いてきてね」と伝えます。書記の子も元気に「はい、わかりました」と応えます。ひと安心とその日の委員会を終わります。

次の日の朝、いつものとおりに朝学活を終え、授業をしていて、あなたはふと気づきます。そういえば、学年協便りをあの子がもって来てない……。昼休みに書記の探してみますが、見当たりません。体調を崩して欠席でもしてるんだろうか……。ちょっと気になりながらも、そのまま午後の授業の入ります。ばたばたしているうちに放課後になってしまい、結局その日は書記の子に会えずじまいでした。

更に次の日、休み時間に書記の子を見かけます。「学年協便り、どうなってる?」と訊いてみると、「すみません、まだできてません……」とのこと。「じゃあ、放課後残ってやってね。先生はちょっと会議かあるからつけないけど、できたら職員室の先生の机の上に置いておいて」こう言って、あなたはその子と笑顔で約束します。

ところが放課後、打ち合わせを終えて職員室に戻ってくると、あるはずの学年協便りがありません。もう授業が終わって一時間も経っているというのに……。もうできていてもおかしくないのに……。教室に行ってみると、書記の子はお友達とおしゃべりに花を咲かせています。「学年協便りは?」と尋くと「まだできてない」とのこと。堪忍袋の緒が切れたあにたは、「残って書け!」とつきっきりで指導しながら、お便り一枚を完成させることになります。

さて、この事案、いったいどれだけの時間を無駄に過ごしたでしょうか。

私はこういうとき、書記の子の目の前で自分の手帳を開いてメモをします。明日の朝一番の仕事として、この書記の子に学年協便りについて打ち合わせることを意味するメモです。「(朝)学年協便り・Aさん」のような書き方です。「じゃあ、明日の朝ね」とひと言伝えて終わりです。

先の事案との違いがおわかりでしょうか。

まず、書記のAさんは、先生がメモまで取っているのですからこの仕事をなめなくなります。「ああ、いいかげんにはできないのだな」と感じてくれます。また、もしもAさんが次の日の朝に持ってこなかったとしても、朝一番の仕事として「To Doリスト」に書いてあるのですから、朝学活が終わった時点ですぐにAさんに会いに行くことになります。要するに、自分自身が忘れているということがなく、朝の段階で状況を把握してしまえるのです。その場で仕事の段取りをつけてしまうことができます。更に言えば、教師が日常的にこうした仕事振りをしていること自体が、子どもたちに「この先生との約束は破れない」という気にさせ、子どもたちが仕事をさぼったり忘れたりということ自体がなくなっていくのです。

別の例を考えてみましょう。ある子が「先生、相談があるのですが……」と言ってきたとします。どころがいまはどうしてもはずせない用事があって、その子に対応することができません。「ごめんね。いまちょっとはずせないんだ。明日の昼休みでもいいかな?必ず時間をつくるから」と言って、その場をしのぎます。さて、次の日の昼休み、もしもあなたがこの子との約束を忘れたらどうなるでしょうか。教師にとってたくさんの子どもたちのなか一人とした小さな約束ですが、その子にとっては先生と交わした大きな約束です。もしも教師がこの約束を忘れていたとしたら、教師は「嘘つき」になり、この子は大きなショックを受けるでしょう。実はこういうときにも、私はその子の前で手帳を開いて、「(昼)Bさん・相談室」と書き記します。

一般に「備忘録」というと、授業の週案や仕事の「To Doリスト」のことだと考えられています。もちろんそれらも大切ですが、実は授業や仕事を忘れるということはまずありません。教師が失念してしまうことで後に大事になったり、思わぬ時間を奪われることになるのは、こうした小さな約束や子どもに徹底したい指導、或いは保護者へのちょっとした連絡など、いわば「凡事」なのです。教師が信用を得るにも、教師が時間を奪われない仕事の仕方をするにも、実は根っこは同じ、「凡事徹底」です。小さな約束を蔑ろにしない日常を送ることで、実は子どもや保護者との信頼関係が少しずつ高まっていき、それに伴って仕事も充実してくるのです。

もちろん、「目の前で手帳にメモされるなんて……」と四月当初には抵抗を抱かれることもあります。しかし、それは最初だけのことです。しかも、「ごめんな、先生忘れっぽいから、こうしてメモ取っとかなきゃ忘れちゃうんだ」と笑顔で言えば良いだけのことです。

小さなことほど、「備忘の徹底」が仕事をスムーズに進行させるのです。人間関係さえスムーズに展開させるのです。この原理を侮ってはなりません。子どもや保護者に対する例ばかりを挙げましたが、実は私は同僚や管理職との打ち合わせでも同じ手法を使います。管理職が忙しさを理由に約束の時間を破った場合には、その後はこちらの都合に合わせることを要求することにしています。管理職にもなめられなくなくなることを保障します(笑)。まあ、私をなめてかかる管理職はもともとあまりいませんけれど……(笑)

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自分の仕事に「厳しい眼差し」をもつ

私は冒頭に「一芸」の例として、①学習発表会や文化祭のステージで子どもたちや同僚のだれもが感心するような大規模なエンターテインメントを実現する、②合唱の指導で同僚のだれもが「あの人の合唱指導には適わない」と思うような圧倒的な成果を上げる、③研究授業においては常に教材研究から学習者研究に至るまで細かく分析した100枚規模の指導案をつくる、④部活動の指導において県大会レベルの常連になるほどの成果を上げる、という四つの例を挙げました。ここまでを読んで、改めてこの四つの例を見てみると、どれもこれもがそう簡単に達成できないレベルの「芸」であることがおわかりかと思います。
 特に、部活動で県大会の常連になるほどの成果を20代で上げるなどということはほとんど神業に近いも言えるでしょう。そんなことは無理だ……と思われる向きもあるかもしれません。正直に言うなら、私もまず無理だと思います(笑)。もともと県大会の常連である部活をもつなら別ですが……。

しかし、私の言いたいのはこういうことです。

例えば、部活動を指導する場合、「とにかく頑張ろう」「自分たちなりに精一杯やろう」と取り組むのと、「数年後には県大会の常連になることを目指して頑張ろう」と取り組むのとでは、取り組み方に大きな違いが出るのです。前者は結果にかかわらず自己満足に陥りがちですが、後者は常に結果を意識しながら日々練習の仕方、子どもたちへの言葉がけ等を具体的に考え、それどころかどうしたら保護者の協力を最大限に得られるかということまで真剣に考えざるを得ない日々を送ることになるのです。

その他の例も同様です。ステージ発表や合唱指導は一般的に、結果がぼろぼろだったとしても「自分たちなりに頑張った」「自分たちにしかわからない成果があった」と独善的に評価することが可能です。研究授業もやったというだけで、やらない人よりはるかに多くのことを学べたと自己満足することができます。

しかし、「威厳」や「畏敬」の基盤になるような取り組みとしての仕事の在り方は、そのような自己満足の余地のある「甘えた仕事の仕方」ではいけないのです。常に数字や結果と意識的に闘いながら毎日を具体的に変化させていく、常に他人(子ども・保護者身・同僚)の目を意識しながら彼らの期待を凌駕していく、そういう仕事の仕方が必要なのです。

主観だけなら自分の仕事はどうとでも評価できます。

「自分なりに頑張った」

「子どもたちは精一杯やってくれた」

「子どもたちには何かが残った」

「この体験は子どもたちの人生に生きるはずだ」

どれもこれも美しい言葉です。しかし、何の根拠もありません。それを測る基準もありません。どうとでも解釈でき、どうとでも評価できる。バイアスの嵐なのです。だからこそ自己満足なのです。自分自身の自分自身に対する「甘え」がそう評価させているに過ぎないのです。

私が20代のうちに「一芸」を身につけなければならないという真の意味は、実は自分の仕事に対してこの手の「厳しい眼差し」をもつ姿勢を若いうちに身につけた者と身につけなかった者との間には、数年後、計り知れないほどの差異が生まれるということなのです。

さて、この姿勢をもつために必要なのは二つのことです。

第一に、自分の好きなこと、やりたいこと、得意なことを仕事に活かそうとする姿勢をもつことです。一見学校教育とは無関係と思われるような特技、学校教育には馴染まないと思われるような趣味でも構いません。実は学校教育という場は、人間世界にあるありとあらゆるものを取り込める懐の深さをもっている世界です。スポーツや芸術は言うに及ばず、物真似やマジックや落語といった芸事、オタク系の趣味、異業種に勤める学生時代の友人との人脈、親や友人とのトラブルの経験、もう何でも来いです。

必要なのは、そうした自分の趣味・特技を自分の教育活動に活かせる手立てはないかと、本気で考えてみることです。言うまでもなくスポーツは部活動の指導に直結します。芸術や芸事は行事に活かすことができるでしょう。オタク系の趣味が活かせる行事がないなら、そういう小さな行事をつくれば良いではありませんか。オタク系児童・生徒のスペシャリストになる、という教師の在り方だってあり得ます(これがもし体系づけられたら、教育界では全国を席巻する一大提案になるはずです・笑)。異業種の友人がたくさんいるなら、彼らに学校に来てもらってゲスト・ティーチャーを中心とした総合的な学習の大単元を構築することができるでしょう。親や友人とのトラブルの要因を分類して、親子関係や友人関係のトラブル要因を体系化することができたら、あなたは生徒指導の達人になれるはずです(これまた体系化することができたら、全国規模の提案になります・笑)。

要はこうした一見夢みたいな話を具体的な現実にしようと本気で考えてみることなのです。むしろ、ミスしないように、失敗しないようにと小さく縮こまる仕事の在り方こそが、若い教師にとっては一番の敵と言えます。

さて、「一芸を身につける」のに必要な第二は、耳の痛い指摘をしてくれる先輩教師の話に謙虚に耳を傾けるということです。人は耳の痛い指摘をする人を遠ざけがちです。しかし、自分の仕事に自ら「厳しい眼差し」を向ける人間になるためには、そもそも「厳しい眼差し」の観点をたくさん持つ必要があるのです。他人の指摘はその意味で、観点の宝庫です。

言っておきますが、その指摘する先輩教師がどういう人かは一切関係ありません。その教師が自分のことを棚に上げていても良いのです。毎年学級を崩壊させるような力量のない教師でまったく構わないのです。目的はあくまで、自分の仕事に対する厳しい見方の「観点」を学ぶことにあるのです。その指摘者がどういう人物であろうと、どのような力量であろうと、世の中には確かにそういう観点があるのです。その観点自体には、謙虚に学ぶ価値があります。

こうした姿勢は、目的は自己本位でありながら、周りからは謙虚な態度に見えますから、たとえ相手が腹黒かろうと変人であろうと力量不足であろうと、人間関係がうまく行くようになるから不思議です(笑)。

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国語科授業づくりセミナーin旭川/2015年2月7日(土)

桑原憂太郎氏の北海道新聞短歌大賞受賞記念研究会です。協同学習をテーマに取り上げます。旭川近郊の皆様、いかがですか。

【拡散希望/定員20/残席9】
国語科授業づくりセミナーin旭川/2015年2月7日(土)/旭川勤労者福祉会館/3000円/桑原憂太郎・堀裕嗣・山下幸・太田充紀・宇野弘恵・小林智
http://kokucheese.com/event/index/246039/

国語科授業づくりセミナーin旭川
桑原憂太郎道新短歌賞受賞記念
国語科協同学習を考える~短歌・俳句・詩の授業づくり~


歌集『Don't Look Back(ドント・ルック・バック)』(デザインエッグ社) が 第29回北海道新聞短歌賞に選ばれたのを記念して、元中学校・特別支援学校教師桑原憂太郎氏を招いて国語科協同学習のセミナーを旭川にて開催します。

午前は短歌・俳句・詩といった韻文の授業に絞って、地元の小・中学校教師が模擬授業を展開します。午後からは桑原氏の講座と対話インタビュー、堀裕嗣の講座をお送りします。

お忙しいこととは存じますが、国語科協同学習に興味のある先生や韻文の授業にお困りの先生、桑原憂太郎の歌集に興味のお持ちの方はぜひふるってご参加ください。


日  時:平成27年2月7日(土) 9:00~16:30
場  所:旭川勤労者福祉会館  研修室
参加費:3,000円(昼食弁当代込み)
内  容:
9:00-  9:10  受付
9:10-  9:15  開会
9:15-  9:45  模擬授業1  太田充紀(小学校)
9:45-10:15  模擬授業2   宇野弘恵(小学校)
10:15-10:45  模擬授業3  小林  智(中学校)
11:00-12:00  研究協議   進行:山下 幸
指定討論者:桑原憂太郎・堀 裕嗣
13:00-14:15  講座1     桑原憂太郎
「『Don't Look Back(ドント・ルック・バック)』ができるまで」
14:15-14:45  対話インタビュー  進行:宇野弘恵・小林 智/グラフィッカー:太田充紀
15:00-16:30  講座2     堀 裕嗣
「国語科協同学習の可能性」
16:30-16:35  閉会

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名古屋・不適切画像授業に思う

二月上旬。名古屋市内の小学校女性教諭がイスラム国に殺害された湯川さんと後藤さんの写真を授業中に児童に示したと言う。なかには遺体の写真があったとも言う。二十代の若い教師であるらしい。名古屋市教委は即座に謝罪会見を開き、指導が不適切だった、今後児童の心のケアに力を入れると弁明した。当の女性教諭も指導の在り方が不適切であったと認めていると言う。授業の目的はどこまでこうした画像を公開すべきか、報道の在り方について児童に議論させることだったとも言う。

なぜ、このような事案が起こってしまうのか。画像を見せることの適否を論じたいのではない。なぜ市教委が謝罪会見を開いて、弁明しなければならない事案がこんなにも多く生じてしまうのか、つまり学校や教委のチェック機能はなぜ働かないのか、という問題である。なぜこうした事案には自然のチェック機能が働かず、常に事後になって責任者が慌てふためくことになってしまうのか、と私は問うているわけだ。

これが児童生徒が自殺してしまったとか、いじめ事案があったとか、教師からは見えないところで起こることなら致し方ない部分もある。しかし、事は授業内容である。確かめてはいないが、名古屋市内の小学校というから、各学年単学級ということはあるまい。報道されているのはこの女性教諭のみ。とすれば、この授業はこの学級以外の同学年の授業では行われてはいないということだ。もし当該校の五年生のすべての学級で行われるとすれば、当然、事前検討が行われるはずである。仮に授業の進度上、この学級で先行して授業が行われたとしても、この女性教諭だけがやり玉に挙げられ、責任を問われるということにはならなかったはずではないのか。三人とか四人とか、その学年教師全員で一致してこの授業を行うことにしたという報道がなされて然るべきではないのか。

授業の目的から類推するに、この女性教諭は少なくとも社会科授業づくりの実践研究に熱心な教師だったはずだ。そうでなければ時事問題を取り扱って、これほどまでに過激にして本質的な授業を構想しないだろう。一般的に考えて、教科書をなめることに終始する授業づくりにそれほど熱心でない、それでいて普通の教師たちには起こり得ない問題と言える。おそらく研究熱心であるからこそ、そして社会に対する問題意識を大きく抱いているからこその授業であったに違いない。

しかし、私はやはり、だからと言ってこの教師の独断でこの授業が行われて良いとは思わない。同学年の教師全員に知らせてあるとか、管理職に報告されているとか、いずれにしても職員室内の事前チェック機能が施されていて然るべきだと思う。この件は、状況の論理によって偶発的に起こってしまう体罰事案とか管理責任事案とかとは趣を異にする。

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分を知る

若い教師がよく、中堅教師やベテラン教師の「在り方」系の指導を真似するのを見ることがあります。例えば、集会で話をするというときに前に立って子どもたちが静かになるまで待つというようなことですね。

しかし、ベテラン教師と異なり、ざわついた子どもたちはなかなか静まってくれません。業を煮やした若手教師はざわつきの中心になっている子を睨みつけたり指さしたりします。しかし、それは優れたベテラン教師の「在り方」とは似て非なるものです。優れたベテラン教師は笑顔で子どもたちの前に立ったとしても、子どもたちが自然に静まるのですから。若手教師のやり方はあくまで威圧であって、ベテラン教師のそれとはまったく質が異なるのです。

それどころか、威厳もなく畏敬を感じさせることもない力量の低い教師が、優れたベテラン教師の真似をすることはときに滑稽でさえあります。実は子どもたちにもその余裕のなさを見抜かれているということも少なくありません。長い目で見ると、そうした行いは子どもたちになめられていく大きな要因ともなっていきます。むしろさっさと話を始め、枕を工夫するなどして技術的に引きつけてしまうほうが得策だとさえいえます。私は同僚の若手にそうした行為が見られたとき、「お前がそんな手立てを取るのは10年早い」と言うことにしています。そんなもんは自然に身について行くものだ。むしろ話す内容や話す技術を磨け。笑顔でこうたしなめます。

先ほどから、私は教師が学年集会・全校集会で子どもたちの前に立つことばかりを例にしていますが、実はその教師が子どもたちに(意識的に無意識的に)どう評価されているのか、その教師の「在り方」が子どもたちにどう受け止められているのか、それが一番よくわかるのが集会で前に立ったときなのです。

全校児童・全校生徒の前に立つということは、日常的に深いかかわりをもっていない子どもたちにもこちらを向かせることを意味します。要するに、ラポートのない子どもたちにどれだけの影響力を与えられるか、それも一瞬で与えられるかということなのです。自分の学級にこちらを向かせるのとはわけが違います。その意味で、自分の学級にさえ静かに話を聞かせることができない教師というのは、ほんとうに力量がない、とことん力量が足りないのだと自覚すべきなのです。こうした「分を知ること」は、若い時期の教師の力量形成にとってとても大切なことです。そしてそれを測ることができるのが、学年集会・全校集会なのだと言っているわけです。

ここで言う「威厳」「畏敬」といった言葉を、子どもたちが怖がる、怖れるという意味で捉えてはいけません。実名を挙げるのは避けますが、小学校教師出身の自爆芸で知られる新潟県のあの大学准教授も、一見軽いノリに見えるカエルの被り物で知られる山口のあのミニネタ教師も、いつも優しい笑顔で語りかける横浜のあの団塊世代の超ベテラン教師も、キャラクターはそれぞれ軽かったりソフトだったりするのに、間違いなく「威厳」を纏い、聞く者に須く「畏敬」を抱かせます(実名を挙げているのと変わりませんでしたね・笑)。そして彼らの纏う「威厳」の在処が、そのだれもが真似できないような彼ら独自の「芸」にあることは、一度でも彼らの話を生で聴いたことのある者ならだれもが理解できるはずです。

私は先に、若いうちに「一芸を身につける」ことが、「威厳」を纏い「畏敬」を抱かせるような「立ち姿」や「所作」を身につける基盤となっていくと言いました。「芸は身を助く」とは言いますが、もちろん若いときに一芸を身につけたからといって一生涯の教師生活が安泰というわけにはいきません。一芸を身につければ二芸を、二芸を身につければ三芸をと貪欲に身につけていくことが必要なわけですが、少なくとも若いうちに私の言うレベルの一芸を身につけたならば、生涯の教師生活においていかなる学校に行ったとしても(たとえ地域の附属小中学校に赴任しようとも)、職員室で軽く見られることは決してなくなります。職場でそれなりのステイタスをもって仕事に取り組むことができるようになります。そしてそれは、実は教師にとって、仕事がしやすくなることを意味するのです。

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「在り方」を意識する

20代のうちに、できれば初任校に勤めている間に、是非ともやっておきたいこと、是非とも到達しておきたいことがあります。それは「一芸を身につける」ということです。

崩壊させることなく毎年の学級経営をそれなりにこなすとか、校内研究や地区の教育団体における授業研究に勤しむとか、部活動の始動に毎日一生懸命に取り組むとか、そうしたレベルのことを言っているのではありません。そういうのは多くの場合ただの自己満足に過ぎないものであって、「芸」とは言いません。

私の言う「一芸」とは、学習発表会や文化祭のステージで子どもたちや同僚のだれもが感心するような大規模なエンターテインメントを実現するとか、合唱の指導で同僚のだれもが「あの人の合唱指導には適わない」と思うような圧倒的な成果を上げるとか、研究授業においては常に教材研究から学習者研究に至るまで細かく分析した100枚規模の指導案をつくるとか、部活動の指導において県大会レベルの常連になるほどの成果を上げるとかいったレベルを指します。要するに、ちょっと得意……といった程度のものではなく、若手ながら「その学校で一番」とだれもが認めるようなレベルの成果を安定的に上げる、これを「芸」と言います。「だれもが認める」の「だれも」は同僚だけでなく、子どもたちも保護者も認める……という意味合いがあります。

みなさんの学校に、自分が指導したのでは子どもたちは言うことを聞かないのに、その先生が指導すると子どもたちがなぜか納得して自分の非を認めてしまう……、いったいどうやって指導しているんだろう……、その秘密を知りたいと指導場面に同席してみるのだがどうも特別なことをしているようには見えない……、自分との違いは何なのかとあなたを悩ませる……、そんな先生がいないでしょうか。

実はあなたの見立て通り、その先生は何か特別な指導をしているわけではありません。何か神業を身につけているわけでもありません。具体的な指導場面における言葉や行動はあなたとそれほど異なるわけではないのです。

しかし、そうした先生は、須く一芸を身につけています。子どもたちも、保護者も、そして同僚も、「○○ならあの先生だ」と認めるような一芸をもっているのです。そのだれもが認めるような一芸をもっているというオーラが、子どもたちに「この先生が言うのなら仕方ない」という思いを抱かせてしまうのです。

具体的な指導場面のディテールも去ることながら、その先生はあなたとは存在感そのものが違うのです。実はその先生の指導の秘密は「教え方」にあるのではなく、「在り方」にこそあるのです。私が「一芸を身につけよ」と言うのも、20代のうちにその「在り方」の基礎を自分自身につくろうということです。「一芸」は決してその「一芸」のために身につけるのではありません。教師が自らの「在り方」に威厳をもたらし、教師が自信をもって堂々とした「立ち姿」で子どもたちの前に立てるようにすること、そこにこそ「一芸を身につける」ことの効力があります。

あなたの学校に、学年集会や全校集会でその先生が前に立っただけで子どもたちが静かになってしまう……という先生はいないでしょうか。どんな学校にも一人か二人、そういう先生がいるはずです。その先生にそうしたことができるのは、怖い先生だからでも怒鳴る先生だからでもありません。その「立ち姿」に子どもたちがある種の威厳を感じ、その「所作」にある種の畏敬を感じるからこそ、子どもたちは思わず静かになってしまうのです。

そうした「立ち姿」や「所作」を身につける基盤となるのが、「一芸」なのだと私は言っているわけです。

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隙間利用の原理

朝学活に行ったら、子どもが一人いない。欠席連絡は入っていない、どうしたんだろう。昨日はあんなに元気だったのに……。さて、保護者に電話をかけなければならないわけですが、あなたはいつ、どこで電話をかけますか? 授業に必要なものを教材業者に発注するために電話をかけなければならない。あなたはいつ、どこで電話をかけますか? ちょっとした保護者への連絡、部活動に伴う他校の先生への連絡、研究活動に伴う他校の先生への連絡、行事にからむ旅行業者への連絡、数限りない電話連絡をあなたはいつ、どこでしているでしょうか。

私は教室近辺の廊下、或いは教室のある階の特別教室で行います。朝学活中にちょっと廊下に出て、携帯電話で欠席連絡のなかった保護者に連絡してしまう。ものの一分もかかりません。朝学活のうちに「○○くんは風邪で欠席だそうだ」と日直に伝えることができます。複雑な事情があるとわかれば、「すみません。朝学活中なので五分後にまたかけ直します」と言って、チャイムが鳴るとと同時に教室と同じ階にある「教育相談室」に行って再度電話をすることになります。勤務校は朝学活終了から一校時までに十分ありますから、かなり余裕をもって話をすることができます。これが一度職員室に戻って電話をかけていたのでは、一校時に間に合うには話す時間ガニ分程度しかなくなってしまいます(勤務校は校舎が広く、職員室から教室まで約三分かかる)。電話連絡が二本必要な場合には一校時に間に合わなくなってしまいます。

基本的に業者への連絡や他校の先生との連絡も、私は教育相談室で授業の間の十分休みで済ませてしまいます。こうすれば電話連絡に空き時間や放課後を浸食されません。先方が不在の場合には伝言で済ませてしまいます。こんな感じですから私はほとんど職員室にいません。ときにセミナー講師のオファーなどの電話が学校にかかってくることがありますが、私が勤務時間中に電話に出るということがまずありません。勤務校は校内放送を非常時のものとし、職員を呼び出す校内放送をかけることを禁止していますから、私の机上に電話引き継ぎのメモが置かれたとしても、私がそれを見るのは何時間も経った後です。私を講師として招いてくれる管理職が「取り敢えずご挨拶を」という感じで、電話をかけてくることがありますが、多くの場合、それも私は無視します。折り返し電話をするということはまずありません。そういう意味では、私は公務以外の仕事に関してはかなりビジネスライクです。私が放課後をつぶして電話を折り返すのは、保護者に対してだけというのが現実です。こんな時代ですから、公務外の仕事に関してはメールで済ましてくれよ……というのが本音です。

例えば、北海道の冬には、暖房がききすぎて教室が暑いということがあります。子どもたちも暖房を切って欲しいと言います。逆に、春先や秋などにまだ暖房が入っていなくて子どもたちが寒がる場合もあります。こんなときにも、私は携帯電話で学校に電話し、教頭に「○年○組の暖房を切ってもらえますか」「○年○組に暖房を入れてもらえますか」と電話します。

例えば、授業中にある子が具合が悪くなり、保健室に行きたいと言い出すことがあります。聞くと自分一人で行けそうなので、私がついていくまでもないようです。こんなときにも、私は携帯電話で学校に電話して保健室に取り次いでもらいます。そして「いま○年○組の○○さんが保健室に向かいました。大丈夫とは思いますが、よろしくお願いします」と連絡します。

電話連絡だけではありません。職員会議前に同僚の先生とちょっとした打ち合わせをしておきたい(いわゆる「根回し」ですね)、提案文書をつくったので事前に目を通してもらうべき人たちに文書を配布して回る、学年の生活指導の先生と今日の昼休みの生徒指導の分担について確認したい、ある子に昨日約束したこれこれについて確認したい、最近の学校生活に少し不安を感じる子がいるのでちょっとだけ二人で話をしたい、こんな小さな、それでいて重要なやりとりを、すべて授業の合間の十分休みにこなしてしまいます。実は、簡単なワークシート程度なら、パソコンを開いて十分休みに教室でつくってしまうことさえあります。

現在、中学校の日課はほとんどが六時間授業です。帰り学活が終わり清掃が終わると、放課後は四十五間しかありません。しかも、十分休みは朝学活後・帰り学活前を含めて日に六回もあるのです。なんと六十分です。これを有効に活用しない手はないではありませんか。

多くの教師は十分休みが足すと六十分になるということを意識していません。また、一本の電話、一つの打ち合わせがだいたい何分程度かかっているのかということにも無自覚です。私の経験でいうと、それが連絡であろうと根回しであろうと文書の説明であろうと、一つの連絡にかかる時間はだいたい三分以内です。放課後や空き時間など時間のあるときにやると、どうしても雑談が紛れ込んでしまい、必要以上に時間がかかっているだけなのです。

私は中学校教師ですから、一日に一~二時間程度の空き時間があります。毎日、放課後の時間が四十五分間あります。この時間にはパソコンを開いて必要な提案文書をつくったり、授業のワークシートをつくったり、保護者と電話で相談したりします。しかし、そうした仕事もいつもいつもあるわけではありませんから、大きな声では言えませんが、私は勤務時間を余しているというのが実態です。そしてそれは、一日六十分、週に五時間にもわたる「隙間時間」にちゃんと仕事をしているからなのだと自負しています。

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〈学校的リアリズム〉の体現

教師はなかなか伸びない子に「きみはやればできる」と言い続けなければならない。「だれしも無限の可能性をもっている。限界なんてない」と言い続けなければならない。「だれにも良いところはある。悪いところではなく良いところを見るように心掛ければ、嫌いな人、苦手な人でも好きになれる」と言い続けなければならない。「先生には嫌いな人なんていないな」という大嘘を吐き続けなければならない。「いま頑張れば、後に素晴らしい人生が待っているんだよ」という根拠のないポジティヴ思考を肯定しなければならない。〈学校的リアリズム〉を肯定するなら、教師は「嘘つき」でなくなるのだ。少なくとも、教師の嘘が「必要悪」にはなるはずだ。教師が良心の呵責を感じることなく「きれいごと」を言えるようになるはずだ。

確かに世の中は「ぎれいごと」だけでは生きていけない。それは大人になればイヤというほどにわかる。わかりたくないのにわからざるを得ない。いや、思春期から少しずつきれいごとの欺瞞が曝かれるのをだれもが少しずつ目にするようになる。私たちだってそうして大人になってきた。いま、私たちの目の前にいる子どもたちも、そんな欺瞞を少しずつ目にしながら毎日を過ごしているはずである。そんな子どもたちに、「世の中、悪いことばかりじゃないよ。」「頑張れば良いこともあるんだよ。」「努力は必ず報われるんだよ。」と語ってあげることが教師の仕事なのではないか。

自分が教師になってからを振り返ってみよう。逆境に身を置かざるを得なかったとき、そこで諦める人と諦めない人との違いは何だろうか。それは、そこで前を向けるか否かであるはずだ。逆境において前を向ける人は、どこか世の中を信じ、どこか周りの人たちを信じている人ではないか。そんな印象はないだろうか。

だれだって前を向きたい。でも、前を向くためには前を向くための基礎体力のようなものが必要である。その有無を決める大きな要素の一つに学校でどう過ごしたかがあるのではないか。前を向くための基礎体力を培う、そのためにこそ〈学校的リアリズム〉は必要なのである。教師は子どもたちのためにこそ、「大嘘つき」であることを怖れてはいけないのだ。

〈学校的リアリズム〉は、社会に出て〈学校的リアリズム〉に反する事象に出会ったときにこそ効力を発揮する。将来、子どもたちが社会の矛盾を目の当たりにして後ろ向きになりかけたとき、子どもたちの頭にふと自分の顔が浮かぶ。彼らのイメージに浮かんだ自分が「仕方ないよ。人生うまくいかないこともある」「仕方ないよ。すべての人と仲良くやっていくことはできない」などと語ることを私たちは望むだろうか。「もう少し頑張ろうよ。前向きにならないと人生は切り開けないんだぜ」「わかってもらえないのはつらい。でも、その人にも事情があるかもしれない。もう少し働きかけてみたら?」と語る自分でありたいとは思わないだろうか。

そのためにも、教師は〈学校的リアリズム〉を体現しなくてはならないのだ。それが仕事なのだ。たとえそれが、自分自身で「大嘘だなあ……」と感じられたとしても。

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1945/20

今日は「字のない葉書」という向田邦子のエッセイの単元テストだった。「終戦の年」という叙述が出てくるので、この子たちは「終戦の年」をどの程度日常としているのか、歴史の教科書で学ぶものとしてではなく、常識として覚えているのか、知っているのか、試してみようと思って、授業で一切扱っていないにもかかわらずこの年は何年か、西暦と日本の元号で両方答えて見ろと出題してみた。完全解答で2点である。驚いた。各学級で5人程度しか両問正解者がいないのだ。1945年は答えられても、昭和20年は答えられない。逆はいなかった。この結果を見て考えた。僕が初めて歴史を習ったのは小学校6年のとき。1978年だ。あの頃は祖母も両親も戦時中のことを語ってくれた。学校の先生も用務員さんも隣のおじさんも語ってくれた。テレビもラジオも小学生が読む雑誌も語ってくれた。いまはだれも中学生に語らないのだろうな。

しかし、である。ふと気がついた。終戦はいまから70年前のことである。とすると、僕が子どものころ、つまり1978年から考えれば日露戦争ということになる。そういやだれも日露戦争のことは語ってくれなかったな。祖母が語ってくれたのも一次大戦までだった。1945や昭和20が中学2年生の常識でないのは、ある意味、仕方ないのかもしれない。でも、明日、テスト返却して解答するときには、「こんなことも知らないでお前たちはほんとに日本人か!」と言いたいけどね(笑)。さて、どうやって覚えさせようかなあ……。

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嘘をつく職業

〈学校的リアリズム〉はある意味で「嘘」である。少なくとも〈学校的リアリズム〉だけを糧に社会生活を送ることはできない。その意味では、教師というのは「嘘をつく職業」だと言っても言い過ぎではない。もしも教師がほんとうのことだけを子どもたちに語るとしたら、学校教育は成り立たなくなってしまう。

いや、私は子どもたちに嘘などついていない。この社会を生き抜くためのほんとうのことを言っている。そう考えている読者がいたら、それは教職というものを知らなすぎる。或いは社会というものを知らなすぎる。

きみはいくらやっても伸びないよ。人間には持って生まれた限界がある。なんだかんだ言っても長いものに巻かれるのが楽さ。どうしても合わない人ってのはだれにでもいるもんだ。生理的に受けつけない、そんな人に先生も幾人か会ったことがあるよ。馬鹿だなあ、男子ってのはだれだって性的にはお腹がぺこぺこの狼なんだぜ。女の子ってのはいつだって愛情の乞食なんだ。大人になったって楽にはならないよ、子どもでいられるいまの方がほんとはずっと楽なのさ、いまにわかるよ。みんながみんな真っ当に生きられるわけじゃない、イレギュラーってのは必ずいるもんだ。問題はその集団においてイレギュラーの出現する確率であって……。

こんなことを子どもたちに語る教師はまずいない。でも、職員室では語る。或いは居酒屋でなら語る。教室で語れないし、語るべきでないから語らないだけだ。もしもこの手のことを居酒屋で語っているのに、教室でだけ語らないのだとしたら、教師は「嘘つき」と呼ばれても仕方ないのではないか。

でも、そんな「嘘つき」もほんとうはいい人になりたいと思っている。いい人として感動の渦のなかに身を置きたいと考えている。だから、卒業式になると、教師は「いい子どもたちだった」と子どもたちの在学中を振り返る。ほんとうはいいことばかりじゃなかったのに、腹を立てたり哀しんだり切なくなったりしたことがたくさんあったはずなのに、それらの記憶がすっぽりと取り払われてしまう。すべて浮かばなくなる。「いい子どもたちだった」という印象のみに包まれる。ほんとうは世の中はそんなに悪いもんじゃない。ほんとうは人はそれほど悪い人ばかりじゃない。ほんとうは人はいいところをいっぱいもっているんだ。そんな、普段なら「偽善」のそしりを受けても不思議でないフレーズが、このときばかりは「偽善」でなくなる。

この、日常なら「偽善」とさえ感じられるフレーズ達を「偽善」ではないと感じさせるもの、その教師の心持ちの在り方はいつ何時に形成されたのだろうか。私が言いたいのはそれこそが幼少期から青春期にかけての学校教育の賜なのではないかということだ。

日常的には「ほんとうは悪い」と感じているものさえ、「ほんとうはいいのだ」と信じたいと思わせるもの……。そういうものが世の中にはある。人は、少なくとも日本人は、それなくしては生きられない。そしてそういうものが確かにあると体感させること、教えるのではなく、理解させるのでもなく、頭にではなく心と躰に無意識に焼き付けること、それが学校教育の務めなのではないか、私はそう思うのだ。そして、それを〈学校的リアリズム〉と呼んでいるのである。

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執筆スタイル

土日の二日間でだらだら仕事をしながら、ときにはFBやPCゲームで遊びながら、結局100頁ちょっと書いたようだ。よくもプロットも立てず、何を書くかさえ決めていない状態からこれだけ書けるものだなと我ながら感心する。

僕はこういう「予定は未定執筆」が好きだ。プロットを立ててそれに従って書くと、どうしても執筆が肉体労働になってしまって楽しくない。予定通りに書くのはあくまで肉体労働に過ぎない。それに比べて「予定は未定執筆」は一つ一つ立ち止まり、一つ一つ検討し、一つ一つ自分のなかにある自分でも意識していなかったものを引っ張り出すことになる。つまり、自分と対話しながら書くわけだ。これが楽しい。書くことによって頭のなかが少しずつ少しずつ整理されてくる。そんななかからなにかを発見したとき、次の章の内容が決まる。そんな偶然性に任せた書き方でもある。これが性に合っている。

昔はプロットを立ててから書き始めていたが、結局プロット通りにはならない。これではいけないとプロット通りに書いてみると、でき上がったものがてんでおもしろくない。そんなこんなで20年…。結局、いまの執筆スタイルに落ち着いたわけだ。

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きれいごとであることの自覚

〈学校的リアリズム〉は社会からみれば、或いは世論からみれば、いわゆる「きれいごと」でできている。これは教師がいくらそうではないと言い張っても覆せない事実だ。教職に就くような人は子どもの頃から学校文化(部活動も含めて)に馴染んできた人たちであるから、市井の人々に比べて〈学校的リアリズム〉のきれいごとに抵抗感を抱かない傾向にある。みんなで一つのことに取り組むことによっていい思いをしてきた人、自分が周りの人たちに貢献することに感動を覚えてきた人、世の中に心の底から悪い人はいないと信じてこられた人、教師とはそういう人の集まりである。少なくともそういう傾向をもつ幸せな人たちの集まりであると言える。

しかし、社会の荒波に揉まれた普通の人々、世論を形成する市井の人々のなかにはそうでない人も多い。保護者クレームは学校をサービス業と見なし、多くの場合、学校や学級集団によって我が子が不利益を被ったという論理でなされる。教師からみればそれらが〈学校的リアリズム〉と齟齬を来すことも少なくない。しかし、教師が〈学校的リアリズム〉を盾に学校側の正しさだけを主張したとしたら、その齟齬は更に大きくならざるを得ない。保護者のクレームの多くはきれいごとをもとにしていないからだ。そうしたクレームを発する保護者の多くは、幼少の頃から〈学校的リアリズム〉に親和性をもつことなく生きてきたのだから。その意味で、こうした保護者に〈学校的リアリズム〉の論理で正面から対峙しても事は良い方向に行かない。まずは理解を示し、少しずつ時間をかけて〈学校的リアリズム〉の論理を小出しにしていくのがふさわしい在り方といえる。

やんちゃ系の子どもたちの指導にも同じことが言える。やんちゃ系の子どもたちは基本的に、〈学校的リアリズム〉に親和性のなかった親に育てられ、〈学校的リアリズム〉に親和性のない人間関係・家庭環境で生きている子が多い。教師は教室で注意を重ね、保護者に家庭での指導を依頼し……という対応をとりがちだが、教師の前提と子ども・保護者の前提が異なるのだということ、学校教育に向かう目的に関して共有化されていないのだということを教師の側がよく理解して対応する必要があるのだ。

教師が〈学校的リアリズム〉を盾に自分たちの主張が絶対善であるという姿勢で臨むことは、さまざまな場面で軋轢を生む。〈学校的リアリズム〉はいわゆる「きれいごと」であり、学校教育独自の感性なのだということを自覚したい。

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