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教師力アップ

1.優しさと技術

必要なのは“優しさと技術”である。

私はそう考えています。

「優しさのない技術」はいくら身につけても人を幸せにしません。子どもも、保護者も、同僚も、そして自分自身さえ幸せにしません。冷たい技術を振りかざす教師として揶揄されます。「研究屋」「事務屋」「部活屋」「行事屋」など、古くから技術を振りかざすだけの教師は忌み嫌われてきました。

一方、「技術のない優しさ」もまた気持ちだけが先行し、優しさを機能させません。子どもが困っているとき、保護者が迷っているとき、同僚が戸惑っているとき、共感を示すだけでは扉を開いてあげられません。そばにいて共感するのは家族や恋人の仕事であって教師のそれではないと言えます。

総じて、教師の力量形成を考えるとき、「優しさのための技術」を身につけようとの方向性と、「技術を身につけてこその優しさ」を機能させようとの方向性と、この二つを指標に力量形成を図るのが良いと考えています。かなり難しいことではありますが……。

2.HOWとWHY

例えば一斉授業の技術を身につける。

或いは学級経営の技術を身につける。

こうした「学級集団を動かすための技術」は、学級集団の最大公約数に機能する「傾向」として発見され、それを更に機能させることを旨として発展してきたものです。

あくまで学級の大多数に機能するものであって、学級に所属するすべての子どもたちに機能する技術ではありません。必ず少数の「取りこぼし」が出ます。

技術を学ぶ教師はついついこのことを忘れがちになります。学級の大多数がその技術に触発され、活発に動いていることが教師の目を曇らせてしまうのです。少数の取りこぼされた子どもたちを「あれども見えず」にしてしまうのです。

特に年度当初は、この少数の取りこぼされた子どもたちさえやる気に満ち、「今年は頑張ろう」と思っていますから、この子たちも教師の期待に応えようとします。その姿勢が更に教師の目を曇らせるのです。この子たちの動向が「取りこぼされた子」のそれであることが鈍感な教師たちにも見えるまでに顕在化してくるのは、早くて5月、遅ければ10月くらいまでズレ込んでしまいます。

技術を学ぶことに意識を高くもつ教師は、この段階になって初めて少数の「取りこぼし」に気がつくことになります。しかし、更に致命的なのは彼らがこの段階になってもまだ、その構造に気づかずに「技術」によって「取りこぼし」を取り込もうとすることです。

・どうすればあの子が集中するだろうか。
・あの子が漢字を習得できる何か良い方法はないか。
・どんな活動をすれば、あの子が学級のみんなにまじって交流できるようになるだろうか。
・あの子が立ち歩かずに授業に参加できるような、何かおもしろい学習活動はないだろうか。

これら、教師が抱きがちな問いの羅列にもう一度、改めて目を通してみてください。これらの問いがすべて「どのように」という問い、つまり「HOWの問い」であることに気づくはずです。そこには「どうすれば」「何か良い方法」「どんな活動」「何か面白い学習活動」と、HOWの目白押しです。

「HOWの問い」はあくまで、学習活動にうまく参加できないその子自身に意識が向けられるのではなく、更に良い学習活動はないかという「いかに集団全体を動かすか」という方向に意識が向けられています。今回用いた技術に取りこぼしが生じたので、更に広く取り込めるような質の高い技術がないかという指向性をもった問いです。

教師がこの視座に立つ限り、実は「取りこぼし」は必ず出ます。一人も取りこぼさない教育技術などというものはこの世に存在しないからです。

この構造を一斉授業や学級経営といった従来型の全体主義的教育形態であるからだと断罪してはいけません。協同学習であろうとワークショップであろうとファシリテーションであろうと、この構造は同様なのです。それが子ども一人ではなく、「集団としての子どもたち」を一斉に動かそうとする「技術」として意識されている限り、それに参加しづらい、参加したくないという子き必ず出ます。

ところが、これが「なぜ」という問い、つまり「WHYの問い」になると、一気に視点がその子個人に焦点化されるのです。さきほどの四つの問いを、例えば次のように言い換えてみましょう。

・なぜあの子は集中できないのか。
・なぜあの子は漢字を習得できないのか。
・なぜあの子はみんなにまじって交流できないのか。
・なぜあの子は授業中に立ち歩くのか。

視点を「HOW」から「WHY」に置き換えるだけで、一気に思考の枠組みが学級集団ではなく、その子個人に焦点化されるているのが理解できるはずです。

これらの問いには「どのように」という方法もなければ、「どんな授業」というあり得べき学習活動もありません。「なぜ」というありきたりの疑問詞が、ただ一人、その子個人を一人の個人として見る視座を生んでいるのです。

本来、「どのように」という問いは、「なぜ」現状があるのかという分析のうえに成り立つ問いであるはずです。「なぜ」が明らかになってこそ、その理由に基づいて対策が講じられ、「どのように」という施策になるはずのものです。なのに、教師の世界、学校教育の世界ではこの「あたりまえ」がなぜかあたりまえになっていません。その子の「なぜ」を考えず、最初から「どのように」を考えて選択された方法がその子に合致する確率など、だれが考えても低いに決まっているではありませんか。

多くの教師は、自分が子ども一人ひとりに共感し、心情的に寄り添っているように感じていますが、実は子ども個人ではなく、「方法」や「学習活動」にしか目を向けてはいないのです。つまり、私の言葉でいえば、「優しさ」を伴わない「技術」でものを考えているのです。

「HOW」を考える前に、必ず「WHY」を考える。その習慣を身につけた者だけが、「優しさ」と「技術」とをスパイラルに機能させられるようになります。

教師の力量形成のキモは、常に「WHYの問い」を持ち続けることであると言っても過言ではありません。

3.教え方と在り方

教育活動を常に「HOWの問い」で考えている教師は、実は常に「教え方」を追究している教師です。

「教え方」を追究するということは、自分は教師であり子どもたちよりも高い位置にあるということを前提にしています。もちろん、そうした教師が「自分は偉い」と考えているというのではありませんが、無意識的に子どもたちを高い視座から見ているのです。

自分を高い視座に置きますと、教師の教育活動に向ける視線は、学習活動に取り組むうえでの子ども集団の難点とよりよい学習活動の方法論にしか向きません。自分自身に非はないことになりがちです。

しかし、「WHYの問い」で考えると、途端に教師の世界観が変わります。「なぜ、この子は……なのか」という問いを立てると、集団のなかに埋没しながら苦労をしていたこの子、集団のなかで協同できずに困っていたこの子という視点が生まれます。

この視点は必然的に、「これまでこの子の困った感に気づいてあげられなかった私」という想いを教師のなかに湧き上がらせます。「WHYの問い」が必然的に、教師に内省を促すのです。

常に内省を繰り返している教師は、次第に他人に対して優しくなっていきます。不完全な自分、不備不足をたくさんもっている自分という視座が教師を謙虚にさせるのです。「技術」について考えるにしても、それを的確に使えない自分、機能させられない自分と向き合いながら考えるようになります。そしてそうした教師の心象は、必ず有形・無形に子どもたちにも伝わるのです。

教師は「教え方」よりも「在り方」を問われると言われます。子どもたちの前に立つ「立ち姿」こそが大事だと言われます。しかし、この「在り方」とは、威厳をもっているとか常に毅然としているとかを意味するのではありません。自らを内省しながら、子どもたちの「なぜ」に向き合う。迷いながらも精一杯の優しさを発揮しようとする。そんな心象が教師の「在り方」を図らずも規定するのです。

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