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できるだけ多くの学年を経験する

できるだけ早く自分なりの「全体像」をもつに、20代のうちにすべての学年を一度は経験する。これが理想です。

とは言っても、中学校教師には簡単なことなのですが、小学校教師にはかなり難しいことです。中学校なら20代のうちに卒業生を二度は出す、小学校なら低・中・高学年をできるだけバランスよくもたせてもらう。現実的にはそういうことになるでしょうか。それでも学校事情でなかなかそうはいかない……というのが現実かもしれません。

問題なのは、小学校で高学年を専門のようにもつ教師が低学年を専門のようにもっている先生を楽をしていると感じていたり、中学校で2・3年生ばかり担任している教師が1年生の指導の大切さをよく理解していなかったりということが、学校現場で多く見られる点にあります。小学校であろうと中学校であろうと、入学当初の指導の大切さをよく理解しないままに仕事をしているのでは、「全体像」の把握からはほど遠いと言わなくてはなりません。

小学校であっても中学校であっても、既に学校の体制に慣れている子どもたちには、教師による多少の違いになら合わせられるという「対応力」があるものです。1年生にはそれがありません。子どもだけでなく、保護者にもありません。小1ギャップ、中1ギャップは言うに及ばず、保護者からのクレームが最も多いのも他ならぬ1年生なのです。

かつて1年生の指導は「入門期の指導」と呼ばれ、特別な実践理論がたくさん提案されていました。最近は発達障害を主とした特別支援教育、やんちゃ対応、高学年女子の指導など、青年前期の子どもたちを想定した提案ばかりがクローズアップされる傾向があるようです。しかし、高学年の指導はあくまで低学年からの経緯のうえに成り立つのであり、中学3年生の指導はあくまで中学1年生の指導の在り方と連続しているのです。この視点をもたずして「全体像」の把握はあり得ません。

早めにすべての学年を経験することの一番の意義は、「発達」と「成長」の違いを実感することができるようになることです。

小学校であろうと中学校であろうと、教師は常に著しい生長を遂げる子どもたちと接しています。担任をしているたった1年間でも、心も躰も頭のなかも、著しく変化します。「全体像」をもたない教師は、それらの変化をすべて自分の教育の成果だと勘違いします。しかし、その多くは教育の成果としての「成長」などではなく、放っておいても時期が来ればそのように変化していく「発達」なのだということが決して少なくないのです。

このことを理解していない教師は、変に自分自身を過信し、結果的に長い目で見ると自分の教師生活にマイナスになってしまうような教育観を抱いてしまうことが少なくありません。その教育観は30代になっても40代になっても自分の教育観を基礎づけ、なかなかそこから脱することができません。しかも、自分自身ではその教育観のマイナス面に気づくことができないわけですから、状況は深刻です。自分が自信をもてばもつほど、他人からの指摘に聞く耳をもたないなんてことにもなりがちです。自信をもって仕事をしている教師、さまざまな成果を上げて職員室でも頼りにされている教師に、こうした落とし穴に陥る人が少なくありません。教師としてのキャリアを順調にアップさせていくその裏で、意外にも子どもたちに切ない思いをさせている……そんな教師を私はたくさん見てきました。

何がその発達段階相応の「発達」であるのか、何がその教師独自の働きかけによる成果としての「成長」であるのか、それを見極められない教師には自分の仕事の評価などできないのです。できるだけ早い時期にすべての学年を経験することは、この視座をもつことにつながります。しかも実感的に捉えることに繋がります。

だれもが子どもたちにとって価値ある教師になろうと思って、日々の仕事に勤しみます。だれもが子どもたちにとってよかれと思って、日々の仕事に取り組みます。しかし、教師も人間。自分のやったことの成果を過大評価しがちです。発達段階にふさわしい教育方法があることを忘れてしまいます。「全体像」の把握はそれを避けるための視座をねたらすのです。

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