絶望的な顔
子どもはその瞬間を生きる。教師はその子の未来を想定する。だから子どもと教師の間に軋轢が起こることはむしろ必然である。このズレがまた別のズレを招き、双方のつもりとつもりがぶつかり、双方のこだわりの度合いでゆずり合ったり意固地になったりしながら溝が深刻化する。教室は集団で生活しているから、「先生がおかしい」という子が多数派になれば学級崩壊が起こる。集団の多数派は瞬く間に増えていくから、その動きを止めるのは難しい。学級という集団においては担任教師だけがフラットでない位置にいるわけで、教師は子どもたちにとって特別な人である。適切に自分たちを導く「先導者」となるか、自分たちに不条理を強いる「共通の敵」となるかに、実はそれほど大きな隔たりはない。紙一重だ。ちょっとしたすれ違いや、ただ一つボタンを掛け違えたことで、だれもが学級崩壊を経験することはあり得る。
若い教師は、ひとたび学級がうまくいかないとなると絶望的な顔をする。〈なぜ〉と分析することもなく、〈なに〉かに取り組むこともなく、「どうしよう、どうしよう」と〈どのように〉ばかり考え始める。「困っています」と先輩教師を頼る若者もまれである。自分の手持ちの武器や、思いつきのアイディアや、聞きかじりのスキルで対応しようとしてさらに溝を深める。それはまるで想定外の大災害にナイフ一本で対抗しようとするに等しい。でも、若い教師はそうと気づかない。
保護者のクレームを受けたときも同様である。だいたいの保護者クレームは管理職やベテラン教師が一緒に家庭訪問し、事情を説明して謝罪すれば解決するものだ。「私からよく指導しておきます。お腹立ちはごもっともですが、今回だけは私にあずけていただけませんか。」と言えば、ほぼ一○○人に九九人は矛をおさめる。そもそも振り上げた拳をいつまでも振り上げたままでいたい人などこの世にはいない。今回はやむにやまれずクレームの形をとったが、だれか適切な対応をして早くこの拳を下ろさせて欲しいというのが本音である。
誤解を怖れずに言えば、保護者クレームの一つくらいで絶望するほどに深刻になる必要はない。私の経験から言うなら、むしろ四件に三件くらいは、保護者クレームを契機にかえってその保護者との関係が深まるほどだ。経験を重ねると、保護者クレームはその保護者と深い話が出来る機会を得たことをも意味するようになる。歓迎するとまではいかないまでも、決して忌避するものではないと感じるようにもなる。若い教師にはそれがわからない。経験するということは実感するということであるから、その実感を経験しない者に理解できないのも無理はない。
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