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学校独自のリアリティ

ここ数年、飛行機で移動することが多い。飛行機に乗っていていつも気になるのは、一部の外国人観光客のマナーの悪さである。

とにかく大きな声でおしゃべりする。まったく本が読めない。隣同士であんな近くに座っているのだがら、そんなに大きな声をあげる必要もあるまいと思うのだが、あれが彼らのおしゃべりの基本トーンなのだろう。あの破壊力に比べたら、大阪のおばちゃんなんておとなしいものである。あのトーンにはどうしてもなじめない。

飛行機が着陸しても、日本人は駐機場に移動し、シートベルトサインが消えるまでは立ち上がらない。立ち上がらないどころか、シートベルトをはずしさえしない。しかし、一部の外国人ときたら、着陸した時点でシートベルトをはずし立ち上がる。頭上の収納箱を開けて荷物を整理し始める。CAもまだシートベルトをしているものだから、彼らのもとに行って注意することもない。そもそも注意になど行ったら文句を言いそうな雰囲気さえ醸し出している。あの好戦的な雰囲気に比べたら、亀田三兄弟のほうがずっと愛敬があるというものだ。とにかく、あの雰囲気にはどうしてもなじめない。

神戸の震災においても東北の震災においても、日本人が行列をつくってマナーを守りながら配給を受けたことが話題になった。戦中・戦後の配給においても物資の取り合いになる風景は描かれていない。ラーメン屋の行列もディズニーランドの行列も日本人は規則正しく並ぶ。ルール違反は「闇市」「闇米」の言葉通り、陰にまわる。少なくとも表向き、われわれは火事場泥棒を行わないし、人を押しのけて自分だけがいい思いをしようとする態度を決してとらない。

日本人は相手が日本人である限りにおいて、「腹を割って話せばわかり合える」と思っている。そりの合わない人、ちょっと苦手な人、一度大喧嘩をしてしまった人、そんな人でも私たちはちゃんと話せばわかり合えるのではないかと思ってしまう。事実、話してみると決して悪い人ではなかった、わかり合えたということも少なくない。しかも、そういう気持ちになると信頼関係ができたと全幅の信頼を寄せてしまう。そんな姿勢を外交にまでもちこんで、日本の政治家はずいぶんと失敗してきた。

こうした特性を民族性とか島国根性とか呼ぶ向きもあるが、私は学校教育の影響が決して小さくないと感じている。学校という場において、不特定多数の人間が教室にある意味押し込められ、互いが互いに大きな迷惑をかけないように自制して過ごす十二年間。実質的には偶然に集められた集団に過ぎない学級という組織で、みんなで一つのことに取り組むのが良いと信じさせられる十二年間。最低限のマナーを守ること、人を信頼することが絶対善とされる十二年間。あれこれと批判はあるものの、われわれの感性の基礎は学校で育まれている。

社会に出たら「どうしてもわかり合えない人」はいるし、「一方的に他人に迷惑をかける人」もいる。学校で常日頃から先生が言っていた「一人はみんなのために、みんなは一人のために」なんて大嘘だと気づく。社会に出ると、学校教育で培われたあの感性にリアリティはない。

しかし、それでもなお、私たちはどこか他人を信頼したい欲望をもっている。職員室が仲が悪くてトラブルばかり起こっているのに、いまこんな状況なのはさまざまな要因があってたまたまうまくいっていないのであって、何かをきっかけにみんなが前向きになったら、きっと大きな仕事がなしとげられるとどこかで感じている。そしてそういう自分が愛おしく感じられる。心底悪い人はいないと思える自分が。

この、現実社会で痛い目に遭ってもまだ他人を信じたいと思わせる感性の基盤となっているのは、やはり学校教育ではないかと思う。つまり、毎日のように先生が語り、学級のみんなで「なるほどそうだ」と感じたあの経験が、社会に出て「現実はそうではない」「現実は厳しい」と認識してなお、私たちに他人を信じたいと思わせ、みんなでなにかをやりたいと思わせるのだ。それは社会では通用しない、社会ではリアリティをもたない、学校だけにしか通じない幻想かもしれない。しかし、その幻想がなくては私たちは生きる価値を見出せない。他人と一緒になにかに取り組む価値を見出せない。そのくらいにこの感性は私たちの生涯を縛って放さない。

この学校教育独自の感性を、私は〈学校的リアリズム〉と呼んでいる。

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