ユーモアと空気
1.「空気」づくりには知性が必要である
「空気」という言葉がある。「空気を読め!」というアレだ。「空気」を読めないヤツを「KY」と呼ぶ慣習も定着した。「ユーモア力」はこの「空気」の在り方と深い関係をもつ。
では、「空気」とは何なのか。
ズバリ答えよう。それは「その場を支配している人間の意図」である。
島田紳助(古くて済みません)や明石家さんまが司会しているとき、ひな壇芸人と呼ばれる若手芸人たちは不適切な発言をした芸人に「空気を読め!」と叱責する。ここで言う「空気」とは紳助やさんまが場をこっちへ進めようとしている方向性のことである。彼らはその場を支配し、会話の方向性を定め、その方向性に則って若手芸人を指名し発言を促す。視聴者から見て意外性のある発言に見えたとしても、それらの内容は予め紳助やさんまの頭のなかに入っていて、若手芸人に発言を促すとき、暗黙のうちに彼らは「あれを言え」「これでからめ」と以心伝心を期待している。それを受けてうまく自分の発言をかぶせることができた人間が「空気」に乗った笑いを得ることができ、それをできなかった人間が「空気を読め!」と叱責される。この「空気をつくる力」「場を支配する力」をもっているが故に、彼らは名司会者と言われ、君臨し続けた。
この原理を教室で使いこなせる教師は、学級経営においてほとんど失敗することがない。それは子どもたち一人ひとりを観察し、その性向を熟知し、それらをからませる能力をもつことを意味するからだ。しかも、これを続けていると、子どもたちの側もだんだんと教師の意図を読むようになり、「空気」に乗ろうとし始める。最初は中心的な明るい子どもたちだけがこの「空気」に乗っているのだが、数ヶ月が経つと当初は「空気」に乗れずにいた大人しい子たち、まじめな子たちもその阿吽の呼吸を理解するようになり、学級は次第に明るくなっていく。この雰囲気ができ上がると、もう学級はよほどのことがない限り崩れない。
教室において、「ユーモア力」を舐めてはいけない。「ユーモア」とは知的な作業によって場を支配し、的確かつ適切に子どもたちをからませ、関係づけていく営みを意味するのである。「ユーモア力」には圧倒的な「知性」が必要なのだ。
2.「空気」は切り返しで変えられる
しかし、島田紳助も明石家さんまも、常に自分の支配空間だけを創っているわけではない。例えば、ゲストの一人にいわゆる「天然ボケ」の人間がいたとする。「空気」を読めるわけもなく、それどころかときに語彙力のなさや思い込みから大きな勘違いをして、司会者からも若手芸人たちからもツッコミを入れられまくる。
こうしたとき、紳助やさんまは決して自分の意図によって「空気」を支配しようとはしない。その「天然ボケ」のゲストが意図せずに「その場を支配してしまっている」からだ。その本人の意図せぬ「空気」に乗っかって、その「空気」を増幅させることに徹する。そのゲストに対するツッコミとフォローに徹するわけだ。「空気」の読める若手芸人もその「空気」に乗っかっていく。いや、紳助やさんまが若手もその「空気」に乗れるような流れをつくっていくのだ。名司会者にはこういうこともできる。
これも教室ではよく見られる光景である。特に授業中によく見られる。発言において間違った解答をしてしまった子に対して、間髪を入れずにバカにする発言や軽く叱責する発言をする子がいる。それを聞いた周りの子どもたちが大笑いをする。本人はツッコミのつもりでしている発言であり、決して悪気はない。
教師はその発言を「他人を傷つける発言だから」と上から圧しようとする場合が多い。しかし、圧してしまえばその場の「空気」は一気に壊れる。教室がシーンとなり、教師は威厳を保とうと圧し続け、何より教師が助けようとした間違った子さえもが「自分が授業の雰囲気を壊してしまった」と責任を感じてしまう。こんな教室のなんと多いことか……。
ここで心ないツッコミを入れた子に対し、教師が「ユーモア」で返すことができれば教室の「空気」は安定する。 例えば、「なるほど。Aくんは他人を責められるほどによく理解していると見える。では、Aくん用に先生がとっておきの問題を出してあげよう。」と言って、超難問を出すのだ。もちろん、超難問であるから、それなりに解説する時間が必要となる。教師がその解説を始めた頃には、子どもたちは既にツッコミを入れられた子のことなど忘れている。本人もその場の悪しき主役からすぐに解放され、傷つくことはない。Aくん自身も教師からの挑戦状に応えざるを得ず、教師の解説に集中せざるを得ない。
教師はこのような切り返しができなければならない。ただし、こういう切り返しもまた、前節に挙げたような明るい雰囲気が学級にできていることが前提だ。
3.「ユーモア」の危険性を認識する
まえがきで編者の中村健一氏が子どもたちの「教室内カースト」を問題にしている。子どもたちのカーストを壊したり流動的にするために「ユーモア力」が必要であると。しかし、子どもたちの「教室内カースト」に影響を与えるほどの「ユーモア力」をもつには、教師自身の「教室内カースト」が最上位である必要があるのだ。このことを忘れてはいけない。
「ユーモア」はだれもが気軽に発揮して良いものではない。力量のない教師が使い方を誤ると、子どもを傷つけたり、心ならずも学級をあらぬ方向に導いてしまったりといった危険性も伴う。その構えをもちたい。
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