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2013年8月

コミュニケーション能力って何?

9784761919931_2新刊『コミュニケーション能力って何?-学級の空気を更新する生徒指導』(学事出版)が刷り上がってきました。

まえがき

こんにちは。堀裕嗣(ほり・ひろつぐ)と申します。学事出版からは「学級経営」「生徒指導」「教室ファシリテーヘション」「一斉授業」と、いわゆる「10原理・100原則シリーズ」(以下「10・100シリーズ」)と呼ばれる四冊のスキル本を上梓しています。そうしたスキル本、ハウトゥ本を期待してこの本をお買い上げいただいた方にとっては、本書は期待はずれの本になってしまっているかもしれません。本書にはスキルもハウトゥも原理も原則も一切載っていないからです。

本書はタイトルにもなっている「コミュニケーション能力って何?」をはじめとする六つの章から成ります。正直なところ、一貫性のない、わがままな本を書いてしまった感が否めません。しかし、僕がこれまで上梓してきた「10・100シリーズ」を支えている基本的な構え、教師としての立ち位置のようなものはある程度書けているのではないかと感じています。特に、現在(いま)この瞬間に対する時代認識を踏まえ、教師は学校教育の在り方をどう考えるべきか、僕なりの考え方を示しています。

これまで「10・100シリーズ」に親しんでいただいた読者の皆様には、幾分難しく感じられる部分もあるかもしれません。少々難解な用語も散見されることでしょう。しかし、よく読んでいただければ、難解な用語はすべて定義していますし、複数の具体例を挙げてわかりやすく理解いただけるように配慮したつもりでもあります。どうぞ、文字ばかりだから、各章のタイトルや小見出しの意味がわからないからと避けないで、ちょっと味見をしてみるつもりでお読みいただければと思います。ほら、食べ物だってちょっと苦みがあったほうが長く楽しめるということがあるではありませんか。子どもの頃に食べられなかったピーマンや玉葱が大人になって大好きになってしまうように、大人になって山菜の味を覚えて「世の中にこれほど美味いものがあったのか」と感じるように、若手教師の頃にはちょっと苦みのあるくらいの本のほうが将来的には長く役立っていくというようなこともあるかもしれません(笑)。まあ、大人になってもピーマンや玉葱が食べられない人とか、山菜はみながいうほどおいしくはないと感じる人たちも少なくありませんから、本書がお口に合わないという人も決して少なくはないのでしょうが。

さて、本書は第1章「コミュニケーション能力って何?」で提示した議論を踏まえ、第2章以降で教育活動の在り方をどのように考え、どのように実践していけば良いのか、教師としての職能や職員室の人間関係をどう考えていけば良いのか、そんな教師として生きるうえでの根幹のところを切々と語っていく構成を採っています。第四章以降はかつて商業雑誌や同人雑誌に発表したものに加筆修正を加えたもので構成されています。ただし、掲載する文章はすべて、教師にとって〈論理的に考えること〉と〈情緒的に感じてしまうこと〉とのバランスをどう採れば良いのかに言及しているものを意図的に選択しています。僕にとって「コミュニケーション能力」とは〈論理〉と〈情緒〉とのバランスを取りながら他者と関わり続けることを指しますから。この観点を頭の片隅において本書を読み通していただきますと、割と理解しやすいかもしれません。

また、本書には参考文献がたくさん登場しますが、注を施すということは敢えてせずに本文中に書名と著者・出版社・発行年を書き添えるだけにして、できるだけ難しい印象を与えないようにしています。更に言えば、参考文献の多くを文庫や新書にして、読者の皆さんがすぐに入手しやすく、且つ抵抗なく読むこともできる、それでいて本格的な議論は展開されている、僕としてはそうしたものを掲載しているつもりです。

この本は「10・100シリーズ」に比べると圧倒的に売り上げが低くなるでしょうけれど、教師がよりよい仕事をしていくには「10・100シリーズ」よりも圧倒的に大切なことが書いてあります。少なくとも僕自身はそう考えています。本書が右も左もわからない新卒教師に、若さで乗り切ることに限界を感じ始めた中堅教師に、最近の子どもがわからなくなつたと嘆くベテラン教師に、総じて学級経営や生徒指導に悩んだり不安を感じたりしているすべての教師に、少しでもお役に立てるなら、それは望外の幸甚です。

あとがき

ここ三年ほどで学級経営や学年経営について10冊以上の書籍を上梓させていただきました。実はそのすべてが、前任校札幌市立上篠路中学校での四年間にわたる学級経営・学年経営をもとにして書かれたものです。現任校である北白石中学校に着任して以来、私は四年間にわたって担任をはずれていたものですから、学級経営や学年経営について責任ある立場でものを考えるということがなかったのです。その意味で、この三年間に書いてきた私の学級経営論・学年経営論はあくまで上篠路中学校での実践記録をもとに、それを分析したり発展させたりしながら書いてきたというのが正直なところです。つまり、私がこの三年間に書いた本のすべてが二○○五年から二○○八年までの実践をもとにしていたということです。

しかし、私は今年度、五年ぶりに担任をもち、五年ぶりに学年主任として生徒や同僚と関わっています。その生活が始まってまだ二ヶ月半程度なのですが、私の思考はこの四年間に考えたことを凌駕するくらいに活性化しています。毎日が発見の連続です。今年度一年間を終える頃には、上篠路時代の実践とは発想の異なる学級経営論や学年経営論が生まれているに違いない……そんな確信があります。ああ、自分はいま、新しい段階に入ったのだな……、そんな実感ももっています。いよいよ、上篠路実践との、良い意味での決別のときが来たのだな……そんな感慨さえ抱いています。本書を締めくくる文章として書いた「髙橋美智子先生のこと」は、私にとって上篠路実践の象徴である美智子先生への感謝状であり、愛惜の文章であり、ラブレターであり、そして北白石中学校で新たな理論・実践をつくっていくのだという決意表明でもあります。本書を美智子先生をはじめとする上篠路のかつての同僚たちに贈ります。髙橋美智子先生、高村克徳先生、齋藤大先生、佐藤恵輔先生、仙臺直子先生に改めて深く深く感謝申し上げます。ありがとうございました。

本書は加藤愛さんという新しい編集者との最初の仕事になります。この加藤さんがまたものすごいバイタリティのある方で、バイタリティには自信をもっている私でさえ戸惑ってしまうほどなのです。おもしろい編集者と出逢ったものだと人生の妙を感じます。また、今回もイクタケマコトさんには味わいあるイラストを添えていただきました。お二人にも深く感謝申し上げます。更に今回は、お二人の方に校正前の原稿を読んでいただいたうえに建設的なご意見をいただき、加筆修正した経緯があります。事情があって実名は挙げませんが、シンシナとファンディに感謝、感謝です。

沢田研二/時の過ぎゆくままに を聴きながら……
二○一三年六月一六日 自宅書斎にて 堀 裕 嗣

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小集団交流

一 小集団交流の基本的授業過程

「おお!」「へえ…」「おや?」

教師は子どもたちのそんな声を欲している。発見、感嘆、納得、疑問……これらは子どもたちが関心・意欲を抱いたこと、主体的に学習に取り組んでいることの一つの証左である。少なくともその表れとして評価することができる。だから教師は子どもたちの感動詞を欲する。

活動型の授業、協同学習、ファシリテーション、どう呼んでも構わないが、いずれにしても小集団交流を主とした授業を構想するとき、これらの感動詞を子どもたちは口々に発することになる。それが教師に子どもたちの学びの成立を直感させる。昨今のワークショップを旨とした授業づくりの流行はその直感に支えられている。

かく言う私は〈教室ファシリテーション〉を提案し、基本的な授業過程を次のように構成すれば良いと考えている。

  ①課題の提示
  ②第一次自己決定(個人の意見)
  ③第一次合意形成(小集団の合意形成)
  ④第一次合意形成の活性化
    (主に小集団の組み替えによる)
 ⑤第二次自己決定(個人の意見)
  ⑥第二次合意形成
  (元の小集団の二度目の合意形成)
  ⑦全体発表
 ⑧第一次振り返り(個人の振り返り)
  ⑨振り返り
  (合意形成過程のメタ認知化)
  ⑩学習作文

二 全員の意見のリストアップ

多くの小集団交流の授業を見ていて「まずいなあ」と思うのは、交流前に個人に意見をもたせるという過程を経ないことである。この授業過程で言えば②⑤⑧に相当する。

企業研修としてのファシリテーションなどは、課題提示からいきなり交流場面に入ることが多く見られるが、それは日常的に仕事の在り方に問題意識をもっている人たちの交流だからである。

しかし、授業の場合、一般に子どもたちはその課題と初めて出逢い、その課題について考えたことがない。そうした子どもたちに企業研修と同じように「あれこれやりとりをしているうちに課題が見えてくるよ」という姿勢で教師が臨むのはナンセンスである。言うまでもないことだが、話すことにしても書くことにしても、表現活動において子どもたちが最初につまずくのは「表現することがない」ということである。私はごくごく簡単に見える課題を与えて、「3点以上箇条書きしなさい」と指示することが多い。

合意形成は須く、交流に参加するメンバーの考えていることのすべてをリストアップすることから始まる。リストアップさせずに交流をスタートさせてしまうと、「できる子」「活発な子」が意見を言った途端に、「できない子」「おとなしい子」はそれに賛同する態度をとることになる。消極的に、或いは投げやりに「それでいいや」と思うのではない。自分が考えたことがない課題なのだから、そこにだれかの見解が提示されれば「なるほど」と思ってしまうのである。これを避けるためには、子どもたち全員に意見をもたせることを怠ってはならない。全員が意見をもつまで小集団交流を始めてはいけないのである。

三 合意形成過程のメタ認知化

もう一つ気になる点は、多くの振り返りが感想の述べ合いになっていることである。小集団交流を通して「意外な発見があって楽しかった」とか「みんなで一つの意見にまとめるのが難しかった」など、感想の交流に終始しているのである。もちろん、「小集団交流の仕方」それ自体がその授業の指導目的である場合なら、こうした振り返りはあり得る。しかし、多くの場合、小集団交流は手段であって目的ではないはずだ。とすれば、指導目的である課題に対する小集団の思考過程それ自体を振り返るべきである。

例えば、二枚のポスターを比較して、そのポスターの改善点・修正点を考えるという小集団交流だとしよう。この場合ならば、振り返りの観点は「話し合ってみて気づいた、良いポスターの条件とは何でしょうか。一人、三点以上箇条書きしてみましょう」と言う。これを持ち寄って小集団で交流するわけだ。「グループで良いポスターの条件五箇条をつくってみましょう」と指示する。こうした話し合いを促せば、必然的に二枚のポスターの修正点をどのような観点で決めたのかという振り返りをすることになるのだ。

かつて、岩下修が「AさせたいならBと言え」と説いたが、この原理は決して、一斉授業のみに当て嵌まることではなく、活動型の授業においても指示の大原則として機能しているのである。ただ、活動型授業では、自分たちの活動の在り方を必然的にメタ認知させるような指示を用いて振り返りに取り組ませる、という原則が付け加わるだけである。

四 多様性の顕在化

土井隆義が現在の学級の子どもたちが島宇宙化し、放っておくと一年間同じクラスでありながら、必要以外はひと言も会話をしないような小グループに分かれてしまっていると指摘している。お互いに突出することを避けるとともに、空気を読み合いながら軋轢を起こさないようにと腐心しているとも言う。この指摘は宮台真司を初めとして九○年代から指摘されてきたものであり、私たち教師の実感から見ても現実をよく分析していると捉える方が多いと思う。

しかし、多くの子どもたちにとって、授業での意見の対立ならばその意識はさほど強くない。日常的な意見の対立と違って、授業は公的な意見の対立であるという受け止め方をしているらしい。とすれば、子どもたちがそういう意識で臨んでいる授業でこそ、まずは子どもたちの意見の多様性を顕在化して、それらのすべてを肯定的に捉えさせ、合意形成を図らせることが必要である、と私は考えている。私が授業において、常に個人の意見をもたせる(第一次・第二次自己決定)のも、小集団の合意形成過程を個々人にメタ認知させるのも、基本的に子どもたちの〈多様性〉を授業の中で顕在化させようとしているのである。

もちろん、授業で行うと同時に、時期を見て学級活動や学校行事といった特別活動においても、同様の手法を採り入れていくことになる。

五 〈対話〉の作法

こうした試みを繰り返すことでのみ、子どもたちは自分たちのものの見方、感じ方、考え方が多様であることを認識し、その多様な見解について、合意形成を図ったり止揚したり棲み分けたりすることができるようになる。要するに「〈対話〉の作法」を学ぶことができるのだ。

冒頭に挙げた①~⑩の小集団交流の基本的な授業過程は、この授業フォーマットさえ大きく崩さなければ、題材(=ネタ)は何であってもだいたい機能する。先にポスターの修正点を交流する例を挙げたが、これを少々難解な入試問題(国語なら論述問題、数学なら場合分けを伴う統計問題など)にして、複数の解き方をリストアップし、どの解き方が最も美しく簡潔であるかを交流させる、というようなこともできる。振り返りのメタ認知では、その美しく簡潔な解き方を全員が説明できるようにするという課題を与えて、最終的には学習作文でその説明を全員に作文させれば良い。

また、学習作文自体を小集団の協同作文にする手もある。小集団で一所懸命に考えて解き方を説明する。やっとできたと思って、自信満々で全体の場で発表する。すると、他のグループがまったく異なる手法を美しい解き方、簡潔なとき方であると判断し、まったく異なる説明文を書いていることに驚嘆する。これも〈多様性〉の顕在化である。

こうした授業過程において、子どもたちの中に必ず「おお!」「へえ…」「おや?」が起き、子どもたちは知らす知らずに、少しずつ少しずつ、しかし確実に「〈対話〉の作法」を学んでいくことになる。それも、子どもたちが関心・意欲を抱いていること、主体的に学習に取り組んでいることを、教師が直感できる形でである。

六 子どもの多様性を凌駕する多様性

これまで、私が〈教室ファシリテーション〉に取り組むうえでの基本的な授業過程とその意味について述べてきた。読者の皆さんには、私の意図がある程度伝わったものと思う。しかし、ここで一つ考えていただいきたいことがある。これらの機能を一斉授業で実現させるとしたら、どれほどの困難を来すかということを。一斉授業は明確な指導事項を設け、学力を保証することを目指しているのであって、ファシリテーションとはその機能が異なる、棲み分ければ良いではないかという反論があるかもしれない。しかし、多くの学校の校内研究として、一斉授業のなかで「おお!」「へえ…」「おや?」を巻き起こすべく、膨大な時間と労力が費やされているのである。決して「棲み分ければ良い」というような現状にはない。

本稿ではおそらく、企画者から一斉授業を機能させるためのコツのようなものが求められているのだろうと思う。しかし、そのコツははっきり言って、ない。 ただ一つ、私が確信をもって言えるのは、一斉授業で「おお!」「へえ…」「おや?」を引き起こすには、教師の側に圧倒的な知識と圧倒的な力量が必要なのだということである。はっきり言えば、校内研究や官製研究団体の少人数のアイディアの出し合い程度でできることではない。一斉授業の中で子どもたちの〈多様性〉を顕在化させ、その一つ一つを受けてひと言返すには、教師の側に子どもたちの多様性を凌駕する多様性がなくてはならない。

小西正雄がテレビが子どもたちに提供する情報量の多さ、情報の圧倒的な視覚化を指摘し、もはや教室で教師が某かの知識を入力する授業観ではメディアに太刀打ちできないとして、「出力型授業観」を提唱したのは一九九七年である。それから十五年以上が経ち、時代はテレビをも凌駕するインターネット時代である。テレビさえワンセグで持ち歩き可能な時代である。更に言えば、様々なSNSで子どもたち自身が日常的に情報のやりとりをする時代である。この時代に、教師が子どもたちの思考も活動もコントロールすることを旨とする一斉授業が、指導言のコツごときで機能するはずがない。

七 深い教材研究

私は中学校の国語教師であるが、私は二十年余りの教職経験の中で、古文・漢文はもちろん、物語・小説や説明文に至るまで教科書のほとんどを暗唱して授業に臨んできた。どこに何が書いてあるか、副詞から助動詞、助詞に至るまで頭に入っている状態で授業を積み重ねてきた。だからこそ、子どもたちの反応に瞬時に応えることができたのである。

実は、札幌市は平成24年度から教科書が教育出版から光村図書に変わった。この教科書が変わったということによって、私の一斉授業は途端に彷徨うこととなった。もちろん教材研究はそれなりにして授業に臨んだ。従って、主題や要旨や構成や指示語や接続語といった指導事項で戸惑うことはない。しかし、教材のディテールまでは頭に入っていないがために、子どもたちの反応にこれまでのように瞬時に返すことはまるでできなくなってしまっている。要するに私の一斉授業は、深い教材研究に支えられていたのである。もちろん、私はこれからもそれを目指し続けはするが、それだけでは授業は機能させられない。

〈教室ファシリテーション〉の提案はもちろん、一斉授業に小集団交流を必ず入れよという提案にも、その裏には私のこのような認識がある。

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愛読書を交流する/交流の結果をプレゼンする

一 単元を貫く言語活動とその特徴

朝読書の全国的な普及以来、生徒たちに読書習慣が身につき、生徒たちの読書量も九○年代と比べて格段に増えている。しかし、読書量は増えているものの、その読書傾向には偏りが見られる。流行の猟奇的な小説ばかりを読む者、ケータイ小説を中心とした恋愛物ばかりを読むもの、ライトノベル以外には見向きもしない者、アスリートの成功譚ばかりを読む者、三国志をはじめとする中国の歴史物ばかりを読む者、朝読書の風景は、こうした生徒たちであふれている。この実態を打開する第一歩として本単元を設定した。

単元構成は、生徒個々人の愛読書を読み合うことから、各々の考える読書の魅力を交流するとともに、その中から何のために読書をするのか、読書の目的とは何なのかについて、少し抽象的に考えてみるという読書をテーマとした特設単元である。カタルシスを得ることだけを目的とした生徒たちの読書の実態に鑑み、読書の在り方について視野を広げることを目的としている。

本単元には、「自分の愛読書を紹介するグループ・プレゼンテーション」を単元を貫いて位置づけている。読書に対する視野を広げる、自分が気づかなかった愛読書の魅力について知るといった交流を通して、ものの見方・考え方を広げ深めることへの寄与を目指している。

二 ワールド・カフェの導入

ホールシステム・アプローチという考え方がある。「ホールシステムアプローチ」とは、「不特定多数の関係者が一堂に集まってさまざまな課題や、共通の未来について話し合う会話手法の総称」(『ホールシステム・アプローチ』香取一昭・大川恒・日本経済新聞社・二○一一年九月)である。その有効な手法の一つとして「ワールドカフェ」がある。一九九○年代にアメリカで開発された全員参加型の会議形態である。ファシリテーションの会議形態の一つとして、創造的な企画を生み出すのに有効な手法として知られている。(詳細は拙著『教室ファシリテーション10のアイテム・100のステップ』学事出版・二○一二年二月を参照)

具体的には次のように行われる。

Round-1
性別・世代などできるだけ多様な四人グループをつくり、テーマについて交流する

Round-2
グループを解体して別の四人グループをつくり、同様に交流する

Round-3
元のRound-1のグループに戻り、これまでの交流を踏まえてグループでアイディアをつくる。

Harvest
各グループのアイディアを全体で交流する

本単元では、この「ワールド・カフェ」の手法を採り入れ、愛読書の交流を行い、そのうえで小集団でプレゼンテーションしていくという流れである。

三 愛読書の交流、そしてプレゼン

単元は次のように構成した。

(1)愛読書の選定

次時より愛読書を紹介する授業を行うことを予告し、愛読書を一冊持参することを指示する。ジャンルは問わない旨を告げ、「こんなものを授業で紹介しても良いのだろうか」と感じるもので構わないので、本当に好きな本を持ってくることを強調した。

(2)お勧めポイントの選定

まず、持参した愛読書がなぜ好きなのか、その理由についてノートに五点以上箇条書きすることを指示する。簡単なこと、たわいもないことで良いことを強調し、できるだけ多くの理由が挙げるように示唆した。

次に、最も気に入っている箇所連続二頁分を選ぶこと、その頁をだれもがすぐに開けるように付箋をつけることを指示した。

更に、その頁から顕著に読み取れるその本の魅力を三点以上、大きめの付箋(76×127ミリ/黄色)に書くことを指示した。その際、付箋一枚につき、一つの魅力を書くものとし、できるだけ大きな字で見やすく書くように促した。

(3)グループ分け

その後、ワールドカフェに向けてグループ分けを行った。この際、男女二人ずつ、ジャンルができるだけ別々になるように配慮した。具体的には、まず、男子の小説、ライトノベル、歴史物、スポーツ、科学読み物、その他、女子の小説、ライトノベル、ケータイ小説、エッセイ、その他という順番に学級全員で輪を作らせる。その後、端から番号を1~9まで淳に番号を言わせる。9番まで行ったら1番に戻る。この繰り返しである。最終的に、37人学級だったので1番が5人、2~9番までは4人のグループとなった。このグループ編成で向かい合って座ることを指示したわけである。

(4)愛読書の読み合い

各グループで愛読書のお気に入りの二頁を読み合う。その頁を読んでの感想をノートに簡単にメモしておく。以上が第一時である。次時に「ワールド・カフェ」に取り組むことを予告して、この時間を終えた。

(5)ラウンド1(15分)

問い 本の魅力って何なのでしょうか。できるだけ多くリストアップしてみましょう。

まず、各自が愛読書の魅力を語る。その際、前時に書いた付箋を提示しながら語ることを指示する。その後、交流を重ね、読書の魅力についてリストアップしていく。この段階ではまとめることはせず、どんどん膨らませていく。交流する中で新たに思いついたことも付箋に書いて増やしていく。

(6)ラウンド2(15分)
問い 結局、本の魅力って何なのでしょう。幾つかにまとめてみましょう。

次にグループ替えをしてのラウンド2である。次のように言う。
「これから〈ラウンド2〉を始めます。テーマは〈ラウンド1〉での交流を踏まえて、『結局、本の魅力って何なのでしょう。幾つかにまとめてみましょう』です。まずは、〈テーブル・ホスト〉がこのテーブルでは〈ラウンド1〉でどんな話し合いが行われたのか、模造紙に書かれたものを使いながら説明してあげください。次に、他の三人が『私のグループではこんな話し合いだったよ』とか『うちのグループではこんなことも出ましたよ』とか、できるだけ観点を広げられるような報告をしてください。この二つが終わったら、いよいよいま提示した問い『結局、本の魅力って何なのでしょう。幾つかにまとめてみましょう』というテーマについて、四人で話し合いを始めます。模造紙は自分のグループのものだと思って、遠慮せずにどんどん書き足して構いません。何か質問はありますか? では、スタート!」

生徒たちは、四つのグループから集まった四人の小集団で、多くの情報から本の魅力を整理していくことになる。

(7)ラウンド3(15分)

問い 「これが読書の魅力だ!ベスト3」をつくってみましょう。

ラウンド3ではもとのグループ(ラウンド1)のグループに戻って、読書の魅力を精査することになる。生徒たちは優先順位を考えたり、二つの魅力を融合したりしながら、ベスト3をまとめていく。例えば、あるグループは「泣いたり笑ったり怒ったり心が豊かになる」「知らなかった知識をたくさん教えてくれる」「本について語り合うことで友人関係が豊かになる」とまとめていた。この時間はハーベストを行わず、第二時を終えた。

(8)グループ・プレゼンテーションの準備

第三時は前時にグループでまとめた「読書の魅力ベスト3」をもとに、自分たちのグループ四人の愛読書をグループ・プレゼンテーションすることを予告し、その準備をさせる。具体的には、各々の本について、ベスト3の各項目に関して具体的な魅力を挙げ、それを八~十分程度のプレゼンテーションとして構成するわけである。最初にベスト3の項目を挙げ、それに基づいて一人一人が愛読書を紹介していくというグループ・プレゼンテーションである。その際、「読書の魅力ベスト3」に関してだけは画用紙三枚にまとめ、順次発表しながら提示することを指示した。また、実物投影機で頁をテレビに映したり、印象的な叙述を朗読したりなどの工夫を施すことを指示した。

(9)愛読書発表会(二時間)

九つのグループが全体に対して、順にグループで愛読書をプレゼテーションしていく。ちょうど二時間かかった。その後、全員の愛読書を一ヶ月間だけ学級文庫に置くことを指示した。生徒たちはこの間、朝読書で互いの愛読書を読み合い、休み時間に感想を述べ合っていた。

第一に「ワールドカフェ」による交流、第二に「グループ・プレゼンテーション」による交流、第三に仮の学級文庫に置いての一ヶ月間の交流、この三つの交流活動によって、生徒たちの読書に対する視野を広げる、自分が気づかなかった愛読書の魅力について知るという二つの目的は達成されたと考えている。三年次にもう一度取り組みたい活動である。

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思考力・判断力・表現力を育てる言語活動の充実

一 日常授業における言語活動の充実

「言語活動の充実」は研究スローガンではない。毎日行われている日常の授業において思考力・判断力・表現力を育成するために、日々の授業を具体的に変えていくことを目指す概念である。従って、「授業像」を想定するにしても「言語活動」を開発するにしても、研究授業や研究単元として構想するのではなく、あくまで日常授業の在り方を具体的に見直すことこそが最重要課題である。まずはすべての教師が、中でも国語教師がこのことを肝に銘じたい。

そのうえで、私が提案したいのは、例えば、教師が次のような覚悟を決めて日々の授業計画を立てることである。最初に言っておくが、これはあくまでも例である。

(1) すべての国語の授業に小集団交流を設定する。
(2)  授業の最後の五分間で二○○字短作文を書かせる。

こうした覚悟を決めることで日々の授業は大きく変わる。これまでと五○分の使い方が変わってくる。短作文の時間を確保しなければならなくなり、小集団交流の時間を確保しなければならなくなる。こうした時間を確保するために、その他の解説の時間、読み取りの時間を効率的に展開しなければならなくなる。またこうした覚悟を決めるは、交流させたり短作文を書かせたりするための〈課題〉が毎時間必要になるということをも意味する。この縛りを自らに課すだけで、授業の在り方、授業への臨み方を劇的に変えざるを得ないわけだ。

(1)すべての国語の授業に小集団交流を

私個人としては、この原理を意識して取り組み始めたのが二○○三年度、教職十二年目からである。

当初は6人班を使うことが多かったが、現在は4人が中心である。長年取り組んでいるうちに、傍観者をつくらず、最も交流に適しているのは4人だと考えるようになった。特に、議論や意見を深めるタイプの小集団交流では4人がベストである。逆に、ブレイン・ストーミング的にアイディアを広げるタイプの交流ならば、題材によって6~8人が適している。こうしたことは、実際に毎時間やってみる中でしか気づかない、そういう原理である。毎日の授業の中での小さな気づきをつなぎ合わせることによってこそ、言語活動は充実していくのである。

また、毎時間の中で八分とか十二分とか短い時間を設定して小集団で交流させるわけだが、その後、必ず最後に二~三分間のシェアリングの時間を設けることにもしている。要するに、この交流はA・B・Cで評価するとどうか、マイナスポイントは何であったか、よりよい交流・議論にするには何が足りなかったか、今後どうすればよりよい議論・交流になるのか等について、十分程度の小集団交流を振り返るのである。こうしたメタ認知の営みが毎時間行われることによって、一時間一時間の進歩は小さいとはいえ、数ヶ月単位、一年単位で考えると大きな進歩が見られるようになる。この効果は絶大である。

(2)すべての国語の授業に短作文を

新卒以来、既に二十年以上にわたって、私の授業は二○○字短作文で終わる。作文のテーマは原則としてその一時間の追究課題に対する自分の意見である。一八一字以上二○○字以内という字数指定を施し、十行の原稿用紙の最終行まで書かなければならないルールになっている。これらは一時間の一時間のノートに貼付され、一時間一時間に考えたことの記録として残される。一つの教材、一つの単元が終了し、まとめの感想文や主張文等を書かせるときの資料ともなる。要するに、一時間一時間の短作文が元ポートフォリオに、単元終了の作文が凝縮ポートフォリオになる、というシステムである。

また、一ヶ月に一~二回程度、小集団交流をもっとよくするためのアイディアであったり、「良い文章の条件」「言葉と人間」といったことばに対する自らの意見であったりを書かせることもある。年に二回(多くの場合十一月と三月)、それまでに書いた同一テーマの短作文すべてを読み直し、「音声言語交流」「文章表現」「言葉観」について四○○~一二○○字程度でレポートを課す。一学年が四○○字、二学年が八○○字、三学年が一二○○字を目処としている。

(3)すべての国語の授業に構造的なノートを

こうした授業を行いながら、新卒4年目から構造的なノートをということで、授業一時間をノート見開き二頁で構成させることにしている。見開きの上の頁が「言語活動ノート」、下の頁は右側が「言語技術ノート」、左側が「自己表現ノート」である。

a.言語活動ノート

生徒たちが授業における教師の発問・指示・説明に基づいて言語活動を行うスペース。私は板書をほとんどしないので、生徒たちが独自に構成することが多くなっている。自分の意見を書いたり、交流によって得られた参考意見を記録したり、ちょっとしたつぶやきをメモしたり。自分の意見を書く場合は黒で、他者の意見で参考になったものをメモする場合には赤でというのが共通のルールになっている。また、「赤メモが増えれば増えるほど自分にとって授業が有益であったということを示すので、赤で書きたくなるようなことをキャッチするためにアンテナを高くしよう!」と常々指導している。

b.言語技術ノート

四月当初は教師が教える言語技術を書くスペースになる。私は板書せずに聴写させることにしている。例えば、「二重丸、赤に持ち替えて、上位語、鉛筆に持ち替えて、三点リーダー、下位語を含む、広い言葉、句点」というように語っていく。速記性を鍛えるとともに、言語記号の基本的な用語(句読点、疑問符、感嘆符など)を定着させるためでもある。数ヶ月経って、これが蓄積されていくと、「言語技術の辞書」の役割を担うようになる。私の授業の一つの「核」である。

また、学期が進むに従ってシェアリングの内容が記述されるようになっていく。これも自分で気づいたことは黒で、他者からの参考意見は赤でというルールである。

c.自己表現ノート

二百字短作文を貼付したり、その時間のまとめとなる活動をしたりするスペースである。私は先にも述べたように授業の最後五分間で、必ず二百字短作文を課したり、まとめ活動を行わせたりしている。生徒たちは毎時間これを提出し、戻ってきたらこの部分に貼付することになっている。

また、短作文を書かせる場合には、内容だけでなく、作文技術を定着させるのにも効果的である。私は月ごとに技術課題を与えることにしている。例えば、四・五月は「一文一義」、六月は「頭括」、七月は「ナンバリング」……、というようにである。一ヶ月間も一つの技術を追い続けると、定定着度がかなり高くなり、しかも、その他の文章でも使えるようになっていく。

二 大単元は〈活用〉の場

年に三回のマイクロ・ディベート、年に二回の〈語り手の自己表出〉を読む小説の授業、年に二回の複数の説明的文章を対比しながら読む情報読みの授業など、私も大単元的授業に取り組んではいる。中学三年生にもなれば、社会問題化しているテーマを題材にディベートに取り組むこともできるし、魯迅「故郷」の作品構造を検討しながら〈語り手を超えるもの〉に思いを馳せるとか、複数の説明文から図解入りのレポートを書くとかいった取り組みも可能である。その意味で大単元が「思考力・判断力・表現力」の育成にとって効果が高いということも、自分なりに理解しているつもりである。

しかし、大単元の成否は、あくまで日常的にどのような言語技術を学び、どのようなメタ認知思考に慣れ、どのような交流活動に慣れているかということによって決まる、とも理解している。そのためには教師が、まずは毎日の授業に「思考力・判断力・表現力」を育成するベクトルにつながるような具体的な指針を取り入れ、それに一切の例外なく続けるという覚悟を決めて取り組むことが必要なのだと感じている。

いま、それが私にとって、

(1) すべての国語の授業に小集団交流を設定する。
(2)  授業の最後の五分間で二○○字短作文を書かせる。

という二点なのである。派手な学習活動が生徒を育てるのではない。小さな活動、地道な活動こそが生徒を育てるのである。

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物語女

僕が物語女と出会ったのはかれこれ二十年前。十年をひと昔とすればもうふた昔も前の話だ。計算すると僕が二十八歳、彼女が二十三歳のときのことらしい。ハンバーグを食べながらあれこれおしゃべりすることを目的とした、二十年前でさえ時代遅れ感の漂うあるパーティでのことだ。やけに鉄板から油が飛び散るので、僕らは毎月恒例のこのパーティにしゃれた服は着ていかないことを習わしとしていた。そんな時代遅れ感ぷんぷんのパーティに物語女は自らが時代遅れであることを固持するかのように顔を出すようになったのだった。ところが僕と彼女はほとんどおしゃべりを目的としたパーティだというのにほとんど会話をすることもなかった。このパーティ立ち上げからの古参である僕は新参者の彼女に興味を抱かなかったし、後で聞いたところによると、新参者の彼女は当時、最古参の一人である僕とおしゃべりするのに気後れしていていたらしい。そんなこんなで僕らはほとんどことばも交わすことなく、意味不明のノリだけのパーティがそのノリの雲散霧消とともに立ち消えてゆく世の常に従って、接点を紡ぐ間もなくすれ違ったのだった。

物語女と再会したのはつい最近のことだ。レバニラを食べながら自らの創作物語を披瀝し合うある会合で仲良くなった。二人とも四十代になっている。話によるとかつてのおしゃべりハンバーグの会員全員にこの会合の案内を出したというから、ふた昔前のくどい食事をしながらおしゃべりすることをいまだに趣味にしているのは、あのパーティの参加者では僕と彼女だけだったらしい。当然と言えば当然かもしれない。僕はこの二十年間、くどいものを食べながらおしゃべりに花を咲かせたことなど数えるほどしかなかったし、きっと物語女も同じようなものだったに違いない。そもそも僕らはそれぞれ既に結婚して日々の雑務に追われて暮らしていたし、既にくどいものを食べるには自分の健康と相談しなければならない年齢になっていた。

物語女は自分の物語の完成度ばかりに気になるらしい。もっと美しい和語はないかとか、起承転結が甘いとか、オチのユーモアがセンスに欠けるとか、韻律が一音だけ崩れているとか、そんなことばかりを気にしている。日常のちょっとした出来事を物語仕立てで語るという浅薄な会合に過ぎないというのに、物語女といったらまるで歌会にでも参加しているのかというほどの熱の入れようなのだ。最初僕は彼女がおしゃべりハンバーグの会員だったことに気づかなかったが、彼女の方はすぐに僕だと気づいたようで、しかも当時のパーティがこれまた時代遅れにも古参会員を「先生」と読んでいた習わしに従って、いまだに僕のことを「先生」と呼んでいる。僕はそう呼ばれるのがちょっとだけくすぐったい。

物語女は焼きそばを食べるにも理屈が伴う。いっしょに近くの鉄板焼きの店に行ったときのことだ。彼女はソースの匂いを自分につけずに食べられないものかとあれこれ思案する。もしかしたらこの昼食が物語になるかも知れない。彼女はすべての出来事についてそう考えながら生きている。どうやら自分の美しい物語をつくるのに自分の息がソースくさいのが許せないというこくとらしかった。それなら焼きそばなんか食べなきゃいいのにと思うのだが、どうやらそうもいかないらしい。お腹が空くことや便が出ることや仕事をしなければならないことや町内会活動をすることやその他わずらわしさの極限みたいな諸々をこなすことを、物語女は意外にも素直に受け入れる資質をもっている。それでいて自分の物語の美しさは頑として守ろうとするのだから、ふと物語をつくろうとしたときに彼女の資質と軋轢を起こすのは必然のことである。

私が今生で物語女と別れるのはおそらく二十年後。十年をひと御先とすればふた御先も後の話です。くどい食事もすっかりできなくなって、なかなか呂律もまわらなくなったにもかかわらず、物語だけは一枚の絵のように美しく語れるようになった頃、物語の創作というお互い趣味を異にしていて連れ合いとは語れないちょっと照れ臭い趣味が高じて、自らの死をそう遠くないあたりまえに感じているそれなりに美しい物語を披瀝し合うのを最後とすることでありましょう。そのときだけはそれぞれが最高のおしゃれを身にまとい、年齢に似合わぬハンバーグなど食べながら鉄板の油を浴びても良いのかもしれません。そのときも私は彼女に「先生」と呼ばれ、ちょっとくすぐったい想いを抱くのでありましょう。

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Mind Puzzle 1

ふと気がつくとフラッシュメモリーに迷い込んでいた。僕が十数年かけて溜め込んできた情報、意味のある情報と意味のない情報とを混在させながら、どれも捨てられなかった情報のなかに閉じ込められた。閉じ込められたというよりも投げ出されたと言ったほうが感覚に合致する。

情報を捨てられなかった理由ははっきりしている。すべてがその時々の瞬間的な想いを象徴しているからだ。どれも決して習慣的でない、瞬間風速何十メートルみたいな激しい想い。情熱と呼んでもいい。習慣的でない瞬間的な情熱。人生に連続しない、断続的に現れる刹那的な情熱。そういうものを記録として遺すことに僕はずーっと執着してきた。カッとなったり、ムッとしたり、くすぐったがったり、しょんぼりしたり、ヒクヒクしたり、メロメロになったりしながら、僕はその風速何十メートルを受け止めてきた。

或いはときに襲いかかるぼんやりやふわふわ、うつらうつらなんかをなんとか言葉にしようと努めてきた実感もある。ぼんやりやふわふわ、うつらうつらはまるで女性の生理のように定期的に僕に襲いかかってくる。女性にとって生理は襲いかかってくるものなのかどうか、男の僕にはわからない。単なる僕のイメージに過ぎない。きっと一生理解できないだろう。それをミスジャッジと責める女性がいるとすれば僕は素直に謝り、尻尾を巻いて逃げ出すしかない。そういうことで女性と勝負することに勝算がないことを知っている程度には僕は年齢を重ねてきた。

あんたが産まれたとき、ああ、これで一生自分につきまとってくる、切っても切れないものがこの世に現れてしまったと思った、これを幸せだと感じる女は一生幸せであり続けるのだろうと思った…。

そう母は言った。

あんたが「いい子」に育てばそのネガティヴな想いは消え、あんたが「悪い子」に育てばネガティヴな想いが更にネガティヴになる。だからあんたは私に迷惑をかけない「いい子」になりなさい。

母はそうも言った。

僕のなかには子ども心に「いい子」にはなれないとの確信があったので、それでいて「悪い子」になることによって母を凌駕する勇気はなかったので、とりあえず「いい子」の振りをすることにした。それが成功したのかどうか、僕にはわからない。きっとこの話を母にしたとしても、母でさえ判断に迷うに違いない。「いい子」とも言えるし「悪い子」とも言える。おそらく多くの子どもたちはそんな中途半端さのなかにいる。良いと悪いの二面性、良いと悪いの同時達成、それは教育と文学が背馳するのと同じくらいこの世では自明のことだ。そうした二面性から逃れようというのは、この世に生物学的な男と生物学的な女がいることから逃れようとすることくらいの背理だ。でも、そんな膨大な自己改革を夢見る輩が後を絶たない。それを実現するには僕のようにどこまでも振りをして、お芝居を続けるしかないのに。

お芝居を続けるのは苦しい。それは仮面をつけ続けるのが息苦しいのと同じだ。仮面をつけるから息苦しいのではない。お芝居を続けるから窮屈になるのでもない。仮面をつけるとその仮面に自分が自分自身であると信じ続けているものが掠め取られそうになるのが息苦しいのだ。お芝居を続けるとお芝居をする役者の人間性がお芝居を離れてもお芝居に搾取されるようになるから窮屈なのだ。仮面を続けて生きていると、或いはお芝居をしながら生きていると、どこかに自分のなかの自分自身を記録しておきたくなる。意味があろうとなかろうと、両者を混在させながらどれも捨てずに取っておきたくなる。断続的に現れる、瞬間的で刹那的な想いも取っておかなければならないものに思えてくる。自分のなかの何かが取っておけと脅迫してくる。

残念なのは時が経つにつれて、そんな一つ一つが貴重な情報として蓄積されていくことだ。数だけが増え、散漫な状態で並列的に並ぶようになる。そんな状態に気づいてしまうともはや無数にあるそれらの情報を分類し、ラベルをつけ、整理したくなる。だからフラッシュメモリーのなかにフォルダをつくることになる。でも、フォルダを幾つつくっても、またそれぞれのフォルダにどんなネーミングを施してみても、満足する分類などできはしない。すべての情報が複数にまたがって存在している。幾つものフォルダに軸足を置いているものさえある。右半身はフォルダAに、左半身はフォルダFに、それでいて下半身はフォルダαに、上半身はフォルダ7に、それぞれ肩までどっぷり浸かっている風なのに、それでいて目と鼻と口だけはフォルダいとフォルダろとフォルダはにそれぞれ分類せざるを得ないなんてことも当然のように起こってくる。フォルダいろはの続きににとほとへととがあることを知ったあとに、フォルダβとγとがフォルダいろはと通底していることに気づかされたりもする。そんなとき、もうやってられないと投げ出したくなる。フラッシュメモリーを彷徨っていると、フォルダからフォルダへの移動がことのほか難しいことに気づかざるを得ない。

更に腹立たしいのは、これだけたくさんのフォルダがあるのに、まだまだそれらを圧倒するような空き領域があることだ。その空き領域を埋めないことには僕は死ねない……。そんな強迫観念に似たものまで湧いてくる。情報を集めても集めても満足できない。分類しても分類しても分類できないことが浮き上がってくる。フラッシュメモリーに迷い込み、閉じ込められることは、大海に投げ出されることと何も変わらない。

ああ、母さん。僕にとってもあんたは一生まとわりついてくる、切っても切れないものじゃないか。お互い様だよ。でも、僕は知ってるよ。母さんもまた、「いい母親」と「悪い母親」との二面性を、賢母と文学が背馳する自明さをもって同時達成する存在であったことを。そのフォルダに迷い込み、閉じ込められて、たまたま一度だけ吐いてしまった科白が結果的に僕を縛り付けてしまったことを母さんが後悔していたしていたということを。僕は知ってるよ。母さんの子だから。

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共鳴力

飲み会は二人がいい。大人数の飲み会が嫌いだ。我慢できるのはせいぜい四人まで。どれだけ我慢しても七人まで。それ以上になるとその場から逃げ出したくなる。どうしてもその場にいなければならない場合には、深い話は極力避け、話題を広げて広げてその場をなんとかしのぎ、話したい相手を一人だけ誘って早々に二次会に向かう。静かなバーとか、ちょっとした酒肴を出す店で、バーテンダーオススメのスコッチとかびっくりするくらい香りの高い吟醸酒を1、2杯飲む。そうでなければ思い切って帰る。札幌なら一人で馴染みの店に行くこともある。

飲み会は二人がいい。三人では議論になったとき2対1になる。酒が入っているから2対1の議論は空回りする。それがいけない。喫茶店でうまい珈琲を媒介とした三人とは質的に異なる。四人ではよほど仲が良くない限り最初から最後まで2対2が固定してしまって、四人で飲む意味がなくなる。二人で話してるのと同じなのに、近くに別の二人がいるがために話題が限られる。それもいけない。五人を超えるともう誰かの独壇場になるか、意味のない会話で盛り上がるしかなくなる。そういう場に居合わせるのが四十も半ばを過ぎてから息苦しくなった。

その点、二人で話をしていると、それも酒を前にして横並びで飲んでいると、二人の共鳴力が高くなる。お互いに相手を理解しようと思い始める。お互いに相手を理解しようと努め始める。そのうち、お互いがお互いを深い所で理解し始める。少々の沈黙さえ気にならなくなる。ああ、思考が始まったのだなと次の言葉を静かに待てるようになる。その場の空気をつくる必要がなくなる。2時間もそうしていると共鳴率は80%を超える。もちろん親しい人間としか二人でなど飲みに行かないのだから、あたりまえといえばあたりまえなのだが……。とはいえ、ここまで到達すると、昼間の協働も成立し始める。相手が男性であろうと女性であろうとこの原理は変わらない。

議論は五、六人がいい。しかも男女は半々がいい。世代も離れている方がいい。二人や三人では視野が狭くなる。かといって八人以上いると散漫になりすぎて深まらない。傍観者も出る。いるだけの人が産まれる。僕はそれを議論の参加者と呼ばない。

研究会は三十人程度がいい。五十人になると講師が参加者と糸を結べなくなる。四十人はギリギリの人数だ。かといって十人では多様性が足りなくなる。二十人はギリギリの人数だ。研究会は三十人がベストだ。

夏は終われど共鳴力追究の旅が続く。

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夏が終わった

夏が終わった。

7月に下旬から職場は飲み会続き。その中の幾つかは明るくなるまで話し込んで朝帰り。いかに1学期の3ヶ月半が意義深いものであったか、と同時に同僚のそれぞれにとって負担が大きかったかが、この一事でも証明して余りある。話すことが後から後から溢れ出てきて止まらないのだ。

8月に入ると秋田、東京、帯広、札幌、新潟、埼玉と移動しながら、それぞれの地で2日間、3日間と続く研究会講師を粛々とこなしていくという感じだった。この間もほぼ毎日飲み会。10日の帯広ではとうとう乾杯の直後にめまいがし、ホテルにタクシーで戻った。その日、手帳を確認して、7月22日以来、飲み会の入っていない日がたった二日しかったことに気がついた。これはいかん…と酒を控えた。結果、なんとか21日の埼玉文教大学まで乗り切ることができた。21日の懇親会ではこれが最後と痛飲。会沢先生と語り合いながら、教職の難しさに思いを馳せた。

23日は教え子と会った。今月3日にも新宿で会っているので、ちょうど20日振り。同じ代の卒業生が経営するバーに行って想い出に花を咲かせる。なんと僕が連れて行った教え子がバーのマスターの初恋の相手だと言うではないか。それも小学校3年から中学校に入学するまで4年間にもわたって恋心を燃やしていたと言う。二十年振りにその人とわかった途端にもう照れて照れて…。こちらまで甘酸っぱくなってしまう、そんなひとときだった。一応言っておくとこの間も一滴も酒を飲まず。

今日は「研究集団ことのは」例会が急遽中止となったため、ひたすらゆっくり過ごした。どうしても書かなければならない原稿を1本だけ書いたが、それでも余裕のある一日。本屋に行き、読書を楽しみ、昼寝をし、2学期の自戒をもたらす夢を見た。講師ツアーでいい気になってしまっている自分への戒めの夢だ。神か仏か知らぬが有り難いことである。明日から一つ一つ仕事を片付け、また精進の毎日を始めよう。そう決意した。

今日はビールを1本だけ飲んで、早めに寝よう。

夏が終わったのだから。

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教師をどう生きるか

9784761919924_2教師をどう生きるか』堀裕嗣×石川晋・学事出版

石川晋との対談。5月・6月と2日間にわたって札幌・東京での延べ11時間にわたる対談を収録したもの。こんなマニアックな本、いったいだれが買うんだろう…と思っていましたが、まずまず売れているようでひと安心です。それにしても、こんな教育書が出るということは僕らの若い頃には想像もつかなかったことで、ちょっと感激しています。石川晋との初の共著がこういう形で刊行されたことも、僕ららしいな…という思いがします。

【まえがき】

こんにちは。堀裕嗣(ほり・ひろつぐ)と申します。担当編集者の加藤愛さんによると、この対談本の元となった対談は、札幌・東京の二箇所をあわせて十一時間に及んだそうです。まあ、僕も石川もおしゃべりですから、十一時間くらいしゃべり続けるのは朝飯前です。だいたい呑みながら女の子としゃべっていたら十一時間なんてあっという間です。そうそう。つい一作日も……いやいや、そんなことは書くわけにはいきません(笑)。

しかし、同じく加藤さんによれば十一時間のうち六時間くらいはまったく使えない対談だったともいいます。そもそも僕らが酔っているのかというくらい好き勝手にしゃべったものですから、同僚の悪口とか研究仲間の悪口とか行政批判とか政治批判とか宗教批判とか、どう考えても活字にはできないようなことをたくさんしゃべったらしいのです。本人たちにはまったくその自覚がないというところが怖ろしいところでもあります。そんな教育者とは思えないいいかげんな二人の対談をいったい誰が読むのだろうと不安にもなりますが、編集者の意思というのはたいへんなもので、毎日始発電車で帰りながら対談のテープ起こしを完成させてしまいました。正直、この企画はボツだろう、この本は出ないだろうと思っていた僕は心底驚いてしまいました。

さて、この本は「教師をどう生きるか」というタイトルですが、実は僕も石川も日常を教師として生きているかといえば甚だ怪しいという現実があります。確かに職業としては教師ではあるのですが、公務よりも大切にしているものがたくさんあるというのが実態なのです。だって僕らが何よりも公務を大切にする生活を送っているとしたら、こんな本など出るわけがないではありませんか。僕らは公務外でどうしようもなく興味を抱いてしまったモノ・コト・ヒトに対するどうしようもない好奇心の衝動に従って、それらのモノ・コト・ヒトにどうしようもなく没頭してしまった結果、それらのモノ・コト・ヒトを様々な理屈をつけて学校に導入し、なんとか綱渡りで教師生活を続けているというのが実態なのではないか、そんな実感を抱いています。この本をお読みいただくと、おそらくそのことが読者の皆さんにも伝わるだろうと思います。

僕らには〈あいだ〉を生きているという自覚があります。文学と教育のあいだ、芸術と教育のあいだ、公的研究と民間研究のあいだ、そして公務と自分の衝動とのあいだ。自分の身を〈あいだ〉に置くと、公務だけに没頭していたり自分の興味関心に従った趣味の領域だけに没頭したりしている人とはちょっと違った世界認識をもつことができる。それが僕らの本質だろうと感じます。この本は「教師をどう生きるか」というタイトルではありますが、「教師の仮面をかぶりながら〈あいだ〉をどう生きるか」という本であるというのが本音です。その方が深まるよ、その方が楽しいよ、という〈誘惑〉の本です。もうやめませんか?公務に没頭して疲弊してしまう生活も、なんらかの思想に自分を掠め取られてしまう生活も。どっちもちゃんちゃら可笑しい。あなたも本音ではそう思っていませんか?そんなメッセージを投げかけています。

ただ誤解していただきたくないのは、僕らは普通の教師よりも公務において仕事を機能させているということです。生徒たちにもちゃんと関わっていますし、同僚に対してもちゃんとフォローしています。学校ではそれなりに中枢を担う仕事に就いていますし、必要なときには官製研究にも関わります。いつだって学校改革に励んでいますし、管理職ともそれなりに仲良くやっているつもりです。むしろ僕らが言いたいのは、皆さんが求めているような仕事の在り方は、実は〈あいだ〉にいる方がやりやすいんですよということなのです。この本を通してこのことが読者の皆さんにどこまで伝わるのかそれほど自信はありませんが、わかる人にはわかるだろうと思っています。わかる人にだけ伝われば良いのだろうとも感じています。

僕らは二十年以上にわたって〈あいだ〉を生きてきました。そして、いまなお〈あいだ〉を生きています。これからも教職に就きながら〈あいだ〉を生き続けるでしょう。〈あいだ〉を生き続けるためには教職をやめるわけにはいきません。〈あいだ〉を生きるということは、教職をウチとソトとの両視点から眺めることを言うわけですから。ウチの目からソトを眺めるからこそ得られる認識と、ソトの目からウチを眺めるからこそ得られる認識とを融合する。そうした視座をこそもとうじゃないか。それが僕らのメッセージです。

本書の完成に睡眠時間と女性らしい生活を捨ててご尽力いただいた加藤愛さんに心より感謝申し上げます。また、こんなわがままな対談をわざわざ札幌まで聴きに来ていただいた平井良信さん、石田浩一さん、小山内さつきちゃん、杉浦美南ちゃんにもお礼を申し上げます。皆さんが関東・東海・関西からいらっしゃったことが僕らの励みになったことは間違いありません。ありがとうございました。

たま/さよなら人類 を聴きながら……
二○一三年七月七日 自宅書斎にて 堀  裕 嗣

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『教師力トレーニング・若手編-毎日の仕事を劇的に変える31の力』

Cover20130823_2教師力トレーニング・若手編-毎日の仕事を劇的に変える31の力』堀裕嗣×山田洋一著・明治図書/早くも第2刷になりました。お読みいただいた皆様、ありがとうございます。

昔から書いてみたいと思っていた山田洋一くんとの初の共著。『教師力ピラミッド』とセットで読んでもらいたい本。今後、中堅・ベテラン編も書く予定。明治図書発の「教師力シリーズ」として数冊刊行していきます。

まえがき

最初の教え子(1994年3月卒業)が三十代の半ばになっています。6度目の卒業生(2005年3月卒業)が大学を出始めています。教え子のなかに教職に就いた子がたくさんいます。そんな子とは誘われれば二人で逢うことにしています。すすきのの小さなBarで懐かしい話からいま現在の教師としての悩みまで話題が尽きることなく、朝方4時とか5時になってさすがにもう帰ろうと後ろ髪を引かれる思いで帰路に就くということになります。

そんな教え子たちと話していると、その子たちに自分が思いの外大きな影響を与えていることに気づかされます。それはこんな影響だと明確な言葉にできないものですが、しかし決して抽象的でない、どこまでも具体的な教師としての立ち姿のようなものです。子どもの前に立つときの立ち位置とか在り方とか言っても良いかもしれません。

彼ら彼女らはほとんどが〈出る杭〉として職場で叩かれています。それでもめげることなく、いつか叩かれることのない〈出過ぎる杭〉になろうとしているようなところがあります。血縁関係がないわけですから、2年間から3年間、同じ場を共有して空気感染したDNAのようなものなのでしょう。

同じ年頃、自分もそうだったなあと感じながら、私は叩かれない〈出過ぎる杭〉になるために必要なのはたった二つだと話します。即ち、優しさと技術である、と。優しさも技術もない若輩者が生意気なことを言うな、と。しかし、優しさも技術もない若輩者が生意気な生き方を続けていかないと優しさも技術も身につかないのが真理だ、と。人生とはそうしたパラドクスを抱えているものだ、と。         

いま、逢う度に私の教師論づくりに栄養を与えてくれている教職に就いた教え子たちに、このうえない愛惜とある種の偏愛を抱きながら本書を書き綴ったことをまずは記しておこうと思います。

森田童子/ぼくたちの失敗 を聴きながら……
2013年3月31日(日) 自宅書斎にて 堀 裕嗣

【目次】
まえがき
第1章 若手教師に必要な「教師力」ってなに?
教師に必要な資質とは?
若手教師には何が求められているの?
先輩教師・管理職が求める「若手教師」像とは?
「見る・考える力」「実行する力」「関係する力」から考える「教師力」
第2章 堀流・山田流 若手教師に必要な「教師力」トレーニング
見る・考える力トレーニング
アンテナ力
はてな力
ヒラメキ力
思い入れ力
見破り力
バランス力
実行する力トレーニング
先回り力
盛り上げ力
あらため力
初志貫徹力
振る舞い力
しょいこみ力
ふんばり力
思い切り力
関係する力トレーニング
気遣い力
共鳴力
売り込み力
かかわり力
見透かし力
甘え力
人間力
教師生活を豊かにするオススメの力トレーニング
サボる力
流される力
足許をすくわれる力
打たれないほどの出過ぎた杭になる力
チューニングを合わせる力
場面転換力
背中力
開き直り力
現場修行力
照隅力
第3章 若手教師が「教師力」をみがく+αの視点
教師のモデルとなる師の存在
教師にとっての「研修」「研究」とは
これからの日本の教育を担う
あとがき

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