潜在を顕在化する問い
「どうすればあの子は漢字が書けるようになるのか」と教師は問う。でも、どんな子にも効果覿面の漢字指導法など、世の中にあるのだろうか。Aくんが漢字を覚えられない理由とBさんが漢字を覚えられない理由は果たして同じなのだろうか。
「どんな授業をすれば子どもたちは真剣に授業に向き合ってくれるのか」と教師は問う。でもどんな子も真剣に向き合うような授業方法など世の中にあるのだろうか。そんな授業方法があるとしたら、それは教育ではなく洗脳なのではないか。
「どうしたらあの子が立ち歩かないようになるのか」と教師は問う。でも、その子の立ち歩きという行為は、あの子の立ち歩きという行為と同じなのだろうか。日本中の授業中に立ち歩く子どもたちは同じ理由で立ち歩いているのだろうか。だとすれば立ち歩きに対する一般的指導法というものもあるかもしれない。しかし、あの子と立ち歩きとこの子の立ち歩きは背景が違う。同じ理由でも立ちある子もいれば机に伏してしまう子もいる。そういうことが教室の現実にはたくさんあるのではないか。
もうおわかりだろう。これらの〈問い〉も〈なぜ〉と問うべきなのだ。なぜあの子は漢字が書けないのか、なぜあの子は真剣に授業に向き合わないのか、なぜあの子は立ち歩くのか、こう問うべきなのだ。〈HOW〉の問いを〈WHY〉の問いに変えるだけで、教師の視線はその子の〈背景〉へと向かっていく。その行動の背景をあれこれと想像してみる。予測しては何らかの方法を試してみる。ときには本人に尋ね、ときには保護者とも相談し、そういう具体的な動きが始められる。〈なぜ〉と問うことが、具体的な〈どのように〉を導き出す。思考の順番はこうあるべきなのではないだろうか。
背景が大切だ。その子個人の特性を知ることが大事なのだ。耳にたこができるほどそう聞かされるけれど、実際は「どうすればいいか」を考えてしまう。「どのように背景を知ればいいのだろう」などと、笑えない思考法さえ取ってしまう。そんな落とし穴に多くの教師が嵌まり込んでいる。しかし、〈なぜ〉と問いを変えるだけで教師の視座は、無理なく、自然に〈背景〉へと向かっていく。〈WHY〉という問いは、ことさら「子ども理解を」と意識せずとも、教師を「子ども理解」の日常的営みへと誘(いざな)ってくれるのである。
そろそろ、〈なぜ〉という問いの構造にお気づきだろうか。〈なにを〉〈どのように〉はどちらもモノや行為の在り方など、「見えるもの」を対象とした問いである。しかし、〈なぜ〉という問いは意識しないと見過ごしてしまうもの、考えてみないとやり過ごせるもの、心の奥に潜在していたり視野の外で死角となっていたりするもの、そうした「見えないもの」を対象とした問いなのである。潜在化しているものを顕在化させるための第一歩─それこそが〈なぜ〉という問いの偉大なる機能なのだ。
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