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2014年2月

文は人なり

次年度、ある雑誌で決まっていた連載が第1回を書いたあとのやりとりで辞退させていただくことになった。次号予告で案内が掲載されてしまっているようなので、この連載がなくなったことについて、不遜を承知で予め書いておこうと思う。

連載依頼が来たのは12月11日。このとき、「堀祐嗣様」と僕の名前が間違っていた。編集者としていかがなものかと思うが、この段階では僕は腹を立てていなかった。僕の名前は難しいのでよくあることなのだ。だから、「またか…」と笑っていた。僕は幾つかの確認をした後、引き受ける旨を連絡した。編集者は2月上旬が連載第1回の締切であること、後日、執筆依頼書を郵送することを連絡してきた。これが12月中旬。

ところが、年が明け、1月が終わろうとしても執筆依頼書は届かなかった。そして2月上旬になって、編集者から連絡が来た。執筆依頼書を郵送していなくて申し訳ないが、第1回を執筆して欲しいとのことだった。僕の手元にある執筆フォーマットの情報は21字×234行という、最初のメー...ルでの字数のみ。僕は「まあ、そういうこともあるだろう」と21字×234行で原稿を書いた。その際、僕は普段、様々な雑誌で基本フォーマットとしている小見出し2行取りで書いた。

2月中旬になって、校正原稿がPDFで送られてきた。3行字数オーバーしたから3行カットしろという。しかも、ご親切なことに「ここをカットしてはどうか」と提案してきた。これで僕はキレた。実は小見出しは3箇所。つまり、2行取りにするか3行取りにするかで、3行の字数オーバーが生まれるか否かということだ。そこで、僕は送り返した。

「僕にとっては1行もカットすべき言葉はありません。小見出しを2行取りにすることで対応してください。それができないなら、掲載を見合わせてください。よろしくお願い致します。」

しかし、この僕の物言いが編集者や編集委員は気に入らなかったらしい。おそらくこれまで、イエスマンとだけ仕事をしていたのだろう。冗談じゃない。執筆依頼書さえ送られてきていれば、おそらく見本の原稿フォーマットが同封されていたはずだ。それがないから起こっていることではないのか。

この編集者とは仕事はできない、と思った。やりとりの最後には、僕は失礼を承知で「殿様商売雑誌」という言葉を投げつけた。自分のミスを棚に上げて、言うことを聞けという構造だ。そんな言うことは聞けない。これは僕の生き方なので、たとえ世界中を敵にまわしたとしても改められないこだわりである。

僕は「THE 教師力」の編集していても、他人の原稿を絶対にいじらないことにしている。求められれば意見は言うけれど、自分で他人の原稿をいじることは絶対にしない。僕にとっては常識である。森田・鹿内という二人の師匠もそうだった。卒論さえ、絶対にテニオハひとついじることはしなかった。それが「人」を尊重するということだ。

結局、言葉というものに対する思い入れの問題、というか認識の問題である。言葉を道具だと思ってるから、他人の原稿をいじれる。「文は人なり」という使い古された言葉を実感している人としていない人との間に起こる軋轢だ。

編集者の悪口を書いてしまったので、逆のパターンについても触れておこうと思う。

今週月曜日、授業を終えて職員室に戻ると、見知らぬ方からの封書が届いていた。封を開くと、講演依頼である。1月11日、愛知県大口町での講演会に参加された、ある校長先生からの御依頼である。3枚にわたって、講演の感想から、僕への依頼の趣旨、学校や地域の現状など、びっしりと綴られている。

実は依頼日は、僕が実父の納骨に行こうと、まるまる1週間日程を空けておいた週だった。この週にはこれまでにも幾つか講師を依頼されたのだが、すべて断ってきた。しかし、これほど誠実に、丁寧な対応をされたのではお引き受けしないわけにはいかない。

「拝復 ○○先生/堀裕嗣@札幌です。/この度は私のような者に御依頼頂き、ありがとうございます。ご丁寧なお手紙に感激いたしました。返信が遅れましたこと、お詫び申し上げます。実は研究会開催日が実父の納骨に行く週として、1週間まるごと空けていた週だったものですから、日程の調整にちょっと手間取りました。こういう事情ですから普通ならお断りするところですが、このようなご丁寧なお手紙を頂いたのでは、お断りするわけにはまいりません。謹んで御依頼に応えさせていただきます。このようなご丁寧な御依頼をされる方を前にして、ほんとうに私のような若輩者でよいのだろうかと恐縮しております。この度はありがとうございました。(以下略)」

僕にはこういう生き方しかできない。

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学習の意義を伝えよ!

「初発の動機づけ」において、最も簡単にして重要なのはその学習の意義を伝えるということです。これはとても重要なことなのですが、国語の授業ではほとんど行われていません。

ためしに、最近おこなった国語の授業を思い返してみましょう。今日の授業でも昨日の授業でも構いません。その授業には発問もあったし指示もあったし活動もあったかもしれませんが、その学習の意義を伝えるという場面はなかったのではないでしょうか。

人間は目的のわからない活動はやりたくないものです。あなたは何のためにするのかわからないままに校長先生に命じられた仕事に、一所懸命に取り組むことができますか?できないはずです。しかし、なぜそれをすることが必要なのか、どのように子どもたちのためになるのかが納得できれば、「よく自分にこの仕事を依頼してくれた」と校長先生に感謝さえするのではないでしょうか。人間の意欲とはそういうものです。

子どもたちだって同じです。何のためにこの学習に取り組むのか、この学習活動に取り組むことによって自分にどんな力がつくのか、そしてその力は将来どんなふうに役立つのか、これらのことがわかり納得したならば、多少難しさくらいはモノともせずに頑張ろうとするのです。

昨今、「インストラクション」という語が流行しています。授業や活動の冒頭にその趣意を説明することです。

私は授業の「インストラクション」には次の三つが必要だと考えています。

① その1時間で身につけなければならない国語学力の意義・価値(将来、どのように役に立つのか。将来、どのように自分の人生を豊かにするのか。)
② その1時間で身につけなければならない国語学力の自己評価規準(最終的に何がわかれば、何ができればその学力を身につけられたと言えるのか。)
③ その1時間の学習活動のフレーム(この1時間がどのように進み、具体的に何をすることが求められているのか。)

私たち大人にとって45~50分という時間は、決して長い時間ではありません。しかし、日々新しいことを学び、自らを成長させようとしている子どもたちにとっては、また日々さまざまな刺激を浴びながら過ごしている子どもたちにとっては、私たち大人が感じている以上に授業の1時間は刺激的な瞬間瞬間の連続なのです。

そのような長い時間を子どもたちに一つの学習活動に集中して取り組むことを求めるわけですから、しっかりとした見通しをもたせて、安心感のある有意義な時間を過ごさせてあげる努力をすることは、私たち教師の責務と言えるのではないでしょうか。

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教師は無意識に傷つける?

僕は旅行が嫌いだ。一年中全国を飛び回っている僕が言うのも説得力がないかもしれない。

でも、僕はほんとうに旅行が嫌いなのである。旅行の準備が面倒とか、交通機関に乗っているのが面倒とか、人と会うのが面倒とか、そういうよくある理由ではない。その土地その土地に根付いている文化に触れることによって、どうしようもなく文化的インフラをもたない自分と向き合わされる……それがイヤなのである。

結果、僕はセミナーやら講演やらでいろいろな土地に行くけれども、常にとんぼ返りの日程を組む。いかなる観光地であっても、「ついでに少しゆっくりしてくるか」ということがない。せいぜい懇親会の席で、セミナー事務局の方に地元のおいしい魚と地酒を紹介してもらって食す程度。それが僕の全国行脚の実態である。

学生時代、遠野に行ったことがある。僕は柳田国男の「遠野物語」が好きで、学生時代に師事していたのも民俗学の教授で、是非行ってみたいと思って赴いた。語り部の語りを聴き、記念館を見学し、河童淵にたたずみ、町並を眺めながら練り歩いた。その一人旅は、僕が数年間をかけて学んできた「遠野物語」の世界を堪能するまたとない機会……になるはずだった。しかし、一泊、二泊とするうちに、そして遠野の人々と話をするうちに、僕は僕自身が「遠野物語」の世界を理解し得ない人間であることに気づかざるを得なかったのである。遠野の町では、庭を掃いているおばあちゃんや、散歩をするおじいちゃんはもとより、道ばたで遊ぶ幼少の子どもたちでさえ、僕よりも「遠野物語」の世界観を理解しているように見えた。何より、遠野に流れる空気は北海道の空気と明らかに異なっていた。肌にとろりとべたつく、重い空気……。夏の暑さばかりがその空気をつくるのではない。それは町全体を包み込む「文化」が創り出す空気であることに気がついた。そして、自分たち独自の文化をもたぬ北海道民には、その空気を決して理解できないであろうことも確かな存在感をもって想像されたのだった。

二十代の頃、僕は数々の歌枕の地、淡路の浄瑠璃、「二十四の瞳」の小豆島と、自らの憧れの地を旅した。旅費を貯めて一週間以上滞在する、気ままに歩き回るといった旅程を常としていた。しかし、そのどれもが遠野で味わったと同様の敗北感とともに帰路に就くことになった。「文化」もまた、自分ではどうすることもできないインフラなのだった。以来、僕の旅行嫌いが始まったのである。セミナーで伺った地では、よく地元の事務局の先生方が観光案内をしてくれようとするのだが、僕はそれを丁重にお断りすることにしている。事務局の先生方が無意識に纏っている「文化」のにおいに、僕はむせ返りそうになることさえ少なくない。そして自らが纏う「文化」にまったく無意識である事務局の先生方の心象とはどんなものかと思いを馳せるのである。僕が「文化」という言葉を使うとき、実はこういう意味が込められている。この意味で、僕は生まれながらの東京都民という先生と話をしていて、彼らが無意識にもつ都市型の奢りに眉をひそめることが少なくないし、自分には理解できるわけがないと思って同和教育に関する発言は絶対にしないと決めている。

公立学校はその地域と不可分の関係にある。公立学校はある意味でその地域の文化を体現している。自らの劣等感を喚起する学校に勤めている場合ならまだいい。教師にとってもっと大きな問題になるのは、子どもたちが一身に浴びている文化、保護者の階層に教職階層が優越している場合である。要するに、教師が勤務校の地域に住む人々よりも豊かである場合である。このとき、教師は子どもたちが無意識に抱えている不安や、保護者たちが無意識にこだわっている事象にまったく気づくことができなくなる。もちろん、努力することで理解することはできる。教師はその努力を怠るべきではないし、そうした努力を重ねる教師は尊敬に値もするだろう。しかし大切なのは、どんなに観察し、どんなに思考したとしても気づけない領域というものがある、という謙虚な感覚を持つことができるか否かだ。子どもたちも保護者たちも、教師がもつ無意識の奢りに最も傷つく。僕らは教職にある者として、そうした自らの奢りに敏感でなくてはならない。自分でも気づかない領域が必ずあるということを謙虚に受け止めなくてはならない。

昨今、「ヒドゥン・カリキュラム」概念が再び流行し始めている。発問や指示や説明といった指導言に悪しきヒドゥン・カリキュラムを指摘したり、教師のつくる学級や授業のシステムに悪しきヒドゥン・カリキュラムを見出したりすることはむしろ易しい。真に危険なヒドゥン・カリキュラムは教師が意識せずに発する感動詞や助詞や助動詞、教師がどうしようもなく身につけている所作にこそあるのだと肝に銘ずる必要がある。

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「夏帽子」と「二十四の瞳」

ふたつの細長い岬が、両の腕のようにのびて小さな入り江をつくっている。岬と岬のあいだには橋が架けてあり、双方の岬を行き来するのに使われていた。その入り江全体が水産試験場の敷地で、架橋も本来は職員だけの通行施設である。岬の往来に便利なので、徒歩で渡る場合にかぎって、職員以外でも利用してよいことになっていた。
かたほうの岬の中腹に学校がある。ほかには気象観測所があるきりで、この架橋を使って入り江を横切るのは、もっぱら学校生徒と教師、それに観測所の職員たちだった。天候の悪いときや波の高いとき、橋は閉鎖され、生徒たちは内陸の道を遠回りしなければならない。そんな奇妙な橋のある学校が、紺野先生の新しい赴任地だった
(『夏帽子 12』長野まゆみ・1994年・河出文庫版・所収)

ついさっき、この冒頭が「二十四の瞳」の冒頭を下敷きにしてるな、と気がついた。そういうことだったんだな。かつて教科書に掲載されて...いたこの文章。当時は気づかなかった。

十年をひとむかしというならば、この物語の発端はいまからふたむかし半もまえのことになる。世の中のできごとはといえば、選挙の規則があらたまって、普通選挙法というのが生まれ、二月にその第一回の選挙がおこなわれた、二か月後のことになる。昭和三年四月四日、農山漁村の名がぜんぶあてはまるような、瀬戸内海べりの一寒村へ、わかい女の先生が赴任してきた。
百戸あまりの小さなその村は、入り江の海を湖のようにみせる役をしている細長い岬の、そのとっぱなにあったので、対岸の町や村へいくには小船でわたったり、うねうねとまがりながらつづく岬の山道をてくてくあるいたりせねばならない。交通がすごくふべんなので、小学校の生徒は四年までが村の分教場にいき、五年になってはじめて、かた道五キロの本村の小学校へかようのである。
(『二十四の瞳』壺井栄・1952年・新潮文庫版)

疲れているところに、ちょっと温かい気持ちになった。こういうのって、僕にとっては人生の潤いなんだ。

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2月17日(月)

1.新潟に行くたびに驚きとともに受け止めざるを得ない、「絶対に取り返す!拉致被害者」というポスター。札幌では見たことがない。ああ、ここはそういう場所なのだ。僕らが報道でしか知らない哀しみと怒りを具体的に感じている人々が住む場所なのだ……そういう想いがふつふつとわいてくる。僕には絶対に理解できない哀しみと怒りを抱く人々がここには住んでいるのだ。また、そう感じざるを得なかった。ある種の劣等感とある種の罪悪感を感じながら、また新潟を後にした。

2.学年末テスト1日目。技術・家庭科、社会科、国語科の3教科。インフルエンザで出停多し。体調の悪い生徒多し。インフルエンザで欠勤教師多し。そんななかでの定期テスト。ここに照準を合わせてきた多くの生徒がいる以上、実施はやむを得ないわけだが、テストを受けられなかった生徒たちはちょっと可哀想である。柏崎のお菓子屋さんで買った学年へのお土産の評判が良かった。一日普通に勤務したが、帰宅後はソファで寝てしまった。6時間近く眠った。やはり疲れていたようだ。

3.3週連続の週末ツアーが終わり、それも滞りなく終わり、正直ほっとしている。体調を崩すこともなく、どのツアーも有意義に過ごすことができた。しかし、学年の先生たちが今週になって次々に倒れているのを見るにつけ、特に不死身と思われた副主任が倒れたのを見るにつけ、僕が3週に渡っていなかったことで彼女に緊張感を強いていたのかもしれないと、ちょっと反省もした。昨夜から「すいませんすいません」のメールの連続だが、体調が回復するまでゆっくり休んで欲しい。

4.ここではないどこかへ……。そんな場所に連れて行ってくれるリーダーを、みなが求めている。小泉純一郎、堀江貴文、橋下徹……。みんなワンフレーズポリティクスでそんな共同幻想をつくり上げたリーダーたちだ。学級担任もリーダーであるとすれば、その手法は参考になる。そのためには呼吸困難に陥っている現状のシステムを変革してくれるという幻想を抱かせねばならない。しかし、小泉・堀江・橋下のように「ビジョンなきシステムの壊し屋」に陥ってはならない。「ここではないどこか」がどんな場所なのか、それを明確に設定したうえで、共同幻想を確実に実現していくための手立てを粛々と積み上げていかねばならない。リーダーは「破壊」と「構築」の二つの資質を持たねばならないが、この両方の資質を持つ者はなかなかいない。政治も教育もそこが難しい。

5.自分が所属するシステムの「外」に出る。意図的にそんなことを続けてきたように思う。ただし、完全に「外」に飛び出すことはしない。そんなことも続けてきたように思う。そんな立場を継続してきたことが、いまの僕のスタンスをつくってきたように思う。

6.「指導と評価」の連載の校正原稿が届いた。字数をオーバーしているから3行カットしてくれと言う。「僕にとっては1行もカットすべき言葉はありません。小見出しを2行取りにすることで対応してください。それができないなら、掲載を見合わせてください。よろしくお願い致します。」と返信した。おそらく教育界には自分のこだわりをこのように表明する人間が少ないのだろう。そういう時代なのだろう。こんな重大なことをこんなに気軽に要求してくる編集者が多すぎる。言葉で商売をしている者ならば、言葉で喰っている者ならば、書いた者がどれだけ言葉にこだわって書いているのかにもう少し思いを馳せるべきだ。

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教師に必要なインフラがある?

かつて札幌の一等地に位置する学校に勤めたことがある。札幌市の西の端、億を超える個人住宅が密集する地域である。

三月中旬に転勤が決まり、四月一日に勤務し始め、七日の入学式で驚いた。この世のものとは思えないほどに、入学式に集う母親たちが美しかったのである。前任校では入学式にガムを囓る保護者が毎年の話題だった。しかし、ここにそんな保護者は一人もいない。背すじを伸ばし、立ち姿が艶やかで、椅子に腰掛ければ体育館のパイプ椅子さえ自身と一体化させてしまうような凛とした身のこなし。美しさとは容貌ではなく、造形でもない。躰全体から立ち上る、高い階層のつくり出す匂い立つようなオーラなのだと知らしめるに充分な装いだった。

よく見ると、父親にも母親にも和装の者さえちらほら見られる。彼ら彼女らは自分たちが上流階級であることさえ意識していない。もっと上流を、もっと金を、そうした多くの人たちに無意識にまとわりつくいやらしい嫉妬のオーラがない。心から笑顔をつくり、さりげなく正しい日本語を遣い、何気なく美しい立ち居振る舞いを見せる。僕は思った。これは幼少から当然のように美しい世界に生き、嫉妬せぬ両親のもとで嫉妬せぬままに育った者だけがもつことのできるインフラであると。インフラとは箱物ではない。人間には美や豊かさといったインフラがあると……。

そして僕は恐怖せずにはいられなかったのである。中流の下、道東の漁師町に出自をもつ僕がもつインフラと、この子たちのもつインフラとが軋轢を起こすまいかと。まあ、いま振り返れば、まずまずの実践を重ねることができ、この不安は杞憂に終わったのだけれど。

この学校には七年間勤めた。大学院進学のために休職した年があったので、実質は六年間の勤務である。二年・三年の持ち上がりを繰り返し、学級担任として卒業生を三度送り出した。

いかに美や豊かさのインフラが目立つとはいえ、この学校も公立中学校である。そうしたインフラをもたない家庭、もたない子どもたちもいる。そうした子どもたちは、豊かで、世の中に嫉妬しない性質をもつ多くの子どもたちと自分との歴然とした差異に気づかされる。いくら子ども同士とはいえ、あまりにも歴然とした差異であるため、その差異に気づかぬことの方が難しいのである。しかし、よく観察すると、その差異に気づかぬ子どもたちもいる。持てる者にも持たざる者にもいる。気づかぬ者たちは和気藹々と学校生活を送る。気づいている者と気づいていない者との間には軋轢が起こる。インフラを持たぬ者は、自分と周りとの間にあまりにも差異があるため、普通の学校で学校生活を送る以上に自暴自棄になる。少数の非行生徒たちがどこまでもどこまでも深く、非行に走り続ける。そうした構造もこの学校には見られた。

僕はいちはやくこの構造に気づいた。結果、授業のレベルは前任校と比べて格段に高くし、持てる者に不満を抱かせぬように心掛けた。と同時に、スーツにネクタイという出で立ちを保ちながらも髭を伸ばし、どこか崩れた印象を与えながら、精神的には持たざる者の味方を演じた。それがこの学校で僕が選んだ立ち位置だったのだ。

この学校にはこの構造に気づかぬ教師が多かった。持てる者を基準にすべての学校生活を測り、持たざる者にただ厳しく接して必要以上に肩身の狭い思いをさせる。しかし、自分自身も持たざる者なので、持てる者の気持ちを推し量ることもできない。こういう教師に限って、持てる者からクレームを受け、そのクレームに卑屈になり、子どもたちを育てることではなく、保護者からクレームをもらわぬことを基準に仕事をするようになっていった。ある者はクレームを受けない仕事の在り方に馴染んでこの学校に長く勤め、ある者はその教師の在り方に疑問を感じてすぐに転勤希望を出して短期間でこの学校を後にする。そうしたふた通りに職員室がはっきりと分かれる学校でもあった。僕としては、そんな同僚たちと付き合いながら、教師の在り方についてじっくりと考えさせられた六年間でもあった。

いまここで、このようなエピソードを語るのは、実はこうした対応力、そしてその対応を産み出す思考力こそが、教師たる者の持つべきインフラなのではないかと思うからである。公立学校というものはその学校が位置する地域と不可分の関係がある。どんな地域においても、それなりに学校教育を機能させなければならない。それが我々の仕事である。ある文化には馴染めるが、ある文化には馴染めない。あるタイプには指導を機能させられるが、あるタイプにはさせられない。そもそも教育の理念や方法を、たった一つの自己流でしか施せない。そんな教師が多くはないか。

そしてそれは、教師としてのインフラが整備されていないと言われて然るべきなのである。

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二つの学習意欲を喚起せよ!

「学習意欲」というと、だれもが「初発の動機づけ」をイメージします。

理科の授業でドラム缶がぼこぼこに変形したり、液体窒素で凍ったテニスボールが床に落とすと粉々に割れたり……。算数の授業で現実的な場面が設定されてクイズのように出題されたり、先生が一見難しそうな問題を瞬時に解いてしまったのを見て、子どもたちが「えっ?なんでそんなことができるの?」という表情をしたり……。

いずれにせよ、「初発の動機づけ」は子どもたちにとって、授業に意欲的に取り組むためのむ原動力になります。したがって、教師は「初発の動機づけ」に腐心します。なんとか授業の冒頭で子どもたちの心を鷲づかみにできないかと。

しかし、皆さんはこんな経験をしたことがないでしょうか。

「初発の動機づけ」は成功した。子どもたちも目を輝かせていた。しめた!と思った。最初は輝いていた子どもたちの目も、授業が進むにつれてなんとなく曇ってくる。次第に集中力のない、落ち着きのない子から脱落し始める。いよいよ、授業の山場という頃には、その指導事項の難しさに教室の4割が脱落している。教師はあんなに一生懸命に考えた指導案なのに……とがっかりする。やっぱりうちの学級の子どもたちは集中力がないのだ。隣の学級はそんなことないのに……。やっはり、自分の指導がダメなのだろうか……。自分に力量がないからなのだろうか……。

ダメと言えばダメですし、力量がないと言えば力量がないと言えるかも知れません。「学習意欲」を「初発の動機づけ」のみで捉えているからこういうことが起こるのです。  実は、「学習意欲」は二つの観点から考えなくてはなりません。一つは「初発の動機づけ」、つまり、これまで述べてきたように、授業冒頭での「学習意欲の自発性」です。  しかし、授業は時間が長いのです。いくら授業の冒頭で激しく意欲が喚起されたからと言って、子どもたちが45~50分もの間、その喚起された学習意欲を維持して目を輝かせ続けると考えるのはナンセンスです。

そんなことは大人にだって無理です。そもそも、あなたにも無理なのではないですか?最初はおもしろそうだと思った講演が、途中から眠くなって来たという経験、あなたにもあるのではありませんか(笑)。

そう。「学習意欲」のもう一つは、喚起された「学習意欲の持続性」なのです。教師は「初発の動機づけ」だけに腐心するのではなく、その喚起された意欲をどのように持続させるか、つまり、喚起された意欲に「適度な刺激」を与え続けるということを同時に考えなければならないのです。子どもたちの集中力を途切れさせない授業には、実はこの「適度な刺激」が準備されているのです。

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「子どもたち全員に」を意識せよ!

これまで述べてきたように、私の挙げる「良い国語科授業の三条件」は以下の三つです。

  ① 子どもたち全員に学習意欲を喚起する。
  ② 子どもたち全員に国語学力を保障する。
  ③ 子どもたち全員に思考を促す。

「学習意欲」「国語学力」「思考」の三拍子を常に意識するのです。この三つの保障された授業は、私にとって良い国語の授業です。

ただし、ここで留意しなければならないのは、私がこの3点すべてにおいて、「子どもたち全員に」という枕詞を付していることです。

「全員」とはあくまでも「全員」です。

授業中に立ち歩くことの多い、あなたが毎日苦労させられているあのやんちゃ系の男の子も。授業中に声を出したことのない、あの寡黙な女の子も。みんなと一緒に活動することが困難な、ときにパニックを起こしてしまうこともある、あの支援を要する子も。みんな、この「全員」には含まれます。

そんなことは無理だと思われるかもしれません。現実的には、難しい場面もたくさんあるでしょう。しかし、最初から諦めるのでなく、何か工夫はないかと考えてみる。思考してみる。そこに「教材開発」が生まれ、「授業研究」「実践研究」が生まれます。

指導が困難な子を最初から切り離して行う授業研究は、教育界では「研究のための研究」と呼ばれ、忌み嫌われます。教師がそうした態度でいると、その、あなたが指導困難と感じている子どもたちも、次第にあたなに切り捨てられていることに気がつき、よけいに授業から、学級から、そしてあなたからも離れていきます。

逆に、5回に4回は失敗したとしても、先生は自分を相手にしようとしている、真剣に向き合おうとしている、授業に参加させようとしている、学力をつけようとしてくれている、その子たちがそう感じたならば、決して離れていくことはありません。もちろん一朝一夕にうまくいくものではありませんが、決して致命的なトラブルには陥らなくなります。「問題傾向」と呼ばれる子どもたちが教師に求めているのは、「教え方」ではありません。教師の「在り方」なのです。

学習指導要領にも、さまざまな授業の指南書にも、こういう授業が良い、こういう学力をつけなければならない、と書いてあります。そのせいで、教師はどこか自分の学級とは別のところに「あるべき授業の姿」があるように感じていまいます。しかし、そうではありません。

授業づくりの原点は、あくまであなたの目の前にいる子どもたちなのです。そこから出発しない限り、あなたはいつまでも「ないものねだり」の蟻地獄に陥ります。

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学ぶことは実は危険なこと?

知ることは危険なことだ。学ぶことも危険なことだ。あなたはこのテーゼを実感しているだろうか。おそらく、こう感じた経験のある読者は少ないだろうと思う。でも、これは「知」というものの本質である。知れば知るほど、学べば学ぶほど、そしてそれが主体的であればあるほど、人は混乱に陥らざるを得ない。他人との軋轢を経験せずにはいられない。たぶんそれを実感していない人はほんとうには知ろうとしていないし、ほんとうには学んでいないのだと思う。

僕は学生時代、三島由紀夫を読み、和辻哲郎を読み、エリクソンやヴントを読んで、内省を繰り返すことでどうしようもなく自己崩壊を起こしてしまい、半年くらい部屋に引きこもったことがある。だれにも会わず、どこにも行かず、飯も喰わず、酒も呑まず、ただ本を読み、ただ煙草を吸いながら、数ヶ月間自室に引きこもったのだ。しまいには栄養失調で躰中に湿疹が出る始末。父とゴルフ仲間だった近くの内科医に「このままだといずれ死ぬ」と宣告されたほどだ。このとき僕は、「ああ、知というものはベクトルを自分に向けた途端に自らを崩壊させてしまうものなのだなあ」と実感させられた。

僕の盟友に石川晋という男がいる。発達障害を自認して止まない、他人との距離感覚を測ることを大の苦手とする変人教師である。彼を見ていると、よせばいいのに、自らの知を、自らの学びを常に他ならぬ自分自身に向け続け、自己崩壊を繰り返している。それでも新しいことへの希求をやめられずにどんどんおかしくなっていく。最近は彼も五○に近くなって、さすがに自らを調整するスキルを身につけ、少しずつ世の中と折り合いをつけられるようになってきているけれども、やっぱりいまでも、周りと大きな軋轢を起こしてひどく落ち込んでいることがある。「堀くん、オレ、またやっちまったよ」と落ち込んでいる。まあ、その生きづらそうな趣はやはりいまだに持ち続けているわけだ。おそらく生涯、直らない。直るはずもない。同じような特性を僕ももっているのでよくわかる。

若い頃、僕はある生徒に実存主義を語って聞かせたことがある。その生徒が真綿のように僕の言っていることを吸い込むのが面白くて、それを教師冥利に尽きると感じて、毎日毎日、サルトルやハイデガーを語って聞かせたことがある。その生徒は数ヶ月で壊れてしまった。家出をしたり、両親に反抗したり。おそらく実存主義思想のベクトルを自己に向けてしまったのだろう。若気の至りとはいえ、僕も罪なことをしたものだ。この生徒にだけは生涯顔向けできない……僕はいまでもそう感じている。

教員向けセミナーで講演なんかしていると、僕の話を聞いている参加者の表情を見ているだけで「ああ、この人は成長するな」「ああ、この人は成長しないな」とわかってしまうことがある。一度でも僕の話を聞いたことがある人はわかると思うけれど、僕の講演内容は、一見実践報告をしているように見えながら、実は一般に先生方が無意識にやっていることの悪しき構造を曝く……という題材が多い。社会学っぽいところがあり、構造主義的であるとも言える。まあ、僕の好きな学問分野を下敷きにしているわけだから当然そうなる。できるだけすぐに役立つようなネタを入れようとはしているけれど、最後の最後にはどうしても無意識構造を曝いて注意を促すというメッセージになる。参加者のなかには、僕が曝いた構造を自分に向けながら聞いている人と、職員室のだれかを思い浮かべて心のなかで批判している人とがいる。参加者の表情を見ているとそれが伝わってくる。もちろん、前者が成長する人で、後者が成長しない人であるのは言うまでもない。ただし、前者だからと言って必ず成長するという保証もできないけれど……。

教員向けセミナーのようなビジネススキルについて考える場に集う人たちでさえ、講師の伝えようとしているスキルが自分の外に厳然として存在するのであって、それを身につければ自分もうまくできるようになる……などという馬鹿げた幻想を抱いている人たちがたくさんいる。知ったことも、学んだことも、決して自己の在り方に向けることなく、その知によって、その学びによって内省しない人たちがたくさんいる。せいぜい、自分のこれまでの失敗を振り返って、「そうか、だから失敗したんだな」という程度の反省しかできない人たちがたくさんいる。すべての事象には何か〈原因〉があって、それが成功や失敗といった〈結果〉をもたらすのだという「因果関係信仰」を抱いている人たちがたくさんいる。でも、そうじゃない。自分が知の本質、学びの本質を知らないからいまそこで起こっていることの本質を理解できないのである。そう考えなくちゃ、先には進めない。

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つながりは視野を狭くする?

「世間」が壊れたと言われる。「世間様に顔向けできない」も死語になった。しかし、いまだに僕らは「世間」を生きている。

ためしに自分が、職員室で人目をはばからずに喧嘩ができるかを考えてみるといい。ためしに自分が同僚と不倫をして、それが皆の知るところとなった場面を想像してみるといい。ためしに自分が何かの事案で戒告処分を受け、新聞報道されると想定してみるといい。きっとあなたの精神はこのどれもに耐えられないはずだ。辞めてしまおうかとさえ思うに違いない。どれもこれもが、まさに「世間様に顔向けできない」からに相違ない。

阿部勤也は「世間」を「自分と利害関係のある人々と将来利害関係をもつであろう人々の全体像の総称」(「『世間』への旅」)と定義した。それは基本的に同質な人間からなり、一般的には外国人を含まず、排他的で差別的な性格をもっている。職員室の同僚の目が気になるのは自分と利害関係をもつ人々の最たるものであるからだ。同僚に嫌われると仕事がやりづらい。同情されるのはプライドが許さない。嫉妬されるとあることないこと言われかねない。そんな利害関係に基づいた「世間性」が「辞めてしまおうか」とまで思わせるのである。

一方で若い人たちを中心に「つながり」が大流行している。熟議やファシリテーション、民間研究団体のイベントに参加して、自己研鑽を重ねる若手教師がたくさんいる。ツイッターやフェイスブックを見ると、「今日も新たなつながりを得た」「新しい人とつながることができた」との投稿が目立つ。決して悪いことではないが、一方で、全面的に良いことだというのは僕にははばかられる。僕もファシリテーションや民間研究会のイベントに登壇する者の一人として、そうした場で出会う若者たちのなかに、自分の職場を蔑ろにする者が少なからずいるからである。

日本人はもともと「世間」を生きていて、「社会」を生きていなかった。論理的に正しい生き方を志向するのではなく、「世間」の義理と人情を優先して生きてきた。いま、「世間」が壊れ始め、「世間」に息苦しさを感じている若者たちが、「職員室の世間性」から逃げ出して、利害関係のない校外のイベントに活路を見出そうとし始めている。その場がストレートに「社会」とつながっているように思えているのだろう。結果、イベントで学んだことが論理的にも社会的にも正しいことであり、義理と人情で動き、原理・原則で動かず、ときに臨機応変という名の様子見がはびこる「世間」そのものである職員室に違和感を抱くようになる。職員室の人間関係に軋轢を起こす者さえ少なくない。

しかし、いくらそれらのイベントが楽しくても、実際に自分が仕事をしなければならないのは勤務校の職員室なのである。だいいち、そうしたイベントに登壇している者たち、事務局として運営している者たちも、職場に帰ればちゃんと「世間」を生きているのだ。ためしにそれらの研究団体に所属して、運営する側や登壇する側の立場になってみるといい。そこにもちゃんと「世間」があり、義理・人情・様子見で動く納得のできない構造がちゃんとある。まず間違いなく、「こんなはずじゃなかった……」に陥るはずだ。

若者たちは何らかの理念、何らかの実践に触れて、「ああ、これこそがほんものだ」と思いがちである。でも、世の中に「ほんもの」などない。個別具体的な事案において、個別具体的なよりベターな方策があるだけだ。様々な研究団体は自分たちの理念や実践を広めるために、それが万能であるような物言いをするけれど、人間相手の教育という営みにおいて万能な方法などあり得ないことはちょっと考えればわかることだろう。

「つながること」は〈手段〉であって〈目的〉ではない。こうこうこういう〈目的〉のために何かいい〈方法〉はないかと考えたとき、初めてこの「つながり」を得てみようか、この「つながり」とあの「つながり」を得て比較対照しながら学んでみようかと、「つながること」を活かせるようになるのである。決して、「つながること」それ自体に価値があるのではない。

様々なイベントに参加して非日常に浸かり、ある種のカタルシスを得たとしても、その理念や実践を持ち帰って実践すべき場はあくまで日常空間たる勤務校である。そこにはしっかりと「世間」が根付いていて、自分がいいと思った理念や実践との軋轢媒体がわんさかと積み上がっている。ついつい「うちの学校は……」と批判したくなる。自分自身が排他的になっていることに気づかなくなる。しかし、そんな愚痴を言ってみても何も変わらない。自分が職員室で浮いていくだけである。自分の視野が狭くなっているだけなのである。

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