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今日でも明日でもなく、明後日

若い人がなにかのトラブルで落ち込んでいるとき、私がよく呑みながら語って聞かせることがある。それは〈明後日(あさつて)の思想〉というもので、簡単に言えば未来志向の「ものの考え方」のことだ。だいたい学校の近くの居酒屋の個室で二人で向かい合いながら、私はこんなふうに話し始めることが多い。

「二十数年の人生でさ、一番つらかったなあっていう体験はなに?」

若者が挙げるのは家族の死だったり、失恋だったり、志望校に落ちたことだったりするわけだが、どんな「つらいこと」が発せられたとしても、私は次のように問い返す。

「そのつらかった経験と、いま、自分のなかでどんなふうに折り合いつけてる?」

彼らはいま、家族にしてもらった恩を他人に返そうとしていたり、あわい失恋の経験を既に笑い話にしていたり、志望校に落ちたことを踏み台にして頑張ろうとしていたりするわけだが、いずれにしても共通しているのはそうした経験をばねにしていまは前向きに生きているということだ。そこで私は問う。

「いま、トラブルで落ち込んでるよな。いまのこのトラブルと三年後(五年後ということも多い)の自分はどんなふうに折り合いつけてると思う?」

だいたい多くの若者はここで、「堀先生はそれが言いたくて今日誘ってくれたんですね。ありがとうございます」と納得する。目を輝かせて「もう一度頑張ってみます」「もう少し踏ん張ってみます」と言う人も少なくない。

人はつらいこと、哀しいこと、悔しいことを経験せずに生きることはできない。程度の差こそあれ、だれもがネガティヴな経験をしてそれを乗り越えてきた過去をもっている。なのにいま現在、心に痛みを感じると、人はいつも「いま」に縛り付けられてしまうものだ。自分の未来にとって、いまこの痛みを経験をすることがどんな意味をもつのか、未来の自分がこの経験をどんなふうに意義づけるのかなんて想像できなくなる。ただ、いま、この痛みにのたうちまわる。この痛みには耐えられないと感じてしまう。

でも、少しだけ遠くを見たら、いまの痛みにも別の面が隠れているかも知れないのだ。

「あの子どもたちとのすれ違いの経験は、いまも僕に大きな戒めとして機能している」

「あの保護者の執拗なクレームがあったからこそ、いま、私は驕らずに保護者と接することができる」

「あの失敗があったからこそ、いまの僕がある。あの経験は必要だったんだ」

三年後、五年後、教師を続ける自分は、こんなふうにいまの出来事を振り返っているかもしれない。「いまだけ」に縛られるとこんなことは考えられない。

今日だけでなく、明日みたいな近くだけでもなく、それでいて数ヶ月後なんていう予想もつかない遠い日でもない、そんな近くて遠い日の自分をちょっとだけ想定してみよう、それが〈明後日の思想〉である。「明後日」を考えると、いまの自分はいまより少しだけ頑張れるようになる。ちょっとだけ前向きになれる。そんなふうに考えられる「ものの考え方」である。

私もいまだに、年に何度も〈明後日の思想〉のお世話になっている。

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