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教師の業

わたしは「いない」より「いる」ほうがほんとうによかったのか──これは哲学者鷲田清一の問いである。数々の業績を挙げ、幾千・幾万の教え子をもち、哲学カフェで議論を重ね、著作で多くの読者を励まし、国内第一級の人文学者として名を馳せる鷲田にしてこの問いから放たれないと言う。自分がいることによって、厄介なめ、難儀なめにあった人はこの世に少なからずいるはずであると言う。自分がいなければもう少しましな人生を送れたのではないかと思う人さえいるのではないか。そうも言う。

鷲田清一にしてこうなのだから、われわれ凡人は日常的にこの問いに苛まれる。曲がりなりにも人の師として日常を送る教師であれば、「ああ、この子は私のせいでこんなことになってしまったのではないか」「この子の担任が私ではなく、隣の○○先生だったならばこの子はもっと成長できたのではないか」と思わない日はない。それでも自分にできることだけはしなくては……そう自分を戒めてわれわれの日常はある。

自分の存在を無条件に承認してくれるのは両親だけ……。しかも両親が亡くなれば無条件肯定者はこの世になくなり、家族のために、会社のためにと頑張らなければならないのが人の世の常である。無償の愛情をそそいでくれた両親さえ、その晩年には自分が毎日こんなに世話をしているのに、その自分をだれかと認識してくれないという哀しみを味わわされることもある。人生はほぼ四十歳を境に往路と復路に分かれると言うが、年齢を重ねるにつけ、経験を重ねるにつけ、人の復路は無常観に近づいていく。

人の仕事はその人の人生と不可分である。その仕事の在り方が人生の問題とかかわらない仕事などあり得ない。教師という仕事は好むと好まざるとにかかわらず、自分の人生だけでなく他人の人生にまで直接的に関わってしまう。子どもや保護者の人生にかかわってってしまったな、責任取れないことしてしまったな、そう思ったことのない教師はいないはずだ。もしもそう思わないとしたら、むしろその教師の教師としての資質が疑わしくなる。教職とはそういう切ない仕事である。

むしろこの国の思想に無常があるからこそ、私たちは自分だけの責任ではない、他のさまざまなことがかかわりあってその子の人生がある、その保護者の人生があると思うことができる。人は無常観に苛まれるのみでなく、無常観に救われる。ゆく河の流れが絶えずして、しかももとの水にあらぬからこそ、私の行いは相対化されるともにいえる。それでいて私という存在がかかわってしまったことは決して取り返せない絶対でもあるのだから、人は自分の他者への行いを省みざるを得ない。自分が「いない」より「いる」ほうがほんとうによかったのかという問いから放たれないのはそのせいである。

自分が少しでも多くの人たちに価値ある存在となるようにと願って人は生きる。自分が少しでも多くの子どもたちに価値ある存在であることを目指して教師は生きる。教師はこの業から放たれない。

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