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2014年6月

演習形式を旨とせよ!

国語の授業に限りませんが、学年が上がるに従って授業が講義形式になっていく傾向があります。教科書も厚くなりますし、扱わなければならないことも多くなっていきますから、だんだんと教師が一方的にしゃべる授業が増えていくわけです。

多くの子どもたちにはメモの能力があるわけではないので、教師の板書をひたすらノートに写すということになりがちです。しかも教師があまりにも多くの板書をするものですから、子どもたちは頭を使うことなく、ただただ利き腕の運動が続いているだけ……ということも多く見られます。さて、その板書はほんとうに必要なのでしょうか。

例えば、表現技法の学習をするとします。話を具体的にするために比喩の学習をするとしましょう。

講義形式の授業であれば、教材から比喩の用いられているところを教師が取り上げ、一つ一つ子どもたちに確認しながら板書していくということになるでしょう。教師は一応子どもたちに確認しているのですが、子どもたちのほうは板書に書かれたことをノートするのに忙しく、教師が言った細かいことは耳に入らないということになりがちです。当てられて答えろと言われて初めてうろたえる、そんな授業が多いように思います。

これが教材を渡されて、「この教材には比喩が20箇所使われている。4人グループで探しなさい。時間は15分です。」と指示されたらどうでしょう。子どもたちはそれぞれのグループで協力しながら、なんとか20箇所の比喩を一生懸命に探すのではないでしょうか。しかも、4人でああでもないこうでもないと言い合いながら、一つ一つ確認していくのではないでしょうか。

その後に、教師が答え合わせをしてまとめるときには、子どもたちも自分たちで探してみた経緯があるだけに、教師の説明を聞く姿勢も真剣になるのではないでしょうか。何より、最初から講義形式で教師が説明するよりも、教師の解説は簡単に済むのではないでしょうか。子どもたちが一度考えているだけに、簡単な説明でも子どもたちの理解度が上がるのです。

講義形式の授業と、こうしたごくごく簡単ではありますが演習形式の授業と、どちらが子どもたちの学力を保障するでしょうか。ペーパーテストを行ったときに、どちらの授業を受けたほうが平均点が上がるでしょうか。実は講義形式の授業とは、教師が自分の都合で「一応教えたからね」というアリバイづくりをしているに過ぎないのです。

もちろん、初めて比喩を教えるという場合ならば、教師がちゃんと解説しなければなりません。そういうときなら講義形式の説明になってしまうのも仕方ないでしょう。しかし、実際に子どもたちに指導事項を定着させたいと思うならば、授業は演習形式を旨とすべきなのです。

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言語技術を整理せよ!

① 授業において子どもたちの実態からこれが足りないな と思ったこと。
② 自分の言語生活を省みて社会生活でこの力があったい いのに感じたこと。

この二つを考えながら、国語学力とは何か、国語の授業で子どもたちに培わなければならない言語能力とは何かを常日頃から考える癖をつけていきます。何かを思いついたら、すぐにその言語能力を扱えるようなおもしろい教材を探します。成功もあれば失敗もありますが、失敗を怖れずにそうした毎日を続けます。そしてそれを一つ一つ整理します。

国語の授業研究とはつまるところ、そういう営みだと思います。私も新卒からそういう毎日を送ってきました。

本を買いあさり、子どもたち同士や職員室での同僚同士の日常的なコミュニケーションを観察し、授業で自分が想定していたよりも子どもたちができなかったことは何なのかということを細かくメモしする。更には、研究仲間とそうした気づきを持ち寄って議論する。こうした日常から国語学力とは何なのか、自分なりに整理してきたのです。

また、新聞や雑誌のコラムを何か教材になるようなネタはないかいう意識で読み、テレビやラジオもネタを探しながら視聴し、ちらしや飲食店のメニューにも工夫点はどんなところかと目を凝らす。それでも飽き足らず、飲食店や小売店から接客マニュアルをコピーしてもらったり、新聞記者から記事の書き方の原則を教わったりしました。こうした日常から教材開発をしてきましたのです。

まず私がとにかくこれだけは自分なりに体系的に整理しようと思ったのは「言語技術」でした。要するに、言葉を用いるうえでの技術的な側面です。

国語の指導事項には内容的な側面と技術的な側面がありますが、言語能力的にも言語活動的にも内容的な側面を整理することは不可能です。内容的な価値というものは、人が100人いれば100通りの整理の仕方があるでしょう。しかし、技術的な側面ならば、まずまずだれもが「それは大切だよね」と思うような優先順位の高いものをある程度は整理できるのではないか、それが若い頃に私が抱いた志でした。志というよりも「野心」と言ったほうが良いかもしれません。

私が二十代から三十代だった頃は、国語と言えば、物語の授業ではひたすら登場人物の気持ちを問い、説明文の授業ではひたすら要約をさせる、そんな授業が蔓延していました。もちろんそうした指導は大切なのですが、あまりにも内容主義に偏りすぎ、国語学力の技術的側面が軽視されていたのです。そんななか、私は言語技術の体系的に整理に十数年間にわたって取り組んだのです。その結果、章末(p○~)のような体系ができ上がりました。

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ハプニングはできるだけ排除すべき?

論理的思考ほど実生活の役に立たないものはない。その証拠にだれもが論理的にものを考えようとするけれど、だれもが論理的にものを考えることができない。実生活においてだれもが論理的に考えて動くことができないのだとしたら、論理的に考えて対策を講じようとしても無駄骨に終わるだけだ。論理で動かない世の中に論理で対抗しようとしても虚しいだけである。

教師は教室からできるだけハプニングを排除しようと努める。指導案通りに進めようとする授業然り。教師の思い通りにコントロールしようとする学級経営然り。自分のイメージ通りに完成させようとする行事指導然り。どれもこれも論理で動かないものを論理のなかに押し込めようとするからうまくいかない。それこそが背理であると気づかない。

八○年代から九○年代にかけて、教育界は教育技術の時代だった。教育技術は子どもたちをできるだけコントロールするための方策として考案された。しかし、それらを開発したり紹介したりした人たちは、教育技術がすべでてはないし、教育技術が子どもたちをコントロールし切ることなどあり得ないことをちゃんと前提としていた。だからみんなが受け入れた。でも、二十一世紀になって、教育技術の存在が当然となり前提となった時代、教育技術が子どもたちをコントロールし切ることなどあり得ない、教育技術は方向性を提示しているに過ぎないという前提が忘れ去れらた。無意識のうちに教育技術至上主義に陥ってしまった。技術を身につければなんとかなるという幻想が産まれた。その幻想がずいぶんと学校教育を窮屈なものにしてしまった。

教室とは、ハプニングが起こることにこそ本質があるのだ。

僕は声を大にして言いたい。ハプニングの起こらない営みは人間の営みではない。それをコントロールし、しかもコントロールし切ろうなどという教育理論はあり得ない。すべての教育理論も、教育技術も、こうすればこうなる傾向が高いですよという大体論に過ぎない。こうすればこうなるの論理で短絡的に技術を使おうとすると、教育はファッショに陥る。

技術が万能でないことを意識して技術を用いると、万能でない技術の万能でなさに目が向く。どんなところが万能でないのかと、起こり得るハプニングを分析するようになる。遂にはハプニングが起こるのを心待ちにするようにさえなる。ああ、こういう予想外のことがあり得たかと愉しみにさえなる。教育技術はこうした構えをもったとき、真に機能する段階に入る。

論理的思考も同様である。論理的思考が万能ではなく、論理的思考に治まりきらない事象がたくさんあることを意識していると、どんな例外があるのかとハプニングを愉しめるようになる。こうして、ハプニングの起こらない教室など面白みのない、子どもたちの自然を排した人工的な営みに過ぎないという新たな段階の論理が創り出される。この段階に入って、論理的思考が真に機能する段階に入る。

技術も、論理も、それを「超えるもの」が想定されたとき、初めて機能し始める。

ハプニングを愉しめるようになると、教師の精神に余裕が生まれ、ゆとりが生まれ、奥行きが生まれる。教師に懐の深さが生まれる。こうなればしめたものである。教室がフィールドになり、仕事がフィールドワークになる。仕事がフィールドワークになったとき、新たな教育技術が開発される。新たな教育理論ができ上がる。要するに、創造のサイクルができ上がる。

一つ一つのハプニングが創造のにつながると実感されるようになると、教師はハプニングを起こす子どもたちを愛しく思うようになる。やんちゃも、弱虫も、神経質も、いじめっ子も、いじめられっ子も、不登校も、特別な支援を要する子も、みんなみんな愛しく思えてくる。自分を成長させてくれるかけがえのない子どもたちに思われてくる。こうした段階に入ると、技術も、論理も、更に機能し始める。自分なりの個性的な技術が生まれ、自分なり独創的な論理が生まれ始める。

本で学んだり先達から伝授されたりした技術や論理だけを是として子どもたちに接する者が大成した前例はない。本で学んだり先達から伝授されたりした技術や論理を試し、それと同じくらい目の前の子どもたちの反応から学んだ者だけが新たな手法を開発するようになる。日々の授業や日々の子どもたちのかかわりから学ぶことの大切さをだれもが説くのはそういうことだ。

凝り固まった論理的思考ほど実生活の役に立たないものはない。役立たないどころか、それは時に害悪となる。固定観念で用いられる教育技術ほど機能しないものはない。機能しないどころか、それは時に子どもたちの成長にとって妨げとなる。

教室に起こるハプニングこそが、実は教師を成長させる。

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自分の言語生活と見比べよ!

これまで数限りない国語の授業が行われてきました。毎日毎日、国語の授業のない日はないというほどに、国語の授業が全国津々浦々で行われてきました。回数だけはどの教科よりも多く行われてきました。就学時間の2割程度は国語の授業だったのです。

それなのに、なぜ、21世紀を迎えて十数年が経った現在においてさえ、国語科の指導事項の全体像が明らかにされていないのでしょうか。なぜ、国語科の授業では国語学力・言語能力が身につかなかったのでしょうか。なぜ、この国にはレポート1本書けない大学生で溢れているのでしょうか。なぜ、一度でテニヲハの間違いがない書類を作れる社会人が少ないのでしょうか。なぜ、教師でさえ、テラヲハを正しく使えない人が多いのでしょうか。

実はまっとうな文章をかける大人は、一次方程式を解くことのできる大人より少ないのではないでしょうか。このことに国語科の授業は、大きな責任をもっているのではないでしょうか。

ためしに、自分の国語学力がどこで身に付いたのかを旨に手を当てて考えてみましょう。その国語学力は国語の授業で身に付いてきたと実感できるでしょうか。自分で本を読んだり新聞を読んだり漫画を読んだりしたなかで身に付いてきたというのが実感ではないでしょうか。

では、みなさんが九九を言えるのはなぜでしょうか。一次方程式を難なく解けるのはなぜでしょうか。それは小学校2年生のときの担任の先生が「これだけは覚えろ」とさぼることを許さずに指導してくれ、中学1年生のときの数学の先生が解き方を丁寧に教えてくれたからではないでしょうか。少なくとも算数・数学の学力は、決して日常生活のなかで培われてものではないはずです。

なのに国語学力だけは国語の授業で身につけたような気がしないのはなぜなのでしょうか。中学校のときに習った「口語文法」はいまだによくわからないのではないでしょうか。説明文の授業であれだけ何度も何度も取り組んだはずの「要約」はいまだにその方法がわからなくて、学校の研究文書を作成するときに困っているのではないでしょうか。算数・数学と国語のこの違いは何なのでしょうか。

国語科の授業づくりを考えるうえで、最も大切なのは、教師がこのように自らの現在の言語生活の問題点を考えながら、子どもたちをそうでない大人にするためにはどんなことを指導する必要があるのかと考えることなのです。国語科の授業づくりは、その教師の言語生活を超えて立案されることはあり得ません。教師がどのくらい自分の言語生活を顧み省みているかが、ストレートに反映するのが国語科の授業づくりなのです。目の前の子どもたちにどんな力が足りないのかという評価の観点さえ、自分の言語生活と見比べることでしか生まれ得ないのです。

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備忘徹底

学年協議会(学年の学級代表委員会)で今月の目標が決まりました。学年協議会の代表も副代表もスムーズに議事を進行してくれました。あとは書記の子に学年協議会便りを書いてもらい、それを印刷して学年全体に配付することになります。書記の子に用紙を渡して「明日の朝までに書いてきてね」と伝えます。書記の子も元気に「はい、わかりました」と応えます。ひと安心とその日の委員会を終わります。

次の日の朝、いつものとおりに朝学活を終え、授業をしていて、あなたはふと気づきます。そういえば、学年協便りをあの子がもって来てない……。昼休みに書記の探してみますが、見当たりません。体調を崩して欠席でもしてるんだろうか……。ちょっと気になりながらも、そのまま午後の授業の入ります。ばたばたしているうちに放課後になってしまい、結局その日は書記の子に会えずじまいでした。

更に次の日、休み時間に書記の子を見かけます。「学年協便り、どうなってる?」と訊いてみると、「すみません、まだできてません……」とのこと。「じゃあ、放課後残ってやってね。先生はちょっと会議かあるからつけないけど、できたら職員室の先生の机の上に置いておいて」こう言って、あなたはその子と笑顔で約束します。

ところが放課後、打ち合わせを終えて職員室に戻ってくると、あるはずの学年協便りがありません。もう授業が終わって一時間も経っているというのに……。もうできていてもおかしくないのに……。教室に行ってみると、書記の子はお友達とおしゃべりに花を咲かせています。「学年協便りは?」と尋くと「まだできてない」とのこと。堪忍袋の緒が切れたあにたは、「残って書け!」とつきっきりで指導しながら、お便り一枚を完成させることになります。

さて、この事案、いったいどれだけの時間を無駄に過ごしたでしょうか。

私はこういうとき、書記の子の目の前で自分の手帳を開いてメモをします。明日の朝一番の仕事として、この書記の子に学年協便りについて打ち合わせることを意味するメモです。「(朝)学年協便り・Aさん」のような書き方です。「じゃあ、明日の朝ね」とひと言伝えて終わりです。

先の事案との違いがおわかりでしょうか。

まず、書記のAさんは、先生がメモまで取っているのですからこの仕事をなめなくなります。「ああ、いいかげんにはできないのだな」と感じてくれます。また、もしもAさんが次の日の朝に持ってこなかったとしても、朝一番の仕事として「To Doリスト」に書いてあるのですから、朝学活が終わった時点ですぐにAさんに会いに行くことになります。要するに、自分自身が忘れているということがなく、朝の段階で状況を把握してしまえるのです。その場で仕事の段取りをつけてしまうことができます。更に言えば、教師が日常的にこうした仕事振りをしていること自体が、子どもたちに「この先生との約束は破れない」という気にさせ、子どもたちが仕事をさぼったり忘れたりということ自体がなくなっていくのです。

別の例を考えてみましょう。ある子が「先生、相談があるのですが……」と言ってきたとします。どころがいまはどうしてもはずせない用事があって、その子に対応することができません。「ごめんね。いまちょっとはずせないんだ。明日の昼休みでもいいかな?必ず時間をつくるから」と言って、その場をしのぎます。さて、次の日の昼休み、もしもあなたがこの子との約束を忘れたらどうなるでしょうか。教師にとってたくさんの子どもたちのなか一人とした小さな約束ですが、その子にとっては先生と交わした大きな約束です。もしも教師がこの約束を忘れていたとしたら、教師は「嘘つき」になり、この子は大きなショックを受けるでしょう。実はこういうときにも、私はその子の前で手帳を開いて、「(昼)Bさん・相談室」と書き記します。

一般に「備忘録」というと、授業の週案や仕事の「To Doリスト」のことだと考えられています。もちろんそれらも大切ですが、実は授業や仕事を忘れるということはまずありません。教師が失念してしまうことで後に大事になったり、思わぬ時間を奪われることになるのは、こうした小さな約束や子どもに徹底したい指導、或いは保護者へのちょっとした連絡など、いわば「凡事」なのです。教師が信用を得るにも、教師が時間を奪われない仕事の仕方をするにも、実は根っこは同じ、「凡事徹底」です。小さな約束を蔑ろにしない日常を送ることで、実は子どもや保護者との信頼関係が少しずつ高まっていき、それに伴って仕事も充実してくるのです。

もちろん、「目の前で手帳にメモされるなんて……」と四月当初には抵抗を抱かれることもあります。しかし、それは最初だけのことです。しかも、「ごめんな、先生忘れっぽいから、こうしてメモ取っとかなきゃ忘れちゃうんだ」と笑顔で言えば良いだけのことです。

小さなことほど、「備忘の徹底」が仕事をスムーズに進行させるのです。人間関係さえスムーズに展開させるのです。この原理を侮ってはなりません。子どもや保護者に対する例ばかりを挙げましたが、実は私は同僚や管理職との打ち合わせでも同じ手法を使います。管理職が忙しさを理由に約束の時間を破った場合には、その後はこちらの都合に合わせることを要求することにしています。管理職にもなめられなくなくなることを保障します(笑)。まあ、私をなめてかかる管理職はもともとあまりいませんけれど……(笑)

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指導事項を板書せよ!

皆さんは国語の授業において、その日の指導事項を板書しているでしょうか。

例えば、説明文の授業において、「はじめ・なか・まとめ」の三つの意味段落に分けるとき、何段落から何段落までが「はじめ」だということは板書しノートさせても、どのようにすれば「はじめ」はここまでだと見分けられるのかを指導していないのではないでしょうか。「はじめ」とはどのような機能をもつ意味段落なのかを授業で扱ってはいないのではないでしょうか。そもそも教師自身がそんなこと、考えたこともないという人が多いのではないでしょうか。多くの国語の授業が「活動あって指導なし」に陥るのは、実はそのせいなのです。

例えば、「ごんぎつね」を読むときに、ごんや兵十の気持ちをまとめて板書することはあっても、どうすれば登場人物の気持ちを読み取れるのか、その方法については板書していないのではないでしょうか。ごんや兵十の気持ちを話し合わせて、子どもたちの意見をまとめた振りをしながらもともと教師が用意していたまとめを板書する。それで事足れりとしているのが現実ではないでしょうか。ここにもやはり、「活動あって指導なし」の構造がありはしないでしょうか。

例えば、「ごんきがつね」に次のような文があります。

兵十がいなくなると、ごんはぴょいと草の中から飛び出して、びくのそばへかけつけました。ちょいと、いたずらがしたくなったのです

授業ではだれもが「ぴょいと」と「ちょいと」を扱います。ごんの気持ちを想像していると、子どもたちも「ぴょいと」や「ちょいと」に着目します。そして、「悪気はなかった」とか「ほんのいたずら心だった」とか発言します。教師もそれを受けて、「ごんにとってはちょっとした、ほんのいたずら心に過ぎなかった」などとまとめます。それが板書されます。

しかし、私が言っているのは、これで終わってはいけないということです。これでは次の年に「大造じいさんとがん」を読むときに、この「ごんぎつね」の学習はまったく生きません。「ごんぎつね」の学習は「ごんぎつね」の学習のなかに閉じられてしまいます。ここでは、例えば「登場人物の心情を読み取るときには擬態語に注意すると良い」ということが扱われるべきなのです。また、「飛び出して」「かけつけました」からもごんのはやる気持ちがうかがえますが、「登場人物の動作に注目すると、心情がつかみやすい」ということも扱われるべきでしょう。

そして、この場面のごんの気持ちが板書されるだけでなく、こうした読解の技術、つまり国語科としての指導事項こそがしっかりと板書され、子どもたちのノートにも残されるべきなのです。

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指導事項を明確化せよ!

1時間の形成学力を一つに絞ることを提案しました。多くの読者がなるほどなと思われたとことでしょう。しかし、多くの国語科授業は形成学力を一つに絞るどころか、そもそも形成学力を教師が自覚していないというのが一般的です。「ごんぎつね」では「ごんぎつね」の鑑賞だけをし、「ありの行列」では蟻の生態をまとめるというような授業がむしろ一般的です。

国語科は言語活動を通して言語能力を高める教科です。なのに多くの教師は、教材を読むという言語活動ばかりを考えて、その活動でどんな言語能力が培われるのかということに無自覚です。これでは、形成学力を一つに絞るどころの話ではありません。

算数・数学を例に考えてみましょう。算数・数学科は必ず新しい概念が出てきたら、その「定義」を教えます。三角形とは三つの辺で囲まれた図形であるとか、関数とは二つの変数 x ・ y の間に,ある対応関係があって,x の値が定まるとそれに対応してyの値が従属的に定まる時の対応関係であるとか、こうした定義を明確にして授業が進みます。また、それを受けて、必ず「定理」が教えられ、問題をとくための「公式」が教えられます。しかもそれは、小学校4年生では小学校3年生までの既習事項が前提となり、中学校2年生では中学校1年生までの既習事項が前提となり、つまり、既習事項を用いて新しい概念を学ぶということの連続です。

しかし、国語科は「ごんぎつね」の授業でただ「ごんぎつね」を読まされ、「ありの行列」でただ「ありの行列」を読まされるという授業が延々と続きます。小学校1年生で「おおきなかぶ」を読むときも、高校で「こころ」や「山月記」を読むときも、登場人物の行動を読み、心情を考えてまとめるという作業が繰り返されます。何の系統性もありません。「ごんぎつね」で習ったことが「大造じいさんとがん」の読みに生きることも、「故郷」で学習したことが「羅生門」の読みに生きることもありません。これは算数・数学で言えば、定義も定理も公式も教えられることなく、ただ問題に取り組めと言われているようなものです。

なぜ、国語の授業はこうした悪弊が延々と続いてきたのでしょうか。それは国語の授業が活動だけをしていても、子どもたちが発達段階に応じて本を読んだり漫画を読んだりしながら、日常生活のなかで言語能力を高めてくれているからです。国語の授業は、授業で学力をつけるよりも、子どもたちの日常的の成長を頼りに行われているというのが実は一般的なのではないでしょうか。

子どもたちの国語学力を高めたいと思えば、まずは教師の側が培いたい言語能力は何だ、今日の指導事項は何だと明確に意識できていなければなりません。指導事項を曖昧にしていては、実は授業などできないのです。

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1時間の形成学力を一つに絞れ!

教師は欲張りなものです。新しい教材に入るにあたって教材研究をしていると、あれもできる、これもできると、何でも詰め込もうとしてしまいます。その結果、ついつい1時間の授業に形成すべき学力がたくさんあるという授業案をつくってしまいます。

子どもから見れば、あれもこれもと要求され、たいへんな1時間になってしまいます。教師の側から見ても、あれもやらなきゃこれもやらなきゃと忙しい授業になってしまいます。時間に追われ、どれも中途半端な指導になってしまうこともしばしばです。結局、1時間の授業を終えてはみたけれど、なんとなく焦点ボケ……なんてことも少なくありません。これではダメです。

皆さんはその日の1時間で何の勉強をするのかということを明確にして授業に臨んでいるでしょうか。

例えば、今日の1時間は副詞から登場人物の心情を読み取れるようにするとか、今日の1時間は文末から登場人物の気持ちの強さを読み取れるようになれば良いとか、こうしたレベルでの「その1時間で何の勉強をするか」です。「今日はナンバリングを使って400字作文を書けるようにする」とか、「今日は頭括法を用いて200字で自分の意見を述べられれば良い」とか、そういう1時間の指導目標です。「今日は説明文を三つに分ける観点を学べば良い」とか、「今日は芭蕉の句を五つ暗唱すれはそれでOKだ」とか、これについてだけは確実に全員を連れて行くという教師の明確な覚悟に裏打ちされた、その1時間の「絶対形成学力」のことです。

実は、教師の側にこうした明確な形成学力をもって臨む態度があれば、そしてそれをしっかりと子どもたちに伝えてあげさえすれば、子どもたちだって教師の意図をちゃんと汲み取り、「よし!今日はそれをマスターしよう!」となるのです。多くの国語の授業は、その1時間でマスターすべき明確な到達点が示されないがために、焦点ボケしてしまうのです。

その1時間で確実に全員に到達させる「絶対形成学力」を一つに絞る。これができたら、教師の授業は途端にすっきこりします。指導事項が明確になれば、教師にはその指導事項に絞った指導をしようという意識が働きますから、指導言にも明快さが生まれます。子どもたちにも一つ一つの発問・指示・説明がストレートに伝わるようになります。その1時間の評価の観点が明確化されますから、幾つかの関連した活動を繰り返すことによって、最後に子どもたちが理解できたか、できるようになったかを測るための活動を入れようとするようになります。そうすると、授業が構造化されてきます。

国語の授業では欲張りは禁物です。教師のあれもこれも主義こそが、実は授業をにごらせるのです。

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「楽しさ」の一点突破

1.合唱コンクール指導の難しさ

近年、合唱コンクールが難しい行事になってきている。かつては1年間でも有数の花形であり、生徒たちが意欲をもって取り組んでいたこの行事が、その地位から滑り落ちつつある。

国民的な芸術はその時代時代によって変化する。合唱が「だれもが体験すべき芸術である」という国民的コンセンサスが得られなくなってきていることが要因だと私は考えている。子どもというものは、時代の空気を胸一杯に吸い込むことを特徴とする。生徒たちは時代の空気を敏感に感じ取っているのだろう。もしもこの行事がダンスコンクールやビデオCMコンクールならば、かつての合唱コンクールのように生徒たちは意欲的に取り組むかもしれない。そんなことを夢想することがある。

こう考えると、学級担任にとって、なぜ合唱コンクールが難しくなってきているのかという理由もわかってくる。生徒たちは無意識のうちに、「なぜ合唱なのか」と詰め寄ってくるのである。行事として設定されているからとか、昔からみんなが経験してきているものなんだよとか、こんな状況の論理ではなく、「合唱に取り組むことにどんな価値があるのか」が求められている。これを語れない教師は合唱コンクールの指導がうまくいかない。

しかし、この「なぜ合唱なのか」がこの時代にはない。ないは大袈裟にしても、薄まってきているのは確かだ。それは、「なぜ文学なのか」「なぜ演劇なのか」「なぜ鼓笛なのか」「なぜ書道なのか」「なぜ写生なのか」等々と同じように、「合唱に取り組む理由」もまた雲散霧消せざるをえない過渡期にある。

芸術は「不易」ではない。あくまで「流行」である。

学級担任は合唱コンクールの指導にあたって、まずこの認識に立つ必要があると私は考えている。かつての「合唱には価値がある」「昔はみんな意欲的に取り組んだものだ」という従来モデルを基準に指導すると、合唱の指導はまず間違いなく失敗する。

しかし、失敗しない場合が二つだけあり得る。一つは、各学級の取り組みを超えて、学校全体に「合唱コンクールは価値ある行事である」とする空気がつくられている、つまり「なぜ合唱か」が学校自体にあるという場合である。いま一つは、4月からの学級経営の成功によって生徒たちの前向きな人間関係が既に醸成されていて、生徒たちに合唱コンクールが「コンクール」であるが故に学級の名誉のために勝ちたいとの意識が形成されている場合である。

前者は学校運営において合唱が中核として扱われていたり、音楽科教師の力量が非常に高いという場合によく見られる。後者の場合は、もはや合唱指導が合唱指導を超えたところで行われている場合に見られる。どちらも学級担任が合唱コンクールの指導をどうしようかと考える次元を超えていると言わざるを得ない。

学校全体で生徒たちが合唱コンクールに対する意識が高まるくらいの体制をつくるには、少なく見積もっても3年はかかるだろう。一担任が取り組める次元ではない。とすれば、基本的にはそれまでの学級運営をどうするかと考えるのが現実的だと言える。

2.合唱コンクール指導の落とし穴

よく、合唱コンクールの指導において、練習にまじめに取り組まない生徒たちを叱る教師を目にする。また、どうすればみんなが合唱コンクールの練習に取り組めるのかと「ミーティング」という名の魔女裁判を行う教師も目にすることが多い。更には、声の出ない生徒たちを集めて居残り練習をさせたり、昼休みに追加練習させたりする教師もよくいる。しかし、これらはどれも百害あって一利無しである。正直、百害どころではなく、千害・万害である。

こうした指導は、そもそもその価値を理解していない生徒たちに、ますますいやな思いをさせる指導である。やりたくもないことにつきあいでやらされているにもかかわらず、まじめにやってないと教師に説教される。個人攻撃はされないものの、学級のためという大義において、針のむしろに座らされる。生徒たちから見れば、この手の指導はそういうことである。こんな指導で歌いたくなるはずがない。合唱コンクールへの意欲がますます減退するだけだ。 例えば、こう考えてみよう。近々、球技大会や陸上競技大会があるとする。どちらも学級対抗である。その点では合唱コンクールと同じだ。

さて、このとき、練習にまじめに取り組まないと叱られる生徒を見たことがあるか。学級全員が残されてミーティングという名の魔女裁判が行われるのを見たことがあるか。球技の下手な生徒や足の遅い生徒が残されて居残り練習させられるなんていう事例を見たことがあるか。おそらくないはずである。

ではなぜ、体育行事で行われないことが合唱コンクールでは行われてしまうのだろうか。それは体育行事が個人の「能力」の問題であると考えられているのに対し、合唱コンクールが「気持ち」や「構え」の問題だと考えられているところにある。運動能力はいかんともしがたいが、合しようなら「気持ち」や「構え」が前向きにさえなれば、「なんとかなる」と思われているのである。しかし、それは甘い。合唱がどうこうというよりも、教師として甘いと言わざるを得ない。

確かに100mを走るのに18秒かかる生徒に、気合いで15秒で走れというのは難しい。バットを握るときに右手と左手が離れてしまうような生徒にヒットを打てというのも難しいだろう。しかし、そのとき、体育行事ならば身体能力の優れた生徒たちが運動を不得手としている生徒たちをカバーしたりフォローしたりという発想になるはずだ。教師もそのカバーやフォローを心から応援するはずだ。だからこそ運動の不得手な生徒たちも「みんなに迷惑をかけないように」と頑張ろうとするのではないか。

実は合唱も同様なのである。歌うことが好きで得意としている生徒たちがいる一方で、歌うことを好まず、不得手としている生徒たちがいるのである。しかし、なぜ合唱では、その不得手な生徒たちがカバーもされずフォローもされないのか。ましてや、担任にまで一緒になって「お前は不真面目だ」と責められたり、罰として居残り練習までさせられる始末……。これでうまくいくと考える方がどうかしている。私はそう思う。

もしも本当に、合唱が「気持ち」や「構え」のいかんによって「なんとかなる」ものであるとすれば、尚更こうした指導は理に適っていないのである。

3.合唱コンクール指導の一点突破

合唱コンクールという行事を、あくまで合唱の指導として意義あるものにしたいと学級担任が考えるなら、道は二つである。

一つは、合唱の指導技術を身につけることである。実は合唱指導というものは、運動能力を高めるのとは異なり、教師が指導技術をもっていればどんな学級集団でも短期間である程度のレベルまでは持って行けるものである。発声から曲想に至るまで、合唱には細かな指導技術がたくさんある。しかし、逆に言えば、そうした指導技術を身につけていない教師にとっては、手も足も出ないと言っても過言ではない。

おそらく、音楽科の教師でない限り、わざわざ専門的な合唱指導の技術を学ぼうと考える教師は少ないだろう。一年に一度、数週間の取り組みのために学ぶには、合唱の指導技術はあまりにも多岐に渡り、しかも細かい。合唱とは何たるかを理解する必要があるし、楽譜が読めるようになる必要もある。ついでに言えば、歌詞世界の表現のために詩の読解・鑑賞の技術やセンスまで学ばねばならない。この道を進むことは、正直、お勧めしない。

では、どうするか。どうせ「良い合唱とは何か」を担任さえ知らないのである。ならば、合唱練習を「どう楽しくするか」を真剣に考えてみることである。歌うことがあまり好きでなく、得手でもない、そんな子でも楽しく参加できるような練習の仕方のアイディアを次々と考えてみることである。それを徹底することである。

馬鹿馬鹿しくていい。意味がなくてもいい。ただ合唱練習を徹底して楽しくする。楽しめるものにする。それを1週間続けたら、生徒たちは気づくと音がとれているとか、気づいたら「ちょっと勝ちたくなってきた」とか、そうした状態になっていく。合唱コンクールの練習に革命的な変化が起きる。本来、合唱練習とは楽しみながらやるものなのだ。

練習方法の詳細は拙著『必ず成功する「行事指導」魔法の30日間システム』(明治図書)を参照されたい。

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隙間利用

朝学活に行ったら、子どもが一人いない。欠席連絡は入っていない、どうしたんだろう。昨日はあんなに元気だったのに……。さて、保護者に電話をかけなければならないわけですが、あなたはいつ、どこで電話をかけますか? 授業に必要なものを教材業者に発注するために電話をかけなければならない。あなたはいつ、どこで電話をかけますか? ちょっとした保護者への連絡、部活動に伴う他校の先生への連絡、研究活動に伴う他校の先生への連絡、行事にからむ旅行業者への連絡、数限りない電話連絡をあなたはいつ、どこでしているでしょうか。

私は教室近辺の廊下、或いは教室のある階の特別教室で行います。朝学活中にちょっと廊下に出て、携帯電話で欠席連絡のなかった保護者に連絡してしまう。ものの一分もかかりません。朝学活のうちに「○○くんは風邪で欠席だそうだ」と日直に伝えることができます。複雑な事情があるとわかれば、「すみません。朝学活中なので五分後にまたかけ直します」と言って、チャイムが鳴るとと同時に教室と同じ階にある「教育相談室」に行って再度電話をすることになります。勤務校は朝学活終了から一校時までに十分ありますから、かなり余裕をもって話をすることができます。これが一度職員室に戻って電話をかけていたのでは、一校時に間に合うには話す時間ガニ分程度しかなくなってしまいます(勤務校は校舎が広く、職員室から教室まで約三分かかる)。電話連絡が二本必要な場合には一校時に間に合わなくなってしまいます。

基本的に業者への連絡や他校の先生との連絡も、私は教育相談室で授業の間の十分休みで済ませてしまいます。こうすれば電話連絡に空き時間や放課後を浸食されません。先方が不在の場合には伝言で済ませてしまいます。こんな感じですから私はほとんど職員室にいません。ときにセミナー講師のオファーなどの電話が学校にかかってくることがありますが、私が勤務時間中に電話に出るということがまずありません。勤務校は校内放送を非常時のものとし、職員を呼び出す校内放送をかけることを禁止していますから、私の机上に電話引き継ぎのメモが置かれたとしても、私がそれを見るのは何時間も経った後です。私を講師として招いてくれる管理職が「取り敢えずご挨拶を」という感じで、電話をかけてくることがありますが、多くの場合、それも私は無視します。折り返し電話をするということはまずありません。そういう意味では、私は公務以外の仕事に関してはかなりビジネスライクです。私が放課後をつぶして電話を折り返すのは、保護者に対してだけというのが現実です。こんな時代ですから、公務外の仕事に関してはメールで済ましてくれよ……というのが本音です。

例えば、北海道の冬には、暖房がききすぎて教室が暑いということがあります。子どもたちも暖房を切って欲しいと言います。逆に、春先や秋などにまだ暖房が入っていなくて子どもたちが寒がる場合もあります。こんなときにも、私は携帯電話で学校に電話し、教頭に「○年○組の暖房を切ってもらえますか」「○年○組に暖房を入れてもらえますか」と電話します。

例えば、授業中にある子が具合が悪くなり、保健室に行きたいと言い出すことがあります。聞くと自分一人で行けそうなので、私がついていくまでもないようです。こんなときにも、私は携帯電話で学校に電話して保健室に取り次いでもらいます。そして「いま○年○組の○○さんが保健室に向かいました。大丈夫とは思いますが、よろしくお願いします」と連絡します。

電話連絡だけではありません。職員会議前に同僚の先生とちょっとした打ち合わせをしておきたい(いわゆる「根回し」ですね)、提案文書をつくったので事前に目を通してもらうべき人たちに文書を配布して回る、学年の生活指導の先生と今日の昼休みの生徒指導の分担について確認したい、ある子に昨日約束したこれこれについて確認したい、最近の学校生活に少し不安を感じる子がいるのでちょっとだけ二人で話をしたい、こんな小さな、それでいて重要なやりとりを、すべて授業の合間の十分休みにこなしてしまいます。実は、簡単なワークシート程度なら、パソコンを開いて十分休みに教室でつくってしまうことさえあります。

現在、中学校の日課はほとんどが六時間授業です。帰り学活が終わり清掃が終わると、放課後は四十五間しかありません。しかも、十分休みは朝学活後・帰り学活前を含めて日に六回もあるのです。なんと六十分です。これを有効に活用しない手はないではありませんか。

多くの教師は十分休みが足すと六十分になるということを意識していません。また、一本の電話、一つの打ち合わせがだいたい何分程度かかっているのかということにも無自覚です。私の経験でいうと、それが連絡であろうと根回しであろうと文書の説明であろうと、一つの連絡にかかる時間はだいたい三分以内です。放課後や空き時間など時間のあるときにやると、どうしても雑談が紛れ込んでしまい、必要以上に時間がかかっているだけなのです。

私は中学校教師ですから、一日に一~二時間程度の空き時間があります。毎日、放課後の時間が四十五分間あります。この時間にはパソコンを開いて必要な提案文書をつくったり、授業のワークシートをつくったり、保護者と電話で相談したりします。しかし、そうした仕事もいつもいつもあるわけではありませんから、大きな声では言えませんが、私は勤務時間を余しているというのが実態です。そしてそれは、一日六十分、週に五時間にもわたる「隙間時間」にちゃんと仕事をしているからなのだと自負しています。

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高いアンテナってどうしたら手に入る?

僕はアンテナの高さに割と自信がある。

もちろん我が家のアンテナが高いと自慢しているわけではない。あくまでも比喩だ。だいいち僕は自分の家のアンテナを見たことがない。だから我が家のアンテナを自慢することができない。人は知らないものを自慢できない。それはちょうど、自分の体力の自慢できても、自分の十二指腸がいかに活発に機能しているかを自慢できないのに似ている。

僕は小説をよく読む。学生時代にもよく読んでいたが、就職してからはあまり読まなくなり、四十代の後半に入ってまた再びよく読むようになった。年をとってきて教育書から学ぶべきことがあまりなくなったし、学術書を読むにはこらえ性がなくなってきた。それで再び小説を読むようになった。自分ではそんな感じで捉えている。なぜ小説に回帰したのかと問われても、それを明快に説明することはできない。それはちょうど、自分の躰のなかで十二指腸が確かに働いているはずなのに、自分自身でその働きを意識することができないのと似ている。

さて、二○一三年度のことである。僕のなかで大ヒットしたのは桐野夏生だった。昔からなんとなく気になる事件だった東電OL殺人事件で逮捕された外国人の再審請求が通り、どうやら冤罪だったらしいという機運が立ちこめてきた折、何か関連する本が読みたくなって探してみると、桐野夏生に『グロテスク』と題する東電OL殺人事件をモチーフとした長編小説があるのを見つけた。それを読んではまってしまったのである。二○一三年は僕が桐野夏生の文庫本をすべて読破した年だった。僕にとってのこの年の一番の事件は、桐野夏生と出逢ったことと言って良い。それはちょうど、十二指腸が……いや、もうやめよう。ちなみに僕は小学校5年生のときに十二指腸という内臓の存在を死って以来、明かに十二指腸フェチである。もし僕が「好きな内臓は何?」と訊かれたら、迷わず「十二指腸です」と応えるだろう。しかし、残念ながら、人生四十八年、僕に好きな内臓を問うてきた人はいない。

前置きが長くなった。アンテナの話である。

桐野夏生を呼んでいると、例えば次のような表現に出逢う。

佐喜子の合理主義は生活者としては優秀だか、伴侶としては決定的に物足りなかった。
(「羊歯の庭」/『錆びる心』所収・文春文庫・46頁)

どうということのない叙述に思われるかもしれないが、僕にとっては学校教育を考えるうえでずいぶんと大きなヒントをもたらしてくれた一文になった。生活者として優秀なのに伴侶としては物足りないと感じさせる合理主義。こういう質のことが教師の魅力としてもあるのではないか。合理的にシステムを敷く教師は子どもたちから見て安心感を与える。そういう意味では優秀である。しかし、担任教師がそうした合理主義だけで学級を運営しようとしたとき、子どもたちは何とも言いようのない物足りなさを感じるのではないか。

また、桐野夏生を呼んでいると、こんな描写に出逢うこともある。

「あなたとこんな風になるなんて思ってもいなかった」
石山の腕の中は、甘美な牢獄だと思いながらカスミはつぶやいた。時間が迫っているのに、いつまでも囚われていたい。(『柔らかな頬』上巻・文春文庫・27頁)

これは主人公のカスミの不倫の情事の場面である。いわゆるピロートークのシーンだ。

こんな場面からも教育論は生まれる。ここで言う「甘美な牢獄」という言葉は僕にある種の震撼をもたらした。成功する学級経営とは実は「甘美な牢獄」をつくっているのではないか。学級とは牢獄である。子どもたちは学級を選べない。自由に教室から出て行くこともできない。その意味では間違いなく牢獄である。牢獄であることを意識しているからこそ、心ある教師はそこに甘美性をつくろうとする。若い教師はそこが牢獄であることを意識せずに、甘美性ばかりを追い求めるから牢獄に適した甘美性ではなく、甘美そのものをつくろうとしてしまう。その結果、時に学級崩壊が産まれる。牢獄に適した甘美と適さない甘美があるのではないか。こんな具合である。

「アンテナが高い」というと、一般的にいろいろな情報を集め、さまざまな情報に精通していることのように感じられる。でも、アンテナが高さとは、実は一見無関係に思われる事柄からも、自分の仕事に活きる情報を創造してしまえることを言うのである。さまざまなものを自らに触媒として機能させることのできる能力を「アンテナが高い」というのだ。それはちょうど、アンテナの高さと十二指腸フェチという全く関係ない二つを掛け合わせて一文を書いてしまうようなものだ。

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向上的変容を自覚させよ!

学習意欲の喚起において何よりも大切なことは、子どもたちが「この授業を受けて良かったな」と思えるような授業、「今日の授業を受けてまた一つ自分は賢くなった」と思えるような授業を毎時間続けていくことです。

野口芳宏氏はこれを「向上的変容の連続的保障」と呼んでいます。

私たち教師は授業を1時間単位で考えがちです。せいぜい一つの教材、一つの単元のまとまりで考えるのが一般的です。国語は教材の指導の連続、単元の指導の連続でできていますから。

しかし、1年間、百数十時間ある国語の授業において、そのすべての授業において子どもたちが明確に「これを学んだ」と言えるような授業、「ああ、この国語の授業でこれこれを学んだ」と実感できる授業を続けていけたとしたら、もはや教師が意欲喚起に腐心して動機付けを保障することなどしなくても、子どもたちは国語の授業を楽しみにさえするようになるのです。

皆さんにはその1時間で指導すべき国語学力を明確にしながら、子どもたち全員に是が非でもわからせ、子どもたち全員を是が非でもできるようにさせるという気概をもって授業に臨んでいるでしょうか。

実は「意欲喚起」とひと言で言いますが、「意欲喚起」はその1時間1時間で独立しているのではありません。国語科に限りませんが、授業にはおもしろくなくても、楽しくなくても、なぜそれをしなければならないのかわからなくても、どうしても覚えなければならないこと、どうしてもできるようにならなければならないことというのがたくさんあります。そうした一見、細かい授業技術では学習意欲など喚起できそうにない指導事項について学習する場合にも、子どもたちが取り組もうとする、そうした状態に子どもたちを導くことこそが「学習意欲を喚起する」ということの本質なのです。

そのためには、子どもたちにわからなかったことをわからせ、できなかったことをできるようにさせる、そうした授業が連続的に保障されることが何よりも必要なのです。

使い古された言い方ですが、子どもたちはだれもが勉強をわかるようになりたいと思っていますし、できるようになりたいと思っています。私は中学校教師ですが、やんちゃな中学生、勉強なんてどうでもいいと口にする中学生でさえ、その思いを実は大きくもっています。彼ら彼女らに接していると、小学校1年生から中学校3年までのどこかで勉強がわからなくなり、どこかで諦めてしまったのだということが伝わってきます。個別に勉強を丁寧に教えてあげると、喜んで勉強をします。「わかった!」「できた!」と満面の笑みをこぼします。

向上的変容の保障こそが意欲喚起の王道なのです。

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虚に視線を注げ!

授業で子どもたちが発言しています。一斉授業では、原則として一時に発言する子どもは一人です。

例えば、Aくんが発言しています。登場人物の心情はこうなんじゃないかと一所懸命に自分の解釈を発言しています。周りの子どもたちもAくんの発言を聞き漏らさないようにと耳を傾けています。教室でよく見られる光景です。

さて、このとき、教師の視線はどこに向けられているでしょうか。Aくんという発言者に一点集中してはいないでしょうか。

教師はこのとき、心の中で「Aくん、頑張れ」と応援しています。周りの子どもたちもAくんの話を集中して聞いているようです。そう教師は捉えています。

しかし、ここで一歩立ち止まって考えてみましょう。ほんとうに教室にいる全員がAくんの話に集中しているのでしょうか。ほんとうは「全員が」ではなく「ほぼ全員が」なのではないでしょうか。いえいえ、よく考えると、「ほとんどが」かもしれません。そもそも聞いていないのはだれとだれなのでしょうか。それを教師は把握しなくて良いのでしょうか。だれが手遊びをしていて、だれが授業に上の空で窓の外を眺めているのかを教師が把握していれば、何か適切な指導があり得るのではないでしょうか。

いま、Aくんが発言しています。言ってみれば、いま、Aくんはみんなの注目を集めているスターです。黙っていても、一所懸命なのはわかります。問題はこのとき、教師までそのスターに一信に注目していて良いのかということです。教師が視線を注ぐべきは、いまは注目されていない、その他大勢の子どもたちなのではないでしょうか。その子たちこそがいま素(す)に近い状態であり、授業への参加態度に難点があるとすれば、むしろ指導すべき貴重なタイミングなのではないでしょうか。

「虚に視線を注ぐ」とは、いま注目されている子どもではなく、その他の子どもたち、まさに「虚」となっている子どもたちに視線を注ぐことを意味しています。素に近い状態の子どもたちにこそ、実は授業への参加態度の在り方が如実に出るのです。もしも教師が子どもたちと同じようにスターたるAくんにしか注目していないとすれば、それは実は他の子どもたちに対する貴重な評価のチャンス、指導のチャンスを見逃していると言わざるを得ません。

ある子が発言しているときにはその他の子にこそ視線を注ぐ。発表学習であるグループが発表しているならば、その他の子どもたちにこそ視線を注ぐ。教師にはこの基本姿勢が必要です。

聞いていない子に注意しろ、説教しろと言っているのではありません。ちょっと近くに行って笑顔を向ける。それだけで子どもは「先生が見ていてくれている」という意識をもつものなのです。この機能を軽視してはいけません。

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短期拙速

あなたはいま、保護者向けに学校長名で出すプリントをつくろうとパソコンを開きました。行事部として運動会の案内文書をつくっているでもいいですし、生徒指導部として夏休みの生活において注意を促す文書をつくっているでも構いません。要するにあなたは校長名で学校を代表する文書を作成しようとしているのです。ところが前任者がいいかげんで、前年度のファイルが残っていません。あ~あ、最初から自分でつくるのか……とあなたは面倒になります。でも、今日中につくらなきゃ間に合いません。仕方なくつくり始めます。

さて、あなたがまずすることは何でしょうか。「あれ?教委から出ている保護者向け文書のフォーマットってどんなだったっけ?」と、タイトルや日付、学校長名を入れる箇所に戸惑うのでしょうか。それとも、「あれ?いまの時期の時候の挨拶ってどんなのがあったっけ?」とインターネットで検索するのでしょうか。それとも時候の挨拶に詳しそうな隣のベテラン教師に尋ねるのでしょうか。でも、隣の先生はなにやら難しい顔でパソコンとにらめっこしています。まさかその教師の仕事がひと段落つくまで待つ……なんて人はいませんよね?(笑)

さて、もう私の言いたいことがおわかりかと思います。そうです。これらの時間はすべて無駄なのです。校長名で出す文書は最終的に管理職のチェックを受けなければ出せないものです。教委から出されているフォーマットと違っていれば、あとで教頭が赤を入れてくれるはずなのではありませんか? 時候の挨拶なんて、保護者のだれか一人でも気にするのでしょうか。「早春の候」とか「初夏の候」で充分なのではありませんか? もしも「それでは簡潔すぎでどうも……」なんていう管理職なのだとしたら、チェックのときに代案を書いてくれるのではありませんか?それで何の不都合があるでしょうか。

いやいや、私は丁寧な仕事をしたいのだ。管理職の手をわずらわせるなんて……。そう考える方がおられると思います。では、あなたが丁寧な仕事をすれば、管理職に赤を一箇所も入れられないような文書がつくれるのでしょうか。私はもう四半世紀近くも教職を続けているベテランの部類の教師ですが、私のつくる文書でさえ管理職のチェックが入る入らないは、一勝一敗程度の確率です。言っておきますが、私の教科は国語です。それでも勝率は五割なのです。だいたい管理職という人種は自分の存在感をアピールするために赤を入れたがるものなのです(笑)。どうせ赤が入るのなら、自分の時間を節約するために最初から赤を入れてもらうつもりでつくれば良いではありませんか。チェックされたことをチェックされたとおりに直すだけならば、五分もかかりません。でも、フォーマットを調べたりインターネットで調べたりするのには、いったい何十分の時間が必要になるでしょうか。

ルーティンワークに対して、私は基本的にこのような発想で取り組んでいます。これでいいのです。それでも管理職の手をわずらわせるのはどうも気が引けるという方がいらっしゃるかもしれません。でも、あなたが調べるのに十分かかる教委の出しているフォーマットは、教頭にとっては一瞬のことなのです。だって日常的にそのフォーマットで文書をつくっているわけですから、そんなことは調べる必要もないことなのです。実は時候の挨拶にしても同じです。教頭はまず間違いなく、三日以内に、いまこの時期の時候の挨拶を入れた文書をつくっています。あたりまえのことです。教頭の仕事とはそういうものなのですから。なんの遠慮もいりません。そんなことを調べのに時間を使うくらいなら、明日のワークシートの一枚もつくった方が生産的です。私たちの仕事の中心は学校を管理することではなく、子どもたちを育てることなのですから。

私は校務分掌なんてこんな感じの発想でいい、私たちは子どもにこそ時間をかけるべきだ、そう言いたいのではありません。若い教師には勘違いしている人が多いのですが、誤解を怖れずに言えば、たかが一学級の学級経営や授業運営よりも学校全体を動かす校務分掌の仕事の方がはるかに重要です。学級崩壊は担任が交代すれば済みますが、学校の信用は一度失うと取り戻すのに何年、何十年とかかります。

私が言いたいのは、こういう仕事振りの方が実は結果的に良い仕事ができ上がるのだ、いうことなのです。皆さんのなかに、自分は職員室のすべてを理解している、他の教師たちが考えていることをすべて事前に予測できる、そんな自信をもっている方はいらっしゃるでしょうか。おそらくいないはずです。なのに自己満足の「丁寧な仕事を」という思いが「自分なりの完璧な仕事」をつくり出してしまうのです。「自分なりの完璧な仕事」を職員会議に提案したのに、反対されて原を立てたことがないでしょうか。或いは落ち込んだことがないでしょうか。それはあなたの丁寧さと完璧さであって、その同僚にとっては完璧でないばかりか許容範囲内でさえなかったのです。文書の出来を見れば、だれだってあなたが一所懸命にした仕事であることはわかります。それでもその同僚にとっては許容できない提案だったのです。

「丁寧な仕事」とは、本来、職員や子どものだれもが納得できるような仕事をする、そのことにこそ時間と労力を割くことを言うのだと私は考えています。そのためには、短期的なルーティンワークであれば、「拙速」を旨とするのが一番なのです。それが細かな打ち合わせやさまざくまな人たちの意見を通ったうえでの「丁寧な仕事」を完成させるコツなのです。

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授業力

1.教材研究派と子どもへの働きかけ派

「授業力」をひと言で定義するのは難しいことです。おおまかに言えば、授業を推進する力ということは言えますが、授業を推進するのに「教材研究」を中心に推進するタイプと、「子どもへの働きかけ」を中心に推進するタイプとがあります。

私は中学校の国語教師ですが、もともとは「教材研究」を中心に推進するタイプでした。それが「子どもへの働きかけ」を中心にするタイプの多くの仲間に得て、その発想や技術を学んできたという実感があります。

これまでの教師人生において多くの国語教師と接してきましたが、「教材研究推進派」が「子どもへの働きかけ」の妙を身につけることができる確率はけっこうな割合がありますが、「子どもへの働きかけ派」が「教材研究」の妙を身につけるのはほとんど不可能のようです。授業の原動力となるような「教材研究」には、やはり多角的な視点や学術的な裏付けなどが必要で、それらに教師をやりながら取り組み始めるということに無理があるようなのです。

教師をやりながら学術的な研究にも取り組んでいる人はたくさんいる、そう反論されたい向きもあると思います。しかし、そういう方々は実は「教師をやる前から」そういう研究に没頭していた人たちであって、教師生活が始まってから取り組み始めたわけではありません。そこのところに大きな違いがあるのです。ここには如何ともしがたい業のようなものがあるように感じています。

では、「子どもへの働きかけ派」の教師たちは授業推進力をどのように高めていけば良いのか。それは「子どもへの働きかけ」の授業技術を更に高めて行くこと、日常生活においてちょっとした興味をそそられる事象を徹底的に収集するタイプの教材開発、この2点に集約されるように感じます。変に学術的研究を求めたり一つのことを多角的に見ようと分析したりせずに、子どもたちの興味をそそりそうな「雑学的なおもしろいもの」を徹底的に収集するのです。深さではなく広さで勝負すると言ったらわかりやすいでしょうか。

2.特殊性と共通感覚

「教材研究派」は授業づくりにおいて、自らの教材研究の到達点に子どもたちを到達させられないかと発想します。それはほとんど夢物語に近いものです。子どもがそこまで到達することはあり得ません。しかし、私にも経験があるのでよくわかるのですが、彼らはみんなこれを夢想するのです。これが心ある「教材研究派」たちに、自分の授業をどのように子どもたちに機能させるか、少しでも自分の到達点に子どもたちを近づけるにはどうしたら良いかという視点を抱かせます。その結果、少しずつではありますが、「子どもへの働きかけ」の妙に目が向き始めます。これが「教材研究派」が「子どもへの働きかけ」の妙を身につけていく場合の基本ルートになります。いわば、「教材研究派」から授業推進力を身につけていく人たちは、自分の特殊性に自覚的であり、その特殊性に対する自己否定をその原動力としているわけです。

しかし、「子どもへの働きかけ」派は趣を異にします。彼らは子どもたちとの共通感覚、共同感覚を原動力としています。子どもたちはこう問えばこう考えるだろう、子どもたちはこうした活動をすれば必然的にこれを学ぶに違いない、こうした発想の根幹にあるのは教師が自分と子どもたちとの間にある共通感覚を信じる姿勢です。共通感覚を信じる姿勢は、方法さえ妥当なものであれば子どもたちもこの共通感覚を実感できるはずだという方向に向かいます。従って、教材そのものの研究ではなく、授業技術や授業展開、学習活動の質、子どもの認知の在り方などに興味が向いていきます。その結果、その教材自体がもっている価値を深く掘り下げようという方向に思考が向いていかない傾向があるのです。教材研究に本格的に取り組むとなると時間がかかります。一つのことに時間がかかり過ぎるわけです。「ごんぎつね」でも「一つの花」でも、作者論や作品研究といった先行文献(実践研究のことではない)を集めて渉猟するのに、どれだけの時間がかかるかは想像ができるはずです。これまた私にも経験があるのでわかるのですが、夏休みをまるごと使って一教材というのが限度なのです。こうした研究に取り組むことと教師生活を両立するのは現実的ではありません。

3.課題と設定

「教材研究派」と「子どもへの働きかけ派」とでは、実は「教材研究」という言葉を異なった意味で使っているところがあります。前者のなかでは教材のもととなっている「素材」の研究が「教材研究」の多くを占めます。後者においては、「素材」の研究は指導書に掲載されている程度で充分であり、それを子どもたちがどう捉えるかとか、子どもたちがどのような思考を経てそこに到達するかとか、或いは子どもの到達への筋道には何通りが考えられるかとか、こういうことを考えることが「教材研究」です。

「教材研究派」は子どもの思考を単線的に考えやすい傾向をもっていますし、「子どもへの働きかけ」派は教材の価値を浅薄に考える傾向があります。

昨今、協同学習やファシリテーション、ワークショップ型授業など、活動型の授業が隆盛を極めています。ここうした活動型の授業において、それを機能させるためにとても重要なのが「課題」と「設定」です。では、「課題」と「設定」、どちらが大切なのかと言えば、こうした学習活動が子どもたちに学びを保障するのはやはり「課題」の質だと言えます。ある程度の時間を使って、子どもたちが自力で体験したり話し合ったりということに堪える、適切な「課題」が必要なわけです。

こうした「課題」は、最初はこうだと思っていたことが実はこうだったとか、その課題に取り組んでいるうちに三つの問題点が浮かび上がってきてそれに取り組んでいるうちに新たな大きな発見があるとか、そうした二重三重の仕掛けをもつ課題であることが理想的です。「設定」とは本来、そうした「課題」の仕掛けを適切に機能させるように施すフレームワークのことです。「課題」を考案することは、教材自体、素材自体に対する深い研究が必要です。これは「教材研究派」ヶの得意とするところです。しかし、「教材研究派」はこうし「課題づくり」は得意としているものの、それを更に機能させるような「設定」の妙をつくることを不得意としています。ここが「教材研究派」の問題点だと言えるでしょう。

逆に、「子どもの働きかけ派」の活動型授業は多くの場合、「設定」のみに頼ったゲーム性の高いものになりがちです。確かに楽しいのですが、学びが少ない、多くがそういったものになってしまいます。確かに「設定」のフレームワークによって意欲を喚起することは可能ですが、到達点が勝ち負けに過ぎなかったり、活動体験に基づいたリフレクションやシェアリングに頼りすぎてしまっていては、子どもたちは自分を超えるもの、自分の頭のなかを超えるものに目が向かなくなってしまいます。これでは授業どころか、教育の根幹をはずしてしまいます。ここに「子どもへの働きかけ派」の限界があると言えるでしょう。

4.共同研究と授業力

授業研究は古くから、複数の教師が集まって共同研究で指導案をつくることを旨としています。その指導案が研究授業として実践され、成果と課題が積み重ねられていく、そういう流れで構想されます。

しかし、年に1回から数回の授業研究ではなかなか力量を高めることができません。これは「教材研究派」であっても「子どもへの働きかけ派」であっても同様です。

私は「授業力」を身につけようとするなら、授業研究を目的とした仲間をもって最低月に一度、できれば月に二度程度の定例会を開いて議論し合うしかないと感じています。しかも、そこには必ず、「教材研究派」と「子どもへの働きかけ」派がともにいなければならない、そう感じています。双方が双方から互いに学び合う、その前提がなければ授業力の捉え方自体が偏ってしまうからです。

多くの教師は、授業研究を一人で行っています。仲間をもって共同研究する教師でも、同じような実践をしている同じようなタイプの教師で集まって共同研究をしています。「教材研究派」と「子どもへの働きかけ派」がともにいるという共同研究はほとんどありません。両者が半々ずついるという共同研究となると、おそらく全国に皆無なのではないでしょうか。

読者諸氏がほんとうに授業力を高めたいと思うのならば、このことに自覚的である必要があります。

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裁きの場に立たせよ!

授業において意見交換の末に対立が生まれることがあります。どちらも一歩も譲らず、片方が意見を言えば、もう片方が言い返す。5往復も応酬が続くと、両者共に意地を張り始めて、そのまま続けても決着がつきません。

こんなとき、教師は盛んに反論し合う二人を交互に指名してなんとか決着させようとしますが、既に二人とも自分の意見へのこだわりが大きいために、なかなか意見が深まるということがありません。周りの子たちもなるほどなと二人の意見を聞きながらも、この対立の決着はつかないなと考え始めます。

このとき、実は対立し意見を言い合う二人にとっても、周りで訊いている子どもたちにとっても、授業は膠着状態に陥っています。既に思考の深まりの可能性が薄くなっているのです。

次第に教師の側もこれ以上続けても無駄だなと思うようになります。「よし。それじゃあ……」と教師が間に入って整理しようと試みたり、話し合いをそこで打ち切って教師が答えを言ってしまったりということになります。

しかし、これでは対立している二人は納得しません。周りの子たちにもこの対立が有意義に働くこともありません。ただ、不毛な対立だったのだなという印象が残るだけです。

こうした場合には、次のように問うのが定石です。

「よし。一度、観点を変えて、みくんなに訊いてみよう。いまのAくんとBさんの議論、どっちがみんなにとって説得力があっただろう。Aくんだと思った人はノートにAくんと、Bさんだと思った人はノートにBさんと書いて、その理由を『~だから』の形で短く書いてみよう。」

こう言って、目先を変えるのです。AくんもBさんも自分が正しいと思っているだけに、みんなにとってどちらが説得力があったのかに注目します。

その後、分布を取って5人程度に説得力の理由を答えてもらいます。こうすると、その後の意見は、AくんもBさんも互いに相手を説得しようとするのではなく、みんなに説得力のあるような言い方をしなければという意識が働くようになります。周りの子どもたちにも、二人がそういう意識で話すようになったので、しかもそうなったのは自分たちが裁いたからだという意識が働くので、しっかりと二人の意見を聞かなければならないという責任意識が生まれます。これらの意識がこれまでの対立的な話し合いを一気に有意義なものにしていくのです。

このようなやりとりも、「学習意欲の持続性」を促す有効な手段です。教師が出て行って断罪するのではなく、周りの子どもたちを裁きの場に立たせることによって、そのような環境を教師がつくってあげることによって、教室全体に改めて意見交換への関心を喚起するのです。

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適度な刺激を与え続けよ!

意見を書かせたら、適切な刺激を与え続けることが大切です。

オーソドックスな手法としては、選択肢を与えて意見をノートに書かせているうちに、机間巡視をして子どもたちの把握します。ノートに意見を書かせると、教師が事前にこうした子どもたちの反応を把握することができます。こうした反応分析ができることも、意見を必ずノートに書かせることの大きな意義です。

さて、例えば、「+」か「-」か「0」かと問うて、「+」と「0」が半々、「-」が二人しかいなかったとしましょう。この「-」と書いた二人のうちの一人に、次のように尋ねます。

「Aくん、きみは+と-と0のうち、どれを書いた?」

Aくんは答えます。

「-です」

そこで教師は切り返します。

「そうだね。きみは-と考えたわけだ。では、みんなはどうだと思う?+と書いた人と-と書いた人と0と書いた人と、どれが一番多いと思う?」

Aくんは答えに詰まります。自分の書いた「-」という答えに自信がなければ、「うーん…」と唸りますし、自信があれば元気に「-が多いと思います!」と答えるでしょう。いずれにしても、Aくんを中心に学級全体に「どれが一番多いんだろう……」と興味を抱く空気が生まれます。「よし。それじゃあ、確かめてみよう。まず、-と書いた人、手挙げて」

教師がこう言った瞬間の学級全体を包み込む期待感を教師であれば想像することができるはずです。そして、三つの確認を終えたときのAくんの不思議そうな、それでいてなんとも照れ臭そうな表情をも。そしてそれは、決して授業にとってマイナスに機能するのではなく、これからみくんながどういう理由で選択肢を選んだのかということを意見交換することへの、大きな期待感に転移していくはずのものであることも。

適度な刺激を与えるとはこういうことです。

発問し、意見を書かせた後にただ意見交換を始めるのではなく、こうしたちょっとした刺激を与えることで、授業には大きな潤いが生まれるのです。

力量の高い教師は、発問・指示・説明の他に、こうした適度な刺激を与える指導言を随所に散りばめます。授業は長く、発問・指示・説明で展開されていくと考えられてきましたが、実は授業を展開するには、こうした適度な刺激によって次への小さな期待感を子どもたちに喚起することの連続なのだと心得るべきでしょう。

こうした適度な刺激を与え続けることこそが、学習意欲を持続させることのキモなのです。

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意見は必ずノートさせよ!

教師が発問します。子どもたちが挙手します。教師がある子を指名します。その子が答えます。なるほど…と教師が引き取って板書します。

別の子が手を挙げます。教師が指名します。その子が答えます。教師が引き取って板書します。これが何回が繰り返されます。

5~8人くらいが発表したところで、教師が想定していた子どもの意見の分類はだいたい出そろいます。子どもたちももうわざわざ手を挙げてまで発表しようとは思いません。自分と似たような意見は既に出てしまっていますし、細かい違いはあるにせよ、まあ似たようなものだからいいや……となってしまうのです。

しかし、教師はそういう細かな違いを出して欲しいと思っています。ですから、しつこく「他にはありませんか」と発言を求めます。この教師の意図と子どもの意図との違いが、子どもたちの「戸惑い」を生みます。授業に、小さいけれど確かな「どんより」が生じる瞬間です。

実はこれは「挙手-指名型授業」の弊害なのです。「挙手-指名型授業」は、教師の発問と同時に子どもたちに手を挙げて発言することを求めます。意見は子どもたちの頭の中だけにあります。Aくんの考えていることは、Aくんが発言しない限り、教師にも他の子どもたちにも見えません。しかもAくんは、たとえ他人の意見を聞いて途中で意見を変えたとしても、「最初からそう思っていた」と嘘をつくことが可能です。要するに、教師がしつこく訊いたとしても、「最初から板書してあるBくんと同じ考えをもっていた。何も付け加えることはない。」と言い張ることができるわけです。

「挙手-指名型授業」はこのように、意見が頭の中だけにあり、授業において口頭だけでなんとでも言い訳できる構造をもっています。私はこれを「国語科授業の空中戦」と呼んでいます。

しかし、教師が発問に際して、「このときの主人公は+か-か0か。それを書いたうえで、その理由を一文も書きなさい。」とノートに書くことを指示したとしたらどうでしょうか。しかも、「あとでそのノートを見せながら、隣同士で意見交換するよ。」と付け加えたらどうなるでしょうか。子どもたちは途端にこれからノートに書く自分の意見に責任をもたなければならなくなります。それだけ真剣に考えざるを得なくなります。

しかも、ノートに書かれた子どもの意見は、教師が机間巡視で確認できるようになります。「ははあ…、AくんとBくんはちょうど正反対の意見をもっているな。この対立をなんとかこれからの授業で活かせないかな……」などと考えることさえできるようになります。

私はこれを「国語科授業の地上戦」と呼んでいます。

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教師らしくなりたい?

ある年、僕が学年主任をしていた年の一学期のことである。初めて担任を経験する隣のクラスの女の子が子どもとのちょっとした言葉の行き違いで落ち込んだことがあった。彼女がメールで相談してきたので、それに応えてやりとりをしているうちに、こんな言葉が送られてきた。

「いつになったら教師らしくなれるんでしょう……。」

僕はすぐに返信した。

「そんな馬鹿なことを考えるんじゃない。教師らしいお前なんて目指すんじゃない。目指すべきはお前らしい教師だ。お前が教師に近づくんじゃなくて、教師という仕事をお前の方に引っ張ってくるんだ。そうじゃないとうまくいかない。いつまでも落ち込むことになる。負のサイクルから逃れられない。」

この言葉は彼女に響いたようで、その後、僕が学年主任として彼女を指導していくうえで、一つのキーワードとなっていった。

さて、最近の若い人たちに顕著なのだが、どこかに理想の教師像があってそれに自分を近づけようという発想で仕事をしている人がいる。でも、そんなことをしていたら、いつまでも落ち込み続けることにしかならない。できない自分、教師らしくない自分を常に意識することになるからだ。「教師らしい」という言葉は危険な言葉だ。人としてちょっと躓いてしまうと、それが「教師らしくない」ということに置き換えられてしまう。「教師らしい」という言葉が、言ってみれば「完璧な人間であること」と同義になりかねない言葉であるからだ。そんなことは最初から無理なのである。完璧な人間などいないのと同様に、完璧な教師もあり得ない。こう言われればわかるのに、「教師らしさ」という言葉がこんなにも当然のことを曖昧にしてしまう。

人間はだれしも不完全である。良いところもあれば悪いところもある。良いところは伸ばした方がいいし、悪いところは直した方がいい。どうしても人はそう考えてしまう。でも、良いところを伸ばすことは良いとして、悪いところを直そうと頑張りすぎてしまうと苦しくなる。読者の皆さんは自分の悪いところを直そうとして直せたためしがおありだろうか。うん。私は自分の悪いところを直した。満足だ。そういう方がいるだろうか。僕はそういう人を見たことがないし、自分で悪いところを直そうと試みて直せたためしがない。これは自信をもって言う(笑)。

僕らは人間を相手にしている。人間を相手にしている僕らも人間である。人間である子どもたちに悪いところがあるのと同様に、教師である僕らにも悪いところはある。自分の悪いところを直そうとする教師は自分が苦しくなるのみならず、子どもたちにもそれを求めて子どもたちをも苦しくさせる。良いところを伸ばそうとするよりも悪いところを直そうとするが故に、結果的に教育的でない苦しさをもたらす。遂には子どもの良いところよりも悪いところばかりが目についてしまい、そればかりを指摘するようになる。悪循環だ。

僕は子どもたちも自分も、良いところを伸ばすだけで良いと思っている。自分の悪いところはどうしようもないのだから、その悪いところを武器にする方法はないかと発想とする。子どもたちにもそれがお前らしさなんだから、人に大迷惑をかけない程度なら許されるよと笑う。だから先生のダメさも許してねと上目遣いで訴える。子どもたちもそんな僕を笑う。これが僕の「僕らしい教師像」である。かなりいい加減たけれど、僕としてはなんにも困らない。子どもたちに困っている様子もない。それでいいじゃないか(笑)。文句を言われる筋合いはない。

数ヶ月後、隣の女の子からメールをもらった。既に彼女は常に笑顔で物事にあたる、前向きな女教師に代わっていた。二学期半ばのことである。

「ちゃんと見ていてくれている安心感があるんでしょうね。気持ちが一学期とは違うのが自分でも分かるんです。」

僕は次のように返信した。

「自信をもって、いろいろなことに『自分でやってみよう』を原則にして意識的に取り組んでみるといい。失敗したらごめんなさいすればいいだけだ。もっと失敗してもオレに叱られるだけだ。もっと大きな失敗ならオレもいっしょに頭を下げてやる。その程度の話だ。」

相手が同僚であろうと子どもであろうと、自分の思い通りに動かそうとするのではなく、そのままでいいんだよ、自分らしくしていていいんだよと安心感を与えて笑顔にしてあげることを第一義とする。これが教育の神髄、人を育てることの神髄なのだと僕は信じて疑わない。

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時間限定

毎日の退勤時間は何時ですか? まちまちだよ……なんて答えてはいけません。平均すると何時くらいでしょうか。七時なら早い方。平均八時。遅いときは十時なんてこともある。そんなことになっていませんか?

どのくらい家に仕事を持ち帰っていますか? そのときどきだよ……なんて答えてはいけません。週に何回くらい持ち帰り仕事をしているか。仕事が終わらなくて公務がどれだけ土日を浸食しているか。そんなこんなをちゃんと考えてみるのです。

自分の時間は自分のもんだ。他人にあれこれ言われる筋合いはない。そんなことを思っていませんか? ほんとうにあなたの時間はあなただけのものなのでしょうか。奥さんや旦那さんはあなたとの団欒のときを過ごしたいと思っていませんか? 残業と休日出勤がなければ彼氏や彼女と少し遠出ができるのではありませんか? あなたのお子さんは休日にあなたはいないものだと思っていませんか? そして何より、あなたのお父様やお母様はあなたに会いたい、せめて電話ででも話したい、そう思っているのではありませんか? 残業や休日出勤がなければ、それらは実現するのではありませんか? そして、スポーツに汗を流したり趣味に興じたりする時間さえ生まれるのではありませんか?

そして実は、これが最も大切なことなのですが、残業や休日出勤に疲れ切っているあなたよりも、しっかり休み、しっかり遊んだ元気なあなたの方が、担任している子どもたちにも良い影響を与えるのではないでしょうか。それを考えたことがありますか?

なんのために残業しているのでしょうか。自分の土日を犠牲にしてまで仕事するのはいったいだれのためなのでしょうか。あえて厳しいことを言えば、それは子どもたちのためなんかではありません。すべて自分のためです。自分自身のためなのです。自分だけ早く帰るのは周りの目が気になるからはばかられる。例えばそんなネガティヴな理由です。こんなに遅くまで仕事している自分は子どもたちを第一を考える素晴らしい教師だ。例えばそんな自己顕示欲が理由です。他にすることもないから土日は取り敢えず学校に行くことにしている。なぜ、ご両親に会いに行かないのですか? ご両親はあなたが来るのを心待ちにしているではありませんか。どれもこれも自分自身の勝手な言い分なのです。自己満足なのです。エゴなのです。あなたは「仕事人間」気取りのエゴイストなのです。

そうは言っても仕事が終わらないんだから仕方ない。そんな声が聞こえてきそうです。最近の学校は事務仕事が多くて、みんな多忙を極めている。一所懸命に仕事をしても終わらないんだから残業するしかない。こんなに教師の仕事を増やしている教委が悪い。行政が悪い。政治が悪い。世の中が悪い。そんな愚痴も聞こえてきそうです。でも、ほんとうにそうでしょうか。あなたには勤務時間中になんとなく疲れてボーッとしていたり、必要な書類をあちこち探し回ったり、どう考えても必要のないことにこだわって調べ物をしたり、教材づくりに必要だからと開いたインターネットを見始めたついでに関係のない記事を読みふけったり、お茶を飲みながら同僚と雑談していたり、そんな時間がありませんか? ましてや十九時をまわった頃からプロ野球の動向が気になってテレビを眺めたり、新聞を読みながら最近の事件について同僚と愚痴ったり、給湯室にお茶をいれに行ったついでに女三人集まっておしゃべりに花を咲かせたり、そんなことをしているのではありませんか? これらの時間をなくしたら、さあ、何時に帰れるでしょうか。

いつか効率的に仕事をこなせる自分になれる。いつか残業や休日出勤をしなくても仕事をまわせるようになる。自分はまだ成長が足りないからこくんな状況だけれど、仕事を覚えればちゃんとやれるようになるさ。そんなことをしているのではありませんか。思っていませんか? でも、私は確信をもって言いますが、あなたにそんな日は生涯訪れません。自分が躰を壊したり、子どもに手がかかるようになったり、親の介護が始まったりして、ただ残業や休日出勤ができなくなるだけです。そして、勤務時間だけでは仕事を終わらせることのできないあなたは周りの同僚に迷惑をかける人間になってしまうのです。そういう日が確実にやって来ます。

あなたにとって一番の大きな問題は、実は仕事が多いことでも仕事が遅いことでもまだまだ仕事の力量が足りないことでもありません。あなたの一番の問題は、時間が無限であるかのような生活を送っていることなのです。

私は二十一世紀に入ってから、定時きっかりに退勤することを旨としています。生徒指導や保護者対応があったり会議が延びたりしたときにはもちろん残りますが、それ以外は定時に退勤します。仕事の時間が五時までしかないと決めれば、五時までに仕事が終わるように工夫するようになります。今日の提案文書を今日つくるなんてことは私にはありません。今日の提案文書は先週のうちに完成して印刷もしてあります。今日つくっているのは二週間後に使う文書です。教材研究は一ヶ月先のことに取り組んでいますし、半年後の行事のイメージももう頭のなかに描き始めています。時間を区切ることによって、こういう仕事の仕方になるのです。こういう仕事の仕方にせざるを得なくなるのです。

あなたは五時以降や土日を最初からあてにする人間に堕落しているだけなのです。

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教師らしくなりたい?

ある年、僕が学年主任をしていた年の一学期のことである。初めて担任を経験する隣のクラスの女の子が子どもとのちょっとした言葉の行き違いで落ち込んだことがあった。彼女がメールで相談してきたので、それに応えてやりとりをしているうちに、こんな言葉が送られてきた。

「いつになったら教師らしくなれるんでしょう……。」

僕はすぐに返信した。

「そんな馬鹿なことを考えるんじゃない。教師らしいお前なんて目指すんじゃない。目指すべきはお前らしい教師だ。お前が教師に近づくんじゃなくて、教師という仕事をお前の方に引っ張ってくるんだ。そうじゃないとうまくいかない。いつまでも落ち込むことになる。負のサイクルから逃れられない。」

この言葉は彼女に響いたようで、その後、僕が学年主任として彼女を指導していくうえで、一つのキーワードとなっていった。

さて、最近の若い人たちに顕著なのだが、どこかに理想の教師像があってそれに自分を近づけようという発想で仕事をしている人がいる。でも、そんなことをしていたら、いつまでも落ち込み続けることにしかならない。できない自分、教師らしくない自分を常に意識することになるからだ。「教師らしい」という言葉は危険な言葉だ。人としてちょっと躓いてしまうと、それが「教師らしくない」ということに置き換えられてしまう。「教師らしい」という言葉が、言ってみれば「完璧な人間であること」と同義になりかねない言葉であるからだ。そんなことは最初から無理なのである。完璧な人間などいないのと同様に、完璧な教師もあり得ない。こう言われればわかるのに、「教師らしさ」という言葉がこんなにも当然のことを曖昧にしてしまう。

人間はだれしも不完全である。良いところもあれば悪いところもある。良いところは伸ばした方がいいし、悪いところは直した方がいい。どうしても人はそう考えてしまう。でも、良いところを伸ばすことは良いとして、悪いところを直そうと頑張りすぎてしまうと苦しくなる。読者の皆さんは自分の悪いところを直そうとして直せたためしがおありだろうか。うん。私は自分の悪いところを直した。満足だ。そういう方がいるだろうか。僕はそういう人を見たことがないし、自分で悪いところを直そうと試みて直せたためしがない。これは自信をもって言う(笑)。

僕らは人間を相手にしている。人間を相手にしている僕らも人間である。人間である子どもたちに悪いところがあるのと同様に、教師である僕らにも悪いところはある。自分の悪いところを直そうとする教師は自分が苦しくなるのみならず、子どもたちにもそれを求めて子どもたちをも苦しくさせる。良いところを伸ばそうとするよりも悪いところを直そうとするが故に、結果的に教育的でない苦しさをもたらす。遂には子どもの良いところよりも悪いところばかりが目についてしまい、そればかりを指摘するようになる。悪循環だ。

僕は子どもたちも自分も、良いところを伸ばすだけで良いと思っている。自分の悪いところはどうしようもないのだから、その悪いところを武器にする方法はないかと発想とする。子どもたちにもそれがお前らしさなんだから、人に大迷惑をかけない程度なら許されるよと笑う。だから先生のダメさも許してねと上目遣いで訴える。子どもたちもそんな僕を笑う。これが僕の「僕らしい教師像」である。かなりいい加減たけれど、僕としてはなんにも困らない。子どもたちに困っている様子もない。それでいいじゃないか(笑)。文句を言われる筋合いはない。

数ヶ月後、隣の女の子からメールをもらった。既に彼女は常に笑顔で物事にあたる、前向きな女教師に代わっていた。二学期半ばのことである。

「ちゃんと見ていてくれている安心感があるんでしょうね。気持ちが一学期とは違うのが自分でも分かるんです。」

僕は次のように返信した。

「自信をもって、いろいろなことに『自分でやってみよう』を原則にして意識的に取り組んでみるといい。失敗したらごめんなさいすればいいだけだ。もっと失敗してもオレに叱られるだけだ。もっと大きな失敗ならオレもいっしょに頭を下げてやる。その程度の話だ。」

相手が同僚であろうと子どもであろうと、自分の思い通りに動かそうとするのではなく、そのままでいいんだよ、自分らしくしていていいんだよと安心感を与えて笑顔にしてあげることを第一義とする。これが教育の神髄、人を育てることの神髄なのだと僕は信じて疑わない。

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長期展望

四月。教師ならだれでも四月が大好きです。新しい子どもたちと出会う。新しい同僚とも出会う。新しい仕事に取り組む。何か今年はやれそうな気がします。去年までと違った一年になりそう、そんな予感がします。新年度は何度迎えても同じように新鮮な気持ちになるものです。

でも、ふた月も経つとその新鮮味は薄れます。ふと気がつくと、去年と同じような日常を過ごしています。子どもたちに癒される心象も同じ。同僚との会話の話題も同じ。校務で犯すミスも同じ。自分は成長していないんじゃないか……。子どもの褒め方・叱り方、行事のつくり方、校務の進め方、同僚への根回し、保護者への対応、そりゃ新卒のときよりは少しだけうまくまわせるようにはなっているけれど、成長といえるほどのものじゃない……。そんな自己嫌悪に陥ることもしばしばです。

四月の鮮度が保てない。六月には去年と同じ自分がいる。十二月には疲れがピーク。三月には来年こそはと決意する。どうしてこんなことを何年も繰り返すのでしょうか。一昨年度より昨年度、昨年度より今年度、今年度より来年度、そういう成長の実感がなぜもてないのでしょう。

手前味噌で恐縮ですが、私は毎年、「この一年間で絶対に結果を出すぞ!」という強い決意で臨む研究テーマを一つだけ決めることにしています。そしてその追究になにがなんでも取り組むことにしています。そして自分なりに結果が出るまでやり通すことにしています。研究テーマというと、何か高尚なことをやっているように思われるかもしれません。でも、そんなことはありません。研究テーマとは言っていますが、「研究」というよりは「実践」的な、もっと日常的に取り組めるテーマについてです。

例えばここ数年は、次のようなテーマに取り組んできました。

【二○○九年度】 生徒たちの良い雰囲気づくりに寄与する特別活動
【二○一○年度】 国語科授業のノート指導
【二○一一年度】 特別な支援を要する生徒の対応
【二○一二年度】 ファシリテーション型授業の課題の分類
【二○一三年度】 所属教師それぞれの個性に対応する学年運営

見ていただければおわかりかと思いますが、これらの研究テーマは実はその年度の校務分掌と連動しているのです。

わかりやすいところで言えば、私は二○○九年度、勤務校の生徒会担当でした。この年は現在の勤務校に転勤した年だったので、ぎりぎりまで自分の校務分掌がわからなかったのですが、四月一日に仕事が生徒会だとわかり、「よし!今年は特別活動だ」と即決したのです。また、二○一三年度、私は一学年の学年主任でした。学年所属の先生方は新卒さんや臨採さんも多くて非常に若く、先生方を育てながら学年を運営していく必要がありました。しかし、先生方が若いからといって、私が上意下達のみで運営したのでは学年運営もだんだん停滞していきます。そう考えた私は、所属教師が若いからこそそれぞれの良いところ、つまりはそれぞれの個性を発揮させるにはどうしたら良いかということをテーマにしようと考えたのです。

これまた手前味噌ですが、このうち二○○八年度から二○一二年度までのテーマはすべて一書として既に上梓しています。その意味では、これらの研究テーマについて、私はそれなりの結果を出したのだと自負しています。ある程度の結果が出ないと本なんて書けませんから。

さて、話を戻します。四月に一年の「研究テーマ」を決めてその一年を過ごす。そうすると、確かに子どもたちへの対応や校務上の細かいルーティンワークなどは前年度と同じことをしているのですが、その同じ仕事が別の意味合いのものに見えてくるのです。だってそうではありませんか。同じように国語の授業にしていても、「ノート指導」をテーマにしていれば子どもたちのノートに目が行きますし、「ファシリテーション」をテーマにしていれば交流活動を開発しようと務めることになります。「特別活動」をテーマにしていれば、なんとかこの授業を特別活動と連動させられないかと考えますし、「学年運営」をテーマにしていれば、自分の前ではこんな雰囲気の子どもたちだけれど他の先生のときはどうなのだろうと見に行くようになります。こんなふうに考えながら過ごす毎日が、去年と同じに感じられることなどあり得るでしょうか。

そうです。教師が四月の気持ちの鮮度を保てないのは、言葉は悪いですが、「その日暮らし」をしているからなのです。一年を見通して、「これだけはやるぞ」という目標やテーマをもち、「そこだけは結果を出す」と本気で取り組めば、少なくともそのテーマに関してだけはその一年で大きな成長を遂げることができるのです。四十年近い教師生活、一年に一つのテーマについて本気で取り組み続けたらいったいどれだけのことができるでしょうか。

仕事に対して前向きに取り組むための一番のコツは、実は長期的な展望をもつことなのです。教師の多くは今日やらないと間に合わないという仕事を今日しています。仕事の早い人でもせいぜい三日後くらいの仕事をしています。でも、一年後の自分を想像してみる。半年後の担任学級を想像してみる。三ヶ月後の仕事に取り組んでみる。常に数ヶ月後のための「いまこの瞬間」と意識してみる。どうでしょうか。考えるだけでも楽しくなってきませんか?

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学級経営力

学級経営にとって最も大切なのは「理」と「情」のバランスだと感じています。

私の言う「理」とは学級運営を機能させるためのシステムの確立を意味し、「情」とは学級づくりを機能させるための人間関係の醸成を意味しています。前者は「公平性」を旨としますし、後者は「心情的なつながり」を旨とします。私は前者を学級経営の〈縦糸〉と、後者を〈横糸〉と呼んでいます。

1.安定的なシステム

学級の運営には安定的なシステムが必要です。具体的に言うなら、「システム」とは学級組織・係活動・日直・給食・清掃・座席配置・席替え等のルールなどを指しています。これらについては、その決め方のルールに至るまで、原則として学級結成直後に学級担任の専権事項として即座に定めてしまうのが良いと考えています。

よく、子どもたちの話し合いによって時間をかけて決めていく実践を目にすることがあります。しかし、私は学級の子どもたちのだれもが納得するものができ上がることなど決してあり得ないと考えています。たとえ学級担任がそうした状態を達成できたと思ったとしても、そこには必ず「弱い子」や「おとなしい子」の小さな我慢が散在していると見たほうが良いのではないでしょうか。

ためしに職員室の運営が校長によるのではなく、すべて年度当初に職員室の話し合いで決めることを想定してみてください。学年や校務分掌といった校内人事はもちろん、細かな隙間仕事の分担、お茶くみやゴミ捨てに至るまで、すべて職員室を構成する職員の話し合いで決めることを想像してみるわけです。

読者の皆さんは、職員全員が心から納得するルールを決めることが可能だと思われるでしょうか。発言力のない職員の我慢によってなんとか決まっていく……そんな光景が目に浮かばないでしょうか。大人だってこうなのです。子どもたちにそんな不可能を強いるべきではない、私はそう思います。

安定的なシステムはメンバーの精神をも緩やかに安定させます。これもためしに職員室を考えてみると良いでしょう。職員室運営にシステムがなく、いつ何時にどんな授業を行っても良い、どんな行事を行っても良い、そんなふうに言われたら、かえってどう仕事をして良いかわからなくならないでしょうか。人間はフレームが明確であるからこそ、そのフレームのなかでより良い手立てはないものかと工夫しようとできるのです。そうした環境にあって始めてそういう思考や創造が生まれるのです。実は自由ほど不自由なものはないのです。

どういうシステムを敷くべきかは子どもたちの実態や発達段階に応じて決めれば良いわけですが、大切なことはそのシステムが1年間通して揺るがないような安定的なシステムであるかどうかということです。

年度途中にシステムを変更したり、ルールを緩めたりしなくても良い、安定したシステムです。学級運営の根幹をなすシステムが変更可能ということになれば、学級運営におけるすべてが変更可能なものとなってしまいます。極端に言えば、4月当初に学級担任の定めたルールはすべて変更可能なものと認識されかねません。悪しき〈ヒドゥン・カリキュラム〉が形成されてしまいます。

それは学級担任が権威性(学級経営における縦糸)を失うことに繋がりかねませかん。下手をすると、「いじめ指導」や「生活安全指導」など、危機管理の体制にまで悪影響を及ぼすことさえあるかもしれません。

学級担任はこのように、すべての事象が繋がっているのだという意識をもちたいものです。

実は、学級に安定したシステムが必要だというのは、子どもたちのためだけではありません。実はシステムが安定していることは教師のためにもなるのです。それはシステムに教師の権力の暴走や教師の怠慢を許さないという機能があるからです。

皆さんは憲法が時の政府の権力を暴走させないために機能しているということをご存知ですよね。学級運営において、システムはちょうど憲法と同じ機能をもっています。

1年は短いようで長いものです。教師だって人間ですから、長い1年、「このくらいいいかな…」とか「ちょっと手を抜きたいな…」と思うことがあるものです。しかし、システムが安定していれば、教師に多少の怠慢が見られたとしても、子どもたちの学校生活は普段通りに機能します。

また、教師も人間ですから、何かどうしてもやりたいことができて、子どもたちに無理をさせてでも取り組みたいと思ってしまうようなこともあります。こんなときにもシステムが安定していれば、それに反するような教師の暴走を抑止する働きをもちます。自分がどんなにやりたいと思っても、「うーむ…これはシステムを壊してまで本当に取り組むことなのだろうか」と、教師は一度、一歩引いて考えざるを得ません。

安定したシステムが教師のためでもあるというのはこういうことです。教師は子どもたちに影響力を行使することばかりを考えずに、自分の暴走に抑止力をかけることにも自覚的でなければなりません。私はそう考えています。

2.心情的なつながり

しかし、安定的なシステムを敷きさえすれば子どもたちが精神的に安定するかというと、事はそう簡単ではありません。どう動くかがわかるというだけでは、人間の精神は決して安定しないものです。

そこにはもう一つ、その集団に帰属しているという実感が伴っていなければなりません。しかもそれは、「一人一人を大切に」とか「みんなは一人のために」とか「思いやりが大切だ」とかいった言葉で説明すれば事足りるというものでもありません。

自分がその集団に帰属していると実感され続ける日常に身を置くこと、つまり、経験の集積によって「体感」されることが何よりも大切なことです。その意味で、「心情的なつながり」は教えるものでないことはもちろん、学ぶものでさえない、というのが私の考え方です。自然に「醸成されていくもの」なのです。

そのためには、教室のなかに日常的に子どもたちの交流場面が設定されることが必要です。教科の授業はもちろんですが、道徳・学活・総合的な学習の時間に至るまで、小集団による交流活動や学級全体による話し合い活動が至るところに配されている、しかもそれが子どもたちにとって何気ない日常として機能している、そういう状態が必要です。こうした学級であってこそ、子どもたちの「心情的なつながり(学級経営における横糸)」は醸成されていくのです。

こうしたことを考え、私は教科・領域を問わずすべての授業において8分以上の小集団交流を導入することを提案しています(拙著『一斉授業10の原理・100の原則』)。

もちろん道徳・学活や総合においては、もっと大胆に、しかも頻繁に子どもたち同士による自主的な交流活動を導入することが必要になります。

21世紀になって、教師の権威性が弱くなってきていると指摘されるようになりました。ベテラン教師たちがもっと権威をもとうと〈縦糸〉の強化を図ろうとして、子どもたちの反発を招いて学級崩壊に至るという事例も多く見られます。私はさもありなんと思えてなりません。

〈縦糸〉だけを強化することによって学級が運営できる時代はとうの昔に終わっているのです。〈縦糸〉をしっかりと張ると同時に、子どもたちに〈横糸〉を張らせる手立てを取る。それも手を換え品を換えて、日常的に、徹底的に仕組んでいく。そうした意識をもたなければ立ち行かない時代に入ったのです。いま、学級経営に成功しているのは、〈横糸〉を張らせる手立てをたくさん身につけている教師たちである、私はそんな印象をもっています。

実は、システムに守られながら暮らしていける社会は、拓銀と山一が破綻した20世紀末に終わったと私は感じています。いま子どもたちに必要なのは、試験学力を高めることや言われたことに従うことではなく、自分が困ったときにHELPを出せることや、「情けは人の為ならず」とすすんで他人に手を差し伸べる能力、立場の異なる人たちと利害を調整する能力などではないでしょうか。こうした力に培うためにも、学級づくりは大きな役割を担わなければなりません。その意味でも、学級経営における〈横糸〉は大きな力を発揮します。

学級経営の「理」の側面については拙著『必ず成功する「学級開き」魔法の90日間システム』を、「情」の側面については拙著『教室ファシリテーション10のアイテム・100のステップ』を御参照いただければ幸いです。

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