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国語教師の必読書

①『国語科授業批判』宇佐美寛・明治図書・一九八六年

学生時代、宇佐美先生の本を読んで衝撃を受けた。むさぼるように次々と読んでいった。中でもこの『国語科授業批判』は僕の国語教師としての人生を規定したと言っても過言ではないかもしれない。これを論破できないようでは、国語教師として生きる資格がない。そんな切迫した感覚に陥った。正直、うろたえた。それはちょうど、高橋和巳や小松左京が桑原武夫の「なぜ文学は人生に必要か」という問いにうろたえたのに似ている。以来、僕は宇佐美先生が展開した論理をなんとか超えるものをつくりたいとの一心で国語の授業をつくり続けているように思う。時が経ち、時代は変わっているように見えるけれど、宇佐美先生のご指摘になった悪弊は、いまなお国語教育界に随所に見られる。自戒を込めて、この書をまず第一にお勧めしたい。

②『国語科教材分析の観点と方法』大内善一・明治図書・一九九○年

大内善一先生、四十代の作である。若い教師に、もっと言うなら実力のない教師に、「ああ、国語科の教材分析ってのはこんなふうに考えると良いのか……」と納得させる力をもつ、そんな書である。善一先生と親しくお付き合いさせていただくなかで、この書の執筆に四年の歳月をかけ、その間にどんな葛藤があったのかもお聞きするにつれ、僕のなかでこの書の価値は善一先生の論以上に高くなっているかもしれない。しかし、国語科教育に携わって三十年近く、教材分析の観点や方法について、いまだにこの書以上の説得力をもつものに出会っていない。その意味でも、この書の内容は決して古くはなってない。国語教育に携わるすべての現場教師がこの書を読めば、我が国の国語教育は革命的に向上するのに……。そう夢想したことが一度や二度ではない。

③『状況認識の文学教育』大河原忠蔵・有精堂選書・一九六八年

この場にこの書を挙げるのは少しマニアックかもしれない。大河原忠蔵は、一九五○年代から始まる益田勝実や荒木繁、太田正夫らによる日本文学教育協会の文学教育の系統にある実践者の一人である。日文協の文学教育はどれもが生徒たちの認識的な主体性を発揮させようとの意図を持っているが、なかでも大河原忠蔵の「状況認識の文学教育」におけるそれは他を圧倒している。生徒たちが本音として抱いている悪徳に目を向け、文学作品を触媒としながら生活綴り方の手法をも大胆に取り入れた、独自の文学教育論が展開されている。大河原は後に奈良教育大学に蜀を得るが、おそらく実践者時代には他の教師や管理職との軋轢が絶えなかったであろうことが想像される。大河原が取り上げる生徒たちの作文はそれほどに強烈である。

世の中が貧しく、立身出世や物欲が人々の共通の望みとして機能しているときは、生活綴り方のごとき「生活をそのまま見つめる」という視座が成立する。しかし、戦後の混乱期を経て、世の中が少しずつ豊かな方向へと進み始めたとき、生活綴り方に限界を感じた大河原忠蔵は生徒たちの荒れへと視線を向けた。そこには日本人的な本音と建て前の使い分けを越えて、本音の世界を、悪徳の世界を学校教育のなかにえぐり出し、顕在化させるという手法を採ったわけだ。僕はこの発想がいまなお、青年期の子どもたちには機能するのではないかと考えている。美しいものだけで形づくられる白々しい教育からの脱却を、僕はいまなお夢想している。

④『「山芋」の真実』太郎良信・教育資料出版会・一九九六年

この書をすべての教師が読むべきだとはまったく思わない。しかし、この書を読めば、僕の言う「言葉のディテールにこだわる」ということを徹底したとき、これだけのことを曝くことができるのだという実例として、実感的に理解できるはずだと思われるのだ。大関松三郎の詩集「山芋」は、言わずと知れた生活綴り方教育の一つの理想である。かつて教科書にも掲載されていた「虫けら」の作者、寒川道夫が指導したという小学校六年生の少年である。大関松三郎は小学生が戦時中に理想社会を夢見、これだけ生き生きと活写して見せたと絶賛された。臼井吉見が大関松三郎を評して「歴史的事件」とさえ言ったほどである。しかし、太郎良は寒川道夫の書いた文章をディテールに至るまで細かく分析し、大関松三郎の詩作との類似性を次々と明らかにしていく。その細かさたるや舌を巻かざるを得ない。そして遂に、太郎良は「山芋」が寒川道夫の改作の結果として成立したものであることを論証していく。もちろん、寒川も松三郎も鬼籍に入ったいま、その真偽が明らかになることはない。しかし、太郎良信が両者を愛するが故にディテールまで分析していることが、そうせざる終えない心持ちになっていることがよく伝わってくる書である。

⑤『14歳からの哲学 考えるための教科書』池田晶子・トランスビュー・二○○三年

言葉は世界を分類することを旨としている。だから言葉を学べば学ぶほど、世界は分けられていく。それが言葉の入り口の本質だ。しかし、分けて分けて分けてみると、どうしても分けられないことがあることに気づく。それでもそれを分けようと試みてみるうちに、分けられたと思っていたものまで分けられないことに気づくことになる。言葉の先生がほんとうに教えなければならないことは、きっとそういうことなのだと思う。

言葉は「論理」をつくる。でも、と同時に、論理の不毛性をも曝く。言葉の論理や因果は、「わかる。でも、わかるとしかいいようがない。」という論理なき論理に容易に敗北することがある。ほんとうは世界に境界線なんかないと。きっとこんなことは、昔の日本人ならことさら学がなくたって、みんな知っていたに違いない(たぶん)。八百屋だって、遊女だって、みんな知っていた。だから、お七は江戸に火を放ったのだし、お初は心中を選んだのだ(たぶん)。

池田晶子は生涯、「考える」ということを究極まで考えることを試みた人だ。この世界が彼女を失ったいま、彼女の著作において最も学校教育に活かせるだろう著作はこの書になった。この書を読まずして、その世界観の理解なくして、国語教師になってはいけないと思う。心の底から、僕はそう思っている。

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