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2013年6月

“日常の授業”を充実させる研修会

日時:平成25年8月18日(日) 9:00~

会場:新潟県十日町市立上野小学校(十日町市上野甲1376)

会費:3000円

日程

公開授業1 国語(4年) 授業者 清水大格 09:30~10:15

公開授業2 道徳(4年) 授業者 野中信行 10:30~11:15

ミニ講座 授業提案者の主張 11:30~12:00

昼食休憩

講演1 “日常実践”で教師力を高める具体策(仮題)/堀裕嗣 13:00~13:45

講演2 日常実践を高める教師の生き方/野中信行 14:00~14:45

シンポジウム 日常授業を高める教師のあり方 15:00~16:00/堀裕嗣・野中信行・山田弘史・服部京・庭野三省

【その他】

①会場の都合で100名先着順とします。早めに申し込んで下さい。(7月末締切)

②駐車場はグラウンドを開放しますが、相乗り大歓迎です。

③研修会終了後、夕食会を兼ねた交流会を開きます。アルコールなしで、美味しい蕎麦(総本店小嶋屋)を賞味しながら、交流を深めます。(会費 1500円)ご希望の方はお申し込み下さい。

【申し込み/問い合わせ】

山田弘史/十日町市立千手小学校

E-mail: senju-els@edu.city.tokamachi.niigata.jp

件名は【日常の授業研修会】でお願いします。

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6月28日(金)

1.1・2時間目は空き。2時間連続の空き時間は今年度初めて。教科で評定打ち合わせや研究授業の打ち合わせなど。3時間目は3組で、4時間目は2組で主題の読み取り方。5時間目は空き時間で評定作業。6時間目はKDDIの方が来てケータイ教室。放課後は学年の先生方と談笑&評定作業。17時退勤。

2.週末なのにゲラを読んでいる。金曜日に飲みに出ていないのは4ヶ月振りくらいか。ビールを飲みながら「コミュニケーション能力って何?」の再校。やる気は42%といったところ。どうも金曜日の使い方を忘れてしまっている感じだ。次の日が休みなんだから、大きなことにも取り組めるはずなのだが。

3.【拡散希望】第22回国語科授業づくりセミナーin札幌/授業づくり徹底入門講座 ~読むこと領域編~/2013年7月13日(土)・札幌市産業振興センター/14日(日)・札幌市白石区民センター/講師:堀 裕嗣・山下 幸・高橋和寛・米田真琴
http://kokucheese.com/event/index/97269/

4.【拡散希望】8/12-13 第9回教師力BRUSH-UPサマーセミナーin札幌。北の地から堀裕嗣先生。南の地から菊池省三先生。 全国区でご活躍されているお2人が揃って登壇。 「つながり」について考える2日間です。
http://kokucheese.com/event/index/94760/

5.授業づくりネットワーク2013北海道・帯広
2013.8.9(プレ集会)
2013.8.10-11(本集会)
http://kokucheese.com/event/index/82002/

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6月27日(木)

1.1時間目は2組で行動描写から登場人物の心情を読み取る練習。4時間目は4組で、5時間目は5組で漢字。6時間目は学活で陸上競技大会の選手決め、及び新しい班づくり。放課後は小中連携会議。その後、若干の生徒指導。17時30分に退勤。

2.石川晋との対談本『教師をどう生きるか』(学事出版)の第一次修正が終了。あれだけひどいテープ起こしがよくここまでになったもんだ。ある種の感動さえ覚える。でも、まだまだ不満だらけ。いったいどうなるのかなあ。『コミュニケーション能力って何?』(学事出版)の再校ゲラも今日届いた。ふう。

3.コミュニケーション本の再校ゲラを読もうと思ったけれど、対談本の修正のあとじゃ、さすがに読む気にならないことが判明。まえがき3頁を読んだだけで挫折。うーん。明日の仕事かあ。いやだなあ。せっかくの金曜日だから遊びたいなあ。だいたいすべての日程に無理があるんだよなあ。すべては加藤愛のせいだ。

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6月26日(水)

1.1時間目は3組で行動描写から登場人物の心情を読み取る練習。2時間目は7組で、4時間目は1組で主題の読み取りの基礎。6時間目は学活で合唱コンクールの候補曲10曲を聴く。空き時間は評定作業。放課後は巡視の後、健全育成会の会議。学年の若手担任二人の相談に乗り、更に校長との面談を少々。

2.やっと先週末の東京息の疲れが抜けてきた感じ。少し躰に元気が回復してきたようで、今日は溜息をつくことなく仕事に取り組むことができた。4階にも息切れすることなく昇ることができた。さて、今週の金曜日が空いている。遊ぶべきか、休むべきか、それとも原稿を書くべきか。それが問題だ。

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6月25日(火)

1.1時間目は7組で、4時間目は1組で行動描写から登場人物の心情を読み取る練習。3時間目は6組で漢字。空き時間は評定作業。放課後は校務部会。教員採用試験を受ける学年の若手たちにプレッシャーをかける。帰宅後は「THE 教師力~若手教師編」のゲラ校正。まえがき・あとがきを書く。

2.つながることが大流行している。でも、みんなそれぞれにつながった感に浸っているだけ……になりがち。彼らはあくまで孤独につながっているだけ。みんな一人で踊っているだけ。

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6月24日(月)

1.歴史は何も教えてくれない。世の中で判断が必要なとき、歴史に照らしていては間に合わなくなる瞬時の判断の方が圧倒的に多い。頭ではなく、心で、或いは第六感で判断しなければならないことの方が多い。そんなふうに考えてみることも必要だと思う。

2.1時間目は1組、3時間目は3組、4時間目は2組、5時間目は7組で人物描写の読み取りの小集団交流。6時間目は得点通知表の配付と期末テストの反省。東京帰りの疲れた躰には楽な一日。生徒たちの顔を見たのがずいぶんと久し振りのような気がして、なんとも居心地の悪い一日だった。

3.「THE 教師力」の初校ゲラを読む。良い本に仕上がっている。感動的ですらある。各々の先生方の人生観が垣間見える。それぞれが短い紙幅のなかで静かに息づいている感じ。これは売れると確信した。

4.糸井さんと赤坂のエピソード本が届いたので読む。なんというか、2冊とも良い出来だと思う。10冊すべてを読む人はとても少ないと思うけれど、10冊通して読んだら、きっと革命的な発見があるだろうとも思う。この企画はそういう企画だ。ごく少数の選ばれた人だけに大きな益をもたらす。そんな感じ。

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6月22日(土)~23日(日)

1.やっと午後の合唱コンセミナーのPPTが完成しました。これから明日の学級経営・学年経営セミナーのPPTを仕上げます。今日の夜は仕事ができないので、なんとかこの時間で仕上げたいと思っています。

2.2日連続の東京セミナーを終えて帰宅。今回の講座は二日間とも賛否の分かれるところだろうと思う。わざとこれまでの講座づくりと意図的に見変えて臨んだところがある。まあ、ある種の実験である。特に今日の講座はその趣が強い。講座づくりとしては、かなりいろいろな収穫のあった一日だった。

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6月21日(金)

1.2週間振りの東京です。雨です。新宿駅には独特の匂いがあります。山手線の扉が開いた瞬間、その匂いが鼻孔をつつきます。雨の日は尚更です。ざらざらした、なんともいえない匂いです。

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6月19日(水)

1.1時間目は2組、2時間目は3組、3時間目は1組、5時間目は7組で「にじの見える橋」の少年の人物描写を小グループで確認させながら、グループごとに教卓に集めてノート・ワークを点検する。6時間目は学活で校外学習のまとめ作業。6つの班がすべて掲示物を完成させる。今週は授業が多くてきつい。

2.今日もこれから週末の講座の準備。久し振りに新しいコンテンツをつくっているので、少々気合いが入っている。完成すれば、おそらく次年度秋あたりに刊行する本の内容になっていくはずだ。いまはこのコンテンツづくりに集中すべきときなのだと感じている。こまごまとしたことはてきぱきと処理しよう。ただし、手抜きにならないように。

3.いよいよ、「THE 教師力」第1巻のゲラが届くようだ。昔から多様性の担保を旗印にした企画を実現したいと考えてきたので、感慨も一入である。快く原稿依頼をお引き受けいただいた先生方に深く感謝申し上げる。と同時に、今後ともよろしくお願いしますと申し上げたい。教育界に一石を投じたい。

4.対談本の第1章の手直しは、取り敢えず石川晋がリードしてくれることになった。ベタ起こしを見て茫然としてしまったので、少しだけ気が楽になった。しかし、石川晋といえども、この原稿を軌道修正するのは骨が折れるに違いない。まあ、それでも気楽に構えてなんとかしてしまうのがオレ達だ(笑)。本づくりが失敗したって命までとられるわけじゃない(笑)。

5.【拡散希望】第22回国語科授業づくりセミナーin札幌/授業づくり徹底入門講座 ~読むこと領域編~/2013年7月13日(土)・札幌市産業振興センター/14日(日)・札幌市白石区民センター/講師:堀 裕嗣・山下 幸・高橋和寛・米田真琴
http://kokucheese.com/event/index/97269/

6.どうやら有頂天になっている間に、僕は大切な大切なものを失ってしまったらしい。どうやら現在(いま)を生きるしかないらしい。

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6月18日(火)

1.1時間目は3組で「にじの見える橋」の人物描写の確認。2時間目は2組でテスト返却。3時間目は学活。その後、小中合同の避難訓練。札教研の日だったが、午後から年休をとって週末の講座準備。ぼくのいま現在を忠実に語っていく講座を準備。これはかなり提案性のあるものになると思う。

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コミュニケーション能力って何?-学級の空気を更新する生徒指導

新刊は『コミュニケーション能力って何? 学級の空気を更新する生徒指導』(学事出版)です。7月12日刊行予定です。

まえがき

こんにちは。堀裕嗣(ほり・ひろつぐ)と申します。学事出版からは「学級経営」「生徒指導」「教室ファシリテーヘション」「一斉授業」と、いわゆる「10原理・100原則シリーズ」(以下「10・100シリーズ」)と呼ばれる四冊のスキル本を上梓しています。そうしたスキル本、ハウトゥ本を期待してこの本をお買い上げいただいた方にとっては、本書は期待はずれの本になってしまっているかもしれません。本書にはスキルもハウトゥも原理も原則も一切載っていないからです。

本書はタイトルにもなっている「コミュニケーション能力って何?」をはじめとする六つの章から成ります。正直なところ、一貫性のない、わがままな本を書いてしまった感が否めません。しかし、僕がこれまで上梓してきた「10・100シリーズ」を支えている基本的な構え、教師としての立ち位置のようなものはある程度書けているのではないかと感じています。特に、現在(いま)この瞬間に対する時代認識を踏まえ、教師は学校教育の在り方をどう考えるべきか、僕なりの考え方を示しています。

これまで「10・100シリーズ」に親しんでいただいた読者の皆様には、幾分難しく感じられる部分もあるかもしれません。少々難解な用語も散見されることでしょう。しかし、よく読んでいただければ、難解な用語はすべて定義していますし、複数の具体例を挙げてわかりやすく理解いただけるように配慮したつもりでもあります。どうぞ、文字ばかりだから、各章のタイトルや小見出しの意味がわからないからと避けないで、ちょっと味見をしてみるつもりでお読みいただければと思います。ほら、食べ物だってちょっと苦みがあったほうが長く楽しめるということがあるではありませんか。子どもの頃に食べられなかったピーマンや玉葱が大人になって大好きになってしまうように、大人になって山菜の味を覚えて「世の中にこれほど美味いものがあったのか」と感じるように、若手教師の頃にはちょっと苦みのあるくらいの本のほうが将来的には長く役立っていくというようなこともあるかもしれません(笑)。まあ、大人になってもピーマンや玉葱が食べられない人とか、山菜はみながいうほどおいしくはないと感じる人たちも少なくありませんから、本書がお口に合わないという人も決して少なくはないのでしょうが。

さて、本書は第1章「コミュニケーション能力って何?」で提示した議論を踏まえ、第2章以降で教育活動の在り方をどのように考え、どのように実践していけば良いのか、教師としての職能や職員室の人間関係をどう考えていけば良いのか、そんな教師として生きるうえでの根幹のところを切々と語っていく構成を採っています。第四章以降はかつて商業雑誌や同人雑誌に発表したものに加筆修正を加えたもので構成されています。ただし、掲載する文章はすべて、教師にとって〈論理的に考えること〉と〈情緒的に感じてしまうこと〉とのバランスをどう採れば良いのかに言及しているものを意図的に選択しています。僕にとって「コミュニケーション能力」とは〈論理〉と〈情緒〉とのバランスを取りながら他者と関わり続けることを指しますから。この観点を頭の片隅において本書を読み通していただきますと、割と理解しやすいかもしれません。

また、本書には参考文献がたくさん登場しますが、注を施すということは敢えてせずに本文中に書名と著者・出版社・発行年を書き添えるだけにして、できるだけ難しい印象を与えないようにしています。更に言えば、参考文献の多くを文庫や新書にして、読者の皆さんがすぐに入手しやすく、且つ抵抗なく読むこともできる、それでいて本格的な議論は展開されている、僕としてはそうしたものを掲載しているつもりです。

この本は「10・100シリーズ」に比べると圧倒的に売り上げが低くなるでしょうけれど、教師がよりよい仕事をしていくには「10・100シリーズ」よりも圧倒的に大切なことが書いてあります。少なくとも僕自身はそう考えています。本書が右も左もわからない新卒教師に、若さで乗り切ることに限界を感じ始めた中堅教師に、最近の子どもがわからなくなつたと嘆くベテラン教師に、総じて学級経営や生徒指導に悩んだり不安を感じたりしているすべての教師に、少しでもお役に立てるなら、それは望外の幸甚です。

あとがき

ここ三年ほどで学級経営や学年経営について10冊以上の書籍を上梓させていただきました。実はそのすべてが、前任校札幌市立上篠路中学校での四年間にわたる学級経営・学年経営をもとにして書かれたものです。現任校である北白石中学校に着任して以来、私は四年間にわたって担任をはずれていたものですから、学級経営や学年経営について責任ある立場でものを考えるということがなかったのです。その意味で、この三年間に書いてきた私の学級経営論・学年経営論はあくまで上篠路中学校での実践記録をもとに、それを分析したり発展させたりしながら書いてきたというのが正直なところです。つまり、私がこの三年間に書いた本のすべてが二○○五年から二○○八年までの実践をもとにしていたということです。

しかし、私は今年度、五年ぶりに担任をもち、五年ぶりに学年主任として生徒や同僚と関わっています。その生活が始まってまだ二ヶ月半程度なのですが、私の思考はこの四年間に考えたことを凌駕するくらいに活性化しています。毎日が発見の連続です。今年度一年間を終える頃には、上篠路時代の実践とは発想の異なる学級経営論や学年経営論が生まれているに違いない……そんな確信があります。ああ、自分はいま、新しい段階に入ったのだな……、そんな実感ももっています。いよいよ、上篠路実践との、良い意味での決別のときが来たのだな……そんな感慨さえ抱いています。本書を締めくくる文章として書いた「髙橋美智子先生のこと」は、私にとって上篠路実践の象徴である美智子先生への感謝状であり、愛惜の文章であり、ラブレターであり、そして北白石中学校で新たな理論・実践をつくっていくのだという決意表明でもあります。本書を美智子先生をはじめとする上篠路のかつての同僚たちに贈ります。髙橋美智子先生、高村克徳先生、齋藤大先生、佐藤恵輔先生、仙臺直子先生に改めて深く深く感謝申し上げます。ありがとうございました。

本書は加藤愛さんという新しい編集者との最初の仕事になります。この加藤さんがまたものすごいバイタリティのある方で、バイタリティには自信をもっている私でさえ戸惑ってしまうほどなのです。おもしろい編集者と出逢ったものだと人生の妙を感じます。また、今回もイクタケマコトさんには味わいあるイラストを添えていただきました。お二人にも深く感謝申し上げます。更に今回は、お二人の方に校正前の原稿を読んでいただいたうえに建設的なご意見をいただき、加筆修正した経緯があります。事情があって実名は挙げませんが、シンシナとピロ子ちゃんに感謝、感謝です。

沢田研二/時の過ぎゆくままに を聴きながら……
二○一三年六月一六日 自宅書斎にて 堀 裕 嗣

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6月17日(月)

1.1時間目は1組で、3時間目は7組で、5時間目は3組でテスト返却&評定の出し方の話。4時間目は6組で漢字。6時間目は学活で校外学習のまとめ作業。空き時間は校正原稿の返送、支払いなど。放課後は評定委員会で評定人数の確定。金曜に東京行きで休むため、その他の曜日は授業が一杯に詰まっている。まあ、仕方ない。17時退勤。

2.【近日刊行】『目指せ!国語の達人 魔法の「聞き方ネタ」50』堀裕嗣・山下幸編・研究集団ことのは著/明治図書/1953円
http://www.meijitosho.co.jp/detail/4-18-104330-8

3.裏話というのは面白いもので、知れば知るほどそれ以前の認識が覆っていくものだ。この構造は教育現場にも決して無縁ではない。例えば、教師間の組み合わせが相乗効果を発揮したというような裏話は生徒たちに大きく好まれる傾向がある。こうした小さなヒドゥンカリキュラムの連続で学校はできている。

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6月16日(日)

1.モーニングセットを食べ美味い珈琲を飲みながらゲラの校正をしようと思って珈琲専門店に行ったら、日曜日は夕方まで全面禁煙。ファーストフードやロイヤルホストさえもが全面禁煙。世の中には僕のスタイルで仕事をさせてくれる場所はもうないらしい。ずいぶんと時代から取り残されているようだ。

2.結局、宮田屋珈琲が喫煙可で、宮田屋でゲラ校正。ちょうど4時間かけて校正終了。あとはまえがきとあとがきを書くだけになった。

3.書き上げたときにはちょっと難しく書きすぎたかなと感じていた新刊だが、こうしてゲラを校正してみると、まずまず僕の考えていることが架けているなという印象だった。でも、あくまで自分の文体だから頭に入ってくるだけなのかもしれない。まあ、もうこのまま出ることは間違いないのだから諦めよう。

4.【拡散希望/残席6】第5教室実践力セミナーin東京/ALL堀裕嗣/2013年6月23日(日)/上智大学/3000円/4年振りの担任復帰!4年振りの学年主任!学級経営・学年経営の原理原則
http://kokucheese.com/event/index/89308/

5.【拡散希望】第22回国語科授業づくりセミナーin札幌/授業づくり徹底入門講座 ~読むこと領域編~/2013年7月13日(土)・札幌市産業振興センター/14日(日)・札幌市白石区民センター/講師:堀 裕嗣・山下 幸・高橋和寛・米田真琴
http://kokucheese.com/event/index/97269/

6.新刊『コミュニケーション能力って何?-学級の空気を更新する生徒指導』(学事出版)のまえがきとあとがきを書き上げて完全脱稿しました。久し振りにスッキリした気分です。日曜日の夜はこうでなくちゃ。

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6月15日(土)

1.ゲラゲラゲラゲラ……ゲラが来た。週末がつふれた。

2.【拡散希望/残席7】第5教室実践力セミナーin東京/ALL堀裕嗣/2013年6月23日(日)/上智大学/3000円/4年振りの担任復帰!4年振りの学年主任!学級経営・学年経営の原理原則
http://kokucheese.com/event/index/89308/

3.なんだか、いろいろなことが変わっていく。いろいろなことが見えてくる。人生が変わっていく。動き続けているとそういう時期がやってくる。それでも動き続ける。そういう人生なのだからという諦観と、新たに何が見えてくるのかという期待とに、半分半分に取り巻かれている。晩年が近づいている証拠だ。

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6月14日(金)

1.新刊のタイトルが『コミュニケーション能力って何?-学級の空気を更新する生徒指導』(学事出版)に決まりました。7月12日(金)の刊行予定です。いろいろ編集者とやりとりがありましたが、落ち着くところに落ち着いて良かったです。これで心置きなく次の著作に進めます。

2.期末テスト二日目。試験監督が二つ。空き時間は採点。放課後、採点が完了。出来はまずまず。これで心置きなく週末を迎えられます。今日は「教育新聞」の連載を題材とした学年教師二人に渡しました。二人が喜んでくれて、ちょっと嬉しくなりました。

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6月13日(木)

1.よく寝た。10時間寝た。朝起きるとメールがいっぱい入っていた。一つ一つに返信していく。一つ一つ言葉にしていく。世の中を、人を肯定的に見る視点を言葉にしていく。ちょっと新境地である。

2.期末テスト1日目。試験監督が二つ。そして国語のテスト。採点を半分程度終えたが、出来はまずまずといったところ。15時年休。帰宅後はずーっと読書。新刊のタイトルの件で編集者とやりとり。制作会議でいじられて気に入らないものが出て来た。これから揉めそうだ。まあ、慣れっこだけど(笑)。

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6月12日(水)

1.1時間目は1組、3時間目は3組、4時間目は2組、5時間目は7組でテスト対策。6時間目は学活で自主研修のまとめ。放課後は家庭訪問1件、テストの印刷。17時退勤。今週、あとは楽な二日間だ。採点も楽そうなテストだし。

2.【拡散希望】文教大学現職教員支援講座
学級づくりセミナー/2013年8月21日(水)
http://bunkyoshougai.blog2.fc2.com/blog-entry-208.html

3.若者たちが「こうしたいと思うがどうか」という訊き方をしてくるようになった。僕が想定しているよりもずっと早くこの段階に入った。素晴らしい若者たちだ。もう僕が無理して引っ張る必要がなくなってきている。

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6月11日(火)

1.朝、私用で1時間年休。2時間目は7組で、3時間目は2組で、5時間目は7組で「にじの見える橋」の描写の確認。比喩が中心。放課後は期末テスト問題の打ち合わせ。16時に年休。使用を済ませて、18時から呑み会。あまりに話がはずみ、帰宅は3時半。馬鹿だ、おれ…。平日なのに……。

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6月10日(月)

1.1時間目は空き時間。TSUTAYAに行って買い物。2時間目と4時間目は5組と6組で漢字と聞き取り。3時間目は期末テスト作成。5時間目は1組で「にじの見える橋」の描写。比喩が中心。6時間目は学活で校外学習のまとめ。放課後は巡視のあと、期末テストを完成させる。17時きっかりに退勤。

2.大きなことが動き始めている。しかし、これは動き始めない方が安全のような気もする。悩みどころなのだが、悩まずに流れに任せようと思う。それだけの価値があると感じている。

3.多賀さんにいたずらっ子と評されていたとは知らなかった(笑)。

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6月9日(日)

1.土曜日。ふたり会。先月のあわせると話すべきことはある程度話すことが出来たような気はする。終了後、12人で小宴。その後、宿をとった五反田に移動して編集者と新刊の打ち合わせ。日曜日は9時に起きて羽田へ。同僚へのお土産、生徒たちへのお土産を買って帰路に就く。15時過ぎに帰宅。

2.新しい企画ができた。編集者がある本を提示して、こういう雰囲気のものを教育界に持ち込んだら面白いと思うのですが…とイメージを提示。それを受けて、3週間ほどかけて僕が構成を考えてみたら割と気に入るものができた。昨日、編集者に提示し返したら意気投合。一発で企画が固まった。おまけに派生企画も一つ固まった。良い編集者と出逢った。

3.新しい本の装丁候補を見た。10種類もあった。相変わらずイクタケマコトの仕事は面白い。いままでとは異なったイメージのものが多数あり、この人のイメージはどこまで膨らむだろう…と感じた。編集者とデコポン酒を呑みながら、二人で頭を抱えながら、なんとか一つに絞った。こういう時間が愛おしい。

4.【拡散希望/残席8】第5教室実践力セミナーin東京/ALL堀裕嗣/2013年6月23日(日)/上智大学/3000円/4年振りの担任復帰!4年振りの学年主任!学級経営・学年経営の原理原則
http://kokucheese.com/event/index/89308/

5.今週末は期末テスト。1週間まるごと完全下校なので、放課後に割と仕事が出来る週。楽しみごとの予定が三つ。たぶん、かなり楽しく、充実した週になる。

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6月7日(金)

1.東京です。御茶ノ水です。今日は一日中、球技大会という一日でした。良い大会でした。我がクラスは5組と並んで優勝でした。大会が終わり次第、学校を出て、大急ぎで帰宅してシャワーを浴び、新千歳に向かいました。22時過ぎに御茶ノ水に着きましたが、駅でバッタリ多賀一郎先生と逢いました。そのまま酒屋に行きました。会社で仕事をしていた学事の編集者を呼び出し、3人でいろいろな話をしました。1時過ぎまで呑みました。もう、明日はダメでしょう。9:00に行けるはずがありません。おやすみなさい。

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6月6日(木)

1.2時間目は7組で、3時間目は3組で、5時間目は2組で「にじの見える橋」の時間理系化の確認。頭括法を用いての作文。空き時間は小テストの採点。時間目は校外学習の解団集会。若手二人の学年協議会がよく機能していた。ビデオも好評。10分程度学年全体に話をする。放課後は小テストの追試。

2.今日の結論。結局、言葉にしてあげることも大切だってことだ。僕らの世代はついつい「言わなくてもわかるだろ」になってしまいがちなので気をつけなければならない。

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6月5日(水)

1.校外学習ビデオの編集完了。ふう。明日6校時の学年集会で上映。

2.今回のBGMは生徒たちの生まれ年である2000年の4月の月間1位「SUNRISE日本」(嵐)と5月の月刊1位「桜坂」(福山雅治)。この2曲に載せて生徒たちの画像・映像を流す。写真や映像の担任陣の表情を見ていると涙が出そうになる。良い学年団になりつつあるのを実感する。

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6月4日(火)

1.拙著『必ず成功する「学級開き」魔法の90日間システム』(明治図書)の第7刷が決まりました。こんな時期に……と驚きです。御陰様でご好評をいただいているようです。お読みいただいた皆様、ありがとうございます。

2.朝は球技大会の選手決め。1時間目は7組で、2時間目は3組で、4時間目は2組で「にじの見える橋」の設定の授業。範読・音読練習のあと、登場人物・主人公などを確認。5時間目は1組で要約指導のまとめ。空き時間は2組の若手女性担任と生徒指導関係の打ち合わせ。放課後は校外学習のビデオ編集。

3.編集者からメールが来たので何かと思ったら、次の本を早く書けとのこと。おいおい。一昨日1冊書き上げてホッとしているところだぞ。しかも今日明日は校外学習のビデオ編集でてんてこ舞いだ。おまけに一昨日仕上げた本のタイトルの検討メールまで来た。悪いけど、しばらく公務に専念したいなあ。いまは生徒にとっても学年教師団にとってもとても大事な時期だ。

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6月3日(月)

1.1時間目は1組で要約指導。2時間目は空き時間で誕生日通信用のCDをTSUTAYAに借りに行く。3時間目は3組で、4時間目は2組で要約指導のまとめ。5時間目は空き時間で学級通信の印刷の後、若手教師と打ち合わせ。6時間目は学活で校外学習の反省。放課後は巡視。退勤時間と同時に退勤。

2.帰宅後はちょっとだけ読書。その後、マグロの刺身で少しだけ大吟醸。さて、いよいよ次の著作に取りかかろうか。『「相棒」に学ぶ教育論』だ。第一文を何と始めるか。それが固まれば20頁くらいまではすいすい行くだろう。書くことが固まっている文章を書くときはそういうものだ。

3.書ける。この本は書ける。1頁ほど書き出してみてその確信を得た。今日はこれで充分だ。今夜はもう寝よう。昨夜は3時間弱しか寝ていない。完全に寝不足だ。今夜はもう寝ることにしよう。今日無理に書かなくても、この本は書ける。間違いなく書ける。その確信を得た。こんなことはとても珍しい。

4.

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〈多忙感〉と〈徒労感〉

〈多忙〉と〈多忙感〉とは異なる─あなたは仕事にとって最も大切なこの原理を自覚しているだろうか。言うまでもなく、〈多忙〉とは「忙しいこと」であり、〈多忙感〉とは「忙しいと感じること」である。〈多忙〉であるから〈多忙感〉をもつのだと多くの人が単純に考えてしまうのだが、実は〈多忙〉と〈多忙感〉との間にあるのはそんな単純な因果関係ではない。周りが感嘆するような〈多忙〉な生活を送りながら〈多忙感〉を抱かない人がいる一方で、周りからは暇そうな仕事ぶりに見えるのに〈多忙感〉に苛(さいな)まれている人もいる。いったいこの違いは何なのだろう。

例えば、「総合的な学習の時間」の導入によって教師の仕事が多忙を極めるようになったとの声を聞くことがある。しかし、「総合」の計画立案に目を輝かせ、周りが不思議に感じるくらいに生き生きと「総合」の授業に取り組んでいる、そんな教師があなたの周りにも一人くらいはいないだろうか。その教師は「総合」の導入によって、あなたに比べてはるかに大きな〈多忙〉に見舞われているはずだ。にもかかわらず、その教師はおそらく、「総合」に対してあなたが感じているような〈多忙感〉を抱いてはいない。

例えば、二○○二年の教育課程の改訂によって、更に今次の教育課程の改訂によって、放課後の時間に余裕がなくなったとの声をよく聞く。子どもたちとのコミュニケーションの時間が不足し、よりよい教育活動を行ううえで支障を来しているというわけだ。確かに六時間授業が増えたことが、行事指導や部活動指導、会議の時間を圧迫している。これは事実だろう。

しかし、あなたの周りにこの少ない時間で効率的に行事の準備を行い、みなが驚くほどに大きな成果を挙げている教師はいないだろうか。その教師が指導すると、子どもたちのステージ上の演技が躍動して見える。その教師が指導すると、子どもたちが自らのブレスにまで気を遣いながら美しいハーモニーを奏でる。そんな教師があなたの学校にも一人くらいはいるのではないだろうか。また、あなたの周りに、この少ない時間のほとんどを部活動に費やし、生き生きと部活指導に取り組んでいる教師はいないだろうか。会議が終わるとすぐに、一杯のお茶を飲む間さえ惜しんで部活の指導へと向かっていく、そんな教師があなたの学校にも一人くらいはいるのではないだろうか。

あなたの周りにいるこんな教師たちも、実はあなたが感じているようには〈多忙感〉を抱いていない。行事指導に熱心な教師は、行事指導のスキルをもっているから簡単に成果を挙げられるのだと思ったら大間違いである。行事の指導というものは、不得手とするあなたがやっても、得意とするその教師がやっても、やらなければならない仕事量にそれほどの違いがあるわけではない。しかし、行事指導を得意とする教師は、行事で成果を挙げることにやり甲斐を感じているから、その〈多忙〉が苦にならないのである。部活動に熱心な教師も、その競技が好きだからという理由で、趣味で指導しているなどと思っては大間違いである。毎日毎日子どもたちに指導を重ね、子とづもたちが少しずつ力をつけていくことにやり甲斐を見出しているからこそその指導にも熱が入るのである。彼らが物理的には〈多忙〉であるにもかかわらず〈多忙感〉を抱かない所以がここにある。いや、彼らだって実は〈多忙感〉を抱かないわけではない。ただ、彼らの〈多忙感〉はあなたとは異なり、心地よい〈多忙感〉なのであり、ポジティヴな〈多忙感〉なのだ。

ここまでを読んだあなたは、僕が、〈多忙感〉などというものは気の持ちようで何とでもなりますよ、やり甲斐をもって仕事をしましょうよ、そんなふうに主張しているように思われるかもしれない。しかし、僕の意図はそうではない。僕がここで強調したいのは、あなたの抱いているネガティヴな〈多忙感〉は、実は「〈多忙〉であること」が原因なのではない、ということである。では、あなたの感じている〈多忙感〉の原因は果たして何なのか。現在、僕ら教師をこれほどまでに圧迫している要因は、いったい何なのだろうか。

それは結論から言えば、〈徒労感〉にほかならない。

考えてみて欲しい。僕らは本当に〈多忙〉が嫌いなのだろうか。かつて、残業手当も出ないのに、子どもたちのためにと夜遅くまで学年の先生方といっしょに仕事をした、そんな経験があなたにもあるはずだ。かつて、学年の先生方と酒を酌み交わしながら、今度は子どもたちに何をやらせてみようか、こんなことをしたら子どもたちが一段と成長するのではないか、イメージがイメージを呼び、アイディアがアイディアを呼ぶ、そんな宴会をあなたも経験したことがあるはずだ。そんなとき、あなたもいまとは違い、充実した時間を過ごしていたのではなかったか。そして何より大切なのは、あの頃だって、あなたは忙しかったはずなのだ。そう、あの頃だって、決して暇ではなかったはずなのだ。なのにあの頃は、現在のようなネガティヴな〈多忙感〉を抱くことなどなかったのである。いま考えれば、あの頃はそんな〈多忙感〉さえ、どこか心地よいものだった。いったいこの違いは何なのだ。

そう。あの頃の仕事は、どんなに忙しくても、〈徒労感〉がなかったのである。頑張れば頑張った分だけ、子どもたちの目が輝いた。頑張れば頑張った分だけ、同僚が認めてくれた。子どもにとって、同僚にとって、自分は必要な人間である、そう実感することができた。自分は子どもたちとつながっている、同僚の先生方とつながっている、その実感があったからこそ、〈多忙〉ごときはものともせずに頑張ることができたのである。

なのにいま、僕らには子どもたちとつながっているという実感がない。自分なりに頑張ってみても、子どもたちつはこちらに振り向いてくれない。懸命に教材研究を重ねて臨んだ授業なのに手応えがない。子どものためと思って施した指導に対して、保護者からクレームが寄せられる。次第に生徒指導における優先順位が、「子どもたちに成長を促すこと」から「保護者からクレームが来ないこと」に移っていく。こんな指導をしたって、子どもに伝わるはずもない。そんな思いが〈徒労感〉を生んでいく。

子どもたちだけではない。いま、僕らには同僚とつながっているという実感さえない。校務分掌の役割分担が明確化され、行政から求められたアリバイづくりの無意味な調査、無意味な文書の作成に追われている。みんな自分の仕事をこなすことで精一杯。そういえば、職員室に笑い声が響かなくなって何年たつだろうか。各々が黙々とPCに向かっているだけの職員室。音をたてることさえはばかられる。職場の宴会は年に三度、歓迎会と忘年会と送別会だけである。それも一次会が終わると、潮が引くようにみな帰って行く。自分の仕事は自分でやるしかない。成果などまったく見えない。そこに仕事があるから片付ける。仕事がルーティン化していく。そしてそれが〈徒労感〉を生んでいく。

いまあなたが抱いているネガティヴな〈多忙感〉は、このような負のスパイラルに取り込まれていることに起因しているのである。もしもあなたが現在の〈多忙感〉を打開したいのなら、まずはこの構図をしっかりと見据えることだ。行事指導に熱心な教師は、いまなお、子どもたちの目の輝きを実感しているのである。部活指導に熱心な教師は、いまなお、自分が子どもたちに力をつけていることを実感しているのである。「総合」に熱心な教師も、自らの「総合」の指導が子どもたちにとって良い方向に機能しているという実感を抱いているからこそ頑張れるのである。喩えて言うなら、あなたの時間が死んでいるのに対し、これらの教師たちの時間は活きているのだ。死んでしまっているあなたの時間を再び活き返らせること、それ以外に、あなたの〈多忙感〉を打開する手立てはない。

死んでしまっているあなたの時間を活き返らせるためには、二つのことに取り組まなければならない。

一つは、あなた自身が自分の得意分野で成果を出すということである。あなたが得意としているのは、授業だろうか生徒指導だろうか部活指導だろうか、それとも行事や生徒会活動といった特別活動だろうか。何でもいい。勤務校において自分が成果を挙げていると、自分自身が実感できるような分野をもつことである。これだけ〈徒労感〉を感じさせる学校教育の現状である。自分の取り組む仕事のすべてに成果を挙げ、すべてに満足感を得ることなど夢想してはいけない。たった一つでいい。自分の得意分野にもう一度、精一杯に取り組んでみることだ。その時間が次第に、あなたにとって〈活きている時間〉になっていく。そしてその〈活きている時間〉を大切な時間だと思い始めたとき、その他のルーティンワークにかける時間が惜しくなってくるはずだ。その気持ちがあなたを、「なんとかこのルーティンワークを効率的に進める手立てはないか」という思考に誘(いざな)っていく。こうなればしめたものである。ここまで来れば、ルーティンワークにかける時間が、仕事の効率性について考える機会となっていく。どれだけ単純作業を効率的に行えるのか、その効率の度合いが成果として意識されるようになる。次第次第に、ルーティンがルーティンでなくなっていくのだ。それは取りも直さず、ルーティワークの時間が〈活きている時間〉になっていくことを意味するのである。

いま一つは、職員室に共同性を回復することである。もちろんこれは一筋縄ではいかない。あなたがかつて経験したように、子どもたちのためにみんなで残業しようと投げかけたり、宴会でよりよい教育について語り合おうなどと誘ったとしても、同僚から鬱陶しがられるだけである。しかし、同僚に対して「あなたが必要なのだ」「あなたがいなければ仕事が成り立たないのだ」というメッセージを発信し続けることはできるはずだ。あなたが管理職なら、あなたは自分の学校の先生方に「あなたの功績は大きい」と言ってあげるといい。あなたが学年主任なら、あなたは自分の学年の若手に「きみの仕事がこの学年の安定に大きく貢献している」と言ってあげるといい。あなたが新卒数年の若手教師なら、先輩教師に「先生のここを真似したらうまくいきました」と伝えてあげるといい。こうした何気ないやりとりが、実は職員室を少しずつ、しかし確実に活性化させていくのである。あなたが職員室の雰囲気に閉塞感を抱いているのなら、まずはあなたがこうしたメッセージを発信し始めてはいかがだろうか。管理職や先輩教師から自分の存在を認められる、後輩から自分が頼りにされる、それを意気に感じない人間などいないのである。互いに互いの存在感を認め合うこうした人間関係こそが、実は〈活きている時間〉を大きく補強していくのである。

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〈不適格教員〉と〈学校評価〉

学校が悲鳴を上げている。

いま学校に必要なのは、従来から学校の前提として機能していた「共同性」の回復である。職員室の共同性、学年団の共同性、学級の共同性、学校システムを包み込む地域の共同性……。しかし、現在の教育改革は、これらすべての共同性を解体していく方向に進んでいる。いま学校に求められているのは、「共同性」の解体、「市場原理」の導入である。学校選択制の導入、教員人事考課の導入、教員給与格差の導入、免許更新制の導入……。そしてこれらの政策には、その発想の前提として「指導力不足教員」「不適格教員」の排除がある。

もう一度、言う。学校は悲鳴を上げている。

教員免許更新制の目的が「不適格教員の排除」を目的に語られるようになったことは何を意味するか。更新された十年間の免許を前提に、教員が自信をもって教育活動をできるようにという意図で「中教審」が提言した免許更新制。それが教育バッシングと文科省に対する既得権益バッシングの中で、文教政策のイニシアチブが教育専門家委員会としての「中教審」から、教育素人集団としての「教育再生会議」へと移行した結果、教員免許更新制の目的もまた、「不適格教員の排除」へと移行していった経緯がある。かつての「教育再生会議」では渡辺美樹を中心に、教員全体における「不適格教員」の比率の議論があった(当時の1%という文科省報告に対し、20~30%程度を「不適格教員」が占めるのではないかという議論/第2回学校再生分科会議事録)が、実は、非専門家に見られるこうした議論にこそ学校システム問題の本質がある。

僕は現在、「指導力不足教員」「不適格教員」の比率を現場的実感から10%程度と見ている。ただ、ここで声を大にして言いたいのは、十年前ならばこの実感は2%程度だったのだということである。十年前なら、「不適格教員」など各学校に一人いるかいないかであったのだ。つまり、この十年間で、「こいつは不適格教員ではないか」と思われる教師が、五倍程度に増えているのである。では、その教師たちの能力が落ちたのだろうか。つまり、教員の質が低下したのか。おそらく、そうではない。この十年間で、〈教師であること〉が格段に難しくなってきているのである。〈教師であること〉が難しくなると、相対的に他の教員にフォローしてもらわなければならない教員が増えてくる。逆に言えば、心ならずもフォローしなくてはならない教師たちから見れば、「迷惑な人」が増えるわけだ。僕は特別優秀な教員ではないが、それでも自分の仕事くらいならそつなくこなす程度の力はもっている。少しくらいなら同僚のフォローもできなくはない。しかしながら、フォローを必要とする教員の数が多くなってくれば話が変わってくる。「力のある教師」が支えきれなくなっていくのだ。いったいこの責任はだれにあるのか。

できる限り行政批判はしたくないとの思いで仕事をしてきたが、これだけは「行政に責任がある」としか言いようがない。学校の環境整備を一切することなく、学校教育に予算措置を講じることもなく、過剰な要求だけはどんどん積み上げていく。たかだか偏差値55~60程度の集団でしかない一般教員に、過剰な要求を突きつけすぎなのだ。マスコミでは忙しさに教師が疲弊していくことが取り上げられるが、実はそこに問題の本質はない。

かつての「教育再生会議」の提言では、学力向上策として、授業時間数の10%増や土曜日授業の可能性を前提として、①時代に合致したカリキュラム(主権者教育、法教育、消費者教育等)の編成、②読書算的学習の反復、③読書指導の充実、④食育の充実、⑤国語教育の充実、⑥英語教育の充実、⑦IT機器の積極的導入、⑧国による到達目標の明示、⑨客観的な絶対評価と、錚々たる項目が並んでいたが、学校現場にとってこれらの同時達成はきわめて困難を伴う。また、現在の「教育再生実行会議」においては道徳の教科化や小学校英語の教科化が真剣に議論されている(執筆時点では結論が出ていないので詳述は避ける)。

そもそもこんなものをだれが同時にできるのか。すべての組織がそうであるように、学校の職員室だって2割の人間に8割の仕事が集中しているのである。性急な教育改革を進めようとすると、各学校は性急なシステム整備を進めようとする。性急なシステム整備をできるのは、学校の仕事の8割を担っている2割の教師たちである。しかも、この2割の教師たちはパンク寸前になり、他の8割の教師のフォローをできなくなる。校長・教頭・主幹・主任にも仕事が集中し、他の教師のフォローをする余裕がなくなっていく。刻一刻と学校内の「共同性」が壊れつつある。

学校を学校として機能させようとすれば、それほど優秀ではない「普通の教員たち」が「普通に働ける」仕事量にするか、或いは、「普通の教員たち」が「普通に働ける」程度に人員を増やすかしかない。「不適格教員」は増えているのではない。「不適格教員」は増やされているのである。

実はもう一つ、心配事がある。学校教育に市場原理を導入して競争を起こす。競争に敗れた学校は廃校になる怖れから努力をし、教員の質も学校の質も上がっていく。また、競争に勝利した学校は、その待遇の良さを維持しようと更に努力を重ね、よりよい学校づくりへと邁進する。結果、すべての学校がよくなっていく。教育行政の、或いは政治主導の教育改革の目論見は、こうである。しかし、現実的に考えれば、こううまくいくものではない。

苅谷剛彦によれば、教員養成課程大学への志願者が年々減少していると言う。一九八八年に約十万八千人だった志願者が、一九九八年には六万四千人、二○○七年は四万七千人にまで減少した。十八歳人口の減少を計算に入れても、これは減り過ぎである。十八歳同一年齢人口比に照らしても、一九八八年に五・七%が教員志望であったのに対し、二○○七年は三・六パーセントにまで落ち込んでいると言う(前掲『教育再生の迷走』)。これに対して、団塊世代の大量退職時以来、教員採用の枠は全体として広がっている。実はここ数年、そしてこれからも、質の良い新採用が入ってきたという保障がないばかりか、相対的に見れば、今後も教員の質は下がり続けていくと見なければならない。

こうした時代の中、学校教育の制度自体はおそらく維持されていく。アメリカやイギリスを初めとして、かつて市場原理を導入しての教育改革が行われた先進国において、学校制度自体を廃止した国はない。とすれば、学力向上や規範意識の育成が求められる中で、しかも教員の質が低下する中で、学校現場は教育活動を行っていくことになるわけだ。この状況をどう乗り切ればよいのか。果たして乗り切る手立てはあるのか。

昨今、小学校と中学校とを比べた場合、小学校教育の方がより多くのトラブルを抱えている。その最たるものは学級崩壊だろう。中学校は不登校が増加している以外には、ここ二十年ほどそれほど大きなシステム的な質の低下が見られない。これはおそらく、八○年代の校内暴力を通過した中学校では、職員室の共同性が確保されているからである。つまり、中学校には、学級担任が自分の学級の子どもたちを指導しているというよりも、学年教師全員で学年のすべての子どもたちをいっしょに指導しているという意識があるからである。学級担任がしんどそうなときには学年の生徒指導係や学年主任が当然のこととしてフォローに動く。生徒指導係がある子どもにきつい指導をした場合には、母性的な雰囲気のある教師がその子の気持ちをケアする。多くの中学校ではこうした体制ができている。おそらく、現在の子どもたちに対する「学力の向上」「規範意識の醸成」を、教員の質の低下の中で行っていくにはこのチームワーク指導しかない。それが教育活動をより機能させていくばかりでなく、新規採用者を「育てるシステム」にもなっていくはずた。

ここ十年で所謂「学校評価」が定着したが、外部評価としての学校評価、内部評価としての学校評価ともに、一般的には、教育内容の項目として「学力の向上」と「規範意識の醸成」が細かい項目となって並んでいるはずである。また、教育システム項目としては、「保護者・地域との連携」が重視されているはずだ。教育内容的には「公共性」を、教育システム的には「共同性」を、というわけである。しかし、「共同性」の回復は保護者や地域ばかりが対象ではない。職員室の「共同性」こそが最も重要なのである。学校の自己評価では、「各教員の連携はとれているか」「組織は機能しているか」という観点が最重要なのである。

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〈密度〉と〈濃度〉

〈密度〉が高くなっているのに〈濃度〉が低くなっている。

比喩的に言えば、僕は現在の学校教育にそんな印象を抱いている。

〈密度〉とはカリキュラムの密度である。教育再生会議から現行の指導要領に至るまで、あれやこれやと提案されたものが須く学校教育に採り入れられ、教師がその意義もシステムも理解しないままに垂れ流し的に実践する。あれやこれやと忙しくはあるけれど、その意義がわからないからだれも本気で取り組んでいない。アリバイづくりのような教育カリキュラムがアリバイづくりのように体験させられる。そんな教育活動が子どもたちのなかに残るはずもなく、アリバイづくりはアリバイづくりとしてのみ機能していく。アリバイづくり以上の教育効果がない。そんな印象である。

一方、〈濃度〉とは心情の濃度である。興味・関心を抱いたり意欲的に取り組んだり、みんなで大笑いをしたり、夢中になったり……。そんなポジティヴなものでなくても良い。激しい怒りを感じたり、何かが出来なくて自分はダメだなあと感じたり、或いは「こんなことは絶対にやりたくない」と激しい拒否反応を示したり、そんなネガティヴな心情の濃度の低下も著しい。気持ちの持って行き場がなく、拠り所がなく、子どもたちの心情も教師たちの心情もどこか浮遊している、そんな印象である。

この国の教育改革は二十一世紀に入って、〈ネガティヴリスト〉による改革から〈ポジティヴリスト〉による改革へと大きくシフトした(『教育再生の迷走』苅谷剛彦・筑摩書房・二○○八年一一月)。教育内容を「これこれはしてはいけない」といった限られた禁止事項によって規定する在り方から、「これこれをした方が良い」と必ずしもしなければならないわけではないが、できればした方が良いことをすべて取り入れる規定の在り方へとシフトしたわけだ。例えば、「体罰をしてはいけない」「思想教育をしてはいけない」「宗教教育をしてはいけない」と禁止事項で教育内容を規定する在り方から、「情報教育が必要だ」「食育はやった方が良い」「英語教育をした方が良い」「消費者教育も必要だ」「主権者教育も必要だ」とそれぞれの利益団体が主張する「できれば採り入れた方が良い教育」がすべて採り入れられる在り方へ、教育改革の基盤となる発想が大きく変化したのである。その結果、教師は次々に現れる新しい教育内容に右往左往しながら戸惑うことになった。或いは次々に現れては消えていく新しい教育内容に目移りしながら、自分は何が得意なのか、自分はどの分野で生きていこうかと自分探しにいそしむ。そんな教師たちの姿ばかりを見るようになった。

かつての〈ネガティヴリスト〉による学校運営においてならば、多くの教師はこのような悪弊に陥ることはなかった。「これこれをしてはいけない」という規定を主として運営されるということは、逆に言えば「これこれさえしなければ何をしてもいいよ」ということである。そこには一人ひとりの教師に「自分の得意技を教育活動に活かせ」という裏のメッセージがあった。だから教師たちは「自分のやりたいこと」「自分が他の教師よりもできること」を自らの教育活動の基軸として機能させることができた。そしてそれは自らが得意とすることだけに、熱心に、自信をもって子どもたちにあたることができた。必然的に子どもたちにも機能しやすいという特徴をもっていた。結果として、教師の実践の多くはアリバイづくりに陥るようなことがなかったのである。

もう一つある。二十一世紀に入って、教育の理想が「○○のないの学校」と非定形で語られるようになった。「いじめのない学校」然り。「体罰のない学校」然り。「管理をし過ぎない学校」「差別ない学校」「落ちこぼれのない学校」然り。なかでも、現在、世の中が声を大にして叫んでいるのが、「いじめのない学校」と「落ちこぼれのない学校」であるように思う。現在の教育論の中心が「いじめ撲滅」と「学力向上」に彩られていることが僕の印象を跡づけている。こうした否定形による理想像の在り方は、まったく生産性がないように思う。「○○のない学校」というテーゼがただ単なるゼロ・ベースを表しているに過ぎないということに、多くの人たちが気がついていない。「○○がない学校」というのは、「○○」という「マイナス」を措定し、その「マイナス」を排除した学校ということでしかない。「マイナス」がなくなる、つまり、ゼロだ。「マイナス」がないことが、決して「プラス」の学校像を創り出すわけではない。「いじめ」がないことも「落ちこぼれ」がないことも、「人間関係の良好」や「学力の向上」を担保するものではない。確かに「いじめ」も「体罰」も「管理」も「差別」も「落ちこぼれ」もない方がよいのかもしれない。しかし、「ない」ということは「ない」以上のことではあり得ない。それが果たして理想像となり得るのか。

現在の学校教育は否定形で語られる教育の理想像を当然の前提として想定しながら、〈ポジティヴリスト〉の教育改革によってあれもこれもと採り入れられる。そんななかで学校が具体的に教育活動を行おうとするときには、前者に関しては「あれがある」「これがある」と否定され、後者に関しては「あれが行われていない」「これが行われていない」と否定される。両者の板挟みに合って教師が忙殺される。管理職や教育行政はその現実に敏感にならざるを得ず、更に管理を強化する。教師は更に忙殺され、行政も管理職も子どもも保護者も、そして何より教師本人も、だれもが教師が自らの得意技を活かしながら教育活動を行うことを求めているというのにそれができない、こうした悪循環がはびこっている。

カリキュラム上の〈密度〉が高くなっているにもかかわらず、教師や子どもたちの心情的な〈濃度〉が低くなっているのはおそらくこうした構造にもとづいている。

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