褒めるべきときにだけ褒める
1.褒めるの自己目的化
ある若手教師の授業を参加していたときのことです。その教師は子どもたちにペアで音読練習をさせたあと、5、6人の子どもたちを指名して段落毎に読ませました。そして教室全体を眺め渡してこう言いました。
「みんな素晴らしいかったね。さっきの音読練習の成果がよく出ていたよ。」
なんということのない褒め言葉です。読者のみなさんは特に気にならないかもしれまかん。しかし、この褒め言葉は問題だと僕は思います。
この言葉が、いま音読をした5、6人に視線を投げ掛けながら発せられたのなら、僕は特に疑問をもたなかったでしょう。でも、この褒め言葉は教室全体に向けて発せられたのです。
三十数人がいる教室のなかで、ペアの音読練習には全員が参加しました。しかし、段落毎に指名音読をしたのは5、6人です。教室全体に発せられた褒め言葉を、音読に指名されなかった二十数人の子どもたちはどう捉えたでしょうか。先生はみんなに向かって褒めたけれど、僕には関係のない褒め言葉だったと思わないでしょうか。先生の褒め言葉に対して、「なんだかなあ…」という印象は抱かないでしょうか。これなら、「いま読んでくれた6人の音読、良かったよねえ。さっきの練習の成果が出てたんだと思う。みんな、この6人に拍手!」とでもやった方が、場は盛り上がるのではないでしょうか。
では、この教師はなぜ、こんな褒め言葉を教室全体に向けて発してしまったのでしょう。それはおそらく、この教師のなかに、あらゆる場面で「褒めること」が必要だという認識があったからです。そうした意識がそうさせたのだと思います。つまり、この教師のなかでは、「褒めること」それ自体が自己目的化してしまっているのです。
2.マニュアル型褒め言葉の時代
子どもを褒めて伸ばす。これは1980年代頃から盛んに言われるようになった学校教育のテーゼです。その裏には褒められたほうが子どもたちは伸びる、という認識があったはずです。しかし、ほんとうに子どもたちは褒めれば褒めるほど伸びるのでしょうか。
褒められるようなことをしたときに、放置するのではなくしっかりと褒めてあげる、それが必要だ、というのがもともとの意味だったのではないでしょうか。それが数十年の時を隔てて、ただ「褒めりゃいい」「絶対に褒めることが必要だ」になっていないでしょうか。
そして前節で例に挙げた若手教師はそんな「マニュアル型褒め言葉の時代」の申し子なのではないでしょうか。そんな印象を抱くのです。果たしてこの傾向は良いことなのだろうかと、疑問を抱いてしまいます。
僕は正直、褒められるのが苦手です。褒められるとその場から逃げ出したくなります。本音では「お前にオレの何がわかる!」と感じています。上司に白々しい褒め言葉などを言われたときには、「この上司とは必要以外は付き合うまい」と思うタチです。早くこの会話が終わらないかと思ってしまいます。
そしてその傾向は決して最近に始まったものではなく、少なくとも小学校中学年くらいのときにはこの傾向をもっていたという記憶があります。そうです。僕は小学生の頃から、先生に褒められることが嫌いだったのです。なぜなら、先生の褒め言葉が白々しかったからです。
「マニュアル型褒め言葉の時代」の教師たちは、自分の受け持つ子どもたちのなかにこういう子がいることを想定していません。もちろん僕のような子どもばかりではありませんから、マニュアル的に褒めることが機能する子もいるでしょう。しかし、学級に数十人いれば数人から十人くらいは僕のような子もいるのではないでしょうか。
3.コンテクストとタイミング
僕には子どもの頃から十代にかけて空手を習っていた時期があります。空手の先生は、僕らが習得途中のワザやカタをまず褒めてくれるということがありません。ただただ反復練習を繰り返させます。そしてここをこうせよ、こことここのバランスを整えよと、細かく指導します。そして、自分でも体感的にコツをつかみかけてきたなと思い始めたとき、まさに「うん、よくなってきた」とシンプルに褒めてくれます。要するに、空手の先生の褒め言葉は、まさに僕が上達を実感し始めたとぴったりのタイミングで、これ以上ないというシンプルな言葉で発せられたのです。
僕は褒め言葉の神髄はここにあると感じています。
なんでもかんでも褒めりゃいいというものではないのです。褒めるべきとき、褒めるべきタイミングというのがあるのです。そしてそれは、褒められる側になんらかの自覚が芽生え始めたときなのです。
先の音読の例でもそうです。段落毎に指名音読させる前に、「ペアの音読練習の成果を発揮するんだよ」と言ったり、「さあ、ペア音読の練習はどのくらいこうかがあったかな。聞かせてもらおう。」といったちょっとした挑発があったり、そうした場を包み込む目的意識を形成したうえでこそ、その後に「練習の成果が出ていた」と褒めることが機能するのです。実感させないままにただ発せられる言葉は、ただ子どもたちに上滑りします。教室の空気を淀ませさえします。言葉というものは、コンテクスト(その場の状況)と不可分のものなのですから。
教師の「褒め方」を考えるとき、観点は二つだと思います。一つは褒めるべきときを見極める目をもつこと、もう一つは子どもたちが成果を実感できるような状況を意図的につくり出すことです。
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