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5月11日(土)

1.今日は久々、札幌市内、「ことのは」主催の国語科研究会。山下くんの企画。とはいえ、昨夜……というか今朝、5時半まで飲んでいたので朝は立ち上がれず。出番は夕方だったので、午後からの参加。ヨネマの講座、和寛の講座と若手の成長が垣間見られた、そんな一日。執筆が人を育てるのは確かだ。帰宅後、爆睡。22時に目覚める。なんとか必要睡眠時間を満たしたようである。さて、少し仕事をするか。

2.石川晋の明日の教室・東京分校に関するツィート、FBのコメント等に目を通す。僕の石川に対する認識とイメージの異なるものが多い。別に驚きはしないが、ひと言でいえば石川の発言のいろいろが綺麗事として捉えられているということだ。僕の発言も綺麗事としてとらえられることが多いのでよくわかる。メッセージの表層義だけが捉えられている、そんな気がしている。石川実践の根幹には承認欲求がある。それもファシリテーションや協同学習で提案されているような「互いに承認し合いましょう」などというレベルのものでなく、もっと哲学的なといおうか、実存主義的な承認欲求を僕は感じている。だから読み聞かせも学級通信も活動型の学習も、すべてが自己承認に必然的に還っていく構造になっている。しかも一つの活動、一つの通信が自己承認を求めているのでなく、それらが積み重ねられることによってベクトルが石川晋に向かうように、無意識的に設計されているところに石川実践の本質がある。

3.かつて演劇部で指導していた生徒に、「普通の演出者は役者に上手さを求める。だから自分なりに上手い演技を考え、練習し、演技すれば、それで評価される。でも、堀先生の基準は上手さじゃない。堀先生の観念世界をどう表現するかが求められる。何より堀先生の観念を理解することが最初に求められる。その段階に到達するのに膨大な時間がかかる。それが役者にはとても辛い時間となる。」というようなことを真顔で言われた。いまも舞台に立ち続ける教え子にこういう的確な評価を受けてしまい言葉を失ってしまった。

4.結局、演出と役者と舞台のそれぞれの係の間で観念世界の一致に到達すると、細かな細かなディテールのなかのディテールに至るまで、一切の矛盾がなくなっていく。それがとてつもない完成度を産み出す。この生徒はもちろん僕の芝居で主役を張った生徒なわけだが、本番では涙を流しながら役に完全に入り込んで演技したと言う。それでいて、音響や照明とのタイミングは完璧だった。0.1秒のズレもなかった。「聞こえなかったのよ~」と叫んだ瞬間に、BGMの音は的確なメロデイが流れ、そこに大きな列車の汽笛が重なり、照明がボワッと赤に変わる。あの瞬間、僕は自分のつくった芝居でありながら、それもたかだか中学生の部活動でつくった芝居でありながら、背筋が寒くなるのを感じたのを鮮明に覚えている。この生徒も幾多の芝居を経験した三十代半ばにして、その瞬間をある種の形象としてはっきり覚えているという。到達すべきはそうした境地である。芸術とまでは言わないまでも作品とはそういうものだ。
一般に、役に入り込むタイプの自己満足型の役者と、観客にいかに見えるかを意識するメタ認知型の役者とがいるが、この二兎を追い両立させるには、前者のタイプの役者に徹底して「見られる自分」「他人の観念を理解する自分」という境地に到達させるのが一番の近道なのだろうと思う。
こんなことを考えさせられた。

5.昨夜、長麻美と呑んだ。19時から寿司屋で演劇談義を始め、終わったのは朝の5時19分だった。20年以上も前に、26歳の青年教師と14歳の少女だった二人が真剣にぶつかった夏が、お互いの口からそれぞれの心象が語られる時間。これを至福と言わず何と言おう。教師冥利とはこういうことを言うのかもしれない。

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