世の中の国語学力
「事実と意見」の読み分けは、「中心と付加」の読み分けと並んで、説明的文章教材の重要な指導事項である。谷田貝光克「森林と健康」(教育出版・小五)の第二段落を例に考えてみよう。ただし、一文ずつ改行を加え、文番号をつけた。
① 森林の中は、しいんと静まり返り、都会のそうぞうしさがうそのようです。
② 耳をすますと、かすかな葉ずれの音がここちよくひびき、時おり、かん高く鳴く小鳥のさえずりが、静けさの中に余いんを残して消えていきます。
③ 森林の木立が強い風を防ぎ、外からのそう音を無数の木の葉が受け止めてやわらげるので、森林の中は静かなのです。
④ この静けさとおだやかな緑が、わたしたちに、安らぎと落ち着きをあたえてくれるのです。
これらの文を「事実の文」と「意見の文」に分けてみる。一般に②③が「事実の文」、④が「意見の文」ということには異論がないと思う。問題は①だ。果たして①は「事実の文」なのか、「意見の文」なのか。一見、前半が「事実」に見え、後半が「意見」に見えるからややこしい。しかし、是君判部分と後半部分とでは、どちらが筆者にとって重要な表明なのかということを考えれば、実はそれほど難しくない。この一文はあくまで「森林の中がしいんと静まり返っている」ということを言うための文である。後半は読者の共感を導き出そうとする情意表現に過ぎない。事実、この文を「森林の中は、都会のそうぞうしさがうそのようにしいんと静まり返っています」と書き換えても何の違和感もない。この戸惑いは「都会のそうぞうしさがうそのようです」という筆者の感受が後半に来てしまい、文構成が一般的に中心が結末に来るものだという思い込みもあるため、筆者の感受がこの文の「中心」であるかのように錯覚してしまうことから生じる。
さて、理屈をつければこういうことになるのだが、この文のなかに筆者の感受が入っていることは確かである。つまり、この①の文はこの段落では「事実の文」として位置づけられているけれど、この文が「純然たる事実の文」か問われれば決してそうではない。実は世の中に「純然たる事実の文」とか「純然たる意見の文」などというものはないのだ。ためしに②や③をもう一度読み返してみると良い。最初読んだときには「事実の文」だと疑わなかったもののなかに、どれだけ筆者の意見が紛れ込んでいるかに気づくはずだ。
また、④は一見、「純然たる意見の文」のも見えるけれど、これがもしも説明的文章の冒頭で、
⑤ 森林の静けさとおだやかな緑は、わたしたちに、安らぎと落ち着きをあたえてくれます。
⑥ では、なぜ、森林の静けさと緑にわたしたちは安らぎ、落ち着くのでしょうか。
と書かれていれば、⑤は④とほぼ同じ内容であるにもかかわらず、「事実の文」と捉えなくてはならなくなる。「事実と意見」の読み分け、「中心と付加」の読み分けといった重要な指導事項でさえ、実はこうした相対的なものなのである。
言葉のディテールにこだわれる者ほど国語学力が高い─僕は前にこう述べた。そしてそうした国語学力の低下が子どもたちや若者たちだけでなく、教師のなかにも起こっているのではないかと指摘した。おそらく、人々が言葉のディテールにこだわることなく、有意味な自立語のみに囚われるのも、付属語の機微に意識が向かなくなっているのも、この世の中が「大文字の意味」「大文字の情報」とでもいうべきものにかすめ取られ、人々を言葉の一回性や具体性、場の共有によってこそ生まれる親和性といったものに無頓着なままにいさせてしまうからなのだと僕は感じている。国語科の授業はこの現状に対抗すべき筆頭なのではないか。僕は最近、そんなふうに感じている。
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