選択肢を単純化せよ!
前節で「初発の動機づけ」として「知的好奇心」を喚起する場合に、「驚嘆」「当惑」「矛盾」を与えるという三つの観点を提示しました。
しかし、「驚嘆を与える」ことはどちらかというと、具体物を提示しやすい理科や算数に向いている手法です。また、「矛盾を与える」ことは国語科では即ち「ゆさぶり」を意味しますから、授業展開がどうしても大がかりになってしまい、教師に細かなミスが出やすくなります。かなり力量の高い教師が用いなければ、なかなかうまくいかないというのが現実です。
国語科の授業において、だれもが気軽に子どもたちの「知的好奇心」を喚起できるのは「当惑を与える」手法、即ち「選択肢を与える」という発問づくりです。しかし、これが国語科教育界ではイメージが悪く、なかなか一般化しません。選択肢を教師側から与えてしまうことが、子どもたちに「思考のフレーム」を強制することになり、子どもたちの「思考の自由」を奪ってしまうのではないかという懸念をされるせいです。
しかし、こうした懸念は間違っています。実は何も規制のない自由ほど不自由なものはないのです。規制のない自由は子どもの頭の活性化をかえって阻んでしまうのです。 例えば、物語の授業において、主人公の人物像を検討させたいとします。
多くの教師は、「この主人公はどんな人か。」と問います。その結果、子どもたちは「やさしい」とか「明るい」とか「かわいい」とか答えます。教師は子どもたちの答えがあまりにもあっさりしているので、「どんなふうにやさしいの?」と問い返しますが、この問いは子どもたちにとっては答えるのがなかなか難しい問いです。それは、この問いが「やさしい」を別の言葉で言い換えることを求めているからです。大人だって「やさしい」という言葉を言い換えるのには少々苦労するでしょう。こうした日常的な戸惑いが、授業をどんよりさせるのです。
これが「この主人公をあなたはどう評価しますか?+・-・0で答え、その理由を一文で書きなさい。」だったらどうでしょうか。子どもたちは本文中から論拠を見つけたうえで、「+」か「-」か「0」かで答えます。
黒板に「+の意見」「-の意見」「0の意見」と分類したうえで、それぞれその論拠として発表された主人公の行動を列挙していけば、黒板は子どもたちの意見でいっぱいになるはずです。それを一つ一つ取り上げて、その論拠を挙げた子どもたちに発言してもらいながら検討していけば、授業は一気に活性化するのではないでしょうか。
こうした発問では、選択肢こそ確かに単純化されていますが、検討の題材になっているのがあくまで教材本文であり、子どもたちの読解になっているのです。
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