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指導事項を板書せよ!

皆さんは国語の授業において、その日の指導事項を板書しているでしょうか。

例えば、説明文の授業において、「はじめ・なか・まとめ」の三つの意味段落に分けるとき、何段落から何段落までが「はじめ」だということは板書しノートさせても、どのようにすれば「はじめ」はここまでだと見分けられるのかを指導していないのではないでしょうか。「はじめ」とはどのような機能をもつ意味段落なのかを授業で扱ってはいないのではないでしょうか。そもそも教師自身がそんなこと、考えたこともないという人が多いのではないでしょうか。多くの国語の授業が「活動あって指導なし」に陥るのは、実はそのせいなのです。

例えば、「ごんぎつね」を読むときに、ごんや兵十の気持ちをまとめて板書することはあっても、どうすれば登場人物の気持ちを読み取れるのか、その方法については板書していないのではないでしょうか。ごんや兵十の気持ちを話し合わせて、子どもたちの意見をまとめた振りをしながらもともと教師が用意していたまとめを板書する。それで事足れりとしているのが現実ではないでしょうか。ここにもやはり、「活動あって指導なし」の構造がありはしないでしょうか。

例えば、「ごんきがつね」に次のような文があります。

兵十がいなくなると、ごんはぴょいと草の中から飛び出して、びくのそばへかけつけました。ちょいと、いたずらがしたくなったのです

授業ではだれもが「ぴょいと」と「ちょいと」を扱います。ごんの気持ちを想像していると、子どもたちも「ぴょいと」や「ちょいと」に着目します。そして、「悪気はなかった」とか「ほんのいたずら心だった」とか発言します。教師もそれを受けて、「ごんにとってはちょっとした、ほんのいたずら心に過ぎなかった」などとまとめます。それが板書されます。

しかし、私が言っているのは、これで終わってはいけないということです。これでは次の年に「大造じいさんとがん」を読むときに、この「ごんぎつね」の学習はまったく生きません。「ごんぎつね」の学習は「ごんぎつね」の学習のなかに閉じられてしまいます。ここでは、例えば「登場人物の心情を読み取るときには擬態語に注意すると良い」ということが扱われるべきなのです。また、「飛び出して」「かけつけました」からもごんのはやる気持ちがうかがえますが、「登場人物の動作に注目すると、心情がつかみやすい」ということも扱われるべきでしょう。

そして、この場面のごんの気持ちが板書されるだけでなく、こうした読解の技術、つまり国語科としての指導事項こそがしっかりと板書され、子どもたちのノートにも残されるべきなのです。

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