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2014年5月

数を問え!

実は、選択肢を与えなくても選択肢と同じ効果をもたらす発問があります。

選択肢を与えるのは、最もらしい選択肢を与えて子どもたちを当惑させ、「知的好奇心」を喚起するためです。何に対する「知的好奇心」を喚起するのかと言えば、教材本文をよく読もうという姿勢をつくらせるためです。選択肢のどれが正しいのかを検討することで、教材本文を改めてよく読ませようというわけです。

つまり、最もらしい選択肢を与えるのは、子どもたちの読みの違いを顕在化し、その違いを検討することを促して教材本文を深く検討させようというねらいなのです。とすれば、わざわざ選択肢を与えなくても、子どもたちに単純な答えを求め、子どもたちの答えの違いが顕在化されれば、選択肢と同じ効果をもつというこどてす。

そのためには、次のような発問が効果的です。

「この場面での主人公は○○と考えている。○か×か。」
「主人公の性格は優しさ対冷たさが何対何か。」
「A・B・C・Dという4人の登場人物をEを心配している度合いが大きい順に並べなさい。」

いずれも発問のなかに選択肢が含まれています。しかも、その理由を問うことによって、必然的に教材本文の論拠を指摘し合うことになることになります。良い発問とは、子どもたちの目を教材本文に必然的に向けさせる「触媒」となるような発問のことなのです。

ただし、こうした発問を開発するには、長期にわたって意図的に経験を積み重ねること、つまり「研究」が必要とされます。私はいま挙げた三つの発問を具体例として瞬時に思いつきました。しかも、最初の発問から三つ目の発問へと難易度が上がるようにと配慮して並べました。こうした発問をすぐに思いつけるのは、私が長年にわたって国語科の「実践研究」の場に身を置いてきたからです。新卒時代の私なら、こんなに簡単には思いつくことができなかったでしょう。

しかし、国語科の授業において、こうした発問と同じ効果をもたらす原理があります。それは「数を問う」ということです。野口芳宏先生の『やまなし』の授業に「谷川の深さは何センチか。」という発問がありますが、これなどはその典型です。子どもたちはこの発問を通して、作品に描かれている場を検討するために、必然的に教材本文を読み込まなければならなくなります。

『お手紙』(小1)における「かたつむりくんはお手紙を運んでくるまでにどのくらい時間がかかったか」から、『故郷』(中3)における「主人公の私が我が家の表門に立ってから母に会うまでどのくらいの時間がかかったか」に至るまで、発達段階にかかわらず使えます。子どもたちは必然的に、教材本文に目を向けざるを得ません。

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教師力アップ

1.優しさと技術

必要なのは“優しさと技術”である。

私はそう考えています。

「優しさのない技術」はいくら身につけても人を幸せにしません。子どもも、保護者も、同僚も、そして自分自身さえ幸せにしません。冷たい技術を振りかざす教師として揶揄されます。「研究屋」「事務屋」「部活屋」「行事屋」など、古くから技術を振りかざすだけの教師は忌み嫌われてきました。

一方、「技術のない優しさ」もまた気持ちだけが先行し、優しさを機能させません。子どもが困っているとき、保護者が迷っているとき、同僚が戸惑っているとき、共感を示すだけでは扉を開いてあげられません。そばにいて共感するのは家族や恋人の仕事であって教師のそれではないと言えます。

総じて、教師の力量形成を考えるとき、「優しさのための技術」を身につけようとの方向性と、「技術を身につけてこその優しさ」を機能させようとの方向性と、この二つを指標に力量形成を図るのが良いと考えています。かなり難しいことではありますが……。

2.HOWとWHY

例えば一斉授業の技術を身につける。

或いは学級経営の技術を身につける。

こうした「学級集団を動かすための技術」は、学級集団の最大公約数に機能する「傾向」として発見され、それを更に機能させることを旨として発展してきたものです。

あくまで学級の大多数に機能するものであって、学級に所属するすべての子どもたちに機能する技術ではありません。必ず少数の「取りこぼし」が出ます。

技術を学ぶ教師はついついこのことを忘れがちになります。学級の大多数がその技術に触発され、活発に動いていることが教師の目を曇らせてしまうのです。少数の取りこぼされた子どもたちを「あれども見えず」にしてしまうのです。

特に年度当初は、この少数の取りこぼされた子どもたちさえやる気に満ち、「今年は頑張ろう」と思っていますから、この子たちも教師の期待に応えようとします。その姿勢が更に教師の目を曇らせるのです。この子たちの動向が「取りこぼされた子」のそれであることが鈍感な教師たちにも見えるまでに顕在化してくるのは、早くて5月、遅ければ10月くらいまでズレ込んでしまいます。

技術を学ぶことに意識を高くもつ教師は、この段階になって初めて少数の「取りこぼし」に気がつくことになります。しかし、更に致命的なのは彼らがこの段階になってもまだ、その構造に気づかずに「技術」によって「取りこぼし」を取り込もうとすることです。

・どうすればあの子が集中するだろうか。
・あの子が漢字を習得できる何か良い方法はないか。
・どんな活動をすれば、あの子が学級のみんなにまじって交流できるようになるだろうか。
・あの子が立ち歩かずに授業に参加できるような、何かおもしろい学習活動はないだろうか。

これら、教師が抱きがちな問いの羅列にもう一度、改めて目を通してみてください。これらの問いがすべて「どのように」という問い、つまり「HOWの問い」であることに気づくはずです。そこには「どうすれば」「何か良い方法」「どんな活動」「何か面白い学習活動」と、HOWの目白押しです。

「HOWの問い」はあくまで、学習活動にうまく参加できないその子自身に意識が向けられるのではなく、更に良い学習活動はないかという「いかに集団全体を動かすか」という方向に意識が向けられています。今回用いた技術に取りこぼしが生じたので、更に広く取り込めるような質の高い技術がないかという指向性をもった問いです。

教師がこの視座に立つ限り、実は「取りこぼし」は必ず出ます。一人も取りこぼさない教育技術などというものはこの世に存在しないからです。

この構造を一斉授業や学級経営といった従来型の全体主義的教育形態であるからだと断罪してはいけません。協同学習であろうとワークショップであろうとファシリテーションであろうと、この構造は同様なのです。それが子ども一人ではなく、「集団としての子どもたち」を一斉に動かそうとする「技術」として意識されている限り、それに参加しづらい、参加したくないという子き必ず出ます。

ところが、これが「なぜ」という問い、つまり「WHYの問い」になると、一気に視点がその子個人に焦点化されるのです。さきほどの四つの問いを、例えば次のように言い換えてみましょう。

・なぜあの子は集中できないのか。
・なぜあの子は漢字を習得できないのか。
・なぜあの子はみんなにまじって交流できないのか。
・なぜあの子は授業中に立ち歩くのか。

視点を「HOW」から「WHY」に置き換えるだけで、一気に思考の枠組みが学級集団ではなく、その子個人に焦点化されるているのが理解できるはずです。

これらの問いには「どのように」という方法もなければ、「どんな授業」というあり得べき学習活動もありません。「なぜ」というありきたりの疑問詞が、ただ一人、その子個人を一人の個人として見る視座を生んでいるのです。

本来、「どのように」という問いは、「なぜ」現状があるのかという分析のうえに成り立つ問いであるはずです。「なぜ」が明らかになってこそ、その理由に基づいて対策が講じられ、「どのように」という施策になるはずのものです。なのに、教師の世界、学校教育の世界ではこの「あたりまえ」がなぜかあたりまえになっていません。その子の「なぜ」を考えず、最初から「どのように」を考えて選択された方法がその子に合致する確率など、だれが考えても低いに決まっているではありませんか。

多くの教師は、自分が子ども一人ひとりに共感し、心情的に寄り添っているように感じていますが、実は子ども個人ではなく、「方法」や「学習活動」にしか目を向けてはいないのです。つまり、私の言葉でいえば、「優しさ」を伴わない「技術」でものを考えているのです。

「HOW」を考える前に、必ず「WHY」を考える。その習慣を身につけた者だけが、「優しさ」と「技術」とをスパイラルに機能させられるようになります。

教師の力量形成のキモは、常に「WHYの問い」を持ち続けることであると言っても過言ではありません。

3.教え方と在り方

教育活動を常に「HOWの問い」で考えている教師は、実は常に「教え方」を追究している教師です。

「教え方」を追究するということは、自分は教師であり子どもたちよりも高い位置にあるということを前提にしています。もちろん、そうした教師が「自分は偉い」と考えているというのではありませんが、無意識的に子どもたちを高い視座から見ているのです。

自分を高い視座に置きますと、教師の教育活動に向ける視線は、学習活動に取り組むうえでの子ども集団の難点とよりよい学習活動の方法論にしか向きません。自分自身に非はないことになりがちです。

しかし、「WHYの問い」で考えると、途端に教師の世界観が変わります。「なぜ、この子は……なのか」という問いを立てると、集団のなかに埋没しながら苦労をしていたこの子、集団のなかで協同できずに困っていたこの子という視点が生まれます。

この視点は必然的に、「これまでこの子の困った感に気づいてあげられなかった私」という想いを教師のなかに湧き上がらせます。「WHYの問い」が必然的に、教師に内省を促すのです。

常に内省を繰り返している教師は、次第に他人に対して優しくなっていきます。不完全な自分、不備不足をたくさんもっている自分という視座が教師を謙虚にさせるのです。「技術」について考えるにしても、それを的確に使えない自分、機能させられない自分と向き合いながら考えるようになります。そしてそうした教師の心象は、必ず有形・無形に子どもたちにも伝わるのです。

教師は「教え方」よりも「在り方」を問われると言われます。子どもたちの前に立つ「立ち姿」こそが大事だと言われます。しかし、この「在り方」とは、威厳をもっているとか常に毅然としているとかを意味するのではありません。自らを内省しながら、子どもたちの「なぜ」に向き合う。迷いながらも精一杯の優しさを発揮しようとする。そんな心象が教師の「在り方」を図らずも規定するのです。

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教師力

「教師力」という語が巷に溢れて、既に10年が経過しています。定義らしい定義はありません。流行語ですから当然かも知れません
しかし、そのままでは話が進みません。まずは私なりに「教師力」を規定するところから始めたいと思います。

1.スキル
「教師力」とは何か。これを考えるにあたっては、その反対の概念を考えることが有効です。
例えば、「教師力」の下位項目として「学級経営力」があることはだれもが納得するところでしょう。しかし、「学級経営力」とは何かと考え始めると、これまた「教師力」同様、途端に難しくなってしまいます。そこで、「学級経営力」とは反対の概念を想定してみるわけです。
「学級崩壊」という言葉があります。教育界では忌み嫌われる言葉ですが、思考の糧として使うにはなかなか良い言葉です。
例えば、「学級経営力」の対立概念として、「学級崩壊力」というような言葉をつくってみます。4月の始...業式からヨーイドン!で学級を運営し始め、一番早く学級を崩壊させたものが勝ち!のような力ですね(笑)。
ちょっと考えてみてください。どうすれば、いち早く学級を崩壊させることができるでしょうか。
例えば、差別をするとか、贔屓(ひいき)をするとか、子どもによって態度を変えるとか、ついさっき言ったことと違うことを正しいと言い張るとか、連絡していないことを連絡したと言い張るとか、常に上から目線で嫌みったらしく語るとか、すぐに忘れ物を取りに職員室に行くとか、まあ、考え出したらキリがないほど出るはずです。ためしに仲の良い同僚とやってみると良いでしょう。ゲラゲラ笑いながら、ほんとうに楽しい時間を過ごせるはずです。4,5人での呑み会で話題にしたら、時間を忘れて盛り上がれることを保障します。
しかし、この「学級崩壊力」の要素を本気で出し合ったとしたら、やはり力量の高い教師ほど、的確な「学級崩壊力」を指摘するはずです。力量が高いということは、それだけやってはいけないことに自覚的であり、それに陥らない手立てをスキルとして身につけている状態をいうからです。力量の高さとは「これをやるといい」と「これをやってはダメ」とがどれだけ明確に意識されているかを指すのだと言ってほぼ間違いありません。
いかがでしょうか。
「学級崩壊力」は決して冗談などではなく、一度、本気で考えてみるべき価値ある概念だということがわかっていただけたでしょうか。きっと「これをやってはダメ」というマイナス要素を考えることによって、自らのスキルに自覚的になれるはずです。
是非皆さんも試してみてください。

2.キャラクター
ただし、同じスキルをもっていれば指導したときに同じ効果が期待できるのかというと、決してそうではないところがこの世界の面白いところです。
スキルというものはその教師の人格と切り離せないもので、その教師が用いるからこそ機能する、しかしある教師が用いるとまったく機能しない、そんなことが厳然とあるのです。極端に言えば、想定した「学級崩壊力」をすべて実践しても学級崩壊しない教師もいれば、それなりのスキルを身につけているのに学級を崩壊させてしまう教師もいる、それが現実です。
この違いを、教師それぞれの「人格」と言ってしまっては「人間性」とか「徳」とか「威厳」とか、教育界で古くから言われている何か崇高なもののように感じてしまいます。それでは私の言っているのとは少しニュアンスが異なるので、私はもう少しイメージを軽くして、教師それぞれの「キャラクター」の違いという言い方をしています。
スキルとか、ネタとか、新しい指導法とか、そういうものに教師は飛びつきがちです。しかも、ちょっとためしてうまくいかないと、それらを簡単に捨ててしまうという悪弊もよく見られます。しかし、スキルもネタも指導法も、自らのキャラクターに相応しいのか、自らのキャラクターがそれらを機能させやすいのかさせにくいのか、こうしたことをしっかりと検討したうえで導入しなければならないのです。
多くの教師がこのことに無自覚過ぎます。自分がどのようなキャラクターとして子どもたちや保護者、同僚の目に映っているのか……。それをほとんど考えない傾向にあります。それでいて、このスキルはうまくいかない、このネタには子どもたちが乗らなかった、この指導法は万能じゃない、そんな自分本位の評価を下しているというのが多くの教師の現実なのではないでしょうか。

3.チーム力
キャラクターに合ったスキルを身につけ、たとえそれらを十全に機能させたとしても、一人の教師ができることなどたかが知れています。学年団のなかで、或いは学校のなかで、その教師自身がどのような位置づけで機能するか、存在感を示すか、個人プレーばかりを志向せずにどのように周りと調和するのか、それを考えなければなりません。
私は「教師力」を〈キャラクター〉と〈スキル〉と〈チーム力〉との関数だと考えています。
つまり、

教師力=キャラクター×スキル×チーム力

という関係ですね。
〈キャラクター〉が10、〈スキル〉が10と個人的な力量は申し分がないのに〈チーム力〉は-1、これでは3つを掛け合わせればマイナスになってしまいます。力量的に突出した教師がいることがかえって学校に迷惑をかけるという事例をしばしば目にしますが、それは比喩的にいえばこういう構造なのだと考えています。
逆に、〈キャラクター〉が8、〈スキル〉が5と面白い先生だけれど力量的にはまだまだ……という若手の教師でも、〈チーム力〉が10であれば、子どもたちに対してかなり大きな指導力を発揮することができるのです。学年にいわゆる「恐い先生」が一人いて子どもたちににらみを効かせていることによって、その影響力に守られながら若い教師や優しい女性教師がその指導の力を発揮するという構図は、多くの学校で見られます。
しかし、こうした場合でさえ、「逆もまた真なのだ」ということを意識しなければなりません。若い教師が子どもたちと日常的に遊んだり、優しい女性教師がハートの弱い子どもたちを日常的にフォローしているからこそ、実はその「恐い先生」も取りこぼしを最小限にできているのだということです。若い教師に遊んでもらっている子どもたちは、もしかしたら日常的な不満を若い教師に遊んでもらうことで昇華できているのかもしれません。また、ハートの弱い子どもたちは、「恐い先生」だけだったとしたら学校生活に怯え、最悪の場合には不登校に陥っていたかもしれないのです。
学年団や学校のなかで「機能する」とか「存在感を示す」とか「周りと調和する」とかいうのは、こういうことなのです。
教師は担任をもって授業をします。学級担任も授業も基本的には一人でするものと考えられています。一人でするものだと考えると、何かミスがあったり、ちょっとした失敗をしたりすると、一人で責任を負うことになります。ああ、失敗しちゃったなと落ち込みます
しかし、一人でできると思うから失敗するのです。自分で何とかしようと思うから辛いのです。
教師それぞれが〈キャラクター〉に応じた〈スキル〉を身につけると同時に、〈チーム〉で仕事にあたる、そういう時代がやってきたのです。
いま、子どもたちは多様です。かつてのように一人の教師が一つの価値観で子どもたちを導ける時代とは異なります。子どもたちが多様なら、教師も多様であるべきなのです。多様なキャラクターによってチームをつくり、それぞれのスキルを効果的に機能させることこそが、現在、教師に求められている在り方なのです。
「教師力」とは、〈キャラクター〉と〈スキル〉と〈チーム力〉の関数である。このことはいくら確認しても確認し過ぎるということがないくらいに、私にとっては大切な原理になっています。詳細は拙著『教師力ピラミッド~毎日の仕事を劇的に変える40の鉄則』(明治図書)を御参照いただければ幸いです。

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ツイート六つ・5

25.「わかったつもり」に陥らないこと。一般に、経験を重ねると主張はシンプルになっていく。それゆえ、先達の主張にはシンプルなものが多い。しかし、それは長年にわたって複雑な思考を通ったからこそ到達したシンプルさであると心得ること。自分がそれを理解するには数十年かかると心得ること。
【コメント】
わかりやすいものが良いという人がいます。よく、僕の文章はわかりにくい、読みにくいと批判されます。そういえば、本書でも健ちゃんがそういう趣旨の批判をしています(笑)。しかし、わかりにくくならざるを得ない思考を通った人が到達したわかりやすさと、最初からわかりやすさを至上とした人のわかりやすさには雲泥の差があります。後者はあくまで軽さであって、わかりやすさとは似て非なるものです。

26.若者よ、小さくまとまることを目指してはいけない。この程度で良いと線引きしてはいけない。飢えろ。もっと飢えろ。高みに飢えろ。自分にもできることではなく、自分にしかできないことを目指せ。飢えろ。もっと飢えろ。明日の自分に飢えろ。明後日の自分に飢えろ。
【コメント】
健ちゃんが「今の現場は非常に厳しい」から、「今の若者たちにこれを望むのは酷」だと言っています。僕はあまりいまの現場が厳しいとは認識していませんが、もしも厳しいとすれば、厳しいからこそこういう発想が必要なのだと思います。状況が厳しいから失敗しないようにと考えていたのでは、小さな失敗さえ大きな失敗と感じられてしまいます。失敗してもいいから挑戦をという気になるには自分の可能性に飢えるのが一番です。

27.まず量をこなせ。量を蓄えよ。質はあとからついてくる。若いうちはがむしゃらに10年走ってみることだ。10年走ったら質とは何かが見えてくる。それが見えたとき、初めて質を追っていい。僕はそう教えられた。正しいか否かはわからない。ただ、僕には合っていた。師匠に心から感謝している。
【コメント】
正確に言えば、師匠の言葉は「量も質だ」です。度を超えた量があるとある種の質ができ上がります。僕は新卒の年に全部で70枚の指導案をつくりくました。2年目にはわざと80枚にしました。3年目は120枚の指導案をつくりました。質がないのだから量だけは……そんな思いでつくった指導案でしたが、あの経験がなければ現在の自分はないなと感じます。あのとき、量にこだわって良かったなと。あの量は僕に質をもたらしたなと。

28.肩の力を抜かないと見えないものがある。自分をかっこよく見せようとか、失敗したくないとか、他人に負けたくないとか、そんな思いが肩に力を入れさせる。自分の上昇ばかり考えるから見えないものがある。自分の維持ばかり考えるからできないことがある。肩の力を抜くことに慣れると世界が変わる。
【コメント】
肩に力を入れることを否定していません。でも、世の中には肩の力を抜かないと見えないものがあるよと、実感を実感として告げているだけです。その境地に立つと世界観が変わるよと。肩に力が入っているときに、そのことを自覚するといいよと。いま自分が肩肘張って頑張っていることによって見えなくなっていることもあるかもしれない……そういうスタンスで生きるといいよ、そう言っているのです。

29.失敗する自分を愛せるようになったら天職。失敗する自分を愉しめるようになったら一流。
【コメント】
「あ~あ、やっちゃった」と照れ笑いする。「おやおや、こりゃ困ったな」と自嘲する自分を見せる。自分の力量を信頼していないと、自分の存在を信頼していないと、自分の未来を信頼していないとこの境地には立てません。他人に負けたくないとか、具体的な成果をあげなくちゃとか、そんなことを考えていてはこの境地には立てません。自分という人間を愛し、自分という人生を愉しむ。これができれば芸術の域に近づいていきます。

30.人生の岐路に立ったとき、仕事上の判断に迷ったとき、先の見通せる方を選ぶのが「成功」のコツ、先の見通せない方を選ぶのが「成長」のコツ。すべての人に問いたい。「成功」と「成長」。あなたはどちらを選びますか?
【コメント】
見通しをもてる人生なんてなんのおもしろみもない。見通しなんて本人がもてていると思っているだけで、ほんとうはまるでもててなどいないものです。見通しなどというものは、思い込みに過ぎません。見通しをもつなどと言って、自分に見えないことから逃げているだけです。自分が見えていないものへ、自分が理解していない世界へ、自分の世界観の外へ外へと向かうことにこそ人生の妙がある、僕はそう信じて疑いません。

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教師は「教え方」以上に「在り方」を問われる?

我々の欲望と我々の能力の不均衡にこそ、我々の不幸は存する。

こう言ったのはルソーである(「エミール」)。至極名言だなと思う。僕らは子どもたちにとって価値ある教師でありたいと欲望する。でもその能力に限界を感じる。ときにそれをとことん自覚せねばならないこともある。そんなとき、僕らは不幸せを感じ、自分自身に絶望的にならざるを得ない。そんなことを繰り返しながら、教師もまた、少しずつ強くなっていく。

多くの教師は子どもたちっにとって価値ある教師になるために、「ワザ」を身につけようとする。「ウデ」を磨こうとする。わかりやすい教え方、伝わりやすい言葉、意義ある学習活動、効果のある教育技術、そういうものに飢える。でも、子どもたちが見ているものは「この先生は授業がうまいなあ」とか「この先生の話はおもしろいなあ」とか「この先生の話には説得力があるなあ」とかではない。「この先生は人としてどう自分たちに接するのか」である。確かに僕らは子どもたちの前に「先生」として立っているが、子どもや保護者は僕らを「人」として評価している。

この人は言っていることとやっていることが一致しているか。この人は自分の過ちを認めるか。この人は自分たちに情を向けてくれるか。この人は自分たちのことを考えて行動してくれるか。この人には時にラブリーな淫らさがあるか。この人の情熱や熱意は自己満足に陥ってはいないか。僕らにはそんな多種多様の評価の眼差しが向けられている。言うこととやることが一致せず、自らの過ちを認めず、子どもたちに情を向けることも子どもたちのことを考えずに正しさだけを規準に教壇に立ったり、人間らしい茶目っ気がまったくなかったり、情熱や熱意をもつ自分に酔っている印象を与えたりする人間が、いくら高度な技術を駆使してうまい授業をしても、いくら具体例を駆使したうまい語りで指導したとしても、ときにその授業や指導は嫌味にさえなる。同じことをやっても評価される教師とされない教師がいるのはそのせいだ。

恰好良いことばかり言う人間は最初は感心されても遂には避けられる。逆にどう考えても格好悪いことをしている人間がそのひたむきさを買われ、最後には高い評価を得ることもある。人間の評価は何を言ったか、何をしたかだけで測られるわけではない。言ったこととやったことを通して見えてくる、その人の「意図」が評価される。もう少し正確に言うなら、人間は言うこともやることもそうそう意図をもってやっているわけではないから、「この人はこういう意図でやっているのではないか」という他者に抱かれてしまった印象で評価が決まってしまう。そういうものだ。

例えば、自信満々に生きている人に対して人はなかなか逆らえない。その人の語ることが正しいからとかその人のやることに意義があるからではなく、その人が自信をもってやっているということから生じるオーラが、人に逆らわせないのである。逆に、いかにも自信なさそうに見える人が語ったことに人は反論しやすい。その人が弱々しく語るが故に、聞いている側はちょっとした違和感も表出しやすくなる。聞いている側からすれば、自分の自信のない意見もこの人の意見と同等の価値をもつと思うことができる。だから反論しやすい。

例えば、とことん反省し、自分の責任を痛感しているように見える人を、人はそれ以上責めることをしない。許そうとする。命にかかわる問題であるか、一生涯の後遺症が残る問題であるか、この二つでない限り、誠心誠意謝罪している人間を人はそれ以上責めない。自分だって失敗はする。この人だって失敗しようと思って失敗したわけではない。これだけ落ち込み、これだけ反省しているのだからこれで充分だ。更に後ろから石を投げるようなことをすべきでない。そんなことをしては自分自身が下劣な人間になってしまう。多くの人はそう考える。ところが口では反省していると言いながら、態度や表情に一切反省の色が出ていないとなればそうはいかない。みんなが一斉に、徹底的に叩き続ける。

自信があるかないか、謝罪に心がこもっているかいないか、どちらも言っていることややっていることが問題なのではない。「この人はいま、こういう意図なのだ」という印象を皆が感じ取れるか否か、それだけが判断基準なのだ。

教師の「教え方」と「在り方」の問題も同様である。その教師が言っていることややっていること、即ち「教え方」の善し悪しは、その教師の「在り方」、即ち「その教師はこういう意図でやっている」という印象とセットで評価の対象となる。世の中に良い教え方、良い指導の仕方が独立してあるのではない。あくまでもその教師個人の「在り方」が前提としてあり、それに矛盾しない「教え方」や「指導の仕方」がなされたとき、その教師は高い評価を得ることができるのだ。

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ポジティヴな感情は「過剰」を生み出す?

この世にあるポジティヴな感情は須く「過剰」を生み出す。情熱や熱中が「過剰」を生み出す。過ぎたるは及ばざるがごとし。ときにやり過ぎが最初からやらかったときよりもマイナスを生じさせることがある。情熱や熱中を価値として生きる教師はこれを意識した方がいい。

僕は新卒の年、自分の学級を愛し過ぎてその後にもった学級を愛せなかったという苦い想い出をもっている。このことは拙著『エピソードで語る教師力の極意』に書いたから繰り返さないけれど、この経験は僕のその後十年間くらいの教員人生を狂わせた。狂わせたと言っては言いすぎかもしれないが、戸惑わせたのは確かだ。生徒を愛しすぎることは教師にとってときにマイナスにさえなるのではないか……そんな自問自答を繰り返したのが、僕の教員人生の最初の十年だった。

初めて学年主任として仕事をしたとき、僕は自分の学年の先生方を愛し過ぎて、過保護の過ぎる学年運営をしたことがある。結果的に僕の学年を離れた後、僕の学年の先生方は当然のように僕のようには過保護に接してもらえなくなり、中には心の病すれすれに陥った者さえいる。情熱や熱中が「過剰」を生み出すという僕の言葉は、こうした経験から生まれている。

自分で言うのもなんなのだが、僕はかなり「過剰な人」である。ノッているときにはぐんぐん進む。進みすぎるくらいに進んでしまって、ふと気づくと息切れしてしまう。そういうタイプの人間だ。何か新しいことを思いつくと一年くらいそればかりやって子どもたちにも呆れられてしまうことが多い。子どもたちに呆れられてしまうくらいやるのに、それに飽きてしまうとぱたりとやらなくなる。また新しいことを見つけるとまた一気にそっちに行ってしまう。そんな感じである。

最近もメンタルの弱いの女の子を部下にもったときに、この子はメンタルが弱いからと過剰にフォローし過ぎて、肩身の狭い思いをさせ、失敗してはいけないと息の詰まる仕事の仕方をさせてしまった時期があった。結果的に彼女と話しているうちに僕がそれに気づいて修正できたから事なきを得たけれど、あのまま僕が身勝手なフォローもどきを続けていたらと思うとぞっとする。

いまこうして本を書いているわけだが、執筆に関しても同じである。僕は二○一一年度から二○一二年度にかけて二十冊近い単著と編著を書いたけれど、二○一三年度はすっかり飽きてしまって一冊も書かなかった(笑)。時間はあるのにどうしても書く気が起こらない。それで編集者の皆さんにずいぶんと迷惑をかけてしまった。そういう意味では本書は僕の復帰第一作とでもいうべきものだ(「復帰」というには、書かなかった時期がずいぶんと短いけれど……)。最近になってやっと書く気が起こって、毎日の執筆生活に少しずつ充実感が戻ってき始めている。

「過剰」は常に「過剰」かというと、決してそうではないところがやっかいだ。「過剰」は一時期「過剰」であったが故に、その反動としての「不足」を産み、「空虚」を産み、ひどいときこには「虚無」を産む。安定してアベレージを上げることができなくなる。だからと言って、安定とアベレージを旨に生きようとすると、安定もアベレージもなかなか手にすることができない。生きるって難しい(笑)。

自分が「過剰」に陥ったときは、「自分はいま過剰である」で意識すること。そうすることで、現在の過剰がもたらすマイナス面に目が向くようになる。そこに目が向けば多少なりともそのマイナスを回避することもできる。逆に過剰のあとの虚無に陥りそうになったら、変に焦らないでルーティンを粛々とこなすこと。自らが浮上するのを待つこと。いまはそういう時期なのだとある種の諦めをもって淡々とこなすこと。これができるようになることが、「過剰な人」が安定し、アベレージを上げていくコツなのだと思う。

実は、「過剰な人」が他のことには目もくれずに過剰になっている時期、自分では気づかないまま、知らず知らずのうちに成長していることも事実である。しかし、それが成長であると気づかないことも少なくない。その過剰な時期を振り返って整理するということを、「過剰な人」は怠ることが多いからだ。「過剰な人」が過剰な時期を経験すると「過剰体力」みたいなものが確かにつくけれど、それを振り返り整理しないと安定的にその「過剰体力」を発揮できるようにはならない。従ってアベレージも上がらない。こういう関係なのだと思う。

自分が「過剰」に陥ったときには、「自分はいま過剰である」と意識すること。そして、その「過剰」を常に振り返り、プラス面、マイナス面を整理してみること、それが必要だ。初めて学年主任をしたとき、僕は若者たちを過保護にした。最近は年度途中に過保護だと気づいてすぐに修正することができた。こういうのを成長というのだと手前味噌で思っている。

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ツイート六つ・4

19.「排除の論理」でものを考えないこと。すべての評価は相対的なものと心得ること。指導力不足教員さえ排除しないこと。彼らに必要なのは教えてあげることであって排除ではない。100人の指導力不足教員を排除したら、101番目から200番目が指導力不足を指摘されようになるだけだと心得ること。
【コメント】
  人の評価は相対的なものです。絶対的に力量をもっている人がいないように、絶対的に力量のない人もいないのです。いま学級がうまく行っていない人は、たまたまいまうまく行っていないだけです。うまく行っている人は、たまたまいまうまく行っているに過ぎません。なのに自分がいまちょっと強者の立場にいるからいって、弱者を排除の論理で断罪する人がいます。僕はそういう人を見ると叩きつぶすことにしています。

20.頑張ることは大切だが、頑張りすぎてはいけないと知ること。自分に限界をつくってはいけないが、自分が無限だと思ってもいけないと知ること。だれもが完璧ではないが、可能性もまたもっていると心得ること。「完璧ではない」も「可能性がある」もともに大切にすること。
【コメント】
  調子の良いときと悪いとき。人にはバイオリズムがあります。頑張りがきくときがあれば、きかないときもあります。バイオリズムが下がっているときには、無理をしないことも大切です。調子がよくなったときに、取り返せばいいのです。調子の悪いときに世話になった人たちには、調子がよくなってから恩を返せばいいのです。コンスタントに成果をあげ続け、常に成長し続ける人など、この世の中にはいないのですから。

21.いざというときには、仕事なんかどうにでもなると知っていること。心が折れそうになってどうしようもなくなったら、何もかも捨てて逃げ出すこと。強迫観念で働かないこと。自分のなかの自然と共存すること。哀しさや辛さや苦しさを、壊れてしまうまで我慢しないこと。
【コメント】
  学校教育とは人工的な営みです。子どもは勉強することよりも、遊んだり、甘えたり、引きこもったり、おしゃべりしたり、眠ったりする方が自然なのです。子どもたちの自然を抑制し、人工的に社会に適応させようとするのが学校教育です。仕事も同じです。僕らはさぼりたいと思ったり、逃げたいと感じたり、そういう自然を抑制しながら人工的に仕事をしているのです。自分のなかの自然が悲鳴をあげたら逃げるのが当たり前なのです。

22.「健全な野心」をもつこと。いつか、あの人が見ているものを見てみたい。いつか、いま見えていないものが見える自分になりたい。地位や名誉ではなく、視野を広げ、視座を高くもとうと努めること。「不健全な野心」によって堕落せず、「健全な野心」を抱いて飛翔すること。
【コメント】
 地位を得たい、名誉を得たい、こういうエネルギーを僕は「位置エネルギー」と呼んでいます。「位置エネルギー」はその位置に届いた時点でエネルギーを失います。自分の限界が見えた時点でエネルギーを失います。それに対して、成長したい、いま見えていないものを見てみたい、そういう衝動に駆られて動き続けるエネルギーを僕は「運動エネルギー」と呼んでいます。「運動エネルギー」にはゴールも限界もありません。

23.自分は発展途上であるとの自覚をもつ先達にこそ学ぶこと。直接逢って教えを請うこと。完成された先達、自らを相対化しなくなった先達など、出来上がった世界の住人からは間接的に学べば充分と心得ること。発展途上人のもつエネルギーこそが、発展途上人の躍動こそが自らに感化を与えてくれる心得ること。
【コメント】
  発展途上にある人たちは「運動エネルギー」をもち続けている人です。完成された人たちは「位置エネルギー」を旨として生き始めた人です。完成された人は本で学べばいいのです。それよりも時間と労力とお金とを、発展途上の人たちの躍動に触れることにこそ懸けるべきでしょう。その方が発展途上の自分には必要だと心得るべきでしょう。もしかしたら、発展途上人と発展途上人の間に化学反応さえ起こるかもしれませんよ。

24.10年間、ただがむしゃらに取り組んでみること。10年の時を経ずに見えてきたものは幻想だと心得ること。試行錯誤から教育観がぼんやりと生成し、意図的に実践することでそれが教育論になっていく、その過程を経たものだけが身になるのだと心得ること。
【コメント】
  僕はいまだに自分が10年以上にわたって考えていないことを公的に提案することをしません。思いつきなんて所詮思いつきです。人がやっていることのを見て、「それいいな」と試すというようなこともまずありません。人真似は所詮人真似です。とはいえ、思いつきも人真似も大切ではないと言っているのではありません。自分の頭で長い時間をかけて考え、自分の躰で何度も何度も試みることによって熟成させよと言っているのです。

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「THE 教師力」シリーズ

Cover140518THE 学級マネジメント』長瀬拓也編/THE 教師力編集委員会著/明治図書/近日刊行

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【執筆者】長瀬拓也/武田直樹/佐々木大輔/尾形英亮/古川光弘/山田洋一/藤原友和/山田将由/鈴木優太/田中博司/松森靖行/城ヶ崎滋雄/山本純人/伊藤慶孝/合田淳郎/杉本直樹

Cover201402234THE 校内研修』石川晋編/THE 教師力編集委員会著/明治図書

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【執筆者】石川 晋/堀 裕嗣/藤倉 稔/阿部隆幸/山寺 潤/志賀都子/松原宏樹/大木 馨/蔵満逸司/渋谷 渉/大野睦仁/藤原由香里

Cover201402233THE 新採用教員~中学・高校教師編~』堀裕嗣編/THE 教師力編集委員会著/明治図書

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【執筆者】堀裕嗣/熊谷真澄/齋藤 大/佐藤恵輔/高村克徳/高村直子/中村早苗/新里和也/原 啓太/米田真琴/小山内さつき/澤田千秋/大塩直子/ 池田 修/山下 幸

Cover201402232THE 新採用教員~小学校教師編~』山田洋一編/THE 教師力編集委員会著/明治図書

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【執筆者】山田洋一/奥山尚登/坂野 優貴/熊谷夏子/駒井敬子/近藤麻里子/宮本 彩/村上 綾/森優也/飯村友和/桔梗友行/長瀬拓也/藤原友和/中村健一/横藤雅人/野中信行

Cover201402231THE 教室環境』石川晋編/THE 教師力編集委員会著/明治図書

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【執筆者】石川 晋/中島主税/太田充紀/鎌北淳子/鈴木優太/高橋正一/大野睦仁/田中聖吾/田中博司/広木敬子/冨田明広/伊垣尚人/塚田直樹/平山雅一/山崎由紀子/小川拓海/野呂篤志/郡司竜平

Cover201402044THE 授業開き~国語編~』堀裕嗣編/THE 教師力編集委員会著/明治図書

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【執筆者】堀 裕嗣/近藤佳織/高橋百合子/中條佳記/堀内拓志/松森靖行/楠本輝之/白井 敬/山田将由/大島崇行/水戸ちひろ/中村健一/岡田広示/高橋和寛/山本純人/平山雅一/合田淳郎


Cover201402043THE 学級開き』堀裕嗣編・THE 教師力編集委員会著・明治図書

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【執筆者】堀 裕嗣/宇野弘恵/桔梗友行/金大竜/佐々木潤/白井 敬/中條佳記/坂内智之/福山憲市/藤原なつ美/古田直之/山田洋一/渡邉尚久/伊藤慶孝/門島伸佳/堀川真理/渡部陽介

Cover201402042THE 学級経営』堀裕嗣編・THE 教師力編集委員会著・明治図書

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【執筆者】堀 裕嗣/赤坂真二/飯村友和/石川 晋/糸井 登/大野睦仁/門島伸佳/金大竜/多賀一郎/中村健一/福山憲市/古田直之/堀川真理/山田将由/山田洋一/渡邉尚久

Cover201402041THE 学級通信』堀裕嗣編・THE 教師力編集委員会著・明治図書

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【執筆者】堀 裕嗣/多賀一郎/南山潤司/鍛冶裕之/宇野弘恵/藤原なつ美/氏家拓也/石川 晋/海見 純/山下 幸/合田淳郎

201401281coverTHE 生徒指導』寺崎賢一編・「THE 教師力」編集委員会著・明治図書

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【執筆者】寺崎賢一/中野敏治/門島伸佳/海見 純/山本修司/北島 昇/杉多美保子/永田裕之/大山圭湖/成田弘子/人見 誠/山下 幸/杉江修治/大野佑樹/山本美一/菊池省三

201401282coverTHE 特別支援教育~通常の学級編』青山新吾編・「THE 教師力」編集委員会著・明治図書

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【執筆者】青山新吾/川上康則/岸本勝義/塚田直樹/久保山茂樹/清岡憲二/土居裕士/涌井 恵/田中博司/万年康男/神吉 満/小田太郎/中雄紀之/石川 晋/柳下記子/島田和紀

20131202coverTHE いじめ指導』堀裕嗣編・「THE 教師力」編集委員会著・明治図書

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【執筆者】堀 裕嗣/太田充紀/大野睦仁/梶川高彦/門島伸佳/楠本輝之/駒井康弘/近藤佳織/佐瀬順一/杉本直樹/髙橋直登/髙橋裕章/高橋百合子/田中利幸/坂内智之/松久一道

「THE 教師力」シリーズの第三弾です。このシリーズ企画が軌道に乗り始めています。春までに様々なテーマで続々刊行される予定です。多様性を担保しながら、小さな提案を確実に積み上げていく……そんな想いで編集しています。いかなる教育団体、いかなる実践手法も差別することなく、教育界の成果を発信していただく、そんな大きな志をもって企画致しました。ただ、常にライター不足に悩まされています。皆さんにもご協力いただければ幸いです。

Cover2013082303THE 教師力~若手教師編~』堀裕嗣編・THE 教師力編集委員会著・明治図書/第2刷が決まりました。お読みいただいたみなさま、ありがとうございました。

まえがき/あとがきamazonでのご購入

【執筆者】堀 裕嗣/飯村友和/伊藤慶孝/今井清光/桔梗友行/金大竜/白井 敬/田中光夫/辻川和彦/中條佳記/長瀬拓也/藤原友和/古田直之/山田将由/山寺 潤/山本純人/吉川裕子

「THE 教師力」シリーズの第二弾です。

Cover2013082302THE 教師力』堀裕嗣編・THE 教師力編集委員会著・明治図書/第2刷が決まりました。お読みいただいたみなさま、ありがとうございました。

まえがき/あとがきamazonでのご購入

【執筆者】堀 裕嗣/青山新吾/赤坂真二/池田 修/糸井 登/石川 晋/大谷和明/金山健一/佐藤幸司/多賀一郎/寺崎賢一/中村健一/西川 純/野中信行/堀川真理/山田洋一

今年度、僕がもっとも力を入れている企画です。昔から教育実践の提案は多様性が担保されていなければならないとの思いがありました。これまでも様々な出版社にそうした企画を提示してきましたが、実現することはありませんでした。しかし、今回、その思いを明治図書の及川さんが汲んでくれ、しかも定価1000円という信じられない価格のシリーズとして実現しました。執筆者も「見て驚くな!」という布陣を組むことができました。このシリーズが教育界に一石を投じるであろうことを確信しています。これから続々刊行される予定です。

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選択肢を単純化せよ!

前節で「初発の動機づけ」として「知的好奇心」を喚起する場合に、「驚嘆」「当惑」「矛盾」を与えるという三つの観点を提示しました。

しかし、「驚嘆を与える」ことはどちらかというと、具体物を提示しやすい理科や算数に向いている手法です。また、「矛盾を与える」ことは国語科では即ち「ゆさぶり」を意味しますから、授業展開がどうしても大がかりになってしまい、教師に細かなミスが出やすくなります。かなり力量の高い教師が用いなければ、なかなかうまくいかないというのが現実です。

国語科の授業において、だれもが気軽に子どもたちの「知的好奇心」を喚起できるのは「当惑を与える」手法、即ち「選択肢を与える」という発問づくりです。しかし、これが国語科教育界ではイメージが悪く、なかなか一般化しません。選択肢を教師側から与えてしまうことが、子どもたちに「思考のフレーム」を強制することになり、子どもたちの「思考の自由」を奪ってしまうのではないかという懸念をされるせいです。

しかし、こうした懸念は間違っています。実は何も規制のない自由ほど不自由なものはないのです。規制のない自由は子どもの頭の活性化をかえって阻んでしまうのです。 例えば、物語の授業において、主人公の人物像を検討させたいとします。

多くの教師は、「この主人公はどんな人か。」と問います。その結果、子どもたちは「やさしい」とか「明るい」とか「かわいい」とか答えます。教師は子どもたちの答えがあまりにもあっさりしているので、「どんなふうにやさしいの?」と問い返しますが、この問いは子どもたちにとっては答えるのがなかなか難しい問いです。それは、この問いが「やさしい」を別の言葉で言い換えることを求めているからです。大人だって「やさしい」という言葉を言い換えるのには少々苦労するでしょう。こうした日常的な戸惑いが、授業をどんよりさせるのです。

これが「この主人公をあなたはどう評価しますか?+・-・0で答え、その理由を一文で書きなさい。」だったらどうでしょうか。子どもたちは本文中から論拠を見つけたうえで、「+」か「-」か「0」かで答えます。

黒板に「+の意見」「-の意見」「0の意見」と分類したうえで、それぞれその論拠として発表された主人公の行動を列挙していけば、黒板は子どもたちの意見でいっぱいになるはずです。それを一つ一つ取り上げて、その論拠を挙げた子どもたちに発言してもらいながら検討していけば、授業は一気に活性化するのではないでしょうか。

こうした発問では、選択肢こそ確かに単純化されていますが、検討の題材になっているのがあくまで教材本文であり、子どもたちの読解になっているのです。

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人は他人の誠実さに惹かれる?

誠実な人と淫らな人。あなたはどちらが好きだろうか。

一緒に仕事をするならとか一緒にいて安心するとか、よけいなことを考えてはいけない。単純にどちらが好きかという問題だ。どちらに惹かれるかと言い換えてもよい。多くの人が淫らな人であるはずだ。無能な淫らさはみんな嫌いだが、有能な淫らさはだれもが好む。

人は有能な人間の「淫らさ」に惹かれる。

誠実な人、一緒にいて安心する人、確かに大切かもしれない。しかし、誠実も安心もただそれだけである。それ以上にはならない。誠実と安心を掛け合わせても新たな価値は生まれない。ただ平坦な、起伏のない日常が生まれるだけである。そこに何らかの「淫らさ」が感じられるとき、人はその人に興味を抱く。

教師も同じである。ただ真面目一本やりの教師は、子どもから見ても保護者から見ても魅力がない。同僚から見ると、ときに迷惑でさえある。「真面目だけが取り得」という言葉があるが、これはあくまで「真面目」が取り得の一つだということであって、「真面目だけが取り得」の人には取り得がない。真面目だけで生きる人は真面目だけで生きているが故に周りに数多くの迷惑をかけている。真面目だからそれに気づかないだけだ。真面目でない人も迷惑をかけているが、その人が真面目でないことを周りも理解しているだけに許されてしまう。ときにはラブリーでさえある。真面目な人はそういう「淫らさ」を迷惑だと感じ、その淫らさをネガティヴに捉え、真面目に対峙してしまうことに周りに迷惑をかける。そのくらい許されるだろ……という周りの空気に水を差す。これがいけない。そしてそういう教師は確実に存在する。

もう一度、繰り返す。人は有能な人間の「淫らさ」に惹かれる。

大切なのは「有能な人間の」の部分である。正直に言えば、無能な人間は誠実な方が愛される。無能な人間の淫らさは周りにとって手がつけられなくて、迷惑この上ない。しかし、有能な人間に誠実を旨として生きられてしまうと、周りにいる者は自分の無能さと自分の淫らさとを突きつけられてしまい、落ち込むとか手立てがない。有能な人間の「淫らさ」が愛されるのは、周りに「完璧な人などいない」と安心感を与えるからだ。安心感を与える「淫らさ」が人を惹きつける。

例えば、職員室に不倫がばれてしまった女性教師がいるとしよう。この女性教師は誠実な人には支えられない。ある種の「淫らさ」を持ち、淫らな価値観をもっている人間にしか支えられない。そもそも不倫自体を絶対に許せないという心象ほ前提にしたら、この女性教師はただ職を辞すべきだという結論にしかならない。この女性教師かどんなに有能だったとしても、その有能さに今回の事案が有せ冠されてしまう。今回のことは若気の至りで、この女性教師がこれから多くの可能性を秘めていたとしても、その可能性は摘まれるしかないという結論に至る。しかし、世の中はそんなに一面的に判断できるものではない。

普通に恋愛し、普通に結婚するカップルにも、今後の生活の安定や相手のルックスといった損得勘定の打算はある。心ならずも不倫の恋愛に至った女性だって、その恋愛が不倫であり世の中では許されないことは百も承知なわけけで、損得勘定で言えば損であることも百も承知である。それでもその道に踏み込まざるをえなかった事情がある。世の中に「不倫」と呼ばれる「純愛」など数限りなくある。例えば、誠実一本やり、真面目一本やりの人間はこうした論理を理解しない。理解しないことによって、その人が立ち直れなくさせてしまう。他人に致命傷を与える動きをする。しかも、自分では良いことをしたと思っている。そういう誠実さを僕は誠実と思わない。

無能な人間は誠実であってよい。そもそも無能な人間は誠実を旨として生きたとしても、こうした事案で他人の人生に影響を与えるような立場に立たない。だから世間の価値基準に同化し、正義を代表するような発言をしていても、それほど周りに迷惑をかけない。しかし、人の上に立ち、他人の人生に影響を与える立場に立つ人間は、ある種の淫らさをも理解する「淫らさ」をもっていないと、他人に致命傷を与えておいてそれに気づかないなどという非人間的なことをしかねない。

言っておくが、教師は常に人の上に立ち、下手をすると他人の人生に致命傷を与えかねない立場にいる。大学を卒業し、教師となった瞬間からその立場になる。不倫の女性教師なら管理職や主任クラスの人間だけが考えれば良い話かもしれないが、この不倫女性教師のもう少しミニマムな事例なら、教室にはいっぱいあふれてはいないか。そんなとき、ただ「正しさ」で子どもたちを断罪してはいないか。教師はある種の淫らさをも理解する「淫らさ」をもっていた方がいい。

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驚嘆・当惑・矛盾を与えよ!

「初発の動機づけ」の二つ目は、「知的好奇心」を喚起することです。名著『知的好奇心』(波多野誼余夫・波多野佳世子・中公新書)によれば、「知的好奇心」の喚起には三つの方法があります。

①驚嘆を与える

②当惑を与える

③矛盾を与える。

「驚嘆を与える」とは、これまでの常識に反した事象を提示するということです。人間は常識に反したことを見せられると、それがなぜ起こるのかを知りたくなります。驚きは「なぜ?」という意欲となって、その原理の追究へと向かっていきます。

「当惑を与える」とは、多くは選択肢の形を採ります。どれも最もらしい三つ程度の選択肢を与えられ、正しい答えは一つであると告げられれば、やはり人間は答えはどれなのかと知りたくなります。

「矛盾を与える」とは、子どもの信念をそのまま押し進めさせ、あれこれと例題を出しているうちにその矛盾に気づかせるというものです。例えば、子どもがコップに入れた水の表面とコップの底とが並行だと考えていたとします。 そこで、少し斜めにしたコップを図に描かせてみます。すると、子どもはやはり水面と底を並行に描きます。次第にコップの傾きを大きくして描かせていくと、日常的に経験している、コップから水がこぼれるという現象と矛盾を来します。ここで初めて、「あれ?なんか変だ……」という追究が生まれます。「矛盾を与える」とは、こういうタイプの「知的好奇心」の喚起を意味します。

説明的文章の学習を例に考えてみましょう。

まず、説明的文章の題材となっている「謎」について、具体物を用いて実演してみせる。そうやって子どもたちを驚かせておいてから、「じゃあ、この説明文にはなぜこうなるのかの答えが書いてあるからね。」と言って範読すれば、子どもたちの集中力は見違えるようになるでしょう。これが国語科において「驚嘆を与える」ための最も顕著な例になります。

また、実際にその文章を読み進めていく段階では、「なぜ、そのように言えるのか」という内容的な読み取りにしても、「なぜ、筆者はこのような書き方をしたのか」という表現的な読み取りにしても、最もらしい三つの選択肢を与えて仮説を立てさせたうえで授業を展開すれば、子どもたちの読解は主体的になっていきます。教師が子どもたちに「当惑を与え」ているからです。

更に、ある程度、読み進めたうえで、「ちょっと待てよ。一般的にこうした方がいいと思われているのに、どうして筆者はこんなことをしたんだろう。」と、再び教材本文を読み込ませるというタイプの意欲喚起が「矛盾を与える」ことになります。一般的に「ゆさぶり」と呼ばれている手法です。

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学習の意義を伝えよ!

「初発の動機づけ」において、最も簡単にして重要なのはその学習の意義を伝えるということです。これはとても重要なことなのですが、国語の授業ではほとんど行われていません。

ためしに、最近おこなった国語の授業を思い返してみましょう。今日の授業でも昨日の授業でも構いません。その授業には発問もあったし指示もあったし活動もあったかもしれませんが、その学習の意義を伝えるという場面はなかったのではないでしょうか。

人間は目的のわからない活動はやりたくないものです。あなたは何のためにするのかわからないままに校長先生に命じられた仕事に、一所懸命に取り組むことができますか?できないはずです。しかし、なぜそれをすることが必要なのか、どのように子どもたちのためになるのかが納得できれば、「よく自分にこの仕事を依頼してくれた」と校長先生に感謝さえするのではないでしょうか。人間の意欲とはそういうものです。

子どもたちだって同じです。何のためにこの学習に取り組むのか、この学習活動に取り組むことによって自分にどんな力がつくのか、そしてその力は将来どんなふうに役立つのか、これらのことがわかり納得したならば、多少難しさくらいはモノともせずに頑張ろうとするのです。

昨今、「インストラクション」という語が流行しています。授業や活動の冒頭にその趣意を説明することです。

私は授業の「インストラクション」には次の三つが必要だと考えています。

①その1時間で身につけなければならない国語学力の意義・価値(将来、どのように役に立つのか。将来、どのように自分の人生を豊かにするのか。)

②その1時間で身につけなければならない国語学力の自己評価規準(最終的に何がわかれば、何ができればその学力を身につけられたと言えるのか。)

③その1時間の学習活動のフレーム(この1時間がどのように進み、具体的に何をすることが求められているのか。)

私たち大人にとって45~50分という時間は、決して長い時間ではありません。しかし、日々新しいことを学び、自らを成長させようとしている子どもたちにとっては、また日々さまざまな刺激を浴びながら過ごしている子どもたちにとっては、私たち大人が感じている以上に授業の1時間は刺激的な瞬間瞬間の連続なのです。

そのような長い時間を子どもたちに一つの学習活動に集中して取り組むことを求めるわけですから、しっかりとした見通しをもたせて、安心感のある有意義な時間を過ごさせてあげる努力をすることは、私たち教師の責務と言えるのではないでしょうか。

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叱るとはメタ認知させること

いろいろな原稿で「怒鳴る教師になってはいけない」と書いてあるけれど、僕はこれを基本方針にするのが良いと考えていいる。いろいろなセミナーで同様に話してもいる。賛否両論がる。

反論の最たる論理は「教師は怒鳴らなくちゃならないときもある」というものだ。そんなことが起こったら怒鳴ればいいだけである。しかし、怒鳴ることが必要と思って怒鳴ったときに、「うん。今回はこれしか手立てがなかった。仕方なかった。」で終わるのと、「他に手立てはなかったか。少し考えてみよう。」と思うのと、どちらが教師として成長できるか。言うまでもないだろう。前者は思考停止を意味する。教師が思考停止してしまったらおしまいだ。

怒鳴る教師になってはいけない─これを基本姿勢として子どもに接すれば、教師は子どもに接するうえで考えざるを得なくなる。説教するときにも説諭するときにも説得するときにも。実は怒鳴って子どもを萎縮させた時点で、もう勝負はついてしまう。勝負がついてしまったら教師は双方向のやりとりをやめてしまう。自分の言い分だけを語り始める。僕はこれを思考停止状態と呼んでいるだけだ。

僕に言わせれば、怒鳴ることの肯定は教師の成長放棄である。それはひと昔前に体罰の肯定が成長放棄であったのと同じ構図だ。

僕は子どもたちにほとんど自分の考えを語らない。生徒指導においてさえ、子どもの心の在り方に踏み込まない。こういう生き方が良いとか、こう考えるべきだとか、そうしたことをほとんど言わないことにしている。

代わりに何をするのかと言えば、徹底的に起こった事実を確認する。暴力事件であろうといじめであろうと触法行為(喫煙・飲酒・万引など)であろうと、ぼくは長い時間をかけて徹底的に事実を確認する。

それはいつの出来事か。それはどこで起こったのか。周りにいたのは誰なのか。どちらが先に手を出したのか。何と言われたときにカッとしたのか。それに対して何と言い返したのか。どのくらいの力で、何発、相手のどこを殴ったのか。何本吸ったのか。いつどこで買ったのか。その金はどこで手に入れたのか。などなど……。

大切なのは「時間」「場所」「人物」「行動」「出来事」「台詞」の6点である。なかでも特に大切なのは台詞だ。「お前馬鹿か」と「お前馬鹿じゃねーのか」は違う。「うるさい!」と「うるせえ、こら!」は違う。このレベルを徹底して詰める。このレベルの違いを蔑ろにせず、僕は「想い出せ」と詰め寄る。このレベルを詰められると、子どもたちはやっとそのときの興奮状態を想い出しながら証言するのではなく、事実を想い出そうと努め始める。興奮状態がだんだん醒めていく。自分のやったことを「メタ認知」しようと努め始める。自分の思い込みの部分と実際に起こったことを分けて考えようという思考が生まれる。

複数の人間がかかわっていれば、一人一人、別々に事情を聞く。証言に矛盾があれば、徹底して確認する。「○○はこう言っているけど、お前の勘違いじゃないか。どっちかが嘘をついてるか勘違いしてるか忘れてるかだと思うんだけど……。」と言いながら、それぞれの証言の矛盾を徹底して詰めていく。普通、こうした作業には1時間程度かかる。複雑な人間関係を伴ういじめ事案などでは3時間くらいかかることもある。

これが終わると、関わった全員を一箇所に集めて、起こった事実を細かく確認する。そして全員に「これで間違いはないか。」と訊く。長い時間をかけて矛盾なくメモされた事実をもとに語っているので、この場で異論が出ることはほとんどない。そして、多くの場合、この段階で子どもたちはもう「自分が何を勘違いしていたのか」「何が自分の思い込みだったのか」「自分のどこが悪かったか」を自覚している。

教師は「それじゃ。一人ずつ、自分の反省すべき点について言ってみなさい。」と言えばいい。子どもたちは既に観念しているから、ここがこう勘違いで、こういう思い込みでカッとしてしまった、などと事実に基づいて反省の意を述べる。僕は「そうだな。今回は失敗だったな。じゃあ、これから気をつけなくちゃいけないことは何だと思う?」と返す。子どもたちは自分たちの非を改めることを誓う。 こういう流れだ。

子どもたちはだれしも先生に叱られたいとは思っていない。自分には正当性があると信じ込んでいる。重大な勘違いをしている場合もある。そういう状態にある子どもたちに対して、教師の側も思い込みで一方的に「あんたが悪いんでしょ!」とか「なんでそんなことしたの!」とやることが多い。しかし、それでは指導される子どもとメンタリティが一緒である。教師としては恥ずかしいことだ。

僕はよく子どもたちに言われる。「小学校時代には話を聞いてもらえず、一方的に悪者にされることが多かった。中学校にはそれがないから安心できる。」と。あまり小学校を批判したくはないが、この点に関しては小学校教師は反省すべきだと感じている。

年度当初に丁寧に事実確認をし、子どもたちが観念するような指導を続けていると、2学期頃にはほとんど生徒指導事案がなくなっていく。何かあったとしても、最初から罪を認め、「こういう事情でこういうことをやってしまいました。」と正直に言うようになる。

嘘をつかれることも隠されることもなくなるから、叱ることに教師のストレスがなくなる。学級運営も学年運営も安定する。教師と子どもたちとの関係も良くなっていく。保護者にも細かく事実を報告できるので信頼を得られる。良いサイクルが生まれる。怒鳴る教師はこうはいかない。

これが僕の生徒指導の基本方針であり、僕の学年運営の基本方針である。

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褒めるべきときにだけ褒める

1.褒めるの自己目的化

ある若手教師の授業を参加していたときのことです。その教師は子どもたちにペアで音読練習をさせたあと、5、6人の子どもたちを指名して段落毎に読ませました。そして教室全体を眺め渡してこう言いました。

「みんな素晴らしいかったね。さっきの音読練習の成果がよく出ていたよ。」

なんということのない褒め言葉です。読者のみなさんは特に気にならないかもしれまかん。しかし、この褒め言葉は問題だと僕は思います。

この言葉が、いま音読をした5、6人に視線を投げ掛けながら発せられたのなら、僕は特に疑問をもたなかったでしょう。でも、この褒め言葉は教室全体に向けて発せられたのです。

三十数人がいる教室のなかで、ペアの音読練習には全員が参加しました。しかし、段落毎に指名音読をしたのは5、6人です。教室全体に発せられた褒め言葉を、音読に指名されなかった二十数人の子どもたちはどう捉えたでしょうか。先生はみんなに向かって褒めたけれど、僕には関係のない褒め言葉だったと思わないでしょうか。先生の褒め言葉に対して、「なんだかなあ…」という印象は抱かないでしょうか。これなら、「いま読んでくれた6人の音読、良かったよねえ。さっきの練習の成果が出てたんだと思う。みんな、この6人に拍手!」とでもやった方が、場は盛り上がるのではないでしょうか。

では、この教師はなぜ、こんな褒め言葉を教室全体に向けて発してしまったのでしょう。それはおそらく、この教師のなかに、あらゆる場面で「褒めること」が必要だという認識があったからです。そうした意識がそうさせたのだと思います。つまり、この教師のなかでは、「褒めること」それ自体が自己目的化してしまっているのです。

2.マニュアル型褒め言葉の時代

子どもを褒めて伸ばす。これは1980年代頃から盛んに言われるようになった学校教育のテーゼです。その裏には褒められたほうが子どもたちは伸びる、という認識があったはずです。しかし、ほんとうに子どもたちは褒めれば褒めるほど伸びるのでしょうか。

褒められるようなことをしたときに、放置するのではなくしっかりと褒めてあげる、それが必要だ、というのがもともとの意味だったのではないでしょうか。それが数十年の時を隔てて、ただ「褒めりゃいい」「絶対に褒めることが必要だ」になっていないでしょうか。

そして前節で例に挙げた若手教師はそんな「マニュアル型褒め言葉の時代」の申し子なのではないでしょうか。そんな印象を抱くのです。果たしてこの傾向は良いことなのだろうかと、疑問を抱いてしまいます。

僕は正直、褒められるのが苦手です。褒められるとその場から逃げ出したくなります。本音では「お前にオレの何がわかる!」と感じています。上司に白々しい褒め言葉などを言われたときには、「この上司とは必要以外は付き合うまい」と思うタチです。早くこの会話が終わらないかと思ってしまいます。

そしてその傾向は決して最近に始まったものではなく、少なくとも小学校中学年くらいのときにはこの傾向をもっていたという記憶があります。そうです。僕は小学生の頃から、先生に褒められることが嫌いだったのです。なぜなら、先生の褒め言葉が白々しかったからです。

「マニュアル型褒め言葉の時代」の教師たちは、自分の受け持つ子どもたちのなかにこういう子がいることを想定していません。もちろん僕のような子どもばかりではありませんから、マニュアル的に褒めることが機能する子もいるでしょう。しかし、学級に数十人いれば数人から十人くらいは僕のような子もいるのではないでしょうか。

3.コンテクストとタイミング

僕には子どもの頃から十代にかけて空手を習っていた時期があります。空手の先生は、僕らが習得途中のワザやカタをまず褒めてくれるということがありません。ただただ反復練習を繰り返させます。そしてここをこうせよ、こことここのバランスを整えよと、細かく指導します。そして、自分でも体感的にコツをつかみかけてきたなと思い始めたとき、まさに「うん、よくなってきた」とシンプルに褒めてくれます。要するに、空手の先生の褒め言葉は、まさに僕が上達を実感し始めたとぴったりのタイミングで、これ以上ないというシンプルな言葉で発せられたのです。

僕は褒め言葉の神髄はここにあると感じています。

なんでもかんでも褒めりゃいいというものではないのです。褒めるべきとき、褒めるべきタイミングというのがあるのです。そしてそれは、褒められる側になんらかの自覚が芽生え始めたときなのです。

先の音読の例でもそうです。段落毎に指名音読させる前に、「ペアの音読練習の成果を発揮するんだよ」と言ったり、「さあ、ペア音読の練習はどのくらいこうかがあったかな。聞かせてもらおう。」といったちょっとした挑発があったり、そうした場を包み込む目的意識を形成したうえでこそ、その後に「練習の成果が出ていた」と褒めることが機能するのです。実感させないままにただ発せられる言葉は、ただ子どもたちに上滑りします。教室の空気を淀ませさえします。言葉というものは、コンテクスト(その場の状況)と不可分のものなのですから。

教師の「褒め方」を考えるとき、観点は二つだと思います。一つは褒めるべきときを見極める目をもつこと、もう一つは子どもたちが成果を実感できるような状況を意図的につくり出すことです。

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ツイート六つ・3

13.「つくられた楽しさ」を求めないこと。不意に気づく、ふと振り返る、思わず声を上げる、そんな「不意」「ふと」「思わず」をしなやかに創り出すこと。子どもたちにも若い先生方にも、「適度な抵抗」を与え、それを確実に「乗り越えさせる」こと。ただし、絶対に手だけは貸さないこと。
【コメント】
授業の最初から最後までをコントロールしようとする教師がいます。学級運営のAからZまでを仕切ろうとする教師がいます。それでいて楽しさを保障しようとします。その楽しさはその教師の想定する楽しさから一歩も外に出ることはありません。子どもたちが不意に、ふと、思わず言ったこと、やったことが楽しさをもたらす、そんな環境を創り出すことができたとしたら、その楽しさは無限です。教師の仕事の勘所がここにあります。

14.他人を肯定的に見ること。子どもも保護者も同僚も肯定的に見ること。肯定的に見られないなら、肯定的に見られるように努力すること。努力して、努力して、努力し続けること。次第に努力しなくても他人を肯定的に見られるようになっていく。その段階になって初めて見えるものがある。その境地に憧れを抱くこと。
【コメント】
あの子はダメだ。あの保護者はダメだ。あの先生はダメだ。すぐに切り捨てる人がいます。そういう教師は自分もまた切り捨てられていることに気づいていません。その子が気に入らない行動を取ったのは、自分が先にその子に切り捨てられたからではないのか。あの保護者にも、あの同僚にも、自分は切り捨てられているのではないか。そういう発想に立てません。肯定的に見続ければ、肯定が返ってくるものです。それが日本人です。

15.他人に認められること。周りが認めてくれないのが悪いのではなく、周りが認めてくれるような人間になっていないのだと自覚すること。「あの人が言うなら仕方ない」と思ってもらえるような人間を目指すこと。スキルを持った「人材」ではなく、威厳をもった「人物」をこそ目指すこと。
【コメント】
自分にできることはなんでもしてあげる。時間と労力を割くことを惜しまない。「贈与」を旨として生きる。そうすれば必ず恩恵は自分に返ってきます。自分がピンチに陥ったときに助けてもらえます。疲れて気分を変えたいときにはつき合ってもらえます。自分が考えもしなかったことを教えてもらい、成長を実感させてもらえます。キーワードは「贈与」です。贈与する人間だけが贈与してもらえる。世の中はそんなふうにできています。

16.自分だけで走りすぎないこと。力量のある教師、個性的な教師の陰に、その教師と比較されることで必要以上に苦労する教師がいることに配慮すること。教育技術を学ぶと同時に、周りへの配慮をも学ぶこと。必要なのは「優しさ」と「技術」であると心得ること。
【コメント】
諸行無常。盛者必衰。自分は力量がある……そう思った瞬間、「終わりの始まり」が始まります。廻りへの配慮を忘れるようになります。忘れないまでも、周りへの配慮よりも自分の満足感を優先するようになっていきます。「優しさ」を忘れ、自分の「技術」だけを磨こうとし始めます。そして、「技術に使われる」という状態に陥っていきます。厄介なのは自分で自覚できないことです。「技術」はそういう怖さをもっています。

17.一人ひとりの違いを認めること。子ども同士の違いを認めるだけでなく、職員同士の違いも認め合うこと。自分と異なった仕事の作法を認め、他人の作法のなかにある神髄をも見出そうと心掛けること。長い年月をかけて学びを有機的に結びつけること。そうすれば、自分のなかに、いずれ「思想」が形成されていく。
【コメント】
学級づくりが好きな教師もいれば、授業づくりが好きな教師もいます。生徒指導を得意とする教師もいれば、実践研究に力を発揮する教師もいます。特活が好きな教師もいれば、部活が好きな教師もいます。教師は自分が好きなもの、得意としているものを子どもたちに機能させることができるものです。そして、そうした教師はそれぞれに仕事の作法をもっています。それらを学ばない手はないではありませんか。成長したいならば……。

18.子どもに任せてみること。同僚に委ねてみること。他人に「お任せします」と委ねてみること。何もかも自分でやろうとしないこと。一人でできることなど限られていると自覚すること。一人でできると思うから失敗するのだと心得ること。朗らかに、和やかに、協働で創り上げる意識をもつこと。
【コメント】
一人で仕事を抱える人がいます。他人に任せられないのです。自分でやった方が早いと思ってしまうのです。他人に頼んで、その人の仕事が終わるのをイライラ待つのがいやなのです。それは他人を信用していないということです。それは他人の成長機会を奪うことです。それは人間関係をつくることを拒むことです。そんな仕事振りのくせに、忙しい忙しいと嘆く。他人が協力してくれないと愚痴る。冗談じゃない。自分のせいです。

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マイナスをなくせばプラスが生まれる?

いじめのない学校、不登校のいない学校、非行のない学校……。「○○のない学校」「○○のない学級」が目指される。いじめも不登校も非行もあるよりない方がいい。それは確かだ。でも、「○○がない」ことはマイナスをゼロにすることであって、決して子どもたちの精神状態がそれによってプラスに転化するわけではない。満足度が上がるわけではない。

マイナスがなくなれることとプラスになることとの間には大きな距離がある。教師が忘れてはならないテーゼの一つだと感じている。

例えば、新しくもった学級にいじめがあるとする。教師はまずはこのいじめをなんとかしようとする。当然のことである。しかし、すべての精力をこのいじめ指導に向けてはいけない。そのいじめ指導は、いじめに関わっていない子どもたちには何の効力もない。

例えば、新しくもった学級にやんちゃ系の子がいるとする。職員室の先生方のだれもが知っているような問題傾向の子で、自分も覚悟をもってこの子を担任した。四月からこの子をなんとかしようと教師は奔走する。でも、この子に時間と労力をかけていろいろな手立てを打っているうちに、なんとなく他の普通の子たちがガチャガチャし始めてしまった。教師の精力は普通の子に向けられるようになる。でももう間に合わない。そうこうしているうちにやんちゃな子も問題を起こし始める。もう手の打ちようがない。秋には学級崩壊である。保護者も騒ぎだし、教師はその対応にも追われ始める。管理職に相談したり臨時の学級懇談会がもたれたりするが、教師の心も少しずつ蝕まれ始める。教師は二学期を乗り切ることができずに休職する。最近よく見られる失敗事例である。  どちらもマイナスをなくすことに汲々とし、学級にプラスをつくり出すことを怠ったことから生まれる失敗だ。借金を返すことに汲々とする家族はやはり生活が苦しい。いつまでたっても絶対にお金が貯まることはない。言ってみれば、こういう教師は借金を返すことに全精力を傾けてしまった教師ということになる。

マイナスをなくすには論理が必要である。だから、教師はいじめをなくすためにも、やんちゃ系を指導するにも、なんとか論理を理解させようとする。いじめはなぜいけないか、みくんなと協調することがいかに大切なことつなのか、そんな論理を教師は語る。借金も論理的に返す。いくらの収入があるからこれだけあればぎりぎり生活できるから生活費はこれこれで、あとは借金の返済にあてて……と。しかし、世の中にプラスをもたらすのは論理ではない。リーダーというのはルールや論理では解決できないトラブル事案にルールや論理を超えた意志決定をするからこそリーダーなのである。良きリーダーとは皆、そういうリーダーたちだ。

例えば、恋愛相談をしてくる女の子に対してこれはこういうことだから、こうこうすればきみの戸惑いは解消するよと論理的に言って聞かせることは愚の骨頂である。「私が知りたいのはそんなことじゃない」「あなたは冷たい」と責められ、次の日には「あの人は冷酷で功利的な人だ」という風評が職場に流されることになる。それは恋愛だからと考えてはいけない。世の中で起こる人間関係トラブルはすべて、恋愛と同じように論理ではなく感情で動いているのである。むしろ、世の中のすべての人間関係トラブルの典型が恋愛において最も顕在化しやすいのだと考えた方が事実に近い。だから人間関係トラブルに巻き込まれたら、僕らはすべからく論理を捨てた対応に徹した方がいい。そういうものだ。

例えば、チャールズ・チャップリンは「殺人狂時代」において、「一人の殺人は犯罪者を生むが、百万の殺人は英雄を生む。」と戦争を揶揄した。人間の感情というのはこういうもので、戦争によって自分たちのマイナスが取り去られ、プラスの感情へと移行することができるのならば、百万の死に対してさえ論理的に考えられないのが人間なのだということは意識したい。

教師が新しい学級をもったとき、まず最初にしなければならないことは、子どもたちにいい思いをさせることである。楽しいとか、嬉しいとか、いずれにしてもこの学級でこの先生と一年間過ごすことで自分たちはいい思いができる……という印象を与えることである。そういう空気を形成することである。そこにこそ、教師は時間と労力をつぎ込まねばならない。

考えてみるといい。いい空気を前提に行われるいじめ指導と、ただ新しい担任への不安のなかで行われるいじめ指導とではどちらがより機能するか。いい空気を前提に行われるやんちゃ指導と、ただ新しい学級への不安のなかで行われるやんちゃ指導とではどちらがより機能し得るか。答えは言うまでもない。

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まえがき四つ

まえがき(「THE 説得~学級指導編」)

教師の武器はたった二つ。即ち「言葉」と「表情」である。その場に相応しい表情を伴った言葉を一般に「語り」と言う。教師は「語り」によって子どもたちを導かねばならない。それが教師の仕事である。

学級づくりにおいて、学級担任がこうした自分らしい、それでいて子どもたちの心に響く「語り」を身につけているか否かは、学級経営の成否を決めるほどの重要な要素である。ある教師は穏やかに、ある教師は和やかに、ある教師は毅然とした態度で、ある教師は精一杯の自分を演出しながら、子どもたちの心に響く「表情」と「言葉」を武器に語る。その「語り」が子どもたちに少しずつ機能していくにし違って、その教師らしい「色」が学級に形づくられていく。そういうものだ。

「語り」は教師に、その人にしか醸せない「味」をつくり出す。その教師なりの「味」を醸し始めたとき、教師は初めて周りの教師たちのだれもが認めざるを得ない存在感を示し始める。そういうものだ。

本書は「説得」をテーマに、学級担任が子どもたちの意に反して教師の意図に導こうとするときの「語り」について自己分析していただくことにした。20人の中堅・ベテランの教師に、自らの教師としての「語り」の妙を披露していただく。そういう企画である。
  本書が「教師力」を身につけたいと願う若い教師たちの一助となれば、それは望外の幸甚である。

まえがき(「THE 説得~生徒指導編」)

教師の武器はたった二つ。即ち「言葉」と「表情」である。その場に相応しい表情を伴った言葉を一般に「語り」と言う。教師は「語り」によって子どもたちを導かねばならない。それが教師の仕事である。

生徒指導や生活指導において、教師がこうした自分らしい、それでいて子どもたちの心に響く「語り」を身につけているか否かは、生徒指導の成否を決めるほどの重要な要素である。ある教師は穏やかに、ある教師は和やかに、ある教師は毅然とした態度で、ある教師は精一杯の自分を演出しながら、子どもたちの心に響く「表情」と「言葉」を武器に語る。

しかし、最近の子どもは自分の非を認めないことが多いと言われる。相手も悪いと自分だけが悪者にされるのを徹底して拒む傾向も見られる。他人の気持ちを慮ることが苦手で、自分から見た視座だけを根拠に主張し、最後までそれを曲げない傾向もあるとされる。こうした子どもたちと対峙したとき、教師はいかに語るべきなのか。

本書は「説得」をテーマに、教師が子どもたちの意に反して生徒指導を施そうとするときの「語り」について自己分析していただくことにした。20人の中堅・ベテランの教師に、自らの教師としての「語り」の妙を披露していただく。そういう企画である。
  本書が「教師力」を身につけたいと願う若い教師たちの一助となれば、それは望外の幸甚である。

まえがき(「THE 連絡」)

通学路の工事の概要、変質者の出没、地域で起こった事故、交通安全指導などなど、子どもたちに注意を喚起する連絡がある。

その日の日程の確認・変更、その日の集会の動き方、給食や清掃関係の特別な取り組み、プリントの配付と提出締切の確認、児童会・生徒会の委員会の開催、部活動関係、落とし物・忘れ物の紹介などなど、子どもたちに周知しなければならない日常的な連絡がある。

朝の学活は学級担任の連絡でいっぱいだ。しかも帰りの学活では朝に確認した事項を再度確認して徹底する必要もある。教育委員会の通達に伴う連絡などは、教師が指導を忘れれば、不測の事態が起こった場合には責任問題にまで発展することさえある。学級担任は子どもたちが理解しやすいように、しかも子どもたちの心に響くように連絡事項を伝えなければならない。そうでなければ、アリバイづくりの連絡になってしまいかねない。

本書では、担任教師が子どもたちに連絡事項をどのように伝えるべきか、その細かな工夫点について集めることを目的とした。執筆者には若手・中堅・ベテランをバランスよく配し、低学年・中学年・高学年・中学校の発達段階にも大きく配慮した。

本書が日常的な教師力を高めていきたいと願う多くの読者にとって少しでも参考となるなら、それは望外の幸甚である。

まえがき(「THE 報・連・相~職員室根回しの原則」)

事前に報告をしておかなかったために壊れてしまった人間関係って、いったいどのくらいあるのだろう。事前に連絡や相談をしておかなかったがために通らなかった提案って、いったいどのくらいあるのだろう。どれもこれも「聞いてないよ」というひと言で片付けられてしまう。日本人は事前に耳に入っていればどうってことないことでも、自分の耳に入っていなかったことには抵抗を示す。職員室も同じだ。「聞いてないよ」はすべてを引っ繰り返すことのできる魔法の言葉だ。

逆に言えば、先に耳に入れておきさえすればすんなり通るはずなのだ。みんな年齢を重ねるに従って、要所を司る人たちの耳に入れておくべき情報を、ポイントを考えながら伝えるようになる。あなたの学校にもいないだろうか。どう考えても通りそうもない無理な提案を、なぜかすんなりと通してしまう人が。会議には表立って見えてこない、「ちょっといいですか?」と始まる打ち合わせという名のホウレンソウ……。即ち、報告・連絡・相談。

本書では、会議で提案を通すための、職員室の人間関係を円滑に進めていくための、自分のやりたいことに心置きなく取り組んでいくための、ありとあらゆる報・連・相事案を具体例として取り上げ、そこから「報告・連絡・相談」の原則を抽出しようとする試みである。本書が「どうも職員室の人間関係がうまくいかない」と悩む教師たちに少しでも参考になれば幸いである。

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まえがき三つ

まえがき(「THE 発問」)

長く、授業づくりのキモは「発問づくり」だと言われてきました。ですから、授業づくりの研究会においても校内研究の指導案検討においても、発問が大事だと叫ばれ、発問がじっくりと検討されます。おそらく、このことに反対する教師はいないのではないでしょうか。

ただし、昨今、このことを前提としたうえで、ワークショップ型授業や協同学習、ファシリテーションの流行が、発問の質を大きく変えてしまっているようにも思えます。教材の内容から導き出した発問について深く考えさせる一斉授業の発問と、仮定の環境設定をしたりロールプレイを行ったりするワークショップ型授業の発問とでは、質の違いが出て当然です。

おそらくひと昔前とは知らず知らずのうちに発問の概念が変化してきているのではないでしょうか。変化しているというよりは、発問の概念自体が広くなっているのかもしれません。多くの研究授業を参観したり、多くの模擬授業を体験したりしていると、こうした傾向が急激に広がっているのを感じます。

本書では、20人の実践者に「発問づくり」の勘所を語っていただきます。それぞれに得意な教科を具体例に挙げていただき、実践的に語るなかで「発問づくり」の原理・原則、技術、心構えなどを提案していただきます。

本書が授業を充実させたいと願う若手教師の一助となれば、それは望外の幸甚です。

まえがき(「THE 指示」)

長く、授業づくりのキモは「発問づくり」だと言われてきました。ですから、授業づくりの研究会においても校内研究の指導案検討においても、発問が大事だと叫ばれ、発問がじっくりと検討されます。おそらく、このことに反対する教師はいないのではないでしょうか。

しかし、授業づくりの中心は確かに発問かもしれませんが、その授業を機能させるのは間違いなく「指示」です。何度も共同で検討された指導案なのに、その指導案を機能させられる人と機能させられない人がいるのは、まさに指示の差と言っても過言ではありません

授業は細かな指示の連続で展開していきます。しかし、多くの場合、学習指導案にはすべての指示が細かく記述されるということはありません。指導案検討を重ねたにもかかわらず、授業者が大きな失敗をしてしまうことが多いのも、検討に参加していた他の教師が想定していた〈指示の連続〉が授業者には伝わっていなかったことを要因とすることが多いように感じます。

本書では、20人の実践者に「指示」の勘所を語っていただきます。それぞれに得意な教科を具体例に挙げていただき、実践的に語るなかで「指示」の原理・原則、技術、心構えなどを提案していただきます。

本書がもっと授業を機能させたい、授業を充実させたいと願う若手教師の一助となれば、それは望外の幸甚です。

まえがき(「THE 説明」)

長く、授業づくりのキモは「発問」だと言われてきました。また、授業の機能度を高めるのは「指示」だと言われてきました。おそらく、多くの授業づくりはこの共通認識のもとに行われています。 

しかし、誤解を怖れずに言えば、授業づくりで最も大切なのは「説明」です。その証拠に、「発問」のない授業、「指示」のない授業はあり得ますが、「説明」のない授業は絶対にあり得ません。昨今流行を示しているワークショップ型授業やファシリテーション型の授業においても、授業の開始時には「インストラクション」という名のかなり長い「説明」が施されるのを常としています。

しかし、ひと言で「説明」と言っても、その「説明」の内容には実にさまざまなものがあります。子どもたちにとって未知の教材を説明するのも「説明」ですし、学習活動の取り組み方や段取りを説明するのも「説明」ですし、この学習がなぜ必要なのか、将来どんなふうに生きるのかという価値を説明するのも「説明」です。

本書では、20人の実践者に「説明」の勘所を語っていただきます。それぞれに得意な教科を具体例に挙げていただき、実践的に語るなかで「説明」の原理・原則、技術、心構えなどを提案していただきます。

本書がもっと授業をわかりやすくしたい、もっと価値あるものにしたい、もっと充実させたい、そう願う若手教師の一助となれば、それは望外の幸甚です。

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島宇宙化

かつてお化け番組があった

かつて「ザ・ベストテン」という番組があった。木曜日の21時、TBS系列で放送していたヒットチャート番組である。司会は黒柳徹子と久米宏。平均視聴率が30%を超えるお化け番組だった。Wikipediaによれば、最高視聴率は41.9%を誇ると言う。この数字は現在の紅白に匹敵する数字である。毎週のレギュラー番組、それも歌番組がこれほどの視聴率を誇った時代があった。

実は「ザ・ベストテン」が始まったのは1978年の1月、僕が小学校5年生の3学期だった(最終回は1989年9月)。いまでもよく覚えているが、初回の1位はピンクレディの「UFO」だった。この年のレコード大賞を獲得した、押しも押されもせぬピンクレディの代表曲であり、現在の中学生でさえ口ずさむことのできる昭和の代表曲の一つである。この年はキャンディーズが解散したり、世良公則&ツイストや原田真二が次々にヒット曲を連発したり、沢田研二が前年のレコード大賞受賞の勢いそのままに大活躍したり、いよいよ山口百恵と三浦友和の結婚が近いと本格的に囁かれたりと、芸能界の話題には事欠かない年だった。ちなみに、この年の紅白歌合戦のトリは沢田研二と山口百恵が務めている。若手ポップスターの勢いをNHKさえ無視できなくなった象徴的な年だった。ついでに言えば、サザンオールスターズがデビューしたのもこの年である。「勝手にシンドバット」や「気分しだいで責めないで」を早口で歌うサザンが、まだほとんどコミックバンド扱いされていた時代である。

子どもというものは今も昔も時代の風を一身に浴びて生きている。小学生だった僕らは毎週木曜の21時になるとテレビに釘付け。ああ、先週とこんなにも順位が違う、好きな曲がベストテンから落ちてしまった、だれだれの新曲が一気に上がってきた、だれだれが何週連続で1位を獲得している、などなど、その順位に夢中だった。友達と昨夜の順位の話をしたくて、金曜日の朝は学校に早く行ったものである。とにもかくにも、金曜の朝の話題は「ザ・ベストテン」の順位だった。

冒頭から僕のこんな経験、しかも昔よく見ていたテレビ番組なんていうあまりにも些末な経験から話を始めたのには実はわけがある。僕はこの自分の些末な経験をもとにして、二つのことを言いたいのだ。一つは世の中からこのようなお化け番組が完全に消えてしまったということ。もう一つは、いまの時代なら金曜の朝に早く学校に行かなくても友達と順位に関する交流ができただろうということである。

お化け番組はなぜ消えたか

平均視聴率が30%超え。これまたWikiによれば、番組開始当初の数年間は平均視聴率が35%前後を誇っていたらしい。小学校5・6年生の僕は真駒内南小学校という札幌市の南の端の小学校に通っていたが、おそらく同じ学級の38人全員がこの番組を見ていたと思う。僕には確信がある。金曜日の朝に男女入り込みだれて「ザ・ベストテン」の順位についてつたない議論をしていた記憶が鮮明に残っている。クラスの女の子たちはピンクレディを踊り、僕らは応援団よろしく「ミーちゃん!」「ケイちゃん!」と叫んでいた記憶もある。人差し指を舐めてカメラに指さす沢田研二をだれもが真似ていた記憶もある。この年、たった1回だけ出演した松山千春の話を担任の先生がし始め、授業をつぶしてまで感想をみんなで話し合った記憶もある。そのくらい影響の大きな番組だったのだと思う。

さて、こういうお化け番組がいまあるだろうか。ピンクレディのごとき、子どもから老人にまで知れ渡っている、そんなスターがいまいるだろうか。僕は本書執筆中の2014年現在48歳だが、SMAPのメンバーはフルネームで言えるが、嵐のメンバーは一人もフルネームで言えない。AKB48のメンバーは二人しか知らない。僕のお袋は77歳だが、訊いてみるとSMAPは知っていたが、嵐やAKBはその存在さえ知らなかった。思えば、世代を超えてだれもが知っているアイドルはSMAP、安室奈美恵あたりで終わり、おそらく浜崎あゆみあたりから一部世代にしか認知されないターゲット限定アイドルへと移行したのではないか。そしてまた、テレビ番組もターゲットを明確にしたコアなファンだけを取り込もうという戦略に移行したのではないか。アイドルプロダクションや放送プロダクションがそういう戦略に移行したというよりも、実はそういうものしか成立し得ない世の中になったのではないか。そう思うのである。

すべての世代に認知されるアイドルが消えていくとともに、CDのミリオンセラーが増えた経緯がある。ミリオンヒットが世代を超えて広く買われることによって生まれるのではなく、コアなファンがみんな買うことによって生まれる時代の到来である。おそらくはCDレンタル時代の隆盛期であったことの影響も決して小さくなかったはずである。

おそらく現在のメガヒットはこうした構造で生まれている。AKBにはコアなファンが多く、彼ら彼女らが一気に買うので一気にヒットチャートを席巻するけれども、ヒットチャートから落ちるのも早い。つまり、そのCD売り上げの勢いはコアなファン以外には広がっていないということである。こうした傾向が21世紀になった頃から一気に加速した感がある。

2012年6月8日の夜のことである。僕は3年生を受け持ち、生徒たちを修学旅行に引率していた。8日はその二日目である。僕が風呂当番をしながら、これと言って仕事もなく退屈していた。ふと気づくと風呂のホールの大型テレビに20人ほどの生徒たちが群がっている。その趣は、まるで力道山見たさに街頭テレビに群がるかつての人たちのようだった。退屈していた僕は何だろうと立ち上がって見てみた。そして一瞬で合点が入った。

なるほど、そうか……。

AKBの総選挙である。

僕は若手教師を携帯電話で呼び出し、「風呂当番を代われ」と命じた。「オレは緊急の用事ができた」と。そうして、各部屋をまわってみた。いまこの時間、生徒たちの何割が総選挙を見ているのかと。とんだ「緊急の用事」である。風呂当番を代わってもらった若手教師には絶対に言えない(笑)。

さて、生徒たちの何割が総選挙を見ていたか。僕は全部屋をまわって確認したが、見ていたのは3割弱に過ぎなかった。つまり、7割以上の生徒たちはAKBの総選挙に対して、少なくとも修学旅行の自由時間をつぶしてまで見るほどには関心をもっていなかったのである。せっかくの修学旅行だから友達と交流することを優先したのだと思ってはいけない。AKBの総選挙を見ながらの交流は充分に可能なのだから。少なくとも僕には、総選挙を見ていなかった生徒たちの大半はAKBに対してそれほどの関心がなかったように見えた。日常的に接している生徒たちである。その表情を見ればわかる。

比喩的に言えば、AKB48とは遊戯王カードのようなものなのだ。確かにコアなファンを多数獲得しているけれど、しかもそのコアたちは狂ったように熱中しているけれど、関心のない者にとってはほとんどその存在さえ意識されない、そういうタイプのものなのだ。果たして読者の皆さんはご存知だろうか。21世紀になって、年末のコミケが3日間で数十万人を動員していることを。綾小路きみまろがいわゆる「団塊の世代」を中心に、山梨県の長者番付で2位になるほどに売れていたことを。

おそらくコアなファンのみによってメガヒットが生まれるという構造こそが、多様化時代の特徴なのである。すべての世代を、つまりは日本中を席巻するようなヒットソングやヒットドラマが生まれないことこそが、この国が成熟したことの何よりの証左なのである。おそらく「ザ・ベストテン」のようなお化け番組が社会から消えたのにはこうした構造がある。

かつてと異なった構造がある

田原俊彦と松田聖子がデビューしたのは1980年である。以来、ジャニーズは現在に至るまでその隆盛を誇っているし、松田聖子を契機として小泉今日子や中森明菜を代表とする80年代女性アイドルの時代が確かにあった。僕はその真っ只中の世代である。しかし、その前年に「新人不作の年」と呼ばれた1年がある。「ザ・ベストテン」が始まった次の年、1979年のことである。

レコード大賞最優秀新人賞は桑江知子。いま考えるとかなり実力のあるボーカリストだったのだが、いまとなってはほとんど知る人がいない。この年デビューしたアイドルには井上望や能勢慶子がいたが、おそらく桑江知子以上に知られていないはずだ。この年、僕は中学1年生になっていたが、クラスで仲の良い友達に井上望ファンと能勢慶子ファンが一人ずついたので、僕はこの一瞬で消えてしまった二人のアイドルをよく覚えている。その後、井上望のファンだった友達は浜田朱里のファンになり、能勢慶子のファンだった友達は壺井むつみのファンになった。しかし、浜田朱里も壺井むつみもやはりいまとなってはもうだれも覚えていない。おそらくこの二人の友達の好みは、少々失礼ながら、世の中のマジョリティとは異なっていたのだろう。B級アイドルばかり好きになっていた印象がある(笑)。

さて、いまここに井上望・能勢慶子・浜田朱里・壺井むつみという4人のB級アイドルを挙げたわけだが、彼女たちのファンだった二人の友達がいま現在中学生だったとしたらどうだっただろう。きっとインターネット上で同じB級アイドルファンのコミュニティを見つけ、毎晩交流を愉しむことができのではないだろうか。そう。1979年だったから彼らは仲間を見つけることができなかったのである。2014年の現在なら、リアルに顔を合わせる友人たちのなかに仲間を見つけられなかったとしても、ネット上にはまず間違いなく仲間を見つけることができるだろう。いや、いま現在だって、現実にかつてのアイドル井上望のファンコミュニティが存在していてもおかしくないとさえ思えてくる(実際にちょっと調べてみたが見つからなかった)。それほどに僕らの環境は変わっているのだ。

冒頭の僕の問題意識に戻ろう。僕は小学生の頃、「ザ・ベストテン」の順位について交流したくて金曜日は朝早く登校していた。それはどこの家庭でも家にはいわゆる「家電」しかなく、夜の10時過ぎに歌番組の話をするために電話をかけるなど許されなかった時代だったからである。言うまでもないことだが、現在はそういう環境にない。夜の10時であろうと11時であろうと、夜中の2時であろうと3時であろうと、お互いに起きてさえいれば、そして両親の目さえ盗むことができれば今日見たテレビ番組について交流することくらい実に簡単なことなのである。つまり、現在の子どもたちには、僕らの世代が回想し想像する子ども時代とは明らかに異なった構造が出現しているのだということだ。このことを軽視してはならない。

必ず功と罪とがある

現在の子どもたちは従来にも増して小グループ化が進んでいると言われる。かつて宮台真司が島宇宙化(『制服少女たちの選択』)と呼んだ現象である。もちろん子どもはいつの時代にも変容したと叫ばれ、小グループ化が問題視されたのもいまに始まったことではない。いつの時代も、子どもたちは集団に重きを置かなくなったとか、世間性をなくしたとか、縦関係を結べなくなったとか、無気力かしたとか、コミュニケーション能力が低下したとか、いろいろなことを言われてきた。でも、ここ10年の子どもたちの変容はこれまでとは趣を異にすると思う。

札幌市の中学校は2、3年が持ち上がることが多いのだが、2年間も同じ学級に所属しているのに、ほとんど会話もしない人間が多数いるという現象が見られるようになった。学級が幾つもの小さなグループに分かれ、それぞれのグループのなかでは非常に濃密なコミュニケーションが行われているというのに、グループを越えてのコミュニケーションはほとんど行われないと言って良い状態なのだ。それと同時に、文化祭・学校祭の出し物や合唱コンクールなど、学級の全員が力を合わせて、コミュニケーションを図りながら進めて行かなければならない行事が成立しにくくなった。ベテランの先生方から「昔は放っておいてもリーダー生徒が中心となって合唱の練習をしたものだが……」という声をたくさん聞くようになった。

しかし、「ザ・ベストテン」を見ていた僕らのような子どもたちと、ネット社会に生きる子どもたちのイメージとを比べてみると、こうした傾向にも肯ける気がする。いまの子どもたちはおそらく、井上望や能勢慶子のファンでい続けられる環境が当然という世の中で生きているのだ。周りの人たちがどんなメジャーなアイドルのファンだったとしても、コアなファン同士のコミュニティさえもっていればそれで満足しているのだ。自分が井上望のファンで満足しているのに、わざわざ榊原郁恵や石野真子や大場久美子のファンたちと交流して「井上望のどこがいいの……」などと言われる筋合いなどないではないか。そしてこうしたネット社会がつくり出した時代の風を一身に浴びて生きているのだ。島宇宙があまりにも急速にその粘着性を発揮しているように見えるのはおそらくそのせいだ。僕はそう感じている。

僕もメールやtwittwr、facebookで毎日のようにネットコミュニケーションに耽溺しているクチであるが、コミュニケーションの相手は確かにコアな人間関係を築いている相手であることが多い。ネットコミュニケーションと言うと浅いつきあいをどんどん広げていくというイメージがあるが、実際のコミュニケーションの相手は実はかなりコアなメンバーで行われているのが現実である。おそらく子どもたちも同じなのだろうと思う。学校で濃密なコミュニケーションをしている相手と、自宅に戻ってからも更にああでもないこうでもないとコミュニケーションを続けているのだ。そうしたやりとりが次の日の学校でのリアルなコミュニケーションを補強し、そのリアルが更にその日の夜のネットコミュニケーションを補強する。おそらくそういう毎日を送っているのだ。

ある年、僕の担任学級には「堀組」という名のLINEのグループがあって学級のほとんどのメンバーが参加していたのだが、事実、この学級ではリアルな学校生活においてもほとんど揉め事らしい揉め事がなかった。おそらくLINE上でも毎晩濃密なコミュニケーションが広く行われていたために、学級全体がなんとなくなかの良い状態になっていったのだと思われるる。最近はLINEというと諸悪の根源のようにやり玉に挙げられることが多いわけだが、もう少しその機能性に僕らは注目したほうが良いのかもしれない。LINEとはよく言ったもので、うまく機能した場合にはかなりポジティヴな効果も期待できる代物でもあるのだと思う。少なくとも、子どもたちがこうした機能性を求めているのだという分析は可能であるはずだ。

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教師にふさわしいリーダーシップがある?

テレビ・新聞の報道もインターネット上の報道も複雑な事象や複合的な要因を一つの単純な物語に落とし込む。メディアとはそういうものだ。人々はシンプルでわかりやすい情報を求める。消費とはそういうものだ。だからメディァは顧客満足を優先して、わかりにくく複合的な情報の複雑さを切り落とし、できるだけシンプルなパッケージにして商品化する。そして、そういう商品化された情報だけを日常的に浴びている子どもたちや保護者は、無意識に学校教育にもそれを求める。説明責任とか結果責任とかいう言葉はそうして生まれた。シンプルでわかりやすい説明、シンプルでわかりやすい結果しか理解しようとしない。

しかし、学校教育は消費者に満足いただける製品をつくる機関ではない。毎日のように学校で起こっていること、行われていることは複雑で、その要因も複合的である。問題は教師の側も消費者的発想に陥ってしまっていることだ。教師の側にも無意識のうちに学校教育で起こる事象の複雑さを捨象し、複雑な要因を捨象してしまおうという心的機制が働いてしまっていることだ。「知識人はどんな場合にも、ふたつの選択肢しかない。即ち、弱者の側、満足に代弁=表象されていない側、忘れ去られ黙殺された側につくか。或いは大きな権力の側につくか」と言ったのはエドワード・ザイード(「知識人とは何か」)だが、教師もシンプルでわかりやすい結果を求め、シンプルでわかりやすい説明しようとするために、子どもの側につくか学校の側につくか、つまり弱者の側につくか強者の側につくかという選択肢で判断している傾向がある。

一人の子どもの指導事案、例えばある子が万引きをしたとか、ある子が別のある子に暴力を振るったとか、加害者が一人であるなら、教師がシンプルな判断をしたとしても事はすんなり運ぶ。

しかし、教師のこうした悪弊が顕在化するのは、多くの場合、子ども同士のトラブル、保護者同士のトラブルを巡る事案が起こったときである。例えば、いじめ事件が起こり、複数の加害者と被害者がいるという場合である。或いは最近よく見られるSNS上のトラブルなんかの場合にも被害者・加害者が入り乱れて現象する。子ども同士の、保護者同士の利害が対立する。「僕だけじゃない」「なぜ、僕だけが悪者にされるのか」「僕だってやられたことがある」「うちの子はあの子に悪い影響を受けてやってしまっただけだ」などが出てくると、交通整理がひどく難しい。シンプルに判断しわかりやすく説明するということができなくなる。こうした事案をどう解決するかが、教師の実力を測る基準にもなるし、その後の教師の評価をも決めることになる。

こうした複雑な事案、複合的な要因をシンプルに判断しようとし過ぎると、教師は子どもや保護者から信頼を失いかねない。例えば、いじめはいじめだ、加害者が悪いという一方的な判断を施そうとしたり、或いはこれまでのことはともかくとして、今回の事案だけを指導の対象とするから、以前のことは今回は取り上げないというような指導の仕方をしようとしたりすると、教師は反発を買う。こで必要なのはじっくりと腰を据えて、今回の事案にかかわったすべての子の言い分を全部吐き出させることである。二、三日かかっても仕方ないと大きく構えることも必要だ。

子どもたちから見て、教師のリーダーシップには二種類がある。一つは教師がぐいぐい引っ張ってくれ、さまざまなトラブル事案を解決してくれるというタイプのリーダーシップ。子どもたちはこの先生に任せておけば安心だと確かに教師を信頼し、安心して学校生活を送ることができる。多くの教師はこういうのをリーダーシップだと思っている。だから、多くの教師は何かトラブルがあったとき、なんとか自分の力で解決しようとする。事例を学びながら、こういうときはこういう指導、こういう事案はこういう解決の仕方と頭のなかで分類する。

しかし、リーダーシップというものは決してマニュアル化した手法を教師が属性として手に入れられるというものではない。そのときどきに教師がどういう動きをしたか、子どもたちとどういう関係性を築こうとしたか、そうした文脈のなかで成立する概念なのである。その意味で、いまは引っ張ってはダメだ、まずは全員からよく話を聞こうというリーダーシップもある。これを「聞き耳のリーダーシップ」と言う。

日本人はリーダーが自分の話を聞いてくれたという、俗に言う「ガス抜き」が行われただけで不満の何割かが解消されてしまうことが多い。大人ならよくあることだ。きっと読者の皆さんにも経験があるはずである。実は子どもだって同じなのだ。複雑な事象、複合的な要因をもつトラブル事案には、まずは腰を据えて「聞き耳のリーダーシップ」を発揮することだ。聞いているうちに、話しているうちに、少しずつ少しずつ、教師にも子どもにも解決の方向性が見えてくる。

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「堀裕嗣のツイートを読み解く」まえがき

こんにちは。堀裕嗣と申します。

twitterを始めて3年が過ぎました。45歳の誕生日に始めましたから、「おじさんのつぶやき」ということになります。最初は同業者にばかり読まれていた僕のツイートですが、いつからか異業種の方々にも読まれるようになりました。驚いたことに、教師でもなく、まだ働いてさえいない中高生にも読まれるようになりました。どうやら僕の教え子たちがリツイートして少しずつ広がっていった結果であるようです。「おじさんのつぶやき」も若い人の心に響くことがあるのだなとちょっといい気分に浸っています。

さて、今回は多賀一郎さんと中村健ちゃんと長拓が僕のツイートを解説してくれます。編集の伊藤くんがこの企画をもってきたとき、僕はおもしろい企画だなとも、有意義な企画だなとも思いませんでした。僕の率直な印象は正直、「変な企画だな…」でした。それでも、ツイートを30だけ選べば本になるというおいしい話でもあったので(本を出したいというよりは楽な企画という印象)、取り敢えずお引き受けして30ほど自分のツイートの典型を選びました。

3人の解説を読んで、それぞれに200字以内のコメントを自分でつけました。肩の力を抜いて、笑顔で書きました。こんな風変わりな本を出すのも、将来、自分の仕事の質を担保してくれる「量」の一つだという気持ちで書きました。こういう見通しのもてない仕事をするのも自分の成長につながるのではないかと感じています。

いま考えると、泣きながらちぎった写真をてのひらにつなげてみるような作業でした。

あの日にかえりたい/荒井由美 を聴きながら……

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若者は指導の対象?

僕はかなりの大規模校に勤めているので、三月になると毎年のように定年退職者をみんなで送り出している。いわゆる「団塊の世代」のほぼ全員が職員室から姿を消し、これからかつて「新人類」と呼ばれた世代を見送ろうとしている。さまざまな軋轢もあったけれど、いざ彼らを見送るとなるとあまりに寂しい。いまから十年ほど経つと、次は僕らの世代になる。そんなに遠い話ではない。

ある世代が社会から退場していく。それをすぐ下の世代、もう一つ下の世代くらいまでがしみじみとした思いで見送る。ある一定の年齢になると、だれもが経験する心象だ。おそらく人類創成から続いた人間社会の普遍なのだと思う。

ある世代が社会から退場していくということは、実は新しい世代が社会に入場してきていることを意味するはずだ。ところが、入場してくる世代はほとんど意識されることがない。ただダメだダメだと言われて足蹴にされる。そう。「最近の若い者は……」という決まり文句だ。たれもが新しい世代を半人前だと感じ、指導の対象にすることはあれ、新世代のもつ特性を社会に活かそう、彼らの感性を活かせればチャンスが広がるかもしれない、などという発想はだれも抱かない。年長者の奢りを指摘したいわけではない。僕もいい年だからその気持ちがわからなくはない。ただ、若い感性を顕在化させない構造を社会自体がもってしまっていることを「もったいな」と思っているだけである。かつて女性のニーズを徹底的に無視し続けたこの国のもったいなさと構造的には同じである。ああ、もったいない……。

学校教育の世界にはまだまだ若い人が入ってきている。バブルの頃のようにとんどん入場してくる時代ではないけれけど、それでも僕の勤める大規模校には毎年、二、三人の若者たちが入場してくる。彼らの感覚は確かに教師としては「まだまだ」だ。しかし、子どもたちとの心のつなぎ方、子どもたちとの感性の質の共有度については、僕らの世代は足許にも及ばない。それも、かつてのように若者は子どもたちと年齢が近いから感覚的にも共通するのだというのとは違う、何か決定的な差異があるように思う。それは青春期から携帯電話がありインターネットがありという世代だからかもしれないし、ユニクロに代表される軽薄短小にしてお洒落といった消費を当然とする世代だからかもしれないし、物心ついたときからただの一度も好景気を体験したことのない世代だからかもしれないし……上の世代によって勝手な想像がなされるだけで、ほんとうのところはだれにもわからない。でも、確かに違う。

ビジネス界では、こうした新世代をターゲットとした商品開発が次々に行われている。新世代が創出するヴェンチャービジネスも話題に上る。もちろんすべてが成功しているわけではないし、玉石混交であることも確かだ。でも、少なくとも新世代の感性を想定し、それをビジネスチャンスと捉える動きがちゃんとある。ところが、学校教育の世界はあまりにも旧態依然だ。いま各教委や各学校を動かしているのは僕らの世代である。しかも、「団塊」へのルサンチマンと、「いよいよオレたちの時代だ」という慢心と、最近入場してきた新世代の新たな感性に気づかぬ鈍感さとで動く、救いようのない状態が続いている。おそらく絶望的にも、今後もこの状態は続いていくに違いない。

いままでだってそうだったんだからそんなに悲観する必要はないよ。これまでと同じように歴史はなんとなく調整機能を働かせながら動いていくものだ。そんな声が聞こえてきそうである。果たしてそうだろうか。これまでの時間の流れとは比べるべくもない速さで時代は動いていないだろうか。三十年前なら55歳と25歳くらいの間であった感覚の差がいまは35歳と25歳の差くらいに縮まってはいないだろうか。現在の55歳と25歳の感覚の差異は、こと情報に関する限り、三十年前の25歳と江戸時代の庶民くらいの差になってはいないか。

さあ、学校教育に話を戻そう。例えば現在の中学生を考えてみる。三十年前の15歳の中学生と55歳の先生との間にあった感覚差は、現在の15歳と25歳の先生の差くらいに縮まっている可能性はないか。五十代教師の言が中学生からみると江戸時代みたいなことを前提にした戯言みたいに捉えられてしまっている可能性はないだろうか。

こんな意識を抱いてみると、退場していく世代をしんみり見送るだけでなく、新たに入場してくる新世代たちの生態にも興味が湧いてくるというものである。いま、僕の学年には二十代の若者が六人もいる。彼ら彼女らと呑みながらわいわいがやがや話していると、けっこうな発見があるのを感じている。

新世代を指導の対象としてだけではなく、学びの対象にもしてみることをお薦めしたい。

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ツイート六つ・2

7.教師は「教え方」以上に「在り方」が問われるのだと自覚すること。それも腹の底から実感すること。自分の「在り方」を点検し続けること。常に「まだまだだ…」と謙虚に構えること。常に「もっともっと」と貪欲になること。謙虚と貪欲を融合すること。それを生涯の「在り方」とすること。
【コメント】
  笑顔でいること、孤独に耐える力をもつこと、無駄を大切にすること、必要なときに馬鹿になれること、そしていつでも変われること。この五つをもてば「在り方」は変わります。肩の力が抜け、心に余裕が生まれてきます。「教え方」ばかりにこだわる人は「教え方の上手い先生だ」と言われたいのです。自分が大切で、他人に接する余裕などほんとうはもっていないのです。そんなことを毎日の出来事から説に感じています。

8.自らを過信しないこと。世の中に「絶対」などないと知ること。しかし、「絶対などない」という論理も「絶対」ではないと知ること。もっと遠くへ。もっと高次へ。その志向性だけが謙虚と貪欲を融合させるのだと知ること。そしてそれさえも人それぞれに道があるのだと心得ること。
【コメント】
  過信しないこと。絶対などないと知ること。過信してはいけない、絶対などないという論理さえ絶対ではないと知ること。この構えをもつことによって、やっと「いつでも変われること」への一歩が始まります。自らの絶対をもたぬことは、自分のなかに「多様」をもつことです。教育観にしてもスキルにしても多様に考えられるようになると、人は謙虚と貪欲を融合させ、高次への階段を昇ることができるようになります。

9.教室で起こるハプニングにうろたえないこと。教室はハプニングが起こることにこそ本質がある。こうしたゆったりした構えをもつこと。ハプニングを起こさない子どもはもはや子どもではなく、ハプニングにあふれ、ハプニングのしたたる教室こそが正常だと心得ること。
【コメント】
  一つの事象をハプニングと捉えるには、ほんとうは起こるべきだったことを前提としてもっていなければなりません。それがその人の思考の枠組みだったということです。僕は思うのですが、ハプニングと呼ばれるものが起こるということは、それをハプニングだと捉える人の想定枠組みが狭かったということを意味するに過ぎないのではないでしょうか。自らの傲慢さが当然起こるべきことを想定させなかっただけなのではないでしょうか。

10.怒鳴る教師にならないこと。怒鳴る指導の果てには堕落しかないと肝に銘ずること。怒鳴らずに同じ効果をあげる指導はないかと常に考える続けること。ためしてみること。成果と課題を整理すること。怒鳴るのは自分が楽だからだと自覚すること。
【コメント】
  多くの教師が怒鳴ることも必要だと言います。怒鳴らないで教育活動なんてできないと言います。でも、怒鳴ることなく1年間を過ごしてみようとしたこともない人にそんなことを言って欲しくない。試してご覧なさい。いままで見えていなかったことがたくさん見えてきます。怒鳴らない教師だからこそ、「怒鳴るという最終兵器」もより機能するのではないでしょうか。世の中の機能度は「落差」によって高まるのですから。

11.自分にできないことは何かを自覚すること。自分にできることを中心に考えるとエゴイズムに陥りやすい。他人に何かをしてあげたいと考えたときには、自分にできないことと常にセットで考えること。できないことをやろうとして途中で投げ出すと、最初からしなかったときよりも他人を傷つけることになる。これを肝に銘ずること。
【コメント】
  僕はもともとがちゃらんぽらんな人間なので、誠実に生きることができません。僕は飽きっぽい性格なので、一つのことを長く続けるということができません。僕には集中力が足りません。僕には優しさが足りません。僕には余裕も、冷静さも、そして懐の深さも足りません。それでいて、他人を傷つけることには極度の怖れを抱いています。しかし、この自覚があるからこそ、僕の実践手法が僕のなかに生まれたのだと思っています。

12.楽しい雰囲気をつくること。人は楽しい雰囲気のなかにいるときに最も成長するのだと知ること。この点については、子どもも大人も変わらないのだと知ること。楽しさのなかで成長を実感したとき、人はそれを「充実」と呼ぶ。人は老若男女にかかわらず、だれしも「充実」を求めているのだと心得ること。
【コメント】
  おもしろおかしい楽しさは長続きしません。長続きしないばかりでなく、人のなかに遺りません。なぜかわからないけれど興味深い……。こんなふうに感じることがあります。そんなとき、この、自分が興味を引かれる所以は何なのだろう……と思います。そんなとき、なるほど、自分にはなかったことだ……、そうか、こうすれば良かったのか……と発見があるものです。人は、こういう楽しさをこそ追い求めるべきでしょう。

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さぼる人ほど優しい?

人に優しく─だれもがそう思う。

他人を肯定的に見たい─だれもがそう思う。

しかし、なかなかできることではない。ついつい他人を批判してしまう。ダメだなあと思いながら反省する。ときには軋轢に落ち込む。僕らはいつもそんなことを繰り返している。

他人を批判する悪癖はどこから生まれるか。それはおそらく、自分のやっていることは正しい、自分たちのやっていることは確かに正しい、間違っているはずがない、そういう揺るぎない自己肯定から生まれる。自分を正しいと肯定しているから、他人の小さな正しくなさが目につく。因果関係はそういうことだ。

例えば、自分にも面倒な仕事から逃げたい、難しい仕事は避けたいという気持ちが確かにある。でも逃げたり避けたりするのは正しい行いではないからと頑張って取り組む。こういう心持ちをもつ人は、面倒な仕事からちょっとだけ仕事から逃げたり困難な仕事をちょっとだけ避けたりした人に必要以上に怒りを覚える。自分は自分を殺してちゃんとやったのにあの人はなんなのだ!というわけである。自分が頑張っていれば頑張っているほど、延いては自分が正しいと思えていればいるほど、人は他人の小さな不正を許容できなくなる。この国では、自分は毎日遅くまで残業しているのに、毎日定時に退勤するあの人はなんなのだ!というのがその代表である。

実は、人に優しく接することができるようになるにはコツがある。僕の経験から言って間違いなく効果的な方法である。それはごくごく簡単に言えば、「頑張らないこと」だ。頑張らないことと言っては言い過ぎかもしれない。「頑張りすぎないこと」と言う方が的確かもしれない。

だれもが自分のなかにさぼりたいという気持ちがある。でも、日本人はなかなかさぼれない。さぼることを得意としていない。いざ「さぼろう」と決意しても、なかなかうまくさぼれない。長年の勤勉生活でもはや実直とか誠実とかがDNAに組み込まれてしまった。

でも、たまに思い切ってさぼってみるのだ。五つの仕事があったら、二つくらいは手を抜いてみる。休みが欲しいなら、思い切って年に五日くらいは用事もないのに年休を取ってみる。きっと自分のなかに革命的な変化が起きるはずだ。自分はすべてに手を抜かないから他人の手抜き仕事に腹が立つのである。自分は休まずに働き続けているから休みを取る人間に腹を立てるのである。自分が適度にさぼる人間になってしまえば、他人の適度のさぼりについては「お互い様だな…」という気持ちになる。他人の明かな手抜き仕事に接しても、「ははは…。ちょっと気分が乗らなかったんだな。オレにもそういうときおるもんな。しゃーねえ。ちょっくらフォローしてやっか。」ってな気持ちになれる。だって「お互い様」だもの。他人の自習監督に入ったり補講に入ったりするのも「お互い様」になる。「お互い様」だからとイライラしないで他人の教室に入ると、意外にも自分になかった発想がそのクラスの子どもたちや教室環境のつくり方から学べたりして……。おやおや勉強になっちまった……なんてことも少なくない。イライラしながらやってると、こういう意外な発見には出逢えないものである。

数年前、親父が脳梗塞で倒れたことがある。半身に麻痺が残り、退院はしたけれど生活はままならない。年老いたお袋も少しだけ認知症がかってきていてうまく介護が成り立たない。共働きの我が家では両親を引き取ることもできない。そのうち親父の体調が悪化し出す。入退院を繰り返しながら、結局、両親共に施設に入ったのが数年後。その間、僕の仕事はぼろぼろである。とにかく、いつ病院や施設から呼び出されるかわからない。そんな生活が続いた。あるとき、僕はもう両親を優先して休まなければならないときは休み、早退しなければならないときは早退することにした。一週間、午前中に授業だけして午後はまるまんまいない、なんてこともあった。

いま、親父はもうこの世にいない。残念ながら親父は他界してしまったけれど、僕にとってこの経験、つまり職場の同僚たちに大きな子迷惑をかけながらも親父をみとることができたという経験はとても大きいものになった。それ以来、家庭の事情によってやむを得ず欠勤したり遅刻早退したりする同僚に優しくなれるようになったのだ。職員室には介護が必要な親をもつ先生、小さい子どもの保育所の送り迎えをしている先生、自分の体調が悪くて病院通いをしている先生……さまざまな先生がいる。みんな働けるものなら働きたいのに、心ならずも欠勤しているのである。

「いいから休みな。仕事はみんなでなんとかするから。みんなそういう時期があるんだから。」

僕はいま、口癖のように周りにそう言うようになっている。

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ツイート六つ・1

1.教師に必要な資質。第一にいつも笑顔でいること。第二に孤独に耐える力をもつこと。第三に無駄を大切にすること。第四に必要なときに馬鹿になれること。第五にいつでも変われること。いまを壊し、新しい自分になるのを怖れないこと。
【コメント】
 僕は「言いきる人」であり、「読みにくい文章を書く人」であるらしい。でも、言い切ることと読みにくいこととは僕のなかでは同じことです。僕の文章が読みにくくなるのは、できるだけその主張の想定範囲を縮めて確定してしまおうとするから。言い切れるのはこれだけ想定範囲を縮めたんだから、こう言いきって良いという確信があるから。僕の文章はこれでも20年前よりは随分とわかりやすくなっているんですよ(笑)。

2.いつも笑顔でいること。どうしたら笑顔でいられるかを基準に毎日の生活を見直してみること。何があれば、どんなストレスがなければ笑顔でいられるのか、それを真剣に考えてみること。笑顔でいられない自分と向き合ってみること。
【コメント】
 僕は現在の学校がたいへんだと思ったことはありません。時間に追われるということもありません。忙しいと思ったこともありません。子どもや保護者と深刻な対立に陥ったこともありません。ストレスらしいストレスも抱えたことがありません。みんないまの学校をたいへんだと思いすぎているのではないでしょうか。学校の先生よりも楽でストレスのない仕事が世の中にあるような気がしないのです。正直、僕らは幸せだと思っています。

3.孤独に耐える力をもつこと。流されている自分と向き合うこと。対立を避ける自分と向き合うこと。対話に臆する自分と向き合うこと。孤独に陥ることを怖れずに、必要な自己主張をすること。
【コメント】
 「孤独に耐える力」をもてと言っているのであって、孤独になれとか孤立せよとか孤高を通せとか言っているわけではありません。教師に「孤独に耐えられる」という自信がないと、さまざまな場面で判断を誤るよと警鐘を鳴らしているのです。孤独に陥ることを怖れずに必要な自己主張をすることによって「対話」が成立し、初めてWin-Winも模索できるのです。相手が子どもであっても、保護者であっても、同僚であっても同じです。

4.無駄を大切にすること。無駄の積み重ねから有効性が導かれることがある。意味を求めすぎないこと。無意味の積み重ねが意味を産み出すことがある。この二つを経験則として血肉化すること。
【コメント】
 待てない世の中になりました。すぐに結果の出ないものは無駄と言われるようになりました。みんなが消費者になったのです。消費者は結果を消費するものであって過程を消費するものではありません。消費社会とはそういうものです。この子に指導しても無駄だ、この親にしてこの子あり、そういう判断の仕方は教師が消費者感覚になっていることを意味します。10年後に芽が出る指導もある。このスタンスが無駄を大切にすることです。

5.必要なときに馬鹿になれること。ちっぽけな自意識からも、つまらない自意識からも、過剰な自意識からも解放されること。周りの人たちとの力学を見極め、自分を座標上のドットと位置づける視座を忘れないこと。自分が相対化されるような地図をもつこと。
【コメント】
  必要なときに馬鹿になれること。必要なときとはどんなときなのか。馬鹿になれるとはどんなことなのか。それを考えるためには自分を相対化しなければなりません。ちょっと難しい言葉で言うと、自分を「メタ認知」できなければなりません。自分が可愛くて、常に自分のためにばかり生きている人は、人前で馬鹿になることに必要以上の抵抗を示します。自分を落として笑いを取る大人が近くにいるとき、子どもたちは和やかになります。

6.いつでも変われること。いまを壊し、新しい自分になるのを怖れないこと。自信をもつこと。いまを壊せないのは知らない世界に行く自信がないから。新しい自分が経験するであろうことに対応できる自信がないから。自信がないから現状維持を好むのだと知ること。
【コメント】
  教師の仕事はごくごく簡単に言えば「子どもに変われと言い続けること」です。それなのに、自分は頑なに変わることを拒否する。そういう教師が多過ぎます。先生はオレ達にあれやれ言うけれど、先生はエラぶってまったく自分の言うことを変えないじゃないか。子どもたちからそういう声が聞こえてきます。変容しようという指向性のない教師は教壇に立つ資格がありません。僕は強くそう思っています。

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「反語的教育論」まえがき

周りの教師たちがなぜあんなにも頑張るのかがわからない。なぜやみくもに頑張るのかがわからない。それなのに結果が出なくてもそれほど落ち込まない理由がもっとわからない。やるだけやったんだから……などと言って自分を納得させてしまう心象が奇妙にさえ思えてしまう。もう少し結果を求めて、手を抜くところは抜き、やみくもに仕事をするのではなく考えて仕事をすべきなんじゃないか……正直、そう感じるてしまう。

みんなよっぽど頑張ることが好きなのだろう。おそらく頑張ること、それ自体が好きなのだ。頑張っている自分自身が美しい、きっとそう感じているのだ。そして結果の如何は自分の努力や能力の如何ではなく運不運で決まる。きっとそう思っているのだ。そんな感じがする。

日本人は自分が頑張るのも好きだが、他人に頑張らせるのも好きだ。いつでもどこでもだれにでも「がんばれ」と言う。テレビを見ていると、インタビューを受けた者の締めの言葉はいつも「頑張りますので応援よろしくお願いします」だ。インタビュアーの締めの言葉も必ず「頑張ってください」だ。たぶん教師も、自分も頑張り、子どもにも頑張らせるのが大好きなのだ。

でも、「頑張る」という言葉にはどこか逃避の匂いがある。「ちゃんと情熱を傾けて取り組むから結果が出なくても許してね」という含意がある。そして日本人は頑張った人に対しては、たとえ結果が出なかったとしても広い心で許すことが多い。他人に「頑張れ」という場合にも同じだ。一日学校で仕事をしていると、教師が子どもに「頑張れ」と言うのを聞かない日はないが、「頑張れ」という激励には「情熱を傾けて取り組むんだよ。結果は時の運だ。」という意味がある。つまり、「頑張れ」には「結果がすべてじゃない」という含意があるのだ。教師に限らず、日本人は他人に対して「成功を祈る」とか「結果が出ればいいね」とかはあんまり言わない。まったく言わないわけではないがほとんど言わない。日本人にとっては成功することや結果を出すことよりも「頑張る」ことそれ自体に意義があるのだ。

実は日本人は行動することも大好きだ。情緒が好きで論理が嫌いだ。感じることが好きで考えることが嫌いだ。行動しない人や理屈をこねる人は忌み嫌われ、だれかに相談を受けても「考えすぎだよ…」で解決しようとする人か多い。かつて日本人は「考えるな、感じろ」というブルース・リーの言葉に熱狂した。リーの言葉を自分たちの生活と重ねて解釈した。でも僕は、考えない人間は感じられないと思う。少なくとも考える人間ほどよく感じることはできないと思う。考える人間と考えない人間がいれば、考える人間の方が感じる力は強いと思う。考えると感じるはそういう関係にあると思う。なのに日本人は考えることではなく、感じること、行動することを奨励する言葉に無条件に納得させられてしまう。大江健三郎は「見る前に跳べ」と言い、寺山修司は「書を捨てて町に出よう」と言った。でも、見ない者は跳べないし、書を読まぬ者は町を愉しめない。

この日本人のメンタリティがストレートに教師のメンタリティにつながっている。だから考えることより行動することを重視する。考えることよりも感じることを重視する。結果を出すことよりもどういう気持ちで取り組んだのかを大事する。だから、頑張る。やみくもに頑張る。実はそれは自分が好きだからという自己満足だけでなく、周りに評価される近道でもある。日本人はそれを無意識に熟知している。だから子どもにも押しつける。

本書は、僕が教師生活のなかで、日常的に考えていることを綴ったエッセイ集である。どれも特別な経験から深く考えたというタイプの思索ではない。だいたい僕はみんなが経験していないような特別な経験など持ち合わせていない。特別な経験はないけれど、特別な(特殊なというべきか。でも、本書に書かれいる思考は僕にはそれほど特殊なものだとは思えない)思考なら少しくらいならあるかもしれない。二十数年の教師生活において、僕にとっては仕事をするうえで大切だなと思うようになった事々について書いている。それが「教育論」の意味だ。ただし、そうした教育に対する考え方を、読者の皆さんに対してちょっとだけ挑発的に書いてもいる。挑発的であるだけでなく反動的である場合もある。そういう表現が意識されている。それが「反語的」の意味だ。

ほんとうのことを言えば、僕も頑張ることや感じることや行動することが嫌いではない。皆さんと同じように教職に就いている日本人だから。でも、少し考えさえすれば頑張るときの頑張りどころが理解され、感じるときに自らの感受性の広がりや深まりが体感され、行動するときに大胆さや繊細さが生まれるのだということを僕なりに経験してきたという自負が僕にはある。

そんな些細な、そして些細であるからこそ本質的な、そんな思考を綴ったエッセイ集なのだと受け止めてもらえたら有り難い。

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子どもや保護者を批判する資格がある?

人は自分に都合の悪いことを見ようとしない。意図的・意識的に見ようとしないのではなく、無意識のうちに視界から排除する。その方が人間が生存するためには都合が良いのだから仕方ない。これは人間の本質とかいうよりも、むしろ生物学的な問題ではないかとさえ思う。例えば、教師は自分がそれほどの教師でないことを絶対に見ようとしない。それどころかたいして自慢できることもない、ありふれた人間であることさえ認めようとしない。それを認めてしまったら、子どもたちに人間いかに生きるべきかを語る資格がなくなってしまう。これを認めない方が教師という生き物の生存にとって有利なのだから仕方ない。

しかし、自分に都合の悪いことを見ようとしないのは良いとして、教師という生き物たちが他人の悪いところはよく見えているつもりでいるのはいただけない。職員室にいる同類同士で表出し合ってしまい、自分たちの種の優位性を確かめようとするところがもっといただけない。子どもの悪いところ、保護者の悪いところ、社会の悪いところ、どれもこれもよく見えているつもりでいて、みんなで批判を共有して溜息をつく。自分たちはこんなに頑張っているのに子どもが悪い、保護者が悪い、社会が悪い……。その趣はまるで自分たちっが神の視座でももっているかのようだ。

それでいて何かの機会に自分が批判されたときには、烈火のごとく怒り狂って手のつけられないほどに攻撃的になるか、批判されてしまったことに屈折して弱い自分をさらしてこの世の終わりのように落ち込むかのどちらかである。どちらも周りが何もできなくなる。攻撃しようとする気も失せるし助けようという気も失せる。手をつけられないのだから遠巻きに見ているしかない。そのうちに怒り狂った者は周りが何もしないのが悪いとひねくれ、落ち込んだ者はだれも助けてくれないと閉じ籠もる。そんな例が多い。

教師は基本的に子どもを教育することを仕事としている。確かに学習指導もするけれど、この国ではそれ以上に人格教育、人間教育が大切だと考えられている。よく教師から、塾の先生は勉強だけ教えてればいいから楽だよなという声を聞く。教師が自分たちの仕事を勉強を教えるだけではないと捉えている何よりの証拠だ。おそらくのこの国で教職に就くことは、塾の先生の仕事と神父さんの仕事とを同時に担わなければならない、そんな立場に就くことを意味する。しかし、学校の先生が担う神父さんの仕事には、実は宗教的世界観の後ろ盾がない。これが僕らの仕事をたいへん難しいものにしている。

神父さんと信者との間には世界観の共有がある。だから神父さんの言葉を信者は基本的に素直に受け取ることができる。ところが、教師と子どもや保護者との間には世界観の共有がない。だから教師としての人徳と教師としての技術が必要にされる。子どもや保護者が教師に対して向けている視線とはそういうものだ。しかし、教師はただのありふれた人間の集まりに過ぎない。教師の側から見ると、自分たちはそれほどの人格者ではないし、人間関係をつくる技術も未熟である。そこで自分という一個人はまだまだ未熟だけれど、自分も含めてだれもがそれを目指さなければならない世界観があるという理屈を無意識的に学校教育は創り上げてきた。だからきみたちもそういう世界観を目指さねばならないと子どもたちに説くことで宗教的世界観の欠落を補ってきた。それは概ね「他人に対する思いやりをもって正しい生き方をすれば、必ずみんなで幸せになれる」とでもいうべき世界観であり、もはや学校においては教義と化している。この国ではいかなる学校においても、学校であるかぎりにおいてこの世界観が手を換え品を換えて教えられていると言ってよい。

実はこの世界観が教師にある種の神の視座をもたせ、子どもや保護者、社会を批判させる。この教義を全うできない子ども・保護者をすべて非難の対象にさせてしまう。そういう構造がある。

しかし、ここで大切なのは、教師が後ろ盾としているこの学校教育の教義が、ひと言でいうなら「『世界』と『個人』が対立したときには理は世界の側にある」ということを意味しているということだ。教師として心ならずも子どもや保護者と対峙してしまったとき、教師は自分が「世界」の側にいると認識している。言っておくが「社会」ではない。「社会」を超越したあくまで「世界」である。「真理」と言った方がわかりやすければそれでもいい。そして僕もまた長年教師として生きてきた手前、この構造を是認ぜさるを得ない。それをどうこう言うつもりはない。

ただ、自分が批判されたときにも、実は同じ構造があるのではないかと言いたいだけである。自分が批判されたときにも、怒り狂ったり落ち込んだりせずに、「理は世界の側にある」と認めるべきではないか。そう言いたいだけである。

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