演習形式を旨とせよ!
国語の授業に限りませんが、学年が上がるに従って授業が講義形式になっていく傾向があります。教科書も厚くなりますし、扱わなければならないことも多くなっていきますから、だんだんと教師が一方的にしゃべる授業が増えていくわけです。
多くの子どもたちにはメモの能力があるわけではないので、教師の板書をひたすらノートに写すということになりがちです。しかも教師があまりにも多くの板書をするものですから、子どもたちは頭を使うことなく、ただただ利き腕の運動が続いているだけ……ということも多く見られます。さて、その板書はほんとうに必要なのでしょうか。
例えば、表現技法の学習をするとします。話を具体的にするために比喩の学習をするとしましょう。
講義形式の授業であれば、教材から比喩の用いられているところを教師が取り上げ、一つ一つ子どもたちに確認しながら板書していくということになるでしょう。教師は一応子どもたちに確認しているのですが、子どもたちのほうは板書に書かれたことをノートするのに忙しく、教師が言った細かいことは耳に入らないということになりがちです。当てられて答えろと言われて初めてうろたえる、そんな授業が多いように思います。
これが教材を渡されて、「この教材には比喩が20箇所使われている。4人グループで探しなさい。時間は15分です。」と指示されたらどうでしょう。子どもたちはそれぞれのグループで協力しながら、なんとか20箇所の比喩を一生懸命に探すのではないでしょうか。しかも、4人でああでもないこうでもないと言い合いながら、一つ一つ確認していくのではないでしょうか。
その後に、教師が答え合わせをしてまとめるときには、子どもたちも自分たちで探してみた経緯があるだけに、教師の説明を聞く姿勢も真剣になるのではないでしょうか。何より、最初から講義形式で教師が説明するよりも、教師の解説は簡単に済むのではないでしょうか。子どもたちが一度考えているだけに、簡単な説明でも子どもたちの理解度が上がるのです。
講義形式の授業と、こうしたごくごく簡単ではありますが演習形式の授業と、どちらが子どもたちの学力を保障するでしょうか。ペーパーテストを行ったときに、どちらの授業を受けたほうが平均点が上がるでしょうか。実は講義形式の授業とは、教師が自分の都合で「一応教えたからね」というアリバイづくりをしているに過ぎないのです。
もちろん、初めて比喩を教えるという場合ならば、教師がちゃんと解説しなければなりません。そういうときなら講義形式の説明になってしまうのも仕方ないでしょう。しかし、実際に子どもたちに指導事項を定着させたいと思うならば、授業は演習形式を旨とすべきなのです。
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