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投資と投機

費用対効果から見て高等教育はいまや「投資」ではなく「投機」に近づいている、と山田昌弘が論じている。うまいことを言うものだと膝を打った。投資として機能しているローリスクな高等教育は医学部くらいで、その他は程度の差こそあれミドルリスク、ハイリスクに向かっている……というのである。法科大学院がその最たる例として取り上げられている。おそらく自己責任論是認の風潮が国の末端にまで浸透し、もはやリスクはすべてが個人で負うものという風潮に取り巻かれたということなのだろう。それに伴い、リスクを取らない、安定だけを目指した就職活動へと若者たちを駆り立て、若者たちが保守化しているとも言う。保守・革新の「保守」ではない。リスクを取らない、安定志向としての「保守」である。「保身」と言い換えても良いかもしれない。要するに、挑戦とか自己実現とかを目指すのではない、おもしろくない人間の代名詞としての「保守」だ。

下層に冷たい社会も着々と完成度を高めつつある感がある。学校も教委も文科省も、個人のクレームから方向を転換するということがなくなってきた。下層が困っているとか、下層が教育...行政に不満をもっているとか、そういうタイプのクレームには、「自己責任だ」という匂いを醸しながら、子どもや保護者の責任を暗に指摘する。そうした風潮は家庭裁判所も同じで、少年への厳罰化が進んでいる。鑑別所や少年院へのハードルがかつてと比べてずいぶんと低くなっている。既に定員を超えている少年院が少なくない。もう下層は社会に迷惑をかけるなということなのだろう。国家に金がなくなり、様々な意味でのアウトサイダーを養う余力を失うということはこういうことなのだ。教育行政はいまは特別支援教育を一生懸命に進めているように見えるけれど、本音には差別意識が見え隠れする。ゲートキーパー論も、ほんとうは個人のメンタルが弱いがために自殺した者によって、さまざまな教育システムや労働システムが非難されるのは迷惑だ……、だから自殺者を出さないようにしよう……、それが本音なのではないか。こういう印象を抱くのは僕が穿っているからだろうか。

こんな時代背景のなかで実施されるのが「道徳の教科化」である。現場から見れば、道徳の時間の援用が禁止され、通知表の所見が一つ増える……というような改革に過ぎない。おそらく、さまざまな行事や諸問題に援用することが禁止されることで、諸問題は放課後にまわされ、更に時間の無くなった教師たちは道徳の評価を適性に行おうとさえしない。50程度の文例を用意して、それを選択して道徳の評価とする、そんな学校が増えるに違いない。通知表が手書きから印刷型に移行しつつある昨今、こうしたシステムをつくるには好都合である。人間の評価なんてできない……という良心的な教師たちの罪悪感を軽減するにもこのシステムは好都合である。

何も変わらない。結局、弱者が、下層民が、「自己責任」の名の下に苦しむ風潮が更に進んでいくだけである。暴動が起こるか、ファシズムが徹底的に台頭して崩れるか、どちらかがない限り、民は救われない。そんな国になりつつある。

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