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〈不適格教員〉と〈学校評価〉

学校が悲鳴を上げている。

いま学校に必要なのは、従来から学校の前提として機能していた「共同性」の回復である。職員室の共同性、学年団の共同性、学級の共同性、学校システムを包み込む地域の共同性……。しかし、現在の教育改革は、これらすべての共同性を解体していく方向に進んでいる。いま学校に求められているのは、「共同性」の解体、「市場原理」の導入である。学校選択制の導入、教員人事考課の導入、教員給与格差の導入、免許更新制の導入……。そしてこれらの政策には、その発想の前提として「指導力不足教員」「不適格教員」の排除がある。

もう一度、言う。学校は悲鳴を上げている。

教員免許更新制の目的が「不適格教員の排除」を目的に語られるようになったことは何を意味するか。更新された十年間の免許を前提に、教員が自信をもって教育活動をできるようにという意図で「中教審」が提言した免許更新制。それが教育バッシングと文科省に対する既得権益バッシングの中で、文教政策のイニシアチブが教育専門家委員会としての「中教審」から、教育素人集団としての「教育再生会議」へと移行した結果、教員免許更新制の目的もまた、「不適格教員の排除」へと移行していった経緯がある。かつての「教育再生会議」では渡辺美樹を中心に、教員全体における「不適格教員」の比率の議論があった(当時の1%という文科省報告に対し、20~30%程度を「不適格教員」が占めるのではないかという議論/第2回学校再生分科会議事録)が、実は、非専門家に見られるこうした議論にこそ学校システム問題の本質がある。

僕は現在、「指導力不足教員」「不適格教員」の比率を現場的実感から10%程度と見ている。ただ、ここで声を大にして言いたいのは、十年前ならばこの実感は2%程度だったのだということである。十年前なら、「不適格教員」など各学校に一人いるかいないかであったのだ。つまり、この十年間で、「こいつは不適格教員ではないか」と思われる教師が、五倍程度に増えているのである。では、その教師たちの能力が落ちたのだろうか。つまり、教員の質が低下したのか。おそらく、そうではない。この十年間で、〈教師であること〉が格段に難しくなってきているのである。〈教師であること〉が難しくなると、相対的に他の教員にフォローしてもらわなければならない教員が増えてくる。逆に言えば、心ならずもフォローしなくてはならない教師たちから見れば、「迷惑な人」が増えるわけだ。僕は特別優秀な教員ではないが、それでも自分の仕事くらいならそつなくこなす程度の力はもっている。少しくらいなら同僚のフォローもできなくはない。しかしながら、フォローを必要とする教員の数が多くなってくれば話が変わってくる。「力のある教師」が支えきれなくなっていくのだ。いったいこの責任はだれにあるのか。

できる限り行政批判はしたくないとの思いで仕事をしてきたが、これだけは「行政に責任がある」としか言いようがない。学校の環境整備を一切することなく、学校教育に予算措置を講じることもなく、過剰な要求だけはどんどん積み上げていく。たかだか偏差値55~60程度の集団でしかない一般教員に、過剰な要求を突きつけすぎなのだ。マスコミでは忙しさに教師が疲弊していくことが取り上げられるが、実はそこに問題の本質はない。

かつての「教育再生会議」の提言では、学力向上策として、授業時間数の10%増や土曜日授業の可能性を前提として、①時代に合致したカリキュラム(主権者教育、法教育、消費者教育等)の編成、②読書算的学習の反復、③読書指導の充実、④食育の充実、⑤国語教育の充実、⑥英語教育の充実、⑦IT機器の積極的導入、⑧国による到達目標の明示、⑨客観的な絶対評価と、錚々たる項目が並んでいたが、学校現場にとってこれらの同時達成はきわめて困難を伴う。また、現在の「教育再生実行会議」においては道徳の教科化や小学校英語の教科化が真剣に議論されている(執筆時点では結論が出ていないので詳述は避ける)。

そもそもこんなものをだれが同時にできるのか。すべての組織がそうであるように、学校の職員室だって2割の人間に8割の仕事が集中しているのである。性急な教育改革を進めようとすると、各学校は性急なシステム整備を進めようとする。性急なシステム整備をできるのは、学校の仕事の8割を担っている2割の教師たちである。しかも、この2割の教師たちはパンク寸前になり、他の8割の教師のフォローをできなくなる。校長・教頭・主幹・主任にも仕事が集中し、他の教師のフォローをする余裕がなくなっていく。刻一刻と学校内の「共同性」が壊れつつある。

学校を学校として機能させようとすれば、それほど優秀ではない「普通の教員たち」が「普通に働ける」仕事量にするか、或いは、「普通の教員たち」が「普通に働ける」程度に人員を増やすかしかない。「不適格教員」は増えているのではない。「不適格教員」は増やされているのである。

実はもう一つ、心配事がある。学校教育に市場原理を導入して競争を起こす。競争に敗れた学校は廃校になる怖れから努力をし、教員の質も学校の質も上がっていく。また、競争に勝利した学校は、その待遇の良さを維持しようと更に努力を重ね、よりよい学校づくりへと邁進する。結果、すべての学校がよくなっていく。教育行政の、或いは政治主導の教育改革の目論見は、こうである。しかし、現実的に考えれば、こううまくいくものではない。

苅谷剛彦によれば、教員養成課程大学への志願者が年々減少していると言う。一九八八年に約十万八千人だった志願者が、一九九八年には六万四千人、二○○七年は四万七千人にまで減少した。十八歳人口の減少を計算に入れても、これは減り過ぎである。十八歳同一年齢人口比に照らしても、一九八八年に五・七%が教員志望であったのに対し、二○○七年は三・六パーセントにまで落ち込んでいると言う(前掲『教育再生の迷走』)。これに対して、団塊世代の大量退職時以来、教員採用の枠は全体として広がっている。実はここ数年、そしてこれからも、質の良い新採用が入ってきたという保障がないばかりか、相対的に見れば、今後も教員の質は下がり続けていくと見なければならない。

こうした時代の中、学校教育の制度自体はおそらく維持されていく。アメリカやイギリスを初めとして、かつて市場原理を導入しての教育改革が行われた先進国において、学校制度自体を廃止した国はない。とすれば、学力向上や規範意識の育成が求められる中で、しかも教員の質が低下する中で、学校現場は教育活動を行っていくことになるわけだ。この状況をどう乗り切ればよいのか。果たして乗り切る手立てはあるのか。

昨今、小学校と中学校とを比べた場合、小学校教育の方がより多くのトラブルを抱えている。その最たるものは学級崩壊だろう。中学校は不登校が増加している以外には、ここ二十年ほどそれほど大きなシステム的な質の低下が見られない。これはおそらく、八○年代の校内暴力を通過した中学校では、職員室の共同性が確保されているからである。つまり、中学校には、学級担任が自分の学級の子どもたちを指導しているというよりも、学年教師全員で学年のすべての子どもたちをいっしょに指導しているという意識があるからである。学級担任がしんどそうなときには学年の生徒指導係や学年主任が当然のこととしてフォローに動く。生徒指導係がある子どもにきつい指導をした場合には、母性的な雰囲気のある教師がその子の気持ちをケアする。多くの中学校ではこうした体制ができている。おそらく、現在の子どもたちに対する「学力の向上」「規範意識の醸成」を、教員の質の低下の中で行っていくにはこのチームワーク指導しかない。それが教育活動をより機能させていくばかりでなく、新規採用者を「育てるシステム」にもなっていくはずた。

ここ十年で所謂「学校評価」が定着したが、外部評価としての学校評価、内部評価としての学校評価ともに、一般的には、教育内容の項目として「学力の向上」と「規範意識の醸成」が細かい項目となって並んでいるはずである。また、教育システム項目としては、「保護者・地域との連携」が重視されているはずだ。教育内容的には「公共性」を、教育システム的には「共同性」を、というわけである。しかし、「共同性」の回復は保護者や地域ばかりが対象ではない。職員室の「共同性」こそが最も重要なのである。学校の自己評価では、「各教員の連携はとれているか」「組織は機能しているか」という観点が最重要なのである。

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