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「反語的教育論」まえがき

周りの教師たちがなぜあんなにも頑張るのかがわからない。なぜやみくもに頑張るのかがわからない。それなのに結果が出なくてもそれほど落ち込まない理由がもっとわからない。やるだけやったんだから……などと言って自分を納得させてしまう心象が奇妙にさえ思えてしまう。もう少し結果を求めて、手を抜くところは抜き、やみくもに仕事をするのではなく考えて仕事をすべきなんじゃないか……正直、そう感じるてしまう。

みんなよっぽど頑張ることが好きなのだろう。おそらく頑張ること、それ自体が好きなのだ。頑張っている自分自身が美しい、きっとそう感じているのだ。そして結果の如何は自分の努力や能力の如何ではなく運不運で決まる。きっとそう思っているのだ。そんな感じがする。

日本人は自分が頑張るのも好きだが、他人に頑張らせるのも好きだ。いつでもどこでもだれにでも「がんばれ」と言う。テレビを見ていると、インタビューを受けた者の締めの言葉はいつも「頑張りますので応援よろしくお願いします」だ。インタビュアーの締めの言葉も必ず「頑張ってください」だ。たぶん教師も、自分も頑張り、子どもにも頑張らせるのが大好きなのだ。

でも、「頑張る」という言葉にはどこか逃避の匂いがある。「ちゃんと情熱を傾けて取り組むから結果が出なくても許してね」という含意がある。そして日本人は頑張った人に対しては、たとえ結果が出なかったとしても広い心で許すことが多い。他人に「頑張れ」という場合にも同じだ。一日学校で仕事をしていると、教師が子どもに「頑張れ」と言うのを聞かない日はないが、「頑張れ」という激励には「情熱を傾けて取り組むんだよ。結果は時の運だ。」という意味がある。つまり、「頑張れ」には「結果がすべてじゃない」という含意があるのだ。教師に限らず、日本人は他人に対して「成功を祈る」とか「結果が出ればいいね」とかはあんまり言わない。まったく言わないわけではないがほとんど言わない。日本人にとっては成功することや結果を出すことよりも「頑張る」ことそれ自体に意義があるのだ。

実は日本人は行動することも大好きだ。情緒が好きで論理が嫌いだ。感じることが好きで考えることが嫌いだ。行動しない人や理屈をこねる人は忌み嫌われ、だれかに相談を受けても「考えすぎだよ…」で解決しようとする人か多い。かつて日本人は「考えるな、感じろ」というブルース・リーの言葉に熱狂した。リーの言葉を自分たちの生活と重ねて解釈した。でも僕は、考えない人間は感じられないと思う。少なくとも考える人間ほどよく感じることはできないと思う。考える人間と考えない人間がいれば、考える人間の方が感じる力は強いと思う。考えると感じるはそういう関係にあると思う。なのに日本人は考えることではなく、感じること、行動することを奨励する言葉に無条件に納得させられてしまう。大江健三郎は「見る前に跳べ」と言い、寺山修司は「書を捨てて町に出よう」と言った。でも、見ない者は跳べないし、書を読まぬ者は町を愉しめない。

この日本人のメンタリティがストレートに教師のメンタリティにつながっている。だから考えることより行動することを重視する。考えることよりも感じることを重視する。結果を出すことよりもどういう気持ちで取り組んだのかを大事する。だから、頑張る。やみくもに頑張る。実はそれは自分が好きだからという自己満足だけでなく、周りに評価される近道でもある。日本人はそれを無意識に熟知している。だから子どもにも押しつける。

本書は、僕が教師生活のなかで、日常的に考えていることを綴ったエッセイ集である。どれも特別な経験から深く考えたというタイプの思索ではない。だいたい僕はみんなが経験していないような特別な経験など持ち合わせていない。特別な経験はないけれど、特別な(特殊なというべきか。でも、本書に書かれいる思考は僕にはそれほど特殊なものだとは思えない)思考なら少しくらいならあるかもしれない。二十数年の教師生活において、僕にとっては仕事をするうえで大切だなと思うようになった事々について書いている。それが「教育論」の意味だ。ただし、そうした教育に対する考え方を、読者の皆さんに対してちょっとだけ挑発的に書いてもいる。挑発的であるだけでなく反動的である場合もある。そういう表現が意識されている。それが「反語的」の意味だ。

ほんとうのことを言えば、僕も頑張ることや感じることや行動することが嫌いではない。皆さんと同じように教職に就いている日本人だから。でも、少し考えさえすれば頑張るときの頑張りどころが理解され、感じるときに自らの感受性の広がりや深まりが体感され、行動するときに大胆さや繊細さが生まれるのだということを僕なりに経験してきたという自負が僕にはある。

そんな些細な、そして些細であるからこそ本質的な、そんな思考を綴ったエッセイ集なのだと受け止めてもらえたら有り難い。

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