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北川冬彦


壁に沿うて黄葉が一つひらひらと落ちたが──見ると白い螺旋がずうとついてゐる。

仕度
花は散つた。
その姿はしよぼしよぼとし、
なんともあはれだ。
あはれなその姿の中で、
美しい實を結ぶ仕度をとゝのへてゐる。

ともに北川冬彦の詩である。ともに冬彦初期の作だ。僕はこの二編をよく教材化する。

「秋」は詩人とは何者なのかを僕に垣間見せてくれる。壁に沿って空気の抵抗を受けながらひらひらと舞うように落ちるわくらば。これを読者が映像化(心のテレビに映す)することは容易である。この情景を自らの生活体験に重ねて形象化(その場にいるような心持ちになる)することも感性の鋭い読者には容易だろう。しかし、その黄葉が落ちた跡に「白い螺旋」が「ずうつとついてゐる」情景を映像化・形象化することは決して容易ではない。ましてや、壁に沿ってひらひらと落ちる黄葉を見て、その跡に「白い螺旋」が「ずうつとついてゐる」情景を自らのなかから湧き上げることも、更には湧き上がったその情景から一編の一行詩を編むことも困難の極みと言って良い。北川冬彦は「見えないもの」を見、「見えないもの」を詠う。この「見えないもの」に気づく感性、そしてその「見えないもの」を言葉として詠うことによって読者を魅了し誘惑する才覚、この両者を併せ持つ者こそ「詩人」なのである。僕は既に三十年近くも、すっかり冬彦に魅了され誘惑されてしまっている。

「仕度」も同様である。花が散り、しょぼしょぼとしたその植物は、北川冬彦に「なんともあはれだ」という心情を抱かせる。しかし、「あはれなその姿の中」で調(ととの)えられる「美しい實を結ぶ仕度」とはいったい如何なるものであろうか。そんなものは見えるわけがない。しかし、冬彦には見えるのだ。その確かな「仕度」が。ここにも、詩人の「見えないもの」を見、「見えないもの」を詠う感性と才覚とが発揮される。

全編の叙述は説明的で、「その姿」「あはれ」と二度も同じ語を用いるなど、詩的言語としての完成度を疑う向きもあるかも知れない。しかしこれはむしろ、「その姿」と「その姿の中」を対比させ、「あはれ」と「美しい實を結ぶ仕度をとゝのへ」る形象との落差を顕在化させるための意図的な二重語用ではないのか。

そして何より、この詩の醍醐味は第一文である。僕は「花は散った」の「は」に感動する。「は」は取り立て提示の副助詞であるが、そこには「確かに花は散ったが、しかし……」という含意がある。読者の皆さんには「あの人、頭は良いんだけどねえ…」という言表を思い浮かべて欲しい。「あの人、頭が良い」ならば単なる主述の表出でしかないが、「あの人、頭はいい」と「は」を使うとき、そこには顔か性格かのどちらかが悪いという含意が表出されるはずである。「仕度」の「花は散つた」は、読者をこの詩に出逢わせる第一文においてしっかりと結末の布石を打っているのだ。つまりこの詩世界は話者が「美しい實を結ぶ仕度」に気づいていく過程を描いたのではない。最初から「美しい實を結ぶ仕度」に気づいている話者が、淡々とこの三文を叙述する形を採っているのである。この詩は間違いなく、一言一句蔑ろにされることなく検討されている。

ではなぜ、北川冬彦には「あはれなその姿の中」が見えたのだろうか。これを四季を巡る植物を見る経験から科学的に理屈づけたのだとする見解は甘い。そんな自然の摂理ならば、なにも詩にする必要はないのだ。この花を散らし、いままさにしょぼくれ、あはれな姿を晒し、しかしその中でなお自らの「美しい實を結ぶ仕度」を調える者こそ、実は作者北川冬彦その人だったのではないか。この詩は道端でふと目についた散り花に、自らの今現在の心象を重ねることによって成立した詩作なのではないか。とすれば、冬彦には初期作品において、既に自らの詩作が今後どのように展開されるか、確固とした自信をもっていたのだと読めるのである。

こう考えてくると、先の「秋」における「黄葉」も北川冬彦自身なのではないかと思えてくる。いま、冬彦は「壁に沿うてひらひらと落ち」るような状況にあるが、それは自らのなかではしっかりと「白い螺旋」として意識されている。この詩は前半と後半とが「─」を用いた間によって繋がれているが、この間は冬彦がその確かな過去の経緯の存在感に気づくまでの一瞬の間だったのではないか。僕にはそう思えてくるのである。

言葉のディテールにこだわれる者ほど国語学力が高い─僕は前章でこう述べた。ディテールにこだわるとは、「花は散つた」の「は」にこだわることであり、構成上の「──」に思いを馳せることなのである。

物語・小説の教材研究においてまず第一にしなければならないのは、「仕度」の「は」にこだわるように、「秋」の「──」に思いを馳せるように、ディテールまで読み込むことだと考えている。つまり、詩や短歌、俳句を読むときと同じように一言一句蔑ろにせずに読み込むことである。学習者なんか考えてはいけない。教材としてどう活かすかなんて考えてもいけない。あくまで一読者として作品と真正面から向き合うことだ。この段階をすっ飛ばした段階で、もはやそれは「教材研究」とは呼べない。僕はそう考えている。

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