〈WHY〉の問い
さて、私は冒頭に、教師が日常的に〈HOW〉の問い、つまり〈どのように〉という問いばかりに囚われていると指摘した。しかもその〈問いの構造〉を悪しきものだと断罪した。
さじ加減が自分の掌中にあるというのに、多くの教師は〈どのように〉という問いしか自らに向けない。これが教師にとっての大問題なのだ。私はそう捉えている。
いや、実はこの悪しき構造に陥っているのは、なにも教師ばかりじゃない。政治家は〈どのように〉ばかりを追いかけてビジョン(=なぜ、なにを)を語らないし、ドラマでは悩む主人公が「もうどうしていいかわからない!」と叫ぶ。一億総〈HOW〉病……。それが日本人の実態とも言える。
〈どのように〉をいくら問うても、現状は打開できない。〈どのように〉は〈なにを〉とセットで問われるべき疑問詞に過ぎないからだ。〈なにを〉が決まらないところに〈どのように〉はあり得ない。〈なにをどのように〉と問わなければ、具体策は永久に出てこない。だって〈やるべきこと〉が見えていないのに、〈方法〉なんて考えられるわけないじゃないか。
しかも、〈なにを〉を決めるためには、〈なぜ〉が明確でなければならない。〈なぜ〉のない〈なに〉のことを、一般に「思いつき」と言う。〈なに〉をすべきかを理由なく思いつきで決めていて、教育活動が機能するはずもない。〈なぜ〉と〈なに〉もまたセットで問われるべきものなのだ。こんな単純なことに、多くの教師が気づかない。あなたも胸に手を当てて考えてみよう。自分も〈HOW〉病に取り憑かれてはいまいかと……。
しかし、この病を治すことができないわけではない。ちょっと時間はかかるけれど、少し努力すればだれもが完治する。それは自分の思考法を〈HOW〉から〈WHY〉へと転換することである。「どのように」「どんなふうに」と考えがちなところを、「どうして」「なんで」と考え直してみるのである。そういう癖をつけるのである。
例えば、明日から新しい教材に入るとしよう。しかも教材研究をさぼっていて、授業計画が白紙だとしよう。あなたは困っている。ほんとうに困っている。でも、こんな状況は年に何十回とあるはずだ。ないとは言わせない(笑)。そんな計画的な教師は世の中にいない。そもそもそんなに計画的に生きていける人間などいるはずがない。だからそのこと自体を私は責めない。
でも、このときあなたが、もしも「この教材、どうやって授業しようか」と考えるならば、その態度を私は責める。そう考えてはいけないのだ。「この教材で何を指導しようか」と考えるべきなのだ。そしてできれば、「この教材はなぜ教科書に掲載されているのだろうか」と考えるべきなのだ。
「なぜ『ごんぎつね』が載っているのか」と考えれば、「ごんぎつね」特有の教材価値を考えることになるはずだ。それは音読とか心情の読み取りとか比喩とか指示語とかいう指導事項らしい指導事項を超えて、なにか自分なりの「ごんぎつね」観を形成するはずである。
「なぜ、通分が載っているのか」と考えれば、それは実生活上のどんな場面で使われているのか、通分ができないと社会生活を営むうえでどんな苦労が予想されるか、といった思考を形成するはずだ。「なぜ天気図が…」「なぜ信長が…」「なぜ色彩チャートが…」と考えれば、それらの指導事項が身についていることが、自分自身にとって社会生活を営むうえでどんなふうに役立っているのかという思考に向かうはずなのだ。
しかもそれは、とりもなおさず、教材を「自分のもの」にすることを意味する。「教科書に載ってるから教えなければならない」という発想でなく、「社会生活を営むうえで必要だから子どもたちにも絶対に身につけて欲しい」という願いとして、その教材が立ち現れてくるはずなのだ。「なぜ」と考えてみるだけで、こんなにも教材観が変容してしまうのである。
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