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2014年10月

今月のお知らせ/2014年10月

201409304_2『国語科授業づくり入門』堀裕嗣著・明治図書・2014年10月

新刊がamazonで予約開始されました。12年振りの国語科授業の著作です。今回の本は珍しく、多くの方に読んでいただけたらいいなあ…という気持ちで、わかりやすく書きました。役立つようにも書いたつもりです。ご意見、ご感想など、お寄せいただければ幸いです。

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『反語的教師論』堀裕嗣著・黎明書房・2014年7月

教育エッセイ集です。少々難しい書き方をしていますが、僕なりに学校教育の現状について、教師の現状について思うところを述べています。お読みいただいた方からは「一気読み」することができたとご好評を得ています。僕としては自信作です。ご意見、ご感想など、お寄せいただければ幸いです。

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『堀裕嗣・渾身のツイート30~一流教師が読み解く教師力アップ!』堀裕嗣・多賀一郎・中村健一・長瀬拓也・黎明書房・2014年7月

僕のツイート30について、多賀一郎先生、中村健一先生、長瀬拓也先生のお三方に解説していただきました。五十代、四十代、三十代の一流教師がそれぞれに僕の学校教育に対する構えを批評してくれています。ご意見、ご感想など、お寄せいただければ幸いです。

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投資と投機

費用対効果から見て高等教育はいまや「投資」ではなく「投機」に近づいている、と山田昌弘が論じている。うまいことを言うものだと膝を打った。投資として機能しているローリスクな高等教育は医学部くらいで、その他は程度の差こそあれミドルリスク、ハイリスクに向かっている……というのである。法科大学院がその最たる例として取り上げられている。おそらく自己責任論是認の風潮が国の末端にまで浸透し、もはやリスクはすべてが個人で負うものという風潮に取り巻かれたということなのだろう。それに伴い、リスクを取らない、安定だけを目指した就職活動へと若者たちを駆り立て、若者たちが保守化しているとも言う。保守・革新の「保守」ではない。リスクを取らない、安定志向としての「保守」である。「保身」と言い換えても良いかもしれない。要するに、挑戦とか自己実現とかを目指すのではない、おもしろくない人間の代名詞としての「保守」だ。

下層に冷たい社会も着々と完成度を高めつつある感がある。学校も教委も文科省も、個人のクレームから方向を転換するということがなくなってきた。下層が困っているとか、下層が教育...行政に不満をもっているとか、そういうタイプのクレームには、「自己責任だ」という匂いを醸しながら、子どもや保護者の責任を暗に指摘する。そうした風潮は家庭裁判所も同じで、少年への厳罰化が進んでいる。鑑別所や少年院へのハードルがかつてと比べてずいぶんと低くなっている。既に定員を超えている少年院が少なくない。もう下層は社会に迷惑をかけるなということなのだろう。国家に金がなくなり、様々な意味でのアウトサイダーを養う余力を失うということはこういうことなのだ。教育行政はいまは特別支援教育を一生懸命に進めているように見えるけれど、本音には差別意識が見え隠れする。ゲートキーパー論も、ほんとうは個人のメンタルが弱いがために自殺した者によって、さまざまな教育システムや労働システムが非難されるのは迷惑だ……、だから自殺者を出さないようにしよう……、それが本音なのではないか。こういう印象を抱くのは僕が穿っているからだろうか。

こんな時代背景のなかで実施されるのが「道徳の教科化」である。現場から見れば、道徳の時間の援用が禁止され、通知表の所見が一つ増える……というような改革に過ぎない。おそらく、さまざまな行事や諸問題に援用することが禁止されることで、諸問題は放課後にまわされ、更に時間の無くなった教師たちは道徳の評価を適性に行おうとさえしない。50程度の文例を用意して、それを選択して道徳の評価とする、そんな学校が増えるに違いない。通知表が手書きから印刷型に移行しつつある昨今、こうしたシステムをつくるには好都合である。人間の評価なんてできない……という良心的な教師たちの罪悪感を軽減するにもこのシステムは好都合である。

何も変わらない。結局、弱者が、下層民が、「自己責任」の名の下に苦しむ風潮が更に進んでいくだけである。暴動が起こるか、ファシズムが徹底的に台頭して崩れるか、どちらかがない限り、民は救われない。そんな国になりつつある。

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6割主義の教師論

次に書くのは「6割主義の教師論」だなと思う。

10割の力を発揮して教師をやると、何か不測の事態があると余力がなくて糸が切れてしまう。10割の力を発揮して教師をやっていると、隣の教師が学級崩壊を起こしたとき、隣の教師が心の病で休職したとき、隣の教師が育児や介護で年休を取ったとき、その人達が邪魔者になってしまう。常に6割主義で仕事をしていると、いつなんどき何が起こっても、自分の余力で対応できる。みんなが6割主義なら、だれかに何かがあったとき、だれもがだれもに優しくなれる……。

問題はAさんの6割とBさんの6割は違うということ。30の力量をもつ人の6割は18だが、50の力量をもつ人の6割は30だ。だから常に6割主義で仕事をするという姿勢を維持しながら、力量20の人が25に、力量30の人が40に、力量50の人が75に……という意識で力量を高めて行く必要がある。そういう研修体制の確立とともに、6割主義で現場を動かす人事やシステムの構築が必要だ。

簡単に言えば、こんな論理だ。僕がずーっと言い続けている「必要なのは優しさと技術である」を現代的に体現する論理である。頑張りすぎてはいけない。自分のためばかりでなく、他人のためにも、学校現場のためにも。終わりなき日常教育を生き抜くためには、それしかない。この国の学校教育をドラスティックに変えようという妄想は抱かないほうがいいと思っている。どこかに歪みが生まれる。この国はそういう国だ。

頑張れ。努力しろ。ああやれ。こうやれ。そういう教育論はもういい。そういう「イケイケドンドン」の戦時の流れを汲んだ発想をやめよう。ゆったり、みんなで小さな幸せを享受しよう。みんなで「御陰様で…」と言い合おう。それが一番幸せだ。

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北川冬彦


壁に沿うて黄葉が一つひらひらと落ちたが──見ると白い螺旋がずうとついてゐる。

仕度
花は散つた。
その姿はしよぼしよぼとし、
なんともあはれだ。
あはれなその姿の中で、
美しい實を結ぶ仕度をとゝのへてゐる。

ともに北川冬彦の詩である。ともに冬彦初期の作だ。僕はこの二編をよく教材化する。

「秋」は詩人とは何者なのかを僕に垣間見せてくれる。壁に沿って空気の抵抗を受けながらひらひらと舞うように落ちるわくらば。これを読者が映像化(心のテレビに映す)することは容易である。この情景を自らの生活体験に重ねて形象化(その場にいるような心持ちになる)することも感性の鋭い読者には容易だろう。しかし、その黄葉が落ちた跡に「白い螺旋」が「ずうつとついてゐる」情景を映像化・形象化することは決して容易ではない。ましてや、壁に沿ってひらひらと落ちる黄葉を見て、その跡に「白い螺旋」が「ずうつとついてゐる」情景を自らのなかから湧き上げることも、更には湧き上がったその情景から一編の一行詩を編むことも困難の極みと言って良い。北川冬彦は「見えないもの」を見、「見えないもの」を詠う。この「見えないもの」に気づく感性、そしてその「見えないもの」を言葉として詠うことによって読者を魅了し誘惑する才覚、この両者を併せ持つ者こそ「詩人」なのである。僕は既に三十年近くも、すっかり冬彦に魅了され誘惑されてしまっている。

「仕度」も同様である。花が散り、しょぼしょぼとしたその植物は、北川冬彦に「なんともあはれだ」という心情を抱かせる。しかし、「あはれなその姿の中」で調(ととの)えられる「美しい實を結ぶ仕度」とはいったい如何なるものであろうか。そんなものは見えるわけがない。しかし、冬彦には見えるのだ。その確かな「仕度」が。ここにも、詩人の「見えないもの」を見、「見えないもの」を詠う感性と才覚とが発揮される。

全編の叙述は説明的で、「その姿」「あはれ」と二度も同じ語を用いるなど、詩的言語としての完成度を疑う向きもあるかも知れない。しかしこれはむしろ、「その姿」と「その姿の中」を対比させ、「あはれ」と「美しい實を結ぶ仕度をとゝのへ」る形象との落差を顕在化させるための意図的な二重語用ではないのか。

そして何より、この詩の醍醐味は第一文である。僕は「花は散った」の「は」に感動する。「は」は取り立て提示の副助詞であるが、そこには「確かに花は散ったが、しかし……」という含意がある。読者の皆さんには「あの人、頭は良いんだけどねえ…」という言表を思い浮かべて欲しい。「あの人、頭が良い」ならば単なる主述の表出でしかないが、「あの人、頭はいい」と「は」を使うとき、そこには顔か性格かのどちらかが悪いという含意が表出されるはずである。「仕度」の「花は散つた」は、読者をこの詩に出逢わせる第一文においてしっかりと結末の布石を打っているのだ。つまりこの詩世界は話者が「美しい實を結ぶ仕度」に気づいていく過程を描いたのではない。最初から「美しい實を結ぶ仕度」に気づいている話者が、淡々とこの三文を叙述する形を採っているのである。この詩は間違いなく、一言一句蔑ろにされることなく検討されている。

ではなぜ、北川冬彦には「あはれなその姿の中」が見えたのだろうか。これを四季を巡る植物を見る経験から科学的に理屈づけたのだとする見解は甘い。そんな自然の摂理ならば、なにも詩にする必要はないのだ。この花を散らし、いままさにしょぼくれ、あはれな姿を晒し、しかしその中でなお自らの「美しい實を結ぶ仕度」を調える者こそ、実は作者北川冬彦その人だったのではないか。この詩は道端でふと目についた散り花に、自らの今現在の心象を重ねることによって成立した詩作なのではないか。とすれば、冬彦には初期作品において、既に自らの詩作が今後どのように展開されるか、確固とした自信をもっていたのだと読めるのである。

こう考えてくると、先の「秋」における「黄葉」も北川冬彦自身なのではないかと思えてくる。いま、冬彦は「壁に沿うてひらひらと落ち」るような状況にあるが、それは自らのなかではしっかりと「白い螺旋」として意識されている。この詩は前半と後半とが「─」を用いた間によって繋がれているが、この間は冬彦がその確かな過去の経緯の存在感に気づくまでの一瞬の間だったのではないか。僕にはそう思えてくるのである。

言葉のディテールにこだわれる者ほど国語学力が高い─僕は前章でこう述べた。ディテールにこだわるとは、「花は散つた」の「は」にこだわることであり、構成上の「──」に思いを馳せることなのである。

物語・小説の教材研究においてまず第一にしなければならないのは、「仕度」の「は」にこだわるように、「秋」の「──」に思いを馳せるように、ディテールまで読み込むことだと考えている。つまり、詩や短歌、俳句を読むときと同じように一言一句蔑ろにせずに読み込むことである。学習者なんか考えてはいけない。教材としてどう活かすかなんて考えてもいけない。あくまで一読者として作品と真正面から向き合うことだ。この段階をすっ飛ばした段階で、もはやそれは「教材研究」とは呼べない。僕はそう考えている。

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