教師に必要なインフラがある?
かつて札幌の一等地に位置する学校に勤めたことがある。札幌市の西の端、億を超える個人住宅が密集する地域である。
三月中旬に転勤が決まり、四月一日に勤務し始め、七日の入学式で驚いた。この世のものとは思えないほどに、入学式に集う母親たちが美しかったのである。前任校では入学式にガムを囓る保護者が毎年の話題だった。しかし、ここにそんな保護者は一人もいない。背すじを伸ばし、立ち姿が艶やかで、椅子に腰掛ければ体育館のパイプ椅子さえ自身と一体化させてしまうような凛とした身のこなし。美しさとは容貌ではなく、造形でもない。躰全体から立ち上る、高い階層のつくり出す匂い立つようなオーラなのだと知らしめるに充分な装いだった。
よく見ると、父親にも母親にも和装の者さえちらほら見られる。彼ら彼女らは自分たちが上流階級であることさえ意識していない。もっと上流を、もっと金を、そうした多くの人たちに無意識にまとわりつくいやらしい嫉妬のオーラがない。心から笑顔をつくり、さりげなく正しい日本語を遣い、何気なく美しい立ち居振る舞いを見せる。僕は思った。これは幼少から当然のように美しい世界に生き、嫉妬せぬ両親のもとで嫉妬せぬままに育った者だけがもつことのできるインフラであると。インフラとは箱物ではない。人間には美や豊かさといったインフラがあると……。
そして僕は恐怖せずにはいられなかったのである。中流の下、道東の漁師町に出自をもつ僕がもつインフラと、この子たちのもつインフラとが軋轢を起こすまいかと。まあ、いま振り返れば、まずまずの実践を重ねることができ、この不安は杞憂に終わったのだけれど。
この学校には七年間勤めた。大学院進学のために休職した年があったので、実質は六年間の勤務である。二年・三年の持ち上がりを繰り返し、学級担任として卒業生を三度送り出した。
いかに美や豊かさのインフラが目立つとはいえ、この学校も公立中学校である。そうしたインフラをもたない家庭、もたない子どもたちもいる。そうした子どもたちは、豊かで、世の中に嫉妬しない性質をもつ多くの子どもたちと自分との歴然とした差異に気づかされる。いくら子ども同士とはいえ、あまりにも歴然とした差異であるため、その差異に気づかぬことの方が難しいのである。しかし、よく観察すると、その差異に気づかぬ子どもたちもいる。持てる者にも持たざる者にもいる。気づかぬ者たちは和気藹々と学校生活を送る。気づいている者と気づいていない者との間には軋轢が起こる。インフラを持たぬ者は、自分と周りとの間にあまりにも差異があるため、普通の学校で学校生活を送る以上に自暴自棄になる。少数の非行生徒たちがどこまでもどこまでも深く、非行に走り続ける。そうした構造もこの学校には見られた。
僕はいちはやくこの構造に気づいた。結果、授業のレベルは前任校と比べて格段に高くし、持てる者に不満を抱かせぬように心掛けた。と同時に、スーツにネクタイという出で立ちを保ちながらも髭を伸ばし、どこか崩れた印象を与えながら、精神的には持たざる者の味方を演じた。それがこの学校で僕が選んだ立ち位置だったのだ。
この学校にはこの構造に気づかぬ教師が多かった。持てる者を基準にすべての学校生活を測り、持たざる者にただ厳しく接して必要以上に肩身の狭い思いをさせる。しかし、自分自身も持たざる者なので、持てる者の気持ちを推し量ることもできない。こういう教師に限って、持てる者からクレームを受け、そのクレームに卑屈になり、子どもたちを育てることではなく、保護者からクレームをもらわぬことを基準に仕事をするようになっていった。ある者はクレームを受けない仕事の在り方に馴染んでこの学校に長く勤め、ある者はその教師の在り方に疑問を感じてすぐに転勤希望を出して短期間でこの学校を後にする。そうしたふた通りに職員室がはっきりと分かれる学校でもあった。僕としては、そんな同僚たちと付き合いながら、教師の在り方についてじっくりと考えさせられた六年間でもあった。
いまここで、このようなエピソードを語るのは、実はこうした対応力、そしてその対応を産み出す思考力こそが、教師たる者の持つべきインフラなのではないかと思うからである。公立学校というものはその学校が位置する地域と不可分の関係がある。どんな地域においても、それなりに学校教育を機能させなければならない。それが我々の仕事である。ある文化には馴染めるが、ある文化には馴染めない。あるタイプには指導を機能させられるが、あるタイプにはさせられない。そもそも教育の理念や方法を、たった一つの自己流でしか施せない。そんな教師が多くはないか。
そしてそれは、教師としてのインフラが整備されていないと言われて然るべきなのである。
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