〈HOW〉の問い
なにかトラブルが起こったとき、私たちはそれを解決しようとする。なにか喫緊の課題に焦ったとき、私たちはなんとかその状況を打開しようとする。そんなとき、私たち教師はいつもこう考える。
「この教材、どうやって授業しようか」
「どうすればあの子は漢字が書けるようになるのか」
「どんな授業をすれば子どもたちは真剣に授業に向き合ってくれるのか」
「どうしたらあの子が立ち歩かないようになるのか」
「あの子と人間関係を結ぶためのなにか良い方法はないか」
「子どもたちが夢中になって行事に取り組む、なにか手立てはないか」
いま、教師がトラブルや喫緊の課題に際して自らに問いかける〈問い〉を六つ例示した。どれもこれも、教師が日常的に発する問いだ。
しかし、このような〈問い〉に囚われているから、教師はトラブルを解決できないし、現状を打開できないのだと私は感じている。この六つの〈問い〉には悪しき〈構造〉がある。共通した悪しき〈問いの構造〉がある。
読者の皆さんはお気づきだろうか。
そう。これらの〈問い〉はすべて、〈HOW〉の問いなのだ。
もう一度、右の六つの〈問い〉を読み直して欲しい。「どうやって」「どうすれば」「どんな授業をすれば」「どうしたら」「なにか良い方法はないか」「なにか手立てはないか」。どれもこれも方法を問う〈HOW〉の問いであることに気づくはずである。
〈問い〉には原則として5W1Hの六種類がある。言うまでもないことだが、いつ、どこで、だれが、なぜ、なにを、どのように、の六つだ。
一般に学校で教育活動を行う場合、〈いつ〉〈どこで〉〈だれが〉は必然的に決まる。月曜日の一時間目に、教室で、教師が国語の授業をする、という具合に。或いは○月○日に、動物園で、子どもたちが自主研修を行う、という具合に。学校教育において〈いつ〉〈どこで〉〈だれが〉については担任の判断では変えようがないことが多い。この三つの問いの対象はむしろ、教育活動の条件であって、活動の意味・意義を規定し得ない。もちろん、日時や場所を変えたり、ゲストティーチャーを招くことによってより教育活動が充実したり教育活動に潤いが出たりということは考えられるが、それは今日や明日の教育活動について考えるときには問題化し得ない。そのレベルの変更を希望するなら、その変更が可能なのは数ヶ月前の職員会議であって、いまさら変える対象にはなり得ないのだ。そうした意味で、これらの問いは〈条件を規定する問い〉に過ぎない。
しかし、残りの三つは違う。〈なぜ〉〈なにを〉〈どのように〉は多くの場合、担当の教師に任される。全面的に任されないまでも、そのさじ加減はほぼ担当教師の手中にある。例えば「ごんぎつね」の授業をするとき、どのような学習活動を組むかとか、なにを中心的な指導事項として扱うかとか、なぜその指導事項を中心的に扱うのかとか、こういったことは担当教師によって異なるのが一般的だ。もちろん、説明責任や結果責任が叫ばれる昨今のことだから、できるだけ学年の先生方で統一しようとはするけれど、それでも学級集団の質の違いや教師の能力、キャラクターの違いが、どれだけ綿密に打ち合わせた授業をもまったく別ものにしてしまう。それが一般的であるはずだ。
学校行事への取り組みならばその差はもっと大きくなるはずだし、生徒指導や教育相談ならばその差はさらに大きくならざるを得ない。こうした差をもたらすものを、或いはこうした教育活動の成否の差をもたらすものを、私たちは日常的に「教師の力量の差」と呼んでいる。この事実こそ、具体的な活動のさじ加減が担当教師の手中にあるというなによりの証拠と言えまいか。
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