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「楽しさ」の一点突破

1.合唱コンクール指導の難しさ

近年、合唱コンクールが難しい行事になってきている。かつては1年間でも有数の花形であり、生徒たちが意欲をもって取り組んでいたこの行事が、その地位から滑り落ちつつある。

国民的な芸術はその時代時代によって変化する。合唱が「だれもが体験すべき芸術である」という国民的コンセンサスが得られなくなってきていることが要因だと私は考えている。子どもというものは、時代の空気を胸一杯に吸い込むことを特徴とする。生徒たちは時代の空気を敏感に感じ取っているのだろう。もしもこの行事がダンスコンクールやビデオCMコンクールならば、かつての合唱コンクールのように生徒たちは意欲的に取り組むかもしれない。そんなことを夢想することがある。

こう考えると、学級担任にとって、なぜ合唱コンクールが難しくなってきているのかという理由もわかってくる。生徒たちは無意識のうちに、「なぜ合唱なのか」と詰め寄ってくるのである。行事として設定されているからとか、昔からみんなが経験してきているものなんだよとか、こんな状況の論理ではなく、「合唱に取り組むことにどんな価値があるのか」が求められている。これを語れない教師は合唱コンクールの指導がうまくいかない。

しかし、この「なぜ合唱なのか」がこの時代にはない。ないは大袈裟にしても、薄まってきているのは確かだ。それは、「なぜ文学なのか」「なぜ演劇なのか」「なぜ鼓笛なのか」「なぜ書道なのか」「なぜ写生なのか」等々と同じように、「合唱に取り組む理由」もまた雲散霧消せざるをえない過渡期にある。

芸術は「不易」ではない。あくまで「流行」である。

学級担任は合唱コンクールの指導にあたって、まずこの認識に立つ必要があると私は考えている。かつての「合唱には価値がある」「昔はみんな意欲的に取り組んだものだ」という従来モデルを基準に指導すると、合唱の指導はまず間違いなく失敗する。

しかし、失敗しない場合が二つだけあり得る。一つは、各学級の取り組みを超えて、学校全体に「合唱コンクールは価値ある行事である」とする空気がつくられている、つまり「なぜ合唱か」が学校自体にあるという場合である。いま一つは、4月からの学級経営の成功によって生徒たちの前向きな人間関係が既に醸成されていて、生徒たちに合唱コンクールが「コンクール」であるが故に学級の名誉のために勝ちたいとの意識が形成されている場合である。

前者は学校運営において合唱が中核として扱われていたり、音楽科教師の力量が非常に高いという場合によく見られる。後者の場合は、もはや合唱指導が合唱指導を超えたところで行われている場合に見られる。どちらも学級担任が合唱コンクールの指導をどうしようかと考える次元を超えていると言わざるを得ない。

学校全体で生徒たちが合唱コンクールに対する意識が高まるくらいの体制をつくるには、少なく見積もっても3年はかかるだろう。一担任が取り組める次元ではない。とすれば、基本的にはそれまでの学級運営をどうするかと考えるのが現実的だと言える。

2.合唱コンクール指導の落とし穴

よく、合唱コンクールの指導において、練習にまじめに取り組まない生徒たちを叱る教師を目にする。また、どうすればみんなが合唱コンクールの練習に取り組めるのかと「ミーティング」という名の魔女裁判を行う教師も目にすることが多い。更には、声の出ない生徒たちを集めて居残り練習をさせたり、昼休みに追加練習させたりする教師もよくいる。しかし、これらはどれも百害あって一利無しである。正直、百害どころではなく、千害・万害である。

こうした指導は、そもそもその価値を理解していない生徒たちに、ますますいやな思いをさせる指導である。やりたくもないことにつきあいでやらされているにもかかわらず、まじめにやってないと教師に説教される。個人攻撃はされないものの、学級のためという大義において、針のむしろに座らされる。生徒たちから見れば、この手の指導はそういうことである。こんな指導で歌いたくなるはずがない。合唱コンクールへの意欲がますます減退するだけだ。 例えば、こう考えてみよう。近々、球技大会や陸上競技大会があるとする。どちらも学級対抗である。その点では合唱コンクールと同じだ。

さて、このとき、練習にまじめに取り組まないと叱られる生徒を見たことがあるか。学級全員が残されてミーティングという名の魔女裁判が行われるのを見たことがあるか。球技の下手な生徒や足の遅い生徒が残されて居残り練習させられるなんていう事例を見たことがあるか。おそらくないはずである。

ではなぜ、体育行事で行われないことが合唱コンクールでは行われてしまうのだろうか。それは体育行事が個人の「能力」の問題であると考えられているのに対し、合唱コンクールが「気持ち」や「構え」の問題だと考えられているところにある。運動能力はいかんともしがたいが、合しようなら「気持ち」や「構え」が前向きにさえなれば、「なんとかなる」と思われているのである。しかし、それは甘い。合唱がどうこうというよりも、教師として甘いと言わざるを得ない。

確かに100mを走るのに18秒かかる生徒に、気合いで15秒で走れというのは難しい。バットを握るときに右手と左手が離れてしまうような生徒にヒットを打てというのも難しいだろう。しかし、そのとき、体育行事ならば身体能力の優れた生徒たちが運動を不得手としている生徒たちをカバーしたりフォローしたりという発想になるはずだ。教師もそのカバーやフォローを心から応援するはずだ。だからこそ運動の不得手な生徒たちも「みんなに迷惑をかけないように」と頑張ろうとするのではないか。

実は合唱も同様なのである。歌うことが好きで得意としている生徒たちがいる一方で、歌うことを好まず、不得手としている生徒たちがいるのである。しかし、なぜ合唱では、その不得手な生徒たちがカバーもされずフォローもされないのか。ましてや、担任にまで一緒になって「お前は不真面目だ」と責められたり、罰として居残り練習までさせられる始末……。これでうまくいくと考える方がどうかしている。私はそう思う。

もしも本当に、合唱が「気持ち」や「構え」のいかんによって「なんとかなる」ものであるとすれば、尚更こうした指導は理に適っていないのである。

3.合唱コンクール指導の一点突破

合唱コンクールという行事を、あくまで合唱の指導として意義あるものにしたいと学級担任が考えるなら、道は二つである。

一つは、合唱の指導技術を身につけることである。実は合唱指導というものは、運動能力を高めるのとは異なり、教師が指導技術をもっていればどんな学級集団でも短期間である程度のレベルまでは持って行けるものである。発声から曲想に至るまで、合唱には細かな指導技術がたくさんある。しかし、逆に言えば、そうした指導技術を身につけていない教師にとっては、手も足も出ないと言っても過言ではない。

おそらく、音楽科の教師でない限り、わざわざ専門的な合唱指導の技術を学ぼうと考える教師は少ないだろう。一年に一度、数週間の取り組みのために学ぶには、合唱の指導技術はあまりにも多岐に渡り、しかも細かい。合唱とは何たるかを理解する必要があるし、楽譜が読めるようになる必要もある。ついでに言えば、歌詞世界の表現のために詩の読解・鑑賞の技術やセンスまで学ばねばならない。この道を進むことは、正直、お勧めしない。

では、どうするか。どうせ「良い合唱とは何か」を担任さえ知らないのである。ならば、合唱練習を「どう楽しくするか」を真剣に考えてみることである。歌うことがあまり好きでなく、得手でもない、そんな子でも楽しく参加できるような練習の仕方のアイディアを次々と考えてみることである。それを徹底することである。

馬鹿馬鹿しくていい。意味がなくてもいい。ただ合唱練習を徹底して楽しくする。楽しめるものにする。それを1週間続けたら、生徒たちは気づくと音がとれているとか、気づいたら「ちょっと勝ちたくなってきた」とか、そうした状態になっていく。合唱コンクールの練習に革命的な変化が起きる。本来、合唱練習とは楽しみながらやるものなのだ。

練習方法の詳細は拙著『必ず成功する「行事指導」魔法の30日間システム』(明治図書)を参照されたい。

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