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小集団交流

一 小集団交流の基本的授業過程

「おお!」「へえ…」「おや?」

教師は子どもたちのそんな声を欲している。発見、感嘆、納得、疑問……これらは子どもたちが関心・意欲を抱いたこと、主体的に学習に取り組んでいることの一つの証左である。少なくともその表れとして評価することができる。だから教師は子どもたちの感動詞を欲する。

活動型の授業、協同学習、ファシリテーション、どう呼んでも構わないが、いずれにしても小集団交流を主とした授業を構想するとき、これらの感動詞を子どもたちは口々に発することになる。それが教師に子どもたちの学びの成立を直感させる。昨今のワークショップを旨とした授業づくりの流行はその直感に支えられている。

かく言う私は〈教室ファシリテーション〉を提案し、基本的な授業過程を次のように構成すれば良いと考えている。

  ①課題の提示
  ②第一次自己決定(個人の意見)
  ③第一次合意形成(小集団の合意形成)
  ④第一次合意形成の活性化
    (主に小集団の組み替えによる)
 ⑤第二次自己決定(個人の意見)
  ⑥第二次合意形成
  (元の小集団の二度目の合意形成)
  ⑦全体発表
 ⑧第一次振り返り(個人の振り返り)
  ⑨振り返り
  (合意形成過程のメタ認知化)
  ⑩学習作文

二 全員の意見のリストアップ

多くの小集団交流の授業を見ていて「まずいなあ」と思うのは、交流前に個人に意見をもたせるという過程を経ないことである。この授業過程で言えば②⑤⑧に相当する。

企業研修としてのファシリテーションなどは、課題提示からいきなり交流場面に入ることが多く見られるが、それは日常的に仕事の在り方に問題意識をもっている人たちの交流だからである。

しかし、授業の場合、一般に子どもたちはその課題と初めて出逢い、その課題について考えたことがない。そうした子どもたちに企業研修と同じように「あれこれやりとりをしているうちに課題が見えてくるよ」という姿勢で教師が臨むのはナンセンスである。言うまでもないことだが、話すことにしても書くことにしても、表現活動において子どもたちが最初につまずくのは「表現することがない」ということである。私はごくごく簡単に見える課題を与えて、「3点以上箇条書きしなさい」と指示することが多い。

合意形成は須く、交流に参加するメンバーの考えていることのすべてをリストアップすることから始まる。リストアップさせずに交流をスタートさせてしまうと、「できる子」「活発な子」が意見を言った途端に、「できない子」「おとなしい子」はそれに賛同する態度をとることになる。消極的に、或いは投げやりに「それでいいや」と思うのではない。自分が考えたことがない課題なのだから、そこにだれかの見解が提示されれば「なるほど」と思ってしまうのである。これを避けるためには、子どもたち全員に意見をもたせることを怠ってはならない。全員が意見をもつまで小集団交流を始めてはいけないのである。

三 合意形成過程のメタ認知化

もう一つ気になる点は、多くの振り返りが感想の述べ合いになっていることである。小集団交流を通して「意外な発見があって楽しかった」とか「みんなで一つの意見にまとめるのが難しかった」など、感想の交流に終始しているのである。もちろん、「小集団交流の仕方」それ自体がその授業の指導目的である場合なら、こうした振り返りはあり得る。しかし、多くの場合、小集団交流は手段であって目的ではないはずだ。とすれば、指導目的である課題に対する小集団の思考過程それ自体を振り返るべきである。

例えば、二枚のポスターを比較して、そのポスターの改善点・修正点を考えるという小集団交流だとしよう。この場合ならば、振り返りの観点は「話し合ってみて気づいた、良いポスターの条件とは何でしょうか。一人、三点以上箇条書きしてみましょう」と言う。これを持ち寄って小集団で交流するわけだ。「グループで良いポスターの条件五箇条をつくってみましょう」と指示する。こうした話し合いを促せば、必然的に二枚のポスターの修正点をどのような観点で決めたのかという振り返りをすることになるのだ。

かつて、岩下修が「AさせたいならBと言え」と説いたが、この原理は決して、一斉授業のみに当て嵌まることではなく、活動型の授業においても指示の大原則として機能しているのである。ただ、活動型授業では、自分たちの活動の在り方を必然的にメタ認知させるような指示を用いて振り返りに取り組ませる、という原則が付け加わるだけである。

四 多様性の顕在化

土井隆義が現在の学級の子どもたちが島宇宙化し、放っておくと一年間同じクラスでありながら、必要以外はひと言も会話をしないような小グループに分かれてしまっていると指摘している。お互いに突出することを避けるとともに、空気を読み合いながら軋轢を起こさないようにと腐心しているとも言う。この指摘は宮台真司を初めとして九○年代から指摘されてきたものであり、私たち教師の実感から見ても現実をよく分析していると捉える方が多いと思う。

しかし、多くの子どもたちにとって、授業での意見の対立ならばその意識はさほど強くない。日常的な意見の対立と違って、授業は公的な意見の対立であるという受け止め方をしているらしい。とすれば、子どもたちがそういう意識で臨んでいる授業でこそ、まずは子どもたちの意見の多様性を顕在化して、それらのすべてを肯定的に捉えさせ、合意形成を図らせることが必要である、と私は考えている。私が授業において、常に個人の意見をもたせる(第一次・第二次自己決定)のも、小集団の合意形成過程を個々人にメタ認知させるのも、基本的に子どもたちの〈多様性〉を授業の中で顕在化させようとしているのである。

もちろん、授業で行うと同時に、時期を見て学級活動や学校行事といった特別活動においても、同様の手法を採り入れていくことになる。

五 〈対話〉の作法

こうした試みを繰り返すことでのみ、子どもたちは自分たちのものの見方、感じ方、考え方が多様であることを認識し、その多様な見解について、合意形成を図ったり止揚したり棲み分けたりすることができるようになる。要するに「〈対話〉の作法」を学ぶことができるのだ。

冒頭に挙げた①~⑩の小集団交流の基本的な授業過程は、この授業フォーマットさえ大きく崩さなければ、題材(=ネタ)は何であってもだいたい機能する。先にポスターの修正点を交流する例を挙げたが、これを少々難解な入試問題(国語なら論述問題、数学なら場合分けを伴う統計問題など)にして、複数の解き方をリストアップし、どの解き方が最も美しく簡潔であるかを交流させる、というようなこともできる。振り返りのメタ認知では、その美しく簡潔な解き方を全員が説明できるようにするという課題を与えて、最終的には学習作文でその説明を全員に作文させれば良い。

また、学習作文自体を小集団の協同作文にする手もある。小集団で一所懸命に考えて解き方を説明する。やっとできたと思って、自信満々で全体の場で発表する。すると、他のグループがまったく異なる手法を美しい解き方、簡潔なとき方であると判断し、まったく異なる説明文を書いていることに驚嘆する。これも〈多様性〉の顕在化である。

こうした授業過程において、子どもたちの中に必ず「おお!」「へえ…」「おや?」が起き、子どもたちは知らす知らずに、少しずつ少しずつ、しかし確実に「〈対話〉の作法」を学んでいくことになる。それも、子どもたちが関心・意欲を抱いていること、主体的に学習に取り組んでいることを、教師が直感できる形でである。

六 子どもの多様性を凌駕する多様性

これまで、私が〈教室ファシリテーション〉に取り組むうえでの基本的な授業過程とその意味について述べてきた。読者の皆さんには、私の意図がある程度伝わったものと思う。しかし、ここで一つ考えていただいきたいことがある。これらの機能を一斉授業で実現させるとしたら、どれほどの困難を来すかということを。一斉授業は明確な指導事項を設け、学力を保証することを目指しているのであって、ファシリテーションとはその機能が異なる、棲み分ければ良いではないかという反論があるかもしれない。しかし、多くの学校の校内研究として、一斉授業のなかで「おお!」「へえ…」「おや?」を巻き起こすべく、膨大な時間と労力が費やされているのである。決して「棲み分ければ良い」というような現状にはない。

本稿ではおそらく、企画者から一斉授業を機能させるためのコツのようなものが求められているのだろうと思う。しかし、そのコツははっきり言って、ない。 ただ一つ、私が確信をもって言えるのは、一斉授業で「おお!」「へえ…」「おや?」を引き起こすには、教師の側に圧倒的な知識と圧倒的な力量が必要なのだということである。はっきり言えば、校内研究や官製研究団体の少人数のアイディアの出し合い程度でできることではない。一斉授業の中で子どもたちの〈多様性〉を顕在化させ、その一つ一つを受けてひと言返すには、教師の側に子どもたちの多様性を凌駕する多様性がなくてはならない。

小西正雄がテレビが子どもたちに提供する情報量の多さ、情報の圧倒的な視覚化を指摘し、もはや教室で教師が某かの知識を入力する授業観ではメディアに太刀打ちできないとして、「出力型授業観」を提唱したのは一九九七年である。それから十五年以上が経ち、時代はテレビをも凌駕するインターネット時代である。テレビさえワンセグで持ち歩き可能な時代である。更に言えば、様々なSNSで子どもたち自身が日常的に情報のやりとりをする時代である。この時代に、教師が子どもたちの思考も活動もコントロールすることを旨とする一斉授業が、指導言のコツごときで機能するはずがない。

七 深い教材研究

私は中学校の国語教師であるが、私は二十年余りの教職経験の中で、古文・漢文はもちろん、物語・小説や説明文に至るまで教科書のほとんどを暗唱して授業に臨んできた。どこに何が書いてあるか、副詞から助動詞、助詞に至るまで頭に入っている状態で授業を積み重ねてきた。だからこそ、子どもたちの反応に瞬時に応えることができたのである。

実は、札幌市は平成24年度から教科書が教育出版から光村図書に変わった。この教科書が変わったということによって、私の一斉授業は途端に彷徨うこととなった。もちろん教材研究はそれなりにして授業に臨んだ。従って、主題や要旨や構成や指示語や接続語といった指導事項で戸惑うことはない。しかし、教材のディテールまでは頭に入っていないがために、子どもたちの反応にこれまでのように瞬時に返すことはまるでできなくなってしまっている。要するに私の一斉授業は、深い教材研究に支えられていたのである。もちろん、私はこれからもそれを目指し続けはするが、それだけでは授業は機能させられない。

〈教室ファシリテーション〉の提案はもちろん、一斉授業に小集団交流を必ず入れよという提案にも、その裏には私のこのような認識がある。

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