〈密度〉と〈濃度〉
〈密度〉が高くなっているのに〈濃度〉が低くなっている。
比喩的に言えば、僕は現在の学校教育にそんな印象を抱いている。
〈密度〉とはカリキュラムの密度である。教育再生会議から現行の指導要領に至るまで、あれやこれやと提案されたものが須く学校教育に採り入れられ、教師がその意義もシステムも理解しないままに垂れ流し的に実践する。あれやこれやと忙しくはあるけれど、その意義がわからないからだれも本気で取り組んでいない。アリバイづくりのような教育カリキュラムがアリバイづくりのように体験させられる。そんな教育活動が子どもたちのなかに残るはずもなく、アリバイづくりはアリバイづくりとしてのみ機能していく。アリバイづくり以上の教育効果がない。そんな印象である。
一方、〈濃度〉とは心情の濃度である。興味・関心を抱いたり意欲的に取り組んだり、みんなで大笑いをしたり、夢中になったり……。そんなポジティヴなものでなくても良い。激しい怒りを感じたり、何かが出来なくて自分はダメだなあと感じたり、或いは「こんなことは絶対にやりたくない」と激しい拒否反応を示したり、そんなネガティヴな心情の濃度の低下も著しい。気持ちの持って行き場がなく、拠り所がなく、子どもたちの心情も教師たちの心情もどこか浮遊している、そんな印象である。
この国の教育改革は二十一世紀に入って、〈ネガティヴリスト〉による改革から〈ポジティヴリスト〉による改革へと大きくシフトした(『教育再生の迷走』苅谷剛彦・筑摩書房・二○○八年一一月)。教育内容を「これこれはしてはいけない」といった限られた禁止事項によって規定する在り方から、「これこれをした方が良い」と必ずしもしなければならないわけではないが、できればした方が良いことをすべて取り入れる規定の在り方へとシフトしたわけだ。例えば、「体罰をしてはいけない」「思想教育をしてはいけない」「宗教教育をしてはいけない」と禁止事項で教育内容を規定する在り方から、「情報教育が必要だ」「食育はやった方が良い」「英語教育をした方が良い」「消費者教育も必要だ」「主権者教育も必要だ」とそれぞれの利益団体が主張する「できれば採り入れた方が良い教育」がすべて採り入れられる在り方へ、教育改革の基盤となる発想が大きく変化したのである。その結果、教師は次々に現れる新しい教育内容に右往左往しながら戸惑うことになった。或いは次々に現れては消えていく新しい教育内容に目移りしながら、自分は何が得意なのか、自分はどの分野で生きていこうかと自分探しにいそしむ。そんな教師たちの姿ばかりを見るようになった。
かつての〈ネガティヴリスト〉による学校運営においてならば、多くの教師はこのような悪弊に陥ることはなかった。「これこれをしてはいけない」という規定を主として運営されるということは、逆に言えば「これこれさえしなければ何をしてもいいよ」ということである。そこには一人ひとりの教師に「自分の得意技を教育活動に活かせ」という裏のメッセージがあった。だから教師たちは「自分のやりたいこと」「自分が他の教師よりもできること」を自らの教育活動の基軸として機能させることができた。そしてそれは自らが得意とすることだけに、熱心に、自信をもって子どもたちにあたることができた。必然的に子どもたちにも機能しやすいという特徴をもっていた。結果として、教師の実践の多くはアリバイづくりに陥るようなことがなかったのである。
もう一つある。二十一世紀に入って、教育の理想が「○○のないの学校」と非定形で語られるようになった。「いじめのない学校」然り。「体罰のない学校」然り。「管理をし過ぎない学校」「差別ない学校」「落ちこぼれのない学校」然り。なかでも、現在、世の中が声を大にして叫んでいるのが、「いじめのない学校」と「落ちこぼれのない学校」であるように思う。現在の教育論の中心が「いじめ撲滅」と「学力向上」に彩られていることが僕の印象を跡づけている。こうした否定形による理想像の在り方は、まったく生産性がないように思う。「○○のない学校」というテーゼがただ単なるゼロ・ベースを表しているに過ぎないということに、多くの人たちが気がついていない。「○○がない学校」というのは、「○○」という「マイナス」を措定し、その「マイナス」を排除した学校ということでしかない。「マイナス」がなくなる、つまり、ゼロだ。「マイナス」がないことが、決して「プラス」の学校像を創り出すわけではない。「いじめ」がないことも「落ちこぼれ」がないことも、「人間関係の良好」や「学力の向上」を担保するものではない。確かに「いじめ」も「体罰」も「管理」も「差別」も「落ちこぼれ」もない方がよいのかもしれない。しかし、「ない」ということは「ない」以上のことではあり得ない。それが果たして理想像となり得るのか。
現在の学校教育は否定形で語られる教育の理想像を当然の前提として想定しながら、〈ポジティヴリスト〉の教育改革によってあれもこれもと採り入れられる。そんななかで学校が具体的に教育活動を行おうとするときには、前者に関しては「あれがある」「これがある」と否定され、後者に関しては「あれが行われていない」「これが行われていない」と否定される。両者の板挟みに合って教師が忙殺される。管理職や教育行政はその現実に敏感にならざるを得ず、更に管理を強化する。教師は更に忙殺され、行政も管理職も子どもも保護者も、そして何より教師本人も、だれもが教師が自らの得意技を活かしながら教育活動を行うことを求めているというのにそれができない、こうした悪循環がはびこっている。
カリキュラム上の〈密度〉が高くなっているにもかかわらず、教師や子どもたちの心情的な〈濃度〉が低くなっているのはおそらくこうした構造にもとづいている。
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