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スキル、ネットワーク、人柄

1 溶けたスキル

「キャリア」は意図的に積まなければ「キャリア」として機能しない。無目的に、無思慮に経験を重ね、日々を漫然と過ごしても「キャリア」は積み上がらない。「キャリア」は毎日を目的的に生き、意図的・意識的に経験を重ねた者だけに宿る。こんな単純なことが教師の世界では蔑ろにされている。事実、明日この教材の授業に入るという段になって、初めて「何か良い方法はないか」と探し始める。四月に引き受けた研究授業がとうとう一ヶ月後に迫って、初めて重い腰を上げて本屋に足を運ぶ。周りにはそんな例ばかりが見られる。付け焼き刃の教材研究も学級経営も、にわか仕込みの研究授業も行事運営も、それ以前の日常を無目的に、無思慮に、無意図的に、無意識的に、要するに漫然と過ごしてきたことから起こる。

「キャリア」は一般に「スキル」を身につけることだと考えられている。もしも我々が「職人」を目指しているのならそれでもいいかもしれない。しかし、それは社会が「ものづくり」を中心に動いていた頃に形成された、この国に巣くう悪しき共同幻想に過ぎない。「ものづくり」ならどんな頑固親父がつくったものであろうと、どんな奇人変人がつくったものであろうと、完成された「もの」の完成度が高ければ価値をもつ。だから職人は何よりも「腕」を磨いた。「腕」を磨けば「結果」が出た。確かにこの国にはそういう時代が長く続いた。しかし、現在、もう数十年も前から、「スキル」を身につけるだけでは「結果」が出ない。

現在、同じような発想で「結果」を出せないでいるのが、「資格」である。あれもこれもと「資格」を取り、「資格お化け」になる者が後を絶たない。しかし、「資格」をたくさんもった者ほど良い仕事ができるなどとはだれも思っていない。むしろ、多くの「資格」が、それをもっているというプライドが、「資格」よりも重要な何かをよけいに機能させなくなる。そういう例が多い。そもそも「資格」とは、ある「スキル」をある程度まで身につけたことに与えられる称号でしかない。それは「職人」の身につけた「スキル」に到底及ばない。「職人」は百回取り組めば百回同じものをつくる。「スキル」が血肉化し、意識しなくても常に同じ動きができる。それが「職人的スキル」である。ある程度まで身につけたスキルなどというものは、所詮、意識的に使わなければ使えない。あくまで「ある程度のスキル」であって「職人の腕」には遠く及ばない。だから大抵の場合、それほど高い評価を得られず、「資格お化け」のプライドは切り裂かれざるを得ない。「資格」などというものにはせいぜい「ないよりあった方がましなもの」といった程度の捉えをしておいて、あまり期待しないでいるのが良い。

「スキル」には簡潔に言って二種類がある。一つは、その「スキル」の存在を知っていて、使おうと思ったときに意識的に使えること。いま一つは、「スキル」を意識的に使う段階を超えて、意識しなくても使える、即ち「腕」となった状態である。前者は一般に「技術」と呼ばれ、後者は一般に「技能」と呼ばれる。「授業スキル」も「学級経営スキル」も「生徒指導スキル」も、「技能」にならないと機能しない。本を読んだり研究会に参加したりして勉強したような気になっている教師が、一向に教育活動を機能させられないのはそのせいである。それでは「資格お化け」と一緒で、満たされるのは「自意識」だけだ。「スキル」を「技能」として身につけるには毎日を目的的に生き、意図的・意識的に経験を重ねるしかない。「技術」が自らに溶けて「技能」となるまで経験を重ね続けるしかない。「スキル」は自らに溶けてこそ「身についた」と言えるのである。

2 開かれたネットワーク

気の効いた人たちは、「キャリア」を「スキル+ネットワーク」だと考えている。人間が一人の力でできることなどたかが知れているではないか。必要なときに力になってくれる人脈をどれだけもっているか、「スキル」と「ネットワーク」の双方をもってこそ「キャリア」と呼べるのだ、というわけである。

しかし、この「ネットワーク」という言葉が曲者である。気の合う者とのネットワーク、地位のある者とのネットワーク、自分を高く評価してくれる者とのネットワーク、自分を取り立ててくれる者とのネットワーク、要するに「閉じられたネットワーク」ばかりを求める傾向が多くの人々にある。だれもが所謂「護送船団」に守られた時代であればそういう生き方もあったかもしれない。しかし、それは世の中が「安定神話」「成長神話」に基づいて動いていた時代の悪しき慣習に過ぎない。「日進月歩」ならぬ「秒進分歩」の時代にあって、「閉じられたネットワーク」はかえって弊害になることさえ少なくない。視野を狭め、あるものを見えなくさせ、時にはないものさえ見せてしまう。「僕らには見えない世界が始まっているようだ」「あの人についてきたのは間違いだった」と後悔したときには既に手遅れとなる。「閉じられたネットワーク」に依存して生きられる時代は、二十世紀末、実は山一と拓銀の破綻の頃にとうに終わっていたのではなかったか。

学校教育の世界で言えば、日々子どもの姿が変わることがこれに当たる。教師は子どもたちの変容を日々の成長としてのみ捉える傾向がある。一人ひとりの子の成長ならば我々は受け入れやすい。むしろ喜ぶことさえできる。しかし現在、我々を戸惑わせ苛立たせているのは一人ひとりの変容などではなく、「子ども集団の質の変容」であり、「保護者集団の価値基準の変容」である。「学校文化」と「子ども・保護者の文化的背景」とが齟齬を来したとき、従来からの学校的価値規準にしがみつき、「あの子はなぜわかってくれないのか」と戸惑い、「あの保護者にしてこの子あり」と苛立っているのが現在の学校の現実である。

子どもたちも保護者も時代の風を胸一杯吸い込みながら暮らしている。「情報化」「多様化」がキーワードなって既に四十年が経つ。教師が知識や情報を独占する時代ではない。知識も情報も少し手を伸ばせば得られる時代となった。むしろネット情報に触れる機会の少ない一部の教師が、子どもたちが当然のようにもっている知識や情報をもっていない状態が普通に見られるようになった。それに伴って価値観は多様化し、Aの利益がBの不利益となり、CとDの趣向は大きく異なる。そんななかで、教師は集団こそが価値であり、協調・思いやりこそが至高であると抽象論を語る。行事で子どもたちを楽しませるアイテムはいまだに演劇と合唱であり、子どもたちが日常的に親しんでいる映像・アニメ・バンド・ダンスは「学校教育に相応しくない」という理由で忌避される。「学校文化」が「子ども・保護者」と齟齬を起こしても当然ではないか。なぜ、ここまで大きな齟齬を来すに至ったかを考えるとき、それは教師がいまだに「閉じられたネットワーク」に安住しようとしていることに思い至りはしないか。

ためしに読者の皆さんに思い浮かべていただきたい。教職以外に日常的に付き合う友人・知人をどれだけもっているか。教職以外のネットワークをどれだけもっているか。いや、教職内部のネットワークでも良い。自らの教科以外の教師が集うネットワーク、自らの校種以外の者が集うネットワーク、自らが所属する部活動種目や研究団体以外のネットワークをどれだけもっているか。多様性のない、似た者同士の付き合いのなかに自らの身を置いていないか。「閉じられたネットワーク」のなかに安住してはいないか。更に微視的に見てみよう。職員室内部ではどうだろう。同世代、同学年、同一教科、そんな近しい同僚たちの間だけで「セクト」化されたコミュニケーションに閉じられてはいないか。行政や管理職への不満を連ね、教育観の異なる同僚の陰口を叩き、井の中の蛙同士で傷を舐め合ってはいないだろうか。そして、実は、教師が無意識的にこのような「閉じられたネットワーク」に閉じ籠もる悪弊こそが、子どもたちや保護者との間に必要以上の軋轢を来す元凶となっているのではないか。

現在、教師が子どもたちや保護者との円滑なコミュニケーションを目指すならば、教師は自らの「世界観」を広げなくてはならない。そのためにはできるだけ「社会的階層」や「出自」や「生活の場」を異にする多様な人たち、即ち「価値観」を異にする多様な人たちと「開かれたネットワーク」を形成しなければならない。「開かれたネットワーク」はそれをもちたいとの意欲をもっているだけでは、いつまでたっても得られない。意図的に、意識的に、目的的に得ようと努めなければ得ることができない。たとえ得ることができても、そこには数々のストレスが立ちはだかる。多様な「価値観」こそがこの世で最も軋轢を起こすからだ。しかし、常に多様な「価値観」のなかに身を置き、それらの「価値観」をときには折衷し、ときには止揚する、それができて、初めて「開かれたネットワーク」を得たと言えるのである。

3 人柄の良さ

しかし、「キャリアアップ」が、「スキル」を向上し「ネットワーク」を広げれば良いのかと言うとそうでもない。「スキル」をもち「ネットワーク」ももっているのに周りから評価されない人はごまんといる。では、他に何が必要なのか。それは「人柄の良さ」である。正確に言えば、「人柄が良いと思われること」が必要とされる。いくら切れ味鋭く「スキル」を使いこなせても、どんなに広い「ネットワーク」をもっていても、周りから「人柄が悪い」と思われたらそれらが嫌みになる。まさに「宝の持ち腐れ」。「スキル」も「ネットワーク」もまったく機能させられない。

「人柄が良い」とは、いったいどのような性向を指すのか。それは端的に言えば、「周りに無償で与えられる人」のことである。見返りを期待せず、人を思い通りに操作しようとせず、自分に役立つからと目的的に与えるのではなく、ただ自分のできることを無償で贈与する。日本人はこういう人を「人柄が良い」と評価する。これは子どもでも保護者でも同僚でもネットワーク仲間でも同じである。日本人である限りにおいて、この評価規準は変わらない。

「スキル」をもつ者は、その「スキル」で子どもたちにも保護者にも某かを与えることができる。同僚にはその「スキル」自体を伝授し、与えることができる。しかも、情けは人の為ならず、その成果は、意図せずとも必ず別の形で自分に返ってくるものである。子どもや保護者に自分が予想もしなかった効果があったり、同僚がその「スキル」を応用して別の方法を開発し、かえって自分にも学びとしてかえってきたり、そんな例が多々ある。つまり、「与えること」が「開かれたネットワーク」の萌芽となり得るのだ。そもそも「開かれたネットワーク」とは、「無償で与えられる人」だけがもつことができる。与えれば与えるほどそのつながりは広がり、与えれば与えるだけそのつながりは深くなる。そういう性質のものだ。そうでない人の周りに多様な人たちは集まらない。多様な人たちに多様に与えた者だけが、多様な「価値観」をもつ人々の多様な「スキル」に触れることができるようになる。多様な「スキル」をもつ者は、更に周りの人たちに「無償で与えられる」ものを多くもつことができる。更に「ネットワーク」は開かれ、更に「ネットワーク」は広がる。良い循環が始まる。ここまで到達したとき、だれもがその「キャリア」を評価するようになるのである。

「キャリア」とは、「スキル」と「ネットワーク」と「人柄」の総和を意味する。

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