コンテクスト
事例の1。まずは、次のスピーチを読んでいただきたい。
「私のまずい英語でご勘弁ください。参加者の中で私が最年長だと思いますので、みんなを代表して一言ご挨拶申し上げます。参加者一同、このセミナーに心から感謝しております。諸先生方のお骨折りに対して衷心からのお礼を申し上げますこと以外は、何も申し上げることがありません。/ご存知のように、日本の英語教師は、なまの英語を聞く機会がほとんどありません。このセミナーに参加できたおかげで、英語を教える上で、格段の進歩が見られることは申すまでもありません。ご丁重なご指導に、重ねてお礼を申し上げます。」
いかがだろうか。多くの読者は社交辞令的だとは思うだろうが、よくある、それほど違和感を感じないスピーチに過ぎないものだと感じられるに違いない。このスピーチは直塚玲子が『欧米人が沈黙するとき』(大修館書店・一九八○年一月)に引いた例で、日本人の英語教師と欧米人との混成グループによって一週間の集中セミナーが行われたあとの打ち上げの席でのものだと言う。もちろん、スピーチをしたのは日本人である。
中島義道はこのスピーチを題材にして様々な国籍の人々にこれをどう思うかを訊いてまわったと言う。その結果、「講師が求めていることに、何一つ答えていません。建設的な批判はどこにも見あたりません。仕事の質は全然問題にしないで、労働だけに感謝しています。」「このスピーチには、話し手の個性が全然反映されていません。まるでロボットがしゃべっているみたいですね。外国人講師が主催する他のどんなセミナーでも、一行も変更しないで、そっくりそのまま使えます。どこででも通用するようなスピーチは、礼儀にかなったスピーチとは、言えません。」「スピーチを行った人は、出しゃばりすぎで、責任をとりすぎています。だれも彼を代表者に選んだ覚えはありません。」「この人のために、ほかの参加者は自由に批判ができなくなっています。」といった意見が聞かれたと言う(『〈対話〉のない社会』中島義道・PHP新書・一九九七年十一月)。いかがだろうか。唖然としないだろうか。別に日本人だってこのスピーチが大好きというわけではない。だらだらとどうでもいいことをしゃべっているなあ、とは感じる。しかし、ここまで具体的な思考をもって批判する対象とは決してしないだろう。文化の違いとは要するにこういうことなのだ。
事例の2。平田オリザが講演や著書のなかでよく使う例だ。結婚した当初、ほんの些細なことが大きなトラブルへと発展することがある。例えば、電子レンジを「チン」と呼ぶ家庭で育った夫と「レンジ」と呼ぶ家庭で育った妻。夫がちょっとだけ冷めかかった料理を妻に渡して、何気なく「ちょっとこれチンして」と頼む。三十年近くの長きにわたって、そういう場合、「ちょっとこれレンジにかけて」と言う家庭で育った妻は、夫の物言いに対して幼児的なかわいらしさを感じる。ちょっとだけ嘲笑の混じった薄笑いを浮かべる。しかし、夫にはそれが許せない。自分は馬鹿にされた。しかも、自分にとっては普通の、そして当然の言葉遣いが嘲笑を受け蔑(さげす)まれた。いたくプライドが傷ついてしまう。「チンして」と言うか「レンジにかけて」と言うかというほんの些細な違いが、○○家と××家のプライドをかけた諍(いさか)いに発展する。端(はた)から見ればあまりにも小さな、かつあまりにも馬鹿馬鹿しい問題が、本人達も気づかぬうちにお互いの両親兄弟、一族のプライドをかけた深刻な問題へと発展していく。これはお互いに自分が育った環境が異なるというちょっとした過程の文化のズレによる些細な指摘が、人格を否定されたかのごとき重みをもって感じられることによって生じた、馬鹿馬鹿しくも深刻な問題である。
しかし、こうした諍いは、結婚生活が一年たち、二年たちするうちに、次第に減っていくものである。三年もたてばほとんどなくなる。お互いに距離感覚がわかってくるからである。夫婦関係が安定してくると言ってもよい。まあ、この時期になると、こういう小さなコンテクストの違いによる諍いではなく、本格的なトラブルが生じてくる夫婦も、決して少なくないけれど(笑)。
事例の3。年度当初、転勤者の中に、妙に自分の能力に自信たっぷりの人物が入ってきた。職員会議はもちろん、すべての校内会議で前任校と比較しながら「この学校のやり方はおかしい」と何かにつけて文句をつける。確かに一理あるのだが、もともとこの学校でそのシステムに慣れ親しんでいる自分から見ると、正直そうまでこだわらなくても……と思ってしまう。ひと月も経たないうちに、その新任者が職員室で浮き始める。「ああ、○○さん浮いてきたな……」という空気が読めたところで、職員室でも信頼を集めている教務主任とか長くその学校に勤めている職員が「うちはかくかくしかじかでこういうシステムだから」と新任者を諭し始める。或いは最初から、この学校は自分が仕切っていると思っている教務主任や古くからいる職員が「うちはこういうシステムなんだ!」と喧嘩を始める場合さえある。どちらにしても新任者には分が悪い。少なくとも昨年はこのシステムでやってきたのである。もともといる職員にしてみれば、慣れたシステムの方が対しやすい。積極的に会議で発言まではしないけれども、なんとなく「現状維持でいいじゃん」という空気が支配的になっていく。しかし、三ヶ月が経ち、半年が経つうちに、新任者もなんとなくうまく立ち回れるようになり、職員室の雰囲気にも落ち着きが戻ってくる。これは学校間による職員室運営の文化の違いが招くいざこざである。まあ、教員を五年やれば二回くらいは、十年やれば五回くらいは経験する事態だろう。
三つの事例を紹介してきた。どれも規模の違いはあるにせよ文化の違いがもたらしたトラブルである。しかし、事例1と事例2・3との間には決定的な違いがある。それは事例1が文化の断絶において歩み寄りのあり得ない事例であるのに対し、事例2・3が今後の歩み寄りの可能性を大きく残した事例であるということだ。従って、事例1においては両者がコミュニケーションを図ろうとすれば平田オリザの言うような〈作法〉が必要となるが、事例2・3においては両者が本音ベースでコミュニケーションを取り続けたとしても時間が解決していく可能性が高い。その意味で、前者は文化の断絶と言えるが、後者は実は文化の断絶とまではいえないのかもしれない。
さて、ここで言う「文化」、コミュニケーションの前提となる「文化」のことを一般に〈コンテクスト〉と呼ぶ。日本人のスピーチに対して外国人が否定的に捉えるのは、スピーチをした日本人の〈コンテクスト〉とそれを批判的に捉える外国人の〈コンテクスト〉に齟齬があるからである。些細なことで夫婦喧嘩が勃発するのも、電子レンジを「チン」と呼ぶ〈コンテクスト〉をもつ夫と「レンジ」と呼ぶ妻の〈コンテクスト〉の間に齟齬があるからだ。転勤してきた新任者がよく軋轢を起こしやすいのも、新任者のなかにある前任校で形成された〈コンテクスト〉とその学校の多くの職員のなかに形成されている〈コンテクスト〉とが齟齬を来しているからである。コミュニケーション不全が生じたとき、多くの人たちが言葉、要するに発せられた表現が問題だと感じるが、むしろコミュニケーション不全は〈コンテクスト〉の齟齬によって起こる事案の方が圧倒的に多いといえる。
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