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2014年12月

得意分野で貢献する

人には得手不得手があります。周りに合わせながら一つ一つ確実に取り組んでいくことを得意とする人もいれば、自分に自信をもって新しいことに挑戦していくことを得意としている人もいます。子どもが好きで子どもを包み込むように慈しむことを得意とする人もいれば、子どもを突き放し子どもに葛藤させながら成長させていくことを得意としている人もいます。こうしたキャラクターの違いに、それぞれの教育観の違いも加わって、教師といえども千差万別というのが実態です。

当然のことながら、低学年を得意とする教師もいれば、高学年を得意とする教師もいる、授業研究を得意とする教師もいれば、特別活動を得意とする教師もいる、そういう違いが生まれてきます。こうした違いは経験年数が10年に近づいた頃、ただがむしゃらにやっていた時期を過ぎて、30代になるかならないかというあたりで顕在化してくるものです。自分の向き不向き、自分の得手不得手といったものに自覚的になってくるのもこの時期です。

そうした時期に、「自分はこれが苦手だからダメだなあ…」と自己評価する人と、「自分はこれが得意だからこれを活かそう」と自己評価する人との間には、教師として決定的な差が生まれます。いえ、教師としてだけではなく、社会人として、人として決定的な差が生まれると言っても過言ではないでしょう。いつだって、だれだって、後ろ向きの人よりも前向きな人を好むものです。上司は前向きな人に仕事を頼みます。同僚も前向きな人に相談をもちかけます。子どもたちだって後ろ向きの教師よりも前向きな教師が好きに決まっているではありませんか。

よけいな仕事を抱えたくないから、上司に仕事を頼まれるのも同僚の相談に乗るのもごめんだ……などと考えてはいけません。教師としての成長は自分がしたことのない仕事に挑戦したとき、自分が考えたこともないことを考えてみるときに、著しい成長を遂げるものです。上司に頼まれる仕事を断ったり同僚からの相談を面倒に思ったりする教師は、実は知らず知らずのうちに自らの成長の機会を失ってしまっているのです。もちろん、自分のキャパシティを大きく超える仕事や相談を引き受けて自分が危うくなってしまってはいけませんが、自分が自分の限界だと感じることのちょっと上の仕事をしてみる、という心構えが人を成長させるのです。

さて、人間が明るく、前向きに取り組めるのは、何と言っても自分が好きなこと、得意なことをやっているときです。しかもそれが、自分自身のためだけでなく、子どもにも同僚の先生方など周りの人たちにも貢献していると実感されるときです。人は社会的な生き物ですから、自己満足だけでなく、それが周りからも評価され感謝されたとき、最もモチベーションが高くなるのです。

①得意分野については多少のオーバーワークは厭わない、②得意分野については頼まれたら断らない、30代にはこの二つを肝に銘ずる必要があります。30代はそれなりに仕事も見えてくるとともに、さまざまな学校事情も見えてくる時期です。その意味で、校内人事でも「なんでオレが…」とか「あの人に頼めばいいのに…」とかと思うことも少なくないはずです。

でも、その仕事の依頼が自分のところに来るのにはそれなりの理由があることなのです。管理職だって他に頼むところがないからこそ、あなたに頼んでいるのです。それだけ評価され、期待されているということの裏返しでもあるのです。ましてその仕事が初めての仕事であったならば、それは自分にとっても大きな成長の機会です。数年後の自分はおそらく、「あのとき断らなくて良かったな…」と思うはずです。いえ、そうしなくてはならないのです。そういう心持ちの連続が教師を、人間を成長させるのですから。

得意分野で徹底的に職場に貢献する。この姿勢を堅持していれば、実は不得意分野においては周りが助けてくれるようになっていきます。不得意分野においてだれかに相談したいと思えば、親身になって相談に乗ってくれる人が現れます。不得意分野でつまずいていることがあれば、手を差し伸べてくれたり丁寧に教えてくれたりという人が現れるものです。得意分野で前向きに仕事をすることは、実は不得意分野の克服にも生きるのです。

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研究集団ことのは×北の教育文化フェスティバル2014冬in札幌

「研究集団ことのは」×「北の教育文化フェスティバル」
合同研究会2014冬in札幌/2014年12月6日(土)・7日(日)

http://kokucheese.com/event/index/210058/


【プログラム/1日目】

09:05~09:15 受付

09:15~10:15 オープニングセッション
一斉授業の技術/協同学習の技術
コーディネーター
山下幸(「研究集団ことのは」副代表)
指定討論者
堀裕嗣(「研究集団このとは」代表)
山田洋一(「北の教育文化フェスティバル」代表)
高橋裕章(「教師力BRUSH-UPセミナー」代表)
髙橋和寛(研究集団ことのは」)
FG(ファシリテーション・グラフィック)
藤原友和(研究集団ことのは)
米田真琴(研究集団ことのは)

10:25~12:30 模擬授業で学ぶ一斉授業の基礎的な授業技術BASIC
模擬授業者
松尾悠子(研究集団ことのは)
近藤麻里子(北の教育文化フェスティバル)
トータルコーディネート
高橋裕章
10:25~10:30 趣意説明/高橋裕章
10:30~11:00 模擬授業1 松尾悠子(中学校)
11:00~11:30 模擬授業2 近藤麻里子(小学校)
11:30~12:30 研究協議/コーディネーター:高橋裕章
指定討論者
堀裕嗣
山田洋一
米田真琴
宇野弘恵(北の教育文化フェスティバル)
FG
藤原友和
髙橋和寛

13:30~14:00 講座1
一斉授業の授業技術・力量形成の在り方
山田洋一
14:00~14:30 講座2
一斉授業の授業技術・力量形成の在り方
堀裕嗣

14:45~16:45 模擬授業対決!国語科協同学習BASIC
米田真琴 vs 宇野弘恵
トータルコーディネート:藤原友和
14:40~14:45 趣意説明 藤原友和
14:45~15:15 模擬授業1 宇野弘恵(小学校)
15:15~15:45 模擬授業2 米田真琴(中学校)
16:00~17:30 研究協議/コーディネーター:藤原友和
指定討論者
堀 裕嗣
山田洋一
高橋裕章
髙橋和寛

【プログラム/2日目】

09:00~09:10 受付
09:15~12:00 模擬授業対決!協同学習ADVANCE
堀裕嗣 vs 山田洋一
トータルコーディネート:山下幸
09:10~09:15 趣意説明 山下幸
09:15~09:45 模擬授業1 山田洋一(小学校)
09:45~10:15 模擬授業2 堀 裕嗣(中学校)
10:30~12:00 研究協議/コーディネーター:山下幸
指定討論者
宇野弘恵
米田真琴
高橋裕章
大野睦仁(「教師力BRUSH-UPセミナー」事務局長)
FG
藤原友和
髙橋和寛

13:00~13:45 講座3
協同学習の授業技術・力量形成の在り方
山田洋一
13:45~14:30 講座4
協同学習の授業技術・力量形成の在り方
堀 裕嗣

14:45~15:45 クロージングセッション
一斉授業/協同学習~技術を超えたチカラ
コーディネーター:宇野弘恵
指定討論者
堀裕嗣
山田洋一
高橋裕章
大野睦仁
FG
米田真琴
髙橋和寛

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できるだけ多くの学年を経験する

できるだけ早く自分なりの「全体像」をもつには、20代のうちにすべての学年を一度は経験する。これが理想です。

とは言っても、中学校教師には簡単なことなのですが、小学校教師にはかなり難しいことです。中学校なら20代のうちに卒業生を二度は出す、小学校なら低・中・高学年をできるだけバランスよくもたせてもらう。現実的にはそういうことになるでしょうか。それでも学校事情でなかなかそうはいかないこともある…というのが現実かもしれません。

問題なのは、小学校で高学年を専門のようにもつ教師が低学年を専門のようにもっている先生を楽をしていると感じていたり、中学校で2・3年生ばかり担任している教師が1年生の指導の大切さをよく理解していなかったりということが、学校現場で多々見られる点にあります。小学校であろうと中学校であろうと、入学当初の指導の大切さをよく理解しないままに仕事をしているのでは、「全体像」の把握からはほど遠いと言わなくてはなりません。  小学校であっても中学校であっても、既に学校の体制に慣れている子どもたちには、教師による多少の違いになら合わせられるという「対応力」があるものです。1年生にはそれがありません。子どもだけでなく、保護者にもありません。小1ギャップ、中1ギャップは言うに及ばず、保護者からのクレームが最も多いのも1年生なのです。

かつて1年生の指導は「入門期の指導」と呼ばれ、特別な実践理論がたくさん提案されていました。最近はやんちゃ対応や発達障害を主とした特別支援教育、高学年女子の指導など、青年前期の子どもたちを想定した提案ばかりがクローズアップされる傾向があります。しかし、高学年の指導はあくまで低学年からの経緯のうえに成り立つのであり、中学3年生の指導はあくまで中学1年生の指導の在り方と連続しているのです。この視点をもたずして「全体像」の把握はあり得ません。

早めにすべての学年を経験することの一番の意義は、「発達」と「成長」の違いを実感することができるようになることです。

小学校であろうと中学校であろうと、教師は常に著しい生長を遂げる子どもたちと接しています。担任をしているたった1年間でも、心も躰も頭のなかも著しく変化します。「全体像」をもたない教師は、それらの変化をすべて自分の教育の成果だと勘違いします。しかし、その多くは教育の成果としての「成長」などではなく、放っておいても時期が来ればそのように変化していく「発達」なのだということが少なくないのです。

このことを理解していない教師は、変に自分自身を過信し、結果的に長い目で見ると自分の教師生活にマイナスになってしまうような教育観を抱いてしまうことが少なくありません。その教育観は30代になっても40代になっても自分の教育観を基礎づけ、なかなかそこから脱することができません。しかも、自分自身ではその教育観のマイナスの側面に気づくことができないわけですから、状況は深刻です。自分が自信をもっていればいるほど、他人からの指摘にも聞く耳をもたないなんてことにもなりがちです。自信をもって仕事をしている教師、さまざまな成果を上げて職員室でも便りにされている教師に、こうした落とし穴に陥っている人が少なくありません。教師としてのキャリアを順調にアップさせていくその裏で、意外にも子どもたちに切ない思いをさせている……そんな教師を私はたくさん見てきました。

何がその発達段階相応の「発達」であるのか、何がその教師独自の働きかけによる成果としての「成長」であるのか、それを見極められないと教師が自分の仕事を評価することなどできないのです。できるだけ早い時期にすべての学年を経験することは、この視座をもつことにつながります。しかも実感的に捉えることに繋がるのです。

だれもが子どもたちにとって価値ある教師になろうと思って、日々教育に勤しみます。だれもが子どもたちにとってよかれと思って、日々教育の仕事に取り組みます。しかし、教師も人間。自分のやったことの成果を過大評価してしまいがちです。発達段階にふさわしい教育方法があることを忘れがちになります。「全体像」の把握はそれを避ける視座となるのです。

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上からも、下からも…

40代は、20代、30代と比べて自分の肩にのしかかる「責任」が違うのが特徴です。研究主任や教科主任、児童活動主任や生徒会指導主任といった、研究や子どもの活動を司る役職ではなく、学年主任や生徒指導主事、教務主任といった学年や学校を司る役職へと立場が移行していきます。子どもの活動や行事の取り組みについて最終決定をしたり、教育委員会に学校を代表して報告する文書をつくったり、他の教師にクレームが来れば一緒に家庭訪問をしたりと、自分の仕事だけでなく同僚の仕事にも責任をもちなくてはならなくなります。責任に押し潰されてしまう40代も決して少なくありません。

「責任」をもたねばならない立場になると、概して行政や管理職の指示の通りに動こうということになりがちです。力量がなかったり自信がなかったりといった人ほどその傾向に陥ります。上のお達しの通りに動いていれば、少なくとも自分の責任を深刻に問われるということを避けられるからです。自分の責任を回避することは楽でもあります。その結果、小さなことまで管理職に報告して指示を仰ぐという仕事の仕方になります。

しかし、自分のもとで働いている若手・中堅の立場から自分の仕事を見直してみることが必要です。どんな小さなことでも、「ちょっと待って。上に報告して指示を仰ぐから。」という人のもとで、「さあ、がんばろう」と思えるものでしょうか。自分が若かったときだって、そういう学年主任や教務主任を「頼りない」とか「保身だ」とか「指示待ち族だ」とかと感じた経験は少なからずあったのではないでしょうか。そして「主任クラスがこんな感じでは若手は育たない。」などと、同世代の同僚と呑みながら愚痴をこぼしていたのではなかったでしょうか。いつのまにか、自分が批判していたベテランと同じことをしている……そんな状態に陥ってはいないでしょうか。

もちろん、主任クラスは行政や管理職の考えていること、即ち「上からの要求」に応えることが何より大切です。何しろ学校経営に参画し、学校の基盤づくりの責任の一端を担っているわけですから、自分のわがままを通して学校の基盤を揺るがすわけにはいきません。しかし、自分が「上からの要求」を下に伝えるだけの伝書鳩になっていたり、自らの保身(自分が失敗しないこと)のために若手・中堅に無理な仕事の仕方を強制したり、若手・中堅のアイディアを取り上げなかったりしていたのでは、早晩、自分自身の仕事が立ち行かなくなっていきます。人間関係がギスギスし、同僚の信頼を失い、結果的に仕事がまわらなくなって管理職の信頼をも失ってしまう、ということになりかねません。「下からの要求」は「上からの要求」と同じくらい大切なものなのだと考えることが必要です。

私は主任クラスの仕事を、「上からの要求と下からの要求を調整すること」だと捉えています。若手・中堅の同僚たちが気持ちよく働ける環境を整えながらも、行政や管理職の求めていることを実現していく、そのためのアイディアを出し、実行していく、そういう仕事です。「責任」とはそもそもそういうことなのではないでしょうか。

「上からの要求」ばかり優先すると、自分のもとで働く同僚たちのやり甲斐を奪ってしまいます。それは職員室を沈滞させ、数ヶ月後の停滞を招きます。また、「下から要求」ばかりを優先して管理職の対峙すると、管理職が行政とあなたとの板挟みに遭い、管理職の先生方にあなたには想像できないような苦労をさせてしまうことになります。それは、場合によっては、学校が教育委員会からにらまれることを意味し、長い目で見ると、結局、学校のためにはなりません。

「上からの要求」を理解するとともに下にもそれをわかりやすく伝える。と同時に、「下からの要求」をよく理解したうえで、その現実を上に伝えるとともに対策を提案する。それが40代の仕事の在り方なのです。

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得意分野をもつ

30代は教師としてバリバリの年代です。学級担任として自分なりの手法が安定期を迎え、職員室でも大きな仕事を次々に任されるようになります。教科主任や研究主任、児童活動や生徒会活動の仕切りを任されることが増えて行きます。中学校なら、学年の生徒指導を任されたり、部活動で次々に成果を上げていく時期でもあります。さまざまなことに自信をもって取り組むことができる。それが30代です。

逆に、うまくいかないことがあると、これまでの自分を、これまでの教員人生を否定したくなるほどに落ち込んでしまう、そういう危険性があるのも30代です。なかには一度の失敗で「辞めてしまおうか…」なんて考えてしまうことも少なくありません。10年以上の経験年数を経て、年度末にこれがあと二十数年続くのか……、自分はそれに耐えられるだろうか……、なんて考えてしまうのもこの年代の特徴です。

30代には、自信をもって順調に仕事をしていく人と、自信を失ってちょっとだけ後ろ向きに仕事をするようになる人との分岐点があるようです。

前者の30代は自分の仕事を次々にこなしていきます。こなすというよりも、すべてにプラスαを求めて、次々に改善・改革していこうと職員室に提案していきます。まだ体力も充分にありますから、時間も労力も惜しまずにどんどん仕事に向かっていきます。依頼された仕事はすべて断りません。

しかし、こういうタイプの人は自分なりの正しさ、自分なりの正義で走りすぎ、周りに迷惑をかけていることに気がつかないことも少なくありません。自分より年上の40代、50代に迷惑をかけるならまだ良いのですが、自分よりも年下の20代の若者たちが、自分の存在によって間接的に苦しんでいるというようなことが多々あるのです。例えば、隣の学級に30代のバリバリがいることによって、そういうふうにできない20代教師が子どもや保護者から「うちの担任は頼りない」と思われてしまうような場合ですね。

30代はまだまだ若いつもりでいるものすが、自分の下に10年にわたる世代がいることを決して忘れてはなりません。こういう場合、30代はこの若手たちに自分の手法を教え、自分の教育観を語って聞かせることまでを自分の役割なのだと心得た方が良いでしょう。

また、こうしたバリバリ型30代は、自分が何でもできるような気になっているものです。すべて自分の考え方、自分のやり方が正しいように錯覚しがちです。しかし、世の中にそんなスーパーマンなど存在しません。自分は何を得意とし何を不得意としているのか、自分に見えていないことは何か、常にそう自分に問いかける、そんな謙虚さが必要です。こうした謙虚さをもつ者だけが「責任」と「フォロー」がのしかかる40代へとスムーズに移行していくことができるのです。得意分野についてはどんどん提案していく、不得意分野については謙虚に学ぶ姿勢を堅持する、それがよりよい30代の在り方と言えるでしょう。

自信を失いつつある後者の30代にも同じことが言えます。自信を失ってしまうのは、たった一度や二度の失敗を大きく捉えすぎてしまうからです。その一度や二度の失敗は多くの場合、自分の不得意分野での失敗です。その経験が自分の不得意分野に対する必要以上の劣等感を生じさせてしまい、前向きに仕事をすることに怖じ気を抱かせてしまうのです。

しかし、すべてができるスーパーマンなどこの世の中にはいないのです。ことさら自分の不得意分野を意識して自分はダメだと思うのではなく、自分の得意分野に前向きに取り組んでいくことによって職員室に貢献し子どもたちを育てていく、それでいいではありませんか。また、自分の失敗談を若者に語って聞かせること、その失敗をどう乗り越えたかを若者に語って聞かせること、それが若者たちにとって無益であるはずがありません。

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全体像の把握に近づく

何事も全体像を把握している人間のやることと、全体像を把握していない人間のやることとの間には大きな差があるものです。

一度も卒業生を出していない中学校教師は半人前と見なされますし、一度も1年生を担任したことのない小学校教師も半人前と見なされます。教務・研究系の仕事ばかりを好んで生徒指導が苦手という教師は職員室で相手にされませんし、生徒指導一筋と公言する教師の、教務の仕事の苦労を知らない教師の言うことは説得力をもちません。

その意味で、20代の教師がまず意識的に行うべきことは、若いうちにできるだけ多くの学年、できるだけ多くの校務分掌を経験することです。20代の一番の目標をひと言というなら、「できるだけ多くの経験をして全体像の把握に近づいていく」ということになるでしょう。

もちろん、「全体像」というものは、経験を重ねたからと言って把握できるものではありません。40代、50代になったからと言って全体像を把握できるというものではありませんし、すべての学年、すべての分掌を経験したからと言って全体像を把握できるとは限りません。おそらく多くの管理職だって、全体像を把握しているとは言い難いというのが正直なところでしょう。むしろ、ベテラン教師が100人いれば、100通りの「全体像」があるというのが現実かもしれません。

しかし、この世界では、「自分の全体像を知る者は他人の全体像を知る」ということが間違いなく言えます。自分なりの全体像さえもたない者は他人の全体像を理解することができません。職員会議での意見の違いや、生徒指導上の方針の違いがあって意見交換をするとき、ベテラン教師同士が大きな軋轢を生じさせることなく、互いを尊重し合いながら大きな方向性を出していけるのは、お互いの譲れるところ・譲れないところをお互いに把握し合うことができるからなのです。言い換えるなら、お互いがお互いの全体像を探り合って、お互いの譲れないところを尊重しながらも子どもたちの不利益にならない現実的な方向性を産み出せるからなのです。

昨今、職員室が組織で動くとか、職員室がチームで動くとかいうことが声高に叫ばれていますが、それは決して校長や学年主任のトップダウンで動くということではなく、各々の抱く全体像、即ち各々の「世界観」を摺り合わせて、みんなが気持ち良く仕事ができる、それでいて子どもたちの成長に効果をもつ、そうした教育活動を模索していくという共通感覚をもって仕事をすることを言っているのです。

また、「全体像」を知ることは、あり得べき失敗がどのような経緯によって起こり得るかについて予測できることをも意味します。若いときは、子どもたちのためにと、或いは自分のやりたいことを実現するためにと、それが与える悪影響を過小評価して走ってしまう、ということになりがちです。

みなさんは管理職やベテラン教師に、「それはダメだ」「こういう危険性がある」とストップをかけられて憤慨した経験がないでしょうか。そんなとき、管理職やベテラン教師が自らの保身のためにそんなことを言っていると感じるものです。もちろん、私もそういう要素が皆無とは言いません。しかし、管理職やベテラン教師のそうした物言いは、「全体像」を把握しているからこその物言いなのです。

仕事というものはすべてが繋がっています。Aくんにある指導をすればAくんの保護者はどう感じるか、Aくんと仲のいいBくんやBくんの保護者はどう感じるか、その指導が行われることによって学校の方針と矛盾を来さないか、その矛盾が隣の学級や他の学年に悪影響を及ぼさないか、管理職やベテラン教師はそうしたことを検討しているわけです。

20代はこうした判断力をもつための準備期間だと言えます。

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