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教師の国語学力

宮澤賢治の「オツベルと象」(教育出版中一)は次のように書き出されている。

……ある牛飼いが物語る。

第一日曜

オツベルときたらたいしたもんだ。稲こき機械の六台もすえつけて、のんのんのんのんのんのんと、おおそろしない音をたててやっている。

十六人の百姓どもが、顔をまるっきり真っ赤にして足で踏んで機械を回し、小山のように積  まれた稲をかたっぱしからこいていく。わらはどんどん後ろの方へ投げられて、また新しい山になる。そこらは、もみやわらから立った細かなちりで、変にぼうっと黄色になり、まるで砂漠のけむりのようだ。

ディテールにこだわらない者は、「ああ、牛飼いが語ったのだな」「オツベルってたいしたもんなんだな」「稲こき機械が六台あるのだな」「十六人の百姓が働いているのだな」といった情報読解に終始して、この文章を読んだ気になる。事実、多くの国語教室がそうしたことを読み取って事足れりとしている実態がある。「ああ、牛飼いが語ったのだな」という認識以外は、すべて牛飼いの発話内容の現象だけに目が行ってしまうのだ。実は、これもまた有意味な自立語ばかりに目が行き、付属語による発話者の主体性・人間性というものに無頓着なままに読み取ることを意味している。  例えば、「オツベルときたらたいしたもんだ」と評価しているのは「牛飼い」であるということをちゃんと考えない。この一文に「オツベル」を評価しているのはあくまで「牛飼い」だけであって、「オツベル」が他の者の評価を受けていない可能性について読み落とす。「オツベルときたら」の「きたら」、「たいしたもんだ」の「もんだ」に「牛飼い」が皮肉でこの評価を表出している可能性が示唆されていることを読み落とす。

例えば、「稲こき機械の六台も」の「も」に、この文に稲こき機械六台あることが「多い」という認識が表出されていることを読み落とす。しかもそれを「多い」と感じているのが他ならぬ「牛飼い」であるという事実を読み落とす。「すえつけて」や「音をたててやっている」といった動詞から、「牛飼い」が「オツベル」に寄り添って視点を位置づけていることを読み落とす。「のんのんのんのんのんのん」という特殊なオノマトペに「おもしろいね」とは感じても、この特殊なオノマトペを用いているのが「牛飼い」であるということに気がつかない。「おおそろしない」などという特殊な形容詞を使っているのも他ならぬ「牛飼い」であるという認識に立てない。これにの叙述のディテールに「牛飼い」の主体性や人間性があふれるほどに表出されていることにまったく気づくことなく、ただ語られている現象のみを読み取って読解した気になっている。この一文で起こっていることは、「稲こき機械六台が大きな音を立てて動いている」ということだけであり、その他の大袈裟でありながら豊かな印象は、すべてが「牛飼い」による装飾であることということを意識できない。

次の段落も同様に様々なことが読み取れる。「百姓ども」と「百姓」を蔑視しているのも「牛飼い」である、「まるっきり」「かたっぱしから」という認識を百姓たちの労働にもっているのも「牛飼い」に他ならない、などなど、この文章の情報を様々に立体的に読み取ることができるはずなのだ。「ディテールにこだわれる」ということはこういうことだ。「ディテールにこだわって読み取れる」とはこういうことなのだ。国語学力が高いということはこういうことなのである。

もちろん、子どもたちが即座にこんな読み取りなどできるはずがない。こんなふうにディテールにこだわって読み取れるようにならなければならないのはまず教師である。前節で紹介した若者の学力低下を指摘し、時代の変容を嘆くのは易しい。しかし、その裏には、この若者に千数百時間にわたって国語の指導をした教師がいることを僕らは忘れてはいけない。この若者に対して、ディテールにこだわるという言語感覚、言語的情緒を体感させない膨大な国語の授業があったことから目をそらしてはいけない。若者の国語学力低下の裏に、教師の国語学力低下があるのではないかとの謙虚な視座をもたなくてはならない。自戒を込めて僕はそう感じている。そもそも、ら抜き言葉の反乱や鼻濁音の乱れ、尊敬と謙譲の使い分けができないなど、ディテールにこだわらない言表が職員室で散見されるではないか。職員会議では間違った表現、おかしな表現、気になる表現が目白押しである。それはコンビニの若者と多少次元は違えども五十歩百歩の範疇ではないのか。

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