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2013年5月

エピソードで語る教師力の極意

Cover1304新刊『エピソードで語る教師力の極意』(堀裕嗣/明治図書)のamazonでの予約販売が始まりました。僕が何を考えて教職を続けてきたか、若い頃にどんな悩みを抱いていたか、そんなことを書き綴りました。

新刊『エピソードで語る教師力の極意』(堀裕嗣著/明治図書)が4月10日(日)に刊行です。明治図書のHPには「堀 裕嗣が具体的なエピソードで語る“教師の生き様” 教師・堀裕嗣が、20数年の教師生活を支えてきた方法や発想をエピソードとともに紹介。「新卒時代」「学生時代」「演劇部顧問」「『研究集団ことのは』代表」「振り子論者」「メタ認知論者」「学年主任時代」などの章による具体的なエピソードで、教師力の極意を直伝!」と書かれていますが、ちょっとかっこよすぎます。石川晋・山田洋一とともに3冊同時刊行です。

まえがき
序章 エピソードで語る教師力
第1章 新卒時代の肖像
―礎(いしずえ)
一 教師が素の人間として生徒を愛すことは善か悪か
二 たとえそれが教育と背馳したとしても
三 子ども時代の自分と教師としての自分と
四 再び、教師が素の人間として生徒を愛すことは善か悪か
第2章 学生時代の肖像
―弔辞
一 観の確立と、感性の陶冶と
二 機能し切ること、未来に開かれていること
三 新しい「大きな物語」を探し求めて
四 メタレベルの視座を生活世界内に投げ返す
五 度しがたい軽薄な兆候と、こっけいなアナクロリズムと
第3章 学生時代の肖像
―「君をのせて」(堀裕嗣作・一九九五年)
一 教師は生徒たちの人生にどこまで責任をもてるのか
二 自己愛によるエゴイスティックな構造に陥ってはならない
三 悪ではないが善でもない、ただし、罪を犯すことが少なくない
第4章 「研究集団ことのは」代表の肖像
―研究集団ことのは
一 一年半を費やした仕事は失敗に終わった
二 「研究集団ことのは」の曲折はすべて自分に責任がある
三 再び、ただの中学校国語科教育の研究サークルに戻る
四 書けば書くほど、書くべきことは増えていく
五 学びはできるだけ「異質なもの」を対象としなければならない
第5章 振り子論者の肖像
―学力形成派と人間形成派
一 最初の卒業生に喪失感より充実感を感じて
二 あっちの水の甘さを知ってこっちへ戻ると更に甘くできる
三 「学力形成」派の本質は「割り切ること」である
四 再び振り子を振らなければならないそんな想いに駆られる
第6章 メタ認知論者の肖像
―夏期研究集会に参加して
一 教師としての問題の本質は「他者の不在」である
二 自己と他者を見出し、その構造を思考させ表現させる
三 自分自身の認知過程をモニターし制御する
四 「成長せよ」と「そのままでいいんだよ」と
第7章 学年主任時代の肖像
―「うらやましい」と言われたこと
一 私の若手育成は自分本位の打算から始まった
二 再び、メタレベルの視座を生活世界内に投げ返す
三 「チーム力であたる」は私としては苦肉の策だった
四 リーダーは若手に成長実感を保障しなければならない
五 教師人生にも往路と復路がある
終章 再び、エピソードで語る教師力
あとがき

まえがき

ここ数年、幾冊もの書籍を上梓させていただきました。内容はどれもこれも私一人では決して到達できなかった、多くの方々との共同作業で形づくられてきたものばかりです。また、これまで関わってきた生徒たちを抜きにしては考えられなかったものばかりでもあります。「エピソードで語る教師力」として一書をまとめよということは、そうした人とのつながりを綴れということなのだと感じています。

確かに私は二十年余りの教師生活において、幾多の先達と出逢い、数多の影響を受けてきたという自負があります。また、多くの若手教師たちとも日々関わり続けています。職場だけでなく、サークルや研究会など、一般の教師が経験できないような多くの出逢いを経験してきました。既に鬼籍に入られた方から現役の教員養成系大学の学生に至るまで、多くの出逢いと学びとを経験してきました。その出逢いと学びから私の得たものを綴れということなのだとも感じています。

本書は「新卒時代」「学生時代」「演劇部顧問」「研究集団ことのは」「振り子論者」「メタ認知論者」「学年主任時代」という七つの章からなりますが、すべての章に当時のエピソードを綴った私の文章を冒頭に掲載し、それを解説していく形で語り進めていきます。また、私の当時の問題意識が読者の皆さんに伝わるように、できるだけ具体的に出来事を語っていくことに努めました。加えて、その時々の教育活動に使った曲、或いはその時代に私がよく聴いていた曲を紹介し、当時に私と付き合いのあった方々には「ああ、あのときの曲だ」とわかる、そんな趣向も凝らしています。

そうした私のこだわりが成功しているか否かは読者の判断に委ねるしかありませんが、私としては精一杯、書けることについては書いたつもりです。どうぞ御笑覧いただき、御批正いただければ幸いです。

序章 エピソードで語る教師力

皆さんは「戦場のメリークリスマス」という映画を御存知でしょうか。一九八三年公開、大島渚監督の大ヒット作です。デビッド・ボウイ、坂本龍一、ビートたけし、トム・コンティらの出演した、私たちの世代にとっては想い出深い映画です。私がこの映画をロードショーで見たのは高校二年のときでした。

この映画に印象深いシーンがあります。

日本軍の捕虜となった英国軍人のデビッド・ボウイが軍律会議にかけられます。軍律会議にかけられても反抗的な態度を崩さないデビット・ボウイに対して、内藤剛志演じる審判官がその人物像を把握しようと問い詰めます。

Yo​u must tell us your pass history.

しかし、デビット・ボウイは即座に、吐き捨てるようにこう言います。

My past is my business.

「お前はこれまでの生育歴を語るべきだ」と言った審判官に対して、「過去は私だけのものだ」とデビット・ボウイが返した……といったような意味合いですね。もしかしたら、あくまで私にとって印象深いシーンであって、一般的には、この映画の根幹をなすシーンとはみなされていないのかもしれません。しかし、私はかなり重いシーンだと感じています。私が高校時代からこのシーンを印象深く感じているのは、おそらくここに日本人と西洋人との一番の違いがあるように感じたからなのではないか、自分ではそう考えています。

「エピソードで語る教師力」という企画が持ち上がったとき、実はちょっと引いてしまっている自分を感じていました。山田洋一先生の発案でした。私と山田洋一先生に編集者が三人、五人で飲んでいたときのことです。確か西新宿の魚と日本酒のおいしい小さな居酒屋でした。いろいろな先生方に、どのようにいまの自分が形成されてきたのかをエピソードを中心に語ってもらおう、それがこれから教師人生を充実させていこうとする若い読者のヒントになるのではないか、そうした発想での提案だったように思います。

私は「それはいいね」と応じました。その提案の時点で、私の頭の中には、自分がそれを書き綴るメンバーにされるという頭がなぜかなかったのでした。山田洋一先生の提案だったものですから、なんとなくこの企画は小学校の先生の企画だと感じていたのです。しかし、話が進んでいくと、執筆者は十人、小学校教師が七、八人に中学校教師が二、三人、そういう話になってきました。どうやら小学校教師の企画なのだろうと考えていたのは私だけで、その場にいた私以外の人たちは、みんな私も書くものだと考えていたようです。

それから数ヶ月、自分には何が書けるのだろうかとなんとなく頭の片隅に意識されている、そんな毎日が続きました。どうも自分には若い教師に「こういうふうに教師生活を送るといいよ」というようなエピソードがないのです。

確かに、授業力を高めるためにどんな授業技術をどんなふうに学んできたかということなら書けます。自分の話し言葉を鍛えるためにどんな取り組みをしてきたかということも書けます。そのような目的的に取り組んできたこと、自分で意識的に取り組んできたことならば、若い教師に役立つようにといくらでも書き記すことができます。しかしそれは、「○○という目的ならば○○するといいよ」という一点集中型の提案であって、私という教師の力量がどのように形成されてきたのかということとは距離があるのです。

私はこれまで幾つかの書籍を上梓させていただきました。しかし、それらは私の教師生活の一部を目的的に切り取り、まさに「○○という目的ならば○○するといいよ」という提案に過ぎないのです。決して、「私はこうしてきた」「こういう努力があっていまの私がある」というような報告的な提案ではないのです。むしろ私は、そういう提案の仕方を避けてきたところがあります。

本を書くということは、一般には「テーマ先にありき」です。テーマが先にあって、そのテーマに対応するような事例を自分の経験から引っ張り出してくる。そうした経験の中には、書いて良いものもあれば悪いものもある。読者に伝わりやすいものもあれば伝わりにくいものもある。そうした中から、書いて良いもので読者に伝わりやすいものだけが具体例やエピソードとして用いられる。そういうふうに出来上がっていくものなのです。決して、学級経営の本に著者の学級経営がまるごと書かれているわけではありませんし、生徒指導の本に著者の生徒指導がまるごと書かれているわけでもありません。そういうものなのです。

しかし、「エピソードで語る教師力」となると、そうはいきません。いまの自分の実践力がどのように形成されてきたのかを語る、しかもそれをエピソードを中心に語るということになると、書いていけないことは同じように書けないにしても、読者に伝わりにくい部分についてはなんとかして少しでもわかりやすく書くことをしなければ、表層的なものになってしまいます。しかも、私にはデビッド・ボウイの科白のように「過去は自分だけのものだ」という感覚がありますから、どうもそういうエピソードをわざわざ他人に読んでもらう必要はないのではないかと思えてしまうのです。

しかし、今回はせっかくの御依頼ですし、また、酔った上とはいえ一度書くと約束したことでもありますので、書いてみようと思います。しかも、「戦場のメリークリスマス」で私が感じたように、日本人の提案はその人の歴史といっしょに提示された方が、読者にとって心情的なわかりやすさが得られるということもわからないではありません。ですから、今回は思い切って書いてみようと思うのです。

ただし、最初に読者の皆さんにご了承いただきたいことがあります。

セミナーのQ&Aのコーナーで参加者から「堀先生はどんなふうに力量形成を図ってきたのか」と尋ねられることがあります。或いはここ数年流行している「ライフヒストリー・アプローチ」の手法を使って力量形成の歴史を語るということを経験したこともあります。いつもこういうセミナーで話をしての率直な感想は「どうも自分の教師としての成長の根幹をはずしているな」という思いでした。理由は幾つかありますが、ごくごく簡単にいえば、まずは、私自身がそうした自分史のようなものを語ることに意味を見出せていないこと、短時間で語ることは無理だと最初から感じてしまって端折って話をすること、という二つの理由を挙げることができます。そして実は、こういう場で私が自分史を語れない最も大きな理由は、国語教育の話と学級経営・生徒指導の話とを結びつけて話をしないと自分の意図が伝わらないという想いがあるものですから、国語教育のセミナーにおいても、学級経営・生徒指導のセミナーにおいても、その参加者の傾向からその両方を結びつけて語ることを避けてしまうという事情があるのです。

私は次章から、私が教師を志した学生時代からこれまでにどんな問題意識を抱き、どんな意識でどんなふうに生徒たちに接し、どんな意識でどんなふうに研究会に参加し、どんな意識でどんなふうに実践研究に取り組んできたのかを語ります。しかし、そこには、ある程度の国語教育の専門用語や先行研究などを掲載することが避けられないのです。しかもその中には、若い読者が知らないような、戦前に刊行された本とか戦後間もなくに流行した実践手法なども出て来ます。そこのところをご了承いただきたいのです。ただし、これから語られるエピソードの本筋に深くは関係しないという部分については、思い切って端折ります。言い訳にしかなりませんが、国語教育の専門家でなくても文意が理解できるように書いたつもりではあります。

私がこれから書くことは、おそらく教師としてはかなり異色だと思います。これまで様々な人たちに異色であるという指摘を受けたことがあります。もちろん、私は教員養成カレッジから公立中学校の国語教師になっただけの人間ですから、教師としての経歴はまったく異色ではありません。おそらく問題意識の立て方が異色なのでしょう。しかもこれほど振り子の振れる教師人生、それも自分で意識的に振り子を振るという教師としての在り方も異色なのだろうと思います。

仲の良いサークル仲間とか、呑んで話をした研究仲間とか、そういう人たちにさえ、あまり私の問題意識は理解されたことがありません。ですから、これから語る、私が教師を志して以来二十五年あまりエピソードが、読者の皆さんに役に立つのかどうか甚(はなは)だ心許(こころもと)ないというのが正直なところなのです。そしておそらく、読み物としてもそれほどおもしろいものではありません。

また、せっかく私にこの本を書くように薦めてくれた山田洋一先生や編集者の皆さんの期待を裏切ってしまうのではないかという不安も抱きます。「私が書いて欲しかったのはこんな本ではない」と。もしかしたら「こんな本は出版できない」と言われるのではないかという不安さえ抱きます。

この本はおそらく、私の実践にではなく、私という教師に、私という人間に興味を抱いてくれている数少ない読者にしか興味をもって読み進められないものでしょうし、私という教師に興味を抱いた人にしか役立つこともないものでしょう。それでも、学生時代以来の様々な資料を繙きながら、正直には書いていきます。学生時代や新卒時代のエピソードには、著者も気づいていないような過去の美化が若干はあるのかもしれませんが、私はいまでもその頃の想いを生々しく覚えているつもりです。少なくとも、いま現在、私の頭の中にある学生時代や新卒時代はこういうものであるということだけは確かです。

では、まずは思うところがあって、学生時代を後まわしにして、新卒時代のエピソードから語り始めたいと思います。はじまりはじまり……(笑)。

坂本龍一/Merry Christmas Mr. Lawrence  を聴きながら

あとがき

二○一一年八月三○日、父が脳梗塞で倒れました。入退院を繰り返し、いまも病院にいます。同じ年の一二月七日には義父が肺癌で亡くなりました。学生時代以来の紆余曲折を綴ってきましたが、こうして好き勝手なことを書いていられるのも、自分が若く健康でいられるからなのだと実感します。

13041301一九六六年四月七日。この世に生を受けて以来、様々な方々の影響を受けてきました。特に、両親から受けた影響は計り知れません。もちろん良い影響もあれば悪い影響もあるのでしょうが、この年になると、悪い影響があったとしてもそれを両親のせいだとはまったく思わなくなります。それなりにものを考えられる頭と健康な躰を授かっただけで満足。あとは自分の責任である。そんな気持ちがします。

13041302先日、両親と妹と四人で、本当に久し振りに一泊二日の温泉旅行に行ってきました。父が入院中ですから、外泊許可をもらっての旅行です。そう遠くへは行けません。札幌市内の定山渓温泉と近場の旅行でしたが、おそらく四人で泊を伴う旅行に行ったことは、ここ三十年はなかったのではないか、記憶が定かではありませんが、そんなことを思いました。もうそんなに長い時間をいっしょに過ごせるわけでもないはずです。これからは年に一、二回はこういう機会をもとうと決意しました。思えば、既に家を出て独立してからの時間が、両親と過ごした時間を大きく超えてしまっています。時が経つのは早いものだと実感します。

ふと気づくと、教職に就いて二十年余りが経っています。本書では学生時代以降のエピソードを語ってきましたが、実は私の教育実践には小学校時代、中学校時代、高校時代のそれぞれの恩師から受けた影響を無視できません。特に小学校四年のときの担任大塚充健先生、同じく五・六年のときの担任高橋純先生、中学一年生のときの担任関義彦先生、高校二・三年のときの担任佐藤捷夫先生の影響が色濃く反映されています。十年ほど前だったでしょうか、著書をもって大塚先生を訪ねようと連絡した折、大塚先生は既に鬼籍に入っておられました。悔やんでも悔やみきれない経験でした。

私の教職人生は北海道にいたからこそ経験することのできた、北海道ならではの出逢いや北海道ならではの実践に彩られています。両親や恩師からいただいた恩恵を、あくまでこの北海道の地で若手教師たちに恩送りしていけたらと考えています。不景気が続き、学力調査でも最下位に近い北海道ではありますが、この地に再び「教育王国」の名が冠せられる日を今日も夢見ています。

最後になりましたが、この度も編集の及川誠さん、杉浦美南さんにお世話になりました。深謝致します。

松山千春/大空と大地の中で を聴きながら……
二○一二年一○月一九日 長麻美と呑んだ夜に 堀 裕嗣

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5月31日(金)

1.1学年の校外学習。札幌市内の自主研修。一人だけ具合の悪い生徒が出て早退することになったが、それ以外は特に問題はなし。具合の悪い生徒も家で回復したそう。行事としては成功と言える。これから打ち上げです。

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5月30日(木)

1.1時間目は1組で文章構造図&要約。2・3時間目は空き時間。学年で打ち合わせという名の談笑。4時間目は5組で漢字テストとノート整理・点検。5時間目は校外学習の結団式。放課後は校外学習の最終打ち合わせ。その後、巡視。更に生徒指導案件…というか怪我事案が一つ。久し振りに怒鳴った。

2.【拡散希望/残席9】第5教室実践力セミナーin東京/ALL堀裕嗣/2013年6月23日(日)/上智大学/3000円/4年振りの担任復帰!4年振りの学年主任!学級経営・学年経営の原理原則
http://kokucheese.com/event/index/89308/

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5月29日(水)

1.1時間目は空き時間。校外学習関係の買い物のあと、学年集会関係の打ち合わせ。2時間目は4組で漢字テスト+ノート指導。3時間目は要約指導+ノート指導。4時間目は学年の若手教師と打ち合わせのあと、教師必携原稿をつくる。5時間目も空き時間で引き続き教師必携。6時間目はしおり学習。放課後は校区内巡視のあと、生徒指導関係の打ち合わせ。17時30分退勤。

2.給食のししゃも。34名中16名の生徒たちが食缶に戻していた。頭と内臓が気持ち悪いとのこと。捕まり、殺され、干され、焼かれて、タレをつけられて、それでも食べてさえもらえない。ししゃもの身になってみると、可愛そうでならない。しかし、この消費社会では致し方ないことなのか。

3.【ある女性教師の感想】拙著『エピソードで語る教師力の極意』(明治図書)
『教師力の極意』、読ませていただきました。本当にすごい本でした。まず、一読して思ったことは、「すごすぎて、まねしようと思えない」というのが率直な感想です。もう一度読んで、何が「すごすぎる」と思わせるのか考えてみました。
まず第二章の学生時代のエピソード。自分の学生時代と比べてすごすぎる……とかと思いました。圧倒的な読書量、しかも一人で読んだのではなく、仲間と読み、議論されていたという点がすごいんだと思います。私の学生時代は、何と無益だったか…と思ってしまいました。また、第四章の「書かない者に思考はない」という言葉、五章で語られる強い意志を持ってあえて〈あちら側〉へいかれるところ、堀先生の強烈な意志の強さに「すごさ」を感じました。
さらに、一章・三章のエピソードから感じられる生徒への愛の強さにも驚きました。また、この章のエピソードは、私の抱いていた堀先生のイメージと大きく違いました。正直、「平等じゃないじゃん。他の子はどうしていたの?」とかしょうもないことも思いました。一年二組の子たちを愛していた時、この子はどうしても合わない……とか思われなかったのかな、だとしたら、やっぱり堀先生の「愛」は大きくて深いんだな…とすごさを感じました。
全体を通して、意識的に学びを作ってこられたというところにまねできない、と思ってしまったんだな、と。

4.教師力BRUSH-UPサマーセミナーin札幌/2013年8月12日(月)・13日(火)/札幌市内/菊池省三&堀裕嗣/興味のある方は日程を空けておいてください。10日(土)・11日(日)には授業づくりネットワーク全国大会in帯広もあります。今年の夏は北海道にいかがですか?

5.旬が通り過ぎると、新しい旬が訪れる。人生の季節はめぐる。そんなものなのかもしれない。

6.おいおい。北海道かよ。
http://news.nifty.com/cs/domestic/societydetail/yomiuri-20130529-01183/1.htm

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5月28日(火)

1.1時間目は空き時間。2組の学級の若手担任と2組の生徒情報について交流。2時間目は3組、3時間目は2組っ、4時間目は7組で要約指導。5時間目は校長と面談。自分の学年のある担任を軽く見ている発言に憤って反論する。6時間目は校外学習用にSDカードを買いに行く。放課後はPTA常任委員会。

2.頼りになるかならないかではない。頼りにするかしないかだ。頼りにすれば人は応えてくれる。そんなことさえ知らない大人がいることに僕はある種の憤りを感じている。オレの学年を「若くて大変だね」なんて言うな。何も大変じゃない。頼りにすればちゃんと応えようとする超意欲集団だ。おまえの認識が甘いのだ。意欲のないベテランの方がオレの学年の若手よりずっと使えないぞ!

3.「恋愛至上主義っていうのは、豊かで安全な社会においてのみ存立可能なイデオロギーなんです。」(内田樹)
これは久し振りに印象的なフレーズだった。バブル期以降の大衆を一刀両断だな。

4.さて、あと50頁。正確には45頁強。自由なテーマで書きたいことを書けるようになったいま、最後に何を書くべきか。悩みどころだ。一貫性のある本にしたいから、これまでのテーマと一部が重なり、一部が真新しい、そんなテーマが良い。最後に相応しい45頁は何か。悩みどころだ。今週中に書きたい。

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5月27日(月)

1.1時間目は空き時間。校外学習関係の市教委提出文書、公園使用願いなどをつくって送付。2時間目は7組で要約指導、3時間目は1組で文章構成図、4時間目は6組で漢字テストとノート点検。5時間目は学活で校外学習のしおり学習。放課後は学級目標を掲示したあと、校外学習に特化した臨時学年会。校外学習直前モードに入ってきた。

2.ちょっと必要があって外山滋比古の『思考の整理学』(ちくま文庫)を読み直している。この人のエッセイはほんとうに巧いなあ。こんな文章を書けたらいいのになあ……と思わずにはいられない。

3.新しい本も完成の目処が立ったし、今年も幾つかの新作を刊行できそうな雰囲気になって来た。担任生活……というか、毎日4Fに昇る生活に躰が適応してきたらしい。家に帰ってきてから原稿を書こうという気になって来ている。2ヶ月かかった。年だ。担任や学年主任が辛いのではない。4Fが辛いのだ。

4.今年度末には「10原理・100原則」シリーズの担当編集者が産休から復帰するらしい。あのシリーズまで書かなければならないってことになったら、僕はパンクしてしまいそうだなあ。あれ、けっこう書くのに時間かかるんだよなあ。好き勝手書くだけじゃなくてコンテンツを整理しなくちゃならないから。

5.セブンイレブンに金をおろしに行ったら、レジにカナコがいた。

6.また、わがままな本を書いてしまうようだ。僕はほんとうに編集者泣かせだ。その自覚はある。ごめんなさい。

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〈コンテクスト〉への依存と忌避

事例の1。まずは、次のスピーチを読んでいただきたい。 

私のまずい英語でご勘弁ください。参加者の中で私が最年長だと思いますので、みんなを代表して一言ご挨拶申し上げます。参加者一同、このセミナーに心から感謝しております。諸先生方のお骨折りに対して衷心からのお礼を申し上げますこと以外は、何も申し上げることがありません。/ご存知のように、日本の英語教師は、なまの英語を聞く機会がほとんどありません。このセミナーに参加できたおかげで、英語を教える上で、格段の進歩が見られることは申すまでもありません。ご丁重なご指導に、重ねてお礼を申し上げます。

いかがだろうか。多くの読者は社交辞令的だとは思うだろうが、よくある、それほど違和感を感じないスピーチに過ぎないものだと感じられるに違いない。このスピーチは直塚玲子が『欧米人が沈黙するとき』(大修館書店・一九八○年一月)に引いた例で、日本人の英語教師と欧米人との混成グループによって一週間の集中セミナーが行われたあとの打ち上げの席でのものだと言う。もちろん、スピーチをしたのは日本人である。

中島義道はこのスピーチを題材にして様々な国籍の人々にこれをどう思うかを訊いてまわったと言う。その結果、「講師が求めていることに、何一つ答えていません。建設的な批判はどこにも見あたりません。仕事の質は全然問題にしないで、労働だけに感謝しています。」「このスピーチには、話し手の個性が全然反映されていません。まるでロボットがしゃべっているみたいですね。外国人講師が主催する他のどんなセミナーでも、一行も変更しないで、そっくりそのまま使えます。どこででも通用するようなスピーチは、礼儀にかなったスピーチとは、言えません。」「スピーチを行った人は、出しゃばりすぎで、責任をとりすぎています。だれも彼を代表者に選んだ覚えはありません。」「この人のために、ほかの参加者は自由に批判ができなくなっています。」といった意見が聞かれたと言う(『〈対話〉のない社会』中島義道・PHP新書・一九九七年十一月)。いかがだろうか。唖然としないだろうか。別に日本人だってこのスピーチが大好きというわけではない。だらだらとどうでもいいことをしゃべっているなあ、とは感じる。しかし、ここまで具体的な思考をもって批判する対象とは決してしないだろう。文化の違いとは要するにこういうことなのだ。

事例の2。平田オリザが講演や著書のなかでよく使う例だ。結婚した当初、ほんの些細なことが大きなトラブルへと発展することがある。例えば、電子レンジを「チン」と呼ぶ家庭で育った夫と「レンジ」と呼ぶ家庭で育った妻。夫がちょっとだけ冷めかかった料理を妻に渡して、何気なく「ちょっとこれチンして」と頼む。三十年近くの長きにわたって、そういう場合、「ちょっとこれレンジにかけて」と言う家庭で育った妻は、夫の物言いに対して幼児的なかわいらしさを感じる。ちょっとだけ嘲笑の混じった薄笑いを浮かべる。しかし、夫にはそれが許せない。自分は馬鹿にされた。しかも、自分にとっては普通の、そして当然の言葉遣いが嘲笑を受け蔑(さげす)まれた。いたくプライドが傷ついてしまう。「チンして」と言うか「レンジにかけて」と言うかというほんの些細な違いが、○○家と××家のプライドをかけた諍(いさか)いに発展する。端(はた)から見ればあまりにも小さな、かつあまりにも馬鹿馬鹿しい問題が、本人達も気づかぬうちにお互いの両親兄弟、一族のプライドをかけた深刻な問題へと発展していく。これはお互いに自分が育った環境が異なるというちょっとした過程の文化のズレによる些細な指摘が、人格を否定されたかのごとき重みをもって感じられることによって生じた、馬鹿馬鹿しくも深刻な問題である。

しかし、こうした諍いは、結婚生活が一年たち、二年たちするうちに、次第に減っていくものである。三年もたてばほとんどなくなる。お互いに距離感覚がわかってくるからである。夫婦関係が安定してくると言ってもよい。まあ、この時期になると、こういう小さなコンテクストの違いによる諍いではなく、本格的なトラブルが生じてくる夫婦も、決して少なくないけれど(笑)。

事例の3。年度当初、転勤者の中に、妙に自分の能力に自信たっぷりの人物が入ってきた。職員会議はもちろん、すべての校内会議で前任校と比較しながら「この学校のやり方はおかしい」と何かにつけて文句をつける。確かに一理あるのだが、もともとこの学校でそのシステムに慣れ親しんでいる自分から見ると、正直そうまでこだわらなくても……と思ってしまう。ひと月も経たないうちに、その新任者が職員室で浮き始める。「ああ、○○さん浮いてきたな……」という空気が読めたところで、職員室でも信頼を集めている教務主任とか長くその学校に勤めている職員が「うちはかくかくしかじかでこういうシステムだから」と新任者を諭し始める。或いは最初から、この学校は自分が仕切っていると思っている教務主任や古くからいる職員が「うちはこういうシステムなんだ!」と喧嘩を始める場合さえある。どちらにしても新任者には分が悪い。少なくとも昨年はこのシステムでやってきたのである。もともといる職員にしてみれば、慣れたシステムの方が対しやすい。積極的に会議で発言まではしないけれども、なんとなく「現状維持でいいじゃん」という空気が支配的になっていく。しかし、三ヶ月が経ち、半年が経つうちに、新任者もなんとなくうまく立ち回れるようになり、職員室の雰囲気にも落ち着きが戻ってくる。これは学校間による職員室運営の文化の違いが招くいざこざである。まあ、教員を五年やれば二回くらいは、十年やれば五回くらいは経験する事態だろう。

三つの事例を紹介してきた。どれも規模の違いはあるにせよ文化の違いがもたらしたトラブルである。しかし、事例1と事例2・3との間には決定的な違いがある。それは事例1が文化の断絶において歩み寄りのあり得ない事例であるのに対し、事例2・3が今後の歩み寄りの可能性を大きく残した事例であるということだ。従って、事例1においては両者がコミュニケーションを図ろうとすれば平田オリザの言うような「対話の作法」が必要となるが、事例2・3においては両者が本音ベースでコミュニケーションを取り続けたとしても時間が解決していく可能性が高い。その意味で、前者は文化の断絶と言えるが、後者は実は文化の断絶とまではいえないのかもしれない。

さて、ここで言う「文化」、コミュニケーションの前提となる「文化」のことを一般に〈コンテクスト〉と呼ぶ。日本人のスピーチに対して外国人が否定的に捉えるのは、スピーチをした日本人の〈コンテクスト〉とそれを批判的に捉える外国人の〈コンテクスト〉に齟齬があるからである。些細なことで夫婦喧嘩が勃発するのも、電子レンジを「チン」と呼ぶ〈コンテクスト〉をもつ夫と「レンジ」と呼ぶ妻の〈コンテクスト〉の間に齟齬があるからだ。転勤してきた新任者がよく軋轢を起こしやすいのも、新任者のなかにある前任校で形成された〈コンテクスト〉とその学校の多くの職員のなかに形成されている〈コンテクスト〉とが齟齬を来しているからである。コミュニケーション不全が生じたとき、多くの人たちが言葉、要するに発せられた表現が問題だと感じるが、むしろコミュニケーション不全は〈コンテクスト〉の齟齬によって起こる事案の方が圧倒的に多いといえる。

ただし、〈コンテクスト〉をコミュニケーションの前提となる「文化」の問題としてのみ考えると、本質を見失うことがあるので注意しなければならない。マリノフスキーが指摘したように〈コンテクスト〉には、〈文化のコンテクスト〉と〈状況のコンテクスト〉とがあるからだ。〈文化のコンテクスト〉とはそのコミュニケーションを取り巻く社会的・政治的・文化的・歴史的な背景のことであり、〈状況のコンテクスト〉とはそのコミュニケーション行動を取り巻くその場の状況のことである。前者は固定的で後者は流動的であるともいえるし、前者は静的であるところに、後者は動的であるところにその特徴があるともいえる。

例えば、事例1は日本人スピーカーと批判的感想を抱いた外国人との間に、明らかに社会的・政治的・文化的・歴史的背景の違いがある。これは歴史的背景であるが故に、そう簡単には歩み寄りがたい齟齬だ。これに対し、事例2の齟齬の本質は「チン」か「レンジ」かという文化的・歴史的背景の違いではない。実はここにある齟齬は、電子レンジを「チン」と呼んだ夫の言葉遣いに対して、妻が「かわいい…」という心象を込めて笑った、それを夫が嘲笑と受け取った、その「状況」、そのコミュニケーション行動を取り巻くその場の状況にこそある。夫がこだわっているのは妻に馬鹿にされたということであって、「チン」か「レンジ」かではない。また、事例3も同様である。新任者にとって問題なのは、新しく赴任した学校のやり方ではない。新任者のこれまでのやり方がそのままでは通じにくい、自分が働きにくい、動きにくいというコミュニケーション行動を取り巻くその場の状況である。自分はもっとできるはずなのに自分のやり方が通じにくい、そこに戸惑いや不満を抱いているに過ぎないのである。もともと能力をもっている人であれば、新しい学校のやり方の構造が見えてくるとともに、それに対応した動き方ができるようになり、早晩、こうした戸惑いや不満は払拭されていく。それが現象として軋轢の解消に見えるだけなのだ。つまり、事例1が〈文化のコンテクスト〉に支配されたコミュニケーション不全であるのに対し、事例2・3は〈状況のコンテクスト〉に支配されたコミュニケーション不全なのである(もちろん、どちらか一方のみというわけではなく、どちらかといえば、それが大きく支配しているという意味に過ぎない)。

コミュニケーション不全が〈状況のコンテクスト〉に起因している場合、〈文化のコンテクスト〉の齟齬を解消することは必ずしもそのコミュニケーション不全を解消しない。例えば、「チン」か「レンジ」かで揉める夫婦において、妻が夫に気を遣って「我が家では電子レンジをチンと呼ぶことにしよう。それを我が家の作法としよう。私もそれで納得する。」と提案し、そのとおりにしたとしても事態は解決しない。夫の不機嫌の所以は妻に嘲笑されたことであり、それによってプライドが傷ついたことなわけであるから、そもそも「チン」か「レンジ」かなどという問題はどうでも良いことなのである。両者のコミュニケーション不全を解消するには、妻が謝ることであり、「そんなつもりじゃなかったのよ」と甘えて見せることである。妻が夫より一歩大人になって、夫を精神的に包み込んでしまえばそれですべてが解決する。また、自信満々の新任者に対しては、周りがよく意見を聞いてあげ、そのアイディアの一部を採り入れて教育活動を運営していけば一気に解決してしまう。実はその程度のことに過ぎないのだ。日本人同士のコミュニケーションならば、「対話の作法」を形成するよりも、〈状況のコンテクスト〉の齟齬を察知して、その齟齬を取り除くことの方がはるかに機能するのである。

これが事例1となるとそうはいかない。日本人スピーカーとそのスピーチに批判的な外国人とがコミュニケーションを図ろうとすれば、それは両者の違いを互いに共通理解したうえで認識を摺り合わせるという「対話の作法」が必要とされる。ともに絶対に譲れない社会的・政治的・文化的・歴史的な背景がある以上、双方ともにその背景の違いを認めたうえでできることは何か、すべきことは何かと考えざるを得ないのである。しかし、これは、昨今のインターネット上の作法、俗に言う「ネチケット」のように、あくまで自らを守るために相手の立場をも尊重し、結果的に本質に届きたいという欲望を放棄する、そうしたコミュニケーション形態に限りなく近づいていかざるを得ない。僕はそう感じている。

ミクシーでもツイッターでもフェイスブックでも良いのだが、昨今のSNSにおいては、気持ちが悪くなるほどに相手に肯定的なコメントを施す傾向をそのコミュニケーション行動に見ることができる。この傾向は匿名性の低いメディアほど色濃く見られる。要するに、軋轢を回避すること自体が目的化し、「素敵ですね」「勉強になります」「まったく同感です」「本当にそう思います」といったコメントがしきりに寄せられている。こうしたコメントの在り方は、おそらくこれまでの匿名性の高いメディアが中傷や非難ばかりしてきたというイメージに対するアンチテーゼとして、まさに「作法」として形成されてきたコミュニケーション行動だと思われる。〈状況のコンテクスト〉に依拠しない場において、相手への配慮、両者の立場をともに尊重することを絶対善とする作法を第一義として対話しようとすると、こうしたインターネット上の肯定コメントの気持ち悪さに近づいていく。少なくとも、日本人の心性に「摩擦回避」が色濃く巣くう以上、こうした気持ち悪さに嵌まり込んでいく可能性は著しく高いと言わざるを得ない。

内田樹が村上春樹作品を評して、「無意味に邪悪なもの」が登場して主人公や主人公の愛するものを傷つけ損なうという話型が繰り返し展開されていると述べている。つまり、主人公がある日突然「何が何だかわからない」事件に巻き込まれ、こづき回され、プライドを傷つけられ、愛するものを失うというプロットが繰り返されているというわけだ。またその際、主人公は起こった事件の全容を解明するということを避け、ただひたすら「どうしたら自分を守ることができるか」ということに神経を集中し、物語が進むにつれて次第に「ディフェンスの巧い」人間になっていくところに特徴があるとも指摘している。そして、「こういうカフカ的不条理に巻き込まれたときに主人公がとりあえず採用する最初の『ディフェンス』戦略が『ディセンシー(礼儀正しさ)』だ」と結論づける。

村上は作家的直感によって、「ディセントであること」が、不条理な世界を生き延びるためのさしあたり最初のディフェンスであるということを知っています。礼節というのは、まさに「生き延びるための知恵」なのです。(『疲れすぎて眠れぬ夜のために』内田樹・角川文庫・二○○三年五月)

SNSによる肯定的コメントの反乱も、「わかりあえないこと」から出発して対話の〈作法〉を身につけようとする主張も、少なくとも日本人がコミュニケーション行動として採用しようとする場合、その目的は「ディセンシーによって自分を守る」ということに焦点を合わせがちになる。決して〈文化的コンテクスト〉の全容を解明し、問題点を融合したり止揚したりという方向には進まない。他者の〈文化的コンテクスト〉を理解しようとする方向にも進まない。他者は自己主張が強ければ強いほど理解し得ないものとして受け止められ、ときには「カフカ的不条理」とさえ認識される。日本人同士のコミュニケーション行動において〈状況のコンテクスト〉に依拠する分、そうでない〈文化的コンテクスト〉の断絶においてはすべての〈コンテクスト〉の摺り合わせが忌避されてしまう、僕らのコミュニケーションにはそうした特徴がある。

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5月24日(金)

1.1時間目は空き時間でのんびり雑談。両側の女性陣と話しているうちに携帯を買い換えようという気になる。2時間目は3組で要約の基礎指導。3時間目は2組で、4時間目は1組で文章構成図の基礎指導。5時間目は校外学習関係の打ち合わせ。6時間目は学年集会。若者たちに任せたのだが、これが上出来。学年協議会分担してのパワーポイントによる研修場所の紹介、若手女教師の自主研修に向けての意欲づけの話、どちらも及第点をはるかに超える内容。人は任されると結果を残すものなのだ。放課後は学級の文化係で学級目標の掲示物をつくる。これも上出来。やっと学級に時間を割けるようになってきた。

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5月23日(木)

1.木曜日。1時間目は空き時間。近くのホームセンターにデコカッターを買いに行く。5組・6組で漢字テストとノート整理。こまでで私用で年休。

2.始まりは“まごころ”だった/太田裕美/2006
やすらぐ。いやされる。

3.先週の金曜日、東京から来た若い女性編集者と企画の打ち合わせをしながら一杯やった。彼女が新しい企画をもってきたのだが、ここ数日、その新企画のことを考えながら過ごしていて、僕の可能性を大きく広げてくれる良い企画だなあと実感させられた。僕はとても良い編集者と出会ったのかもしれない。しかし、僕が買ってあげたチョコレートパンを冷凍して、歯を折ってしまったのはいただけない。ドジな面もある。

4.というわけで、新企画前に仕上げなければならない原稿を今日から再び書き始めた僕であった。これが完成しないことには次には進めない。そして新企画に進む前にもう1冊書き上げなければならないものがある。新企画までの道のりは遠い。

5.山田くんとの共著本。編集者から提案された書名がぱっとしない。同じように思ったのか、山田くんがこんなのはどうかとたくさん候補を挙げたが、どれもぱっとしない。でも、僕にも思いつかない。一風変わった本だけに、書名が難しい。結果、僕には永久に思いつかないと判断し二人に任せることにした。

6.新しいシリーズ本の1巻目を書いている。今回のシリーズの特徴は、第一に最近には珍しく常体で書き綴っていること、第二に僕としては初めて一人称の呼称を「僕」にしていることだ。要するに、言い切りの形で冷たい、冷めた、固い印象を醸しながら、どこか甘えた雰囲気をも出している、その混在である。

7.僕には太田裕美を聴きながら原稿を書くと執筆が思いのほか進むというジンクスがある。停滞していた原稿さえ、太田裕美を聴きながら書くと進んでしまう。これまでの停滞が嘘のように筆が進んでしまう。今日もそういう日だった。ありがとう、太田裕美様……。

8.コミュニケーション本第1章のベタ打ちが終わる。明日読み直して細かいところを直す。第2章を何にするか、まだ決めていない。このシリーズはつれづれでも良さそうである。そういうエッセイの執筆を許してくれる編集者が現れたことが嬉しい。こうなったら、好き勝手に書いてやる(笑)。おやすみなさい。

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コンテクスト

事例の1。まずは、次のスピーチを読んでいただきたい。 

「私のまずい英語でご勘弁ください。参加者の中で私が最年長だと思いますので、みんなを代表して一言ご挨拶申し上げます。参加者一同、このセミナーに心から感謝しております。諸先生方のお骨折りに対して衷心からのお礼を申し上げますこと以外は、何も申し上げることがありません。/ご存知のように、日本の英語教師は、なまの英語を聞く機会がほとんどありません。このセミナーに参加できたおかげで、英語を教える上で、格段の進歩が見られることは申すまでもありません。ご丁重なご指導に、重ねてお礼を申し上げます。」

いかがだろうか。多くの読者は社交辞令的だとは思うだろうが、よくある、それほど違和感を感じないスピーチに過ぎないものだと感じられるに違いない。このスピーチは直塚玲子が『欧米人が沈黙するとき』(大修館書店・一九八○年一月)に引いた例で、日本人の英語教師と欧米人との混成グループによって一週間の集中セミナーが行われたあとの打ち上げの席でのものだと言う。もちろん、スピーチをしたのは日本人である。

中島義道はこのスピーチを題材にして様々な国籍の人々にこれをどう思うかを訊いてまわったと言う。その結果、「講師が求めていることに、何一つ答えていません。建設的な批判はどこにも見あたりません。仕事の質は全然問題にしないで、労働だけに感謝しています。」「このスピーチには、話し手の個性が全然反映されていません。まるでロボットがしゃべっているみたいですね。外国人講師が主催する他のどんなセミナーでも、一行も変更しないで、そっくりそのまま使えます。どこででも通用するようなスピーチは、礼儀にかなったスピーチとは、言えません。」「スピーチを行った人は、出しゃばりすぎで、責任をとりすぎています。だれも彼を代表者に選んだ覚えはありません。」「この人のために、ほかの参加者は自由に批判ができなくなっています。」といった意見が聞かれたと言う(『〈対話〉のない社会』中島義道・PHP新書・一九九七年十一月)。いかがだろうか。唖然としないだろうか。別に日本人だってこのスピーチが大好きというわけではない。だらだらとどうでもいいことをしゃべっているなあ、とは感じる。しかし、ここまで具体的な思考をもって批判する対象とは決してしないだろう。文化の違いとは要するにこういうことなのだ。

事例の2。平田オリザが講演や著書のなかでよく使う例だ。結婚した当初、ほんの些細なことが大きなトラブルへと発展することがある。例えば、電子レンジを「チン」と呼ぶ家庭で育った夫と「レンジ」と呼ぶ家庭で育った妻。夫がちょっとだけ冷めかかった料理を妻に渡して、何気なく「ちょっとこれチンして」と頼む。三十年近くの長きにわたって、そういう場合、「ちょっとこれレンジにかけて」と言う家庭で育った妻は、夫の物言いに対して幼児的なかわいらしさを感じる。ちょっとだけ嘲笑の混じった薄笑いを浮かべる。しかし、夫にはそれが許せない。自分は馬鹿にされた。しかも、自分にとっては普通の、そして当然の言葉遣いが嘲笑を受け蔑(さげす)まれた。いたくプライドが傷ついてしまう。「チンして」と言うか「レンジにかけて」と言うかというほんの些細な違いが、○○家と××家のプライドをかけた諍(いさか)いに発展する。端(はた)から見ればあまりにも小さな、かつあまりにも馬鹿馬鹿しい問題が、本人達も気づかぬうちにお互いの両親兄弟、一族のプライドをかけた深刻な問題へと発展していく。これはお互いに自分が育った環境が異なるというちょっとした過程の文化のズレによる些細な指摘が、人格を否定されたかのごとき重みをもって感じられることによって生じた、馬鹿馬鹿しくも深刻な問題である。

しかし、こうした諍いは、結婚生活が一年たち、二年たちするうちに、次第に減っていくものである。三年もたてばほとんどなくなる。お互いに距離感覚がわかってくるからである。夫婦関係が安定してくると言ってもよい。まあ、この時期になると、こういう小さなコンテクストの違いによる諍いではなく、本格的なトラブルが生じてくる夫婦も、決して少なくないけれど(笑)。

事例の3。年度当初、転勤者の中に、妙に自分の能力に自信たっぷりの人物が入ってきた。職員会議はもちろん、すべての校内会議で前任校と比較しながら「この学校のやり方はおかしい」と何かにつけて文句をつける。確かに一理あるのだが、もともとこの学校でそのシステムに慣れ親しんでいる自分から見ると、正直そうまでこだわらなくても……と思ってしまう。ひと月も経たないうちに、その新任者が職員室で浮き始める。「ああ、○○さん浮いてきたな……」という空気が読めたところで、職員室でも信頼を集めている教務主任とか長くその学校に勤めている職員が「うちはかくかくしかじかでこういうシステムだから」と新任者を諭し始める。或いは最初から、この学校は自分が仕切っていると思っている教務主任や古くからいる職員が「うちはこういうシステムなんだ!」と喧嘩を始める場合さえある。どちらにしても新任者には分が悪い。少なくとも昨年はこのシステムでやってきたのである。もともといる職員にしてみれば、慣れたシステムの方が対しやすい。積極的に会議で発言まではしないけれども、なんとなく「現状維持でいいじゃん」という空気が支配的になっていく。しかし、三ヶ月が経ち、半年が経つうちに、新任者もなんとなくうまく立ち回れるようになり、職員室の雰囲気にも落ち着きが戻ってくる。これは学校間による職員室運営の文化の違いが招くいざこざである。まあ、教員を五年やれば二回くらいは、十年やれば五回くらいは経験する事態だろう。

三つの事例を紹介してきた。どれも規模の違いはあるにせよ文化の違いがもたらしたトラブルである。しかし、事例1と事例2・3との間には決定的な違いがある。それは事例1が文化の断絶において歩み寄りのあり得ない事例であるのに対し、事例2・3が今後の歩み寄りの可能性を大きく残した事例であるということだ。従って、事例1においては両者がコミュニケーションを図ろうとすれば平田オリザの言うような〈作法〉が必要となるが、事例2・3においては両者が本音ベースでコミュニケーションを取り続けたとしても時間が解決していく可能性が高い。その意味で、前者は文化の断絶と言えるが、後者は実は文化の断絶とまではいえないのかもしれない。

さて、ここで言う「文化」、コミュニケーションの前提となる「文化」のことを一般に〈コンテクスト〉と呼ぶ。日本人のスピーチに対して外国人が否定的に捉えるのは、スピーチをした日本人の〈コンテクスト〉とそれを批判的に捉える外国人の〈コンテクスト〉に齟齬があるからである。些細なことで夫婦喧嘩が勃発するのも、電子レンジを「チン」と呼ぶ〈コンテクスト〉をもつ夫と「レンジ」と呼ぶ妻の〈コンテクスト〉の間に齟齬があるからだ。転勤してきた新任者がよく軋轢を起こしやすいのも、新任者のなかにある前任校で形成された〈コンテクスト〉とその学校の多くの職員のなかに形成されている〈コンテクスト〉とが齟齬を来しているからである。コミュニケーション不全が生じたとき、多くの人たちが言葉、要するに発せられた表現が問題だと感じるが、むしろコミュニケーション不全は〈コンテクスト〉の齟齬によって起こる事案の方が圧倒的に多いといえる。

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5月22日(水)

1.1時間目は空き時間。校外学習の会計関係の打ち合わせ。2時間目は7組で各段落の文章構成図の確認。3時間目は学活で自主研計画の微修正と期末テスト学習計画。4時間目は空き時間。ちょっと腹の立つ事案を聞く。4時間目は4組で漢字テストとノート整理。内科検診が入って、予定の半分も進まなかった。6時間目は各グループで段落ごとの文章構成図づくり。放課後は学級目標の掲示物づくりと学年協議会のはしご。勤務時間終了と同時に退勤。

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5月21日(火)

1.1時間目は1組。文章構成図の基礎指導。2時間目は3組。形式段落ごとに文章構成図の作成。3・4時間目は空き時間。管理職と打ち合わせ。5時間目は7組。文章構成図の基礎指導の2時間目。放課後は職員会議。コピー機の使い方についてで管理職と打ち合わせ。その後、生徒指導案件が一つ。

2.おっ!水尻のBarから1周年記念イベントの招待が来たぞ。10%OFFだって。でも、あの店安いからマン度に払ってもたいした額じゃないんだよなあ。

3.今日はことのは共著本第3弾「聞き方スキル」の再校。昨日仕上げた山田くんとの共著本と一緒に、今日の退勤途中に返送。ひと安心。ことのは共著本はすぐに出るだろう。山田共著本はいつの刊行なんだろう。なにせまだタイトルが決まってないからなあ。まあ、あんまり連続して出てもねえ。

4.TRUE BLUE/MADONNA/1986
「いいなあ」というアルバムでは決してないけれど、無性に聴きたくなることのある不思議なアルバム。これだけ売れ線を狙ったアルバムだというのに、見事にその意図にはめられている(笑)。こんなふうに「これは売る」と決意して、1冊書いてみたいものだ。そんな気がしてくる。そういうことを、中村健一は意図的にやるらしい(本人談)。とにかく、まったく不思議ではないのに、やっぱり不思議なアルバム。

5.【拡散希望/残席11】第5回教室実践力セミナーin東京/ALL堀裕嗣/2013年6月23日(日)/上智大学/3000円/4年振りの担任復帰!4年振りの学年主任!学級経営・学年経営の原理原則
http://kokucheese.com/event/index/89308/

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5月20日(月)

1.1・2・4・5時間目は持ち学級すべてで「竹取物語」のテスト。6時間目は学活で自主研修日程の決定・提出。放課後は文化係+有志で学級旗の製作。なんと1日で完成してしまった。なんとよく働く生徒たちなのだろう。真面目な女の子たちが中心とはいえ、その作業の早さ、丁寧さに舌を巻いてしまった。

2.月曜日と水曜日の2日間でなんとか完成したいなあと思っていた学級旗。木曜日も予備日として用意していた。それがたった1日で終わってしまった。こんなことがかつてあっただろうか。ちょっと記憶にない。一気に気持ちが軽くなった。今週1週間に一気に余裕が生まれた。

3.それにしても、こんなに生徒の動きを読み違えたのは初めてだ。どうやら、4年間の副担生活で感覚がにぶっているらしい。もっと高い次元を要求しても良いのかもしれない。

4.山田くんとの共著本の初校を終えた。共著だから執筆の分量がちょうど半分。すぐに終わった。この分量だとこんなに早く終わるんだなあと驚いた。どうもタイトルがまだ決まっていないらしい。山田くんとの共著だし、若い教師向けの本なので、ほんわかするタイトルがいいなあと感じている。

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5月17日(金)~19日(日)

1.金曜日。2時間の授業を終え、北海道教育大学へ。1年生280名に講義というか講演というか。教職入門といった内容の話をする。学級通信、ビデオ、縦糸・横糸、一斉授業、教室ファシリテーション。内容はいつもの音読交流だが、学生たちは大盛り上がり。その後、編集者と呑みながら打ち合わせ。それでも、珍しく日をまたぐことなく帰宅。

2.土曜日。ふたり会。大いなる一歩となる大失敗。しかし、これを糧にして企画を産み出し、起き上がってしまうのがオレ達。今日のふたり会、書籍企画としてはやり直すことに、明日の三人会で基本トーンの調整をすることに決定。17時過ぎから亀八で宴会。楽しいひととき。

3.日曜日。三人会。基本トーンの調整終了。これでいける。たぶん次はほとんどそのままテープ起こしをしても完成形に近い対話ができるだろう。投資と思えば安いもの。やり直しの「ふたり会」は東京。6月8日(土)に決まりました。お楽しみに。

4.昨夜、癒された。ほっこり癒された。明日から頑張れそうだ。ほっこり。

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5月16日(木)

1.拙著『必ず成功する「行事指導」魔法の30日間システム』(明治図書)が第2刷になりました。お読みいただいた皆様、ありがとうございました。この本は僕としては割と自信作です。特にステージ発表に関して書いている第3章は類書がない程に力が入っています。学校祭、文化祭、学習発表会等に向けて、お読みいただければ幸いです。

2.1時間目は6組で漢字テスト&楷書。2時間目は1組で樹形図&ノート指導。3時間目は空き時間で校外学習関係の仕事。4時間目は5組で漢字テスト&楷書。5時間目は校外学習関係の仕事。今日は1日、午前中が生徒指導関係の事情聴取、放課後は指導という一日。学年団がよく機能した一日で大満足。

2.若手教師たちも全員が及第点をはるかに超える事実確認をした。10分休みごとに行われる情報の共有化もすべてうまく行く。放課後の指導も全担任が入っての指導。小さい事案のうちにこういう体制で指導を行っておくことが大事。全員が何が行われたかを見て、全員がその指導に関わっている。一つ一つの指導について打ち合わせや学年会を開かなくても、すべてが見えていて、見通しがもてる状態になっていく。

3.あと数ヶ月したら、どんなに力量のある教師が入るよりも、このメンバーでのやるのが一番いいという気持ちになっていく。簡単に言えば、動きがツーカーになっていく。それが大事。とても大事。そのための大いなる第一歩。

4.「キャリア」とはスキルとネットワークと人柄という三要素の総和のことを言う。でも、世の中にはキャリアをスキルだと思っていたり、せいぜいスキル+ネットワークだけだと思っている人が多い。スキルやネットワークをどれだけもっていても、人柄が悪いという印象をもたれたら社会では通用しない。

5.だからみんな、20代ではスキルを身につけ、30代ではネットワークを広げ、40代になると人柄を身につけようと必死になる。この構造にうまくはまっている人だけが「キャリアを積んでいる」と認められる。世の中はそういうふうにできている。この構造にはまると、一生涯、自分はまだまだだと思える。

6.スキルのない人柄の良さは軽視され、ネットワークのないスキルは自己満足に陥り、人柄のないネットワークは悪しき上昇志向と忌み嫌われる。世の中で評価されるって難しい。これが今朝、たった10分間の朝読書で考えたこと。朝読書っていいなあ、と切に思う。

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5月15日(水)

1.1時間目は1組で上位語・下位語。2時間目は3組で説明文の範読・音読練習・ノート指導。3時間目は学活で自主研修コースづくり。すべての班がコースをほぼ決定。予定していたよりも1時間早い。4時間目は校外学習の会計担当者と打ち合わせ。5時間目は7組で文章構成図。6時間目は日程文書づくり。

2.放課後は生徒指導案件が入るも、若手教師が適切に動いて楽な展開。少しずつ学年団としての動き方が出来上がってきている。良いこと。ただし、動き方としても、具体的な指導の手法としても、指導言としてもまだまだ不完全。それがある程度の形を見るのは数ヶ月先のことだろう。それでも大いなる進化。

3.帰宅後、床屋へ行き、方々にメールを送って週末の仕事の段取りを完了。若手の動きに成長を発見するときもあれば、期待はずれの動きにがっかりすることもあり、一喜一憂の毎日。だれもが通る道なのだから仕方ないこと。仕方ないというよりも当たり前のこと。全体的には大いなる成長が見える。よしよし。

4.教えるべきことを教えずして、協同学習やファシリテーションだけで行けると思ったら大間違いだ。教えるべきは徹底して教え、経験させるべきは大胆に経験させる。前者は隙を無くし、後者は思いきって任せる。それが唯一のコツだ。

5.ブログ「めたじぇのそぞろ歩き」さんから拙著『エピソードで語る教師力の極意』(明治図書)に対する書評をいただきました。ありがとうございます。
http://getmeta.cocolog-nifty.com/blog/2013/05/post-8438.html

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5月14日(火)

1.1時間目は空き時間。野外学習の日程調整。2時間目は4組で楷書。俳句の視写。3時間目は7組で上位語・下位語。4時間目は2組で文章構成図。5時間目は空き時間。続けて野外学習の日程調整。放課後は学年会。野外学習の段取りや生徒指導の方針を打ち合わせる。

2.自主研修のバス乗車計画ができないと、校外学習の日程案ができないことが発覚。当たり前といえば当たり前。21時近くにそれに気がつき、学校に電話するとまだ副主任がいたので、学校に行って一緒にバス乗車計画をつくる。終了は22時過ぎ。うーん。まあ、終わったからいいか。

3.それにしても、今週末がどんどん楽しみになってくる。でも、3日連続で遊び、呑み続けることを考えると、来週がきつそうだなあ。でも、「明日のために」を考えずに遊ぶ気になるのもあと数年だろう。いまは遊びたいときには遊ぶべきだと思い直す。

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5月13日(月)

1.1時間目は7組で上位語・下位語。2時間目は空き時間で校外学習の徴収プリント作成・印刷、しおり原稿など。3時間目は3組で文章構成図。4時間目は2組で上位語・下位語。5時間目は1組で歴史的仮名遣いの9法則。6時間目は学活で自主研修コースの話し合い。放課後は学年協議会の打ち合わせ。

2.締切まで半月。担当編集者がさり気なくプレッシャーをかけてきた。それはまったく関係ない話から「ところで」と始まる。「ところで、コミュニケーション本の今までの原稿、読み返していました。この本は、本当にいい本になるような気がします!」若い編集者だが、こういう技を身につけたようだ。

3.この世から「締切」という概念がなくなったら、どんなに幸せだろう。

4.遠い島では別れのない愛があるそうな。(小椋佳)
遠い島では締切のない依頼があるそうな。(堀裕嗣)

5.今日は良い日だ。七つも良いことがあった。それもけっこう嬉しいことが七つ。職場でも、公務外の仕事でも、プライベートでも。過去からの手紙もいくつかもらった。こんなことは滅多にあるものじゃない。今日は良い日だ。

6.また、はまってる。
http://www.youtube.com/watch?v=jnPFk4WvtKU

7.また、良いことがあった。八つ目。今日は怖いくらいに良い日だ。

8.今日は良いことずくめだ。このまま寝ないでいたら、もっともっと良いことがあるような気がしてくる。でも、明日も仕事だから寝なければならない。おやすみなさい。

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「エピソードで語る教師力」

「エピソードで語る教師力の極意」。この本を出すのはどうかなあ……と思っていたが、刊行から1ヶ月、この本がいろんなものをもたらし始めている。やはり出して良かったのだろう。

たぶん、僕はこの本を実際に関わった人たちだけを読者に想定して書いたんだと思う。別に不特定多数の読者に読んでもらわなくていい、読んでもらってもわからない、そんな思いがある。僕が読んで欲しいと思っている人はきっと200人に満たない。

僕が欲していたのは、今日twitterで流れてきた、例えばこんな反応だったのかもしれない。

【R・N/平成3年1年2組】

1. 『エピソードで語る教師力の極意』を読んで…まず、作者を知っているとこういう風になるんだと初めて体験したのですが、読んでいる頭の中で聞こえる声が堀先生の声で聞こえてくる!普段本を読む時は架空の声、想像の場面でしかないのに何とも不思議な感覚だった。

2.礎では登場人物も本人の声だし、場面も鮮明に思い浮かべる事が出来る、本を読んでいるというより動画を観ている感覚が近い。
あの、堀先生の落ち着いたトーンと抑揚のある引き込まれる朗読も思い浮かんだ。
ほーんと不思議な感覚だなぁと読み進めていたらなんと自分の名前がっ!!

3.ドキッとして思わず本閉じちゃった(笑)深呼吸してドキドキしながらまた開いて読み進めていったのだけれども、先生はまぁ正直で驚いた。ハラハラする位真っ直ぐ。
私は本当にラッキーで幸せ者だなぁと思った。たまたま堀先生の最初の教え子になれて、こんなに思ってくれる先生に出会えて。

4.でもあの時の私は先生がこんなに夜な夜な全精力を費やしてくれてるとは知らなかった。
それは知らないけど堀先生が大好きだった。
1年2組が終わる時、堀先生が『お前達の事は一生忘れない。お前達が俺の最初の教え子だから。』って言ってくれた言葉をあの時は先生本当に?!忘れないでょ!でも忘れちゃってもしょうがないか、だって先生にとってはこれから何百人となる教え子の中の一人だからなぁと忘れられてしまう事に対して自分に言い聞かせていた。
それがなんと本当だったなんて!
嬉し過ぎる!!
堀先生ありがとう。

5.『エピソードで語る教師力の極意』第2章では森田茂之さんを全然知らないのに泣いた。

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5月12日(日)

1.また、暖房に火を入れてしまった。今年はいったいどうなっているんだろうか。こんな寒い5月は初めてだ。タラの芽もまだだ。

2.【拡散希望/残席14】第5回教室実践力セミナーin東京/ALL堀裕嗣/2013年6月23日(日)/上智大学/3000円/4年振りの担任復帰!4年振りの学年主任!学級経営・学年経営の原理原則
http://kokucheese.com/event/index/89308/

3.今週は週末に教育大学で新入生全員に講演、石川晋との「ふたり会」、石川晋・岡山洋一との「三人会」。金・土・日と3日連続の登壇がある。なかでも石川との「ふたり会」は何が飛び出すか、何が生まれるかわからない、とても楽しみな会。この内容は対談本として刊行されることも計画されている。
でも、僕と石川のことだから、あまりにも過激なことを言い過ぎて、企画が中止になってしまう……なんてこともあるかもしれない。その場のノリでとんでもないことを言い出すのが僕ら。それを止められないのも僕ら。モラルのない二人だから、その危険性が多分にある。対談本が幻になる可能性がある。

4.明日からまた仕事だと思うと気が重い。僕の場合、いやなのは生徒でも同僚でも上司でも仕事でもない。定時に出勤しなければならないことだ。フレックスの学校ってないものか。論理的に考えてあり得ないよなあ。生徒たちが定時に来る以上、そんなこと考えること自体が背理だもんなあ。残念。

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5月11日(土)

1.今日は久々、札幌市内、「ことのは」主催の国語科研究会。山下くんの企画。とはいえ、昨夜……というか今朝、5時半まで飲んでいたので朝は立ち上がれず。出番は夕方だったので、午後からの参加。ヨネマの講座、和寛の講座と若手の成長が垣間見られた、そんな一日。執筆が人を育てるのは確かだ。帰宅後、爆睡。22時に目覚める。なんとか必要睡眠時間を満たしたようである。さて、少し仕事をするか。

2.石川晋の明日の教室・東京分校に関するツィート、FBのコメント等に目を通す。僕の石川に対する認識とイメージの異なるものが多い。別に驚きはしないが、ひと言でいえば石川の発言のいろいろが綺麗事として捉えられているということだ。僕の発言も綺麗事としてとらえられることが多いのでよくわかる。メッセージの表層義だけが捉えられている、そんな気がしている。石川実践の根幹には承認欲求がある。それもファシリテーションや協同学習で提案されているような「互いに承認し合いましょう」などというレベルのものでなく、もっと哲学的なといおうか、実存主義的な承認欲求を僕は感じている。だから読み聞かせも学級通信も活動型の学習も、すべてが自己承認に必然的に還っていく構造になっている。しかも一つの活動、一つの通信が自己承認を求めているのでなく、それらが積み重ねられることによってベクトルが石川晋に向かうように、無意識的に設計されているところに石川実践の本質がある。

3.かつて演劇部で指導していた生徒に、「普通の演出者は役者に上手さを求める。だから自分なりに上手い演技を考え、練習し、演技すれば、それで評価される。でも、堀先生の基準は上手さじゃない。堀先生の観念世界をどう表現するかが求められる。何より堀先生の観念を理解することが最初に求められる。その段階に到達するのに膨大な時間がかかる。それが役者にはとても辛い時間となる。」というようなことを真顔で言われた。いまも舞台に立ち続ける教え子にこういう的確な評価を受けてしまい言葉を失ってしまった。

4.結局、演出と役者と舞台のそれぞれの係の間で観念世界の一致に到達すると、細かな細かなディテールのなかのディテールに至るまで、一切の矛盾がなくなっていく。それがとてつもない完成度を産み出す。この生徒はもちろん僕の芝居で主役を張った生徒なわけだが、本番では涙を流しながら役に完全に入り込んで演技したと言う。それでいて、音響や照明とのタイミングは完璧だった。0.1秒のズレもなかった。「聞こえなかったのよ~」と叫んだ瞬間に、BGMの音は的確なメロデイが流れ、そこに大きな列車の汽笛が重なり、照明がボワッと赤に変わる。あの瞬間、僕は自分のつくった芝居でありながら、それもたかだか中学生の部活動でつくった芝居でありながら、背筋が寒くなるのを感じたのを鮮明に覚えている。この生徒も幾多の芝居を経験した三十代半ばにして、その瞬間をある種の形象としてはっきり覚えているという。到達すべきはそうした境地である。芸術とまでは言わないまでも作品とはそういうものだ。
一般に、役に入り込むタイプの自己満足型の役者と、観客にいかに見えるかを意識するメタ認知型の役者とがいるが、この二兎を追い両立させるには、前者のタイプの役者に徹底して「見られる自分」「他人の観念を理解する自分」という境地に到達させるのが一番の近道なのだろうと思う。
こんなことを考えさせられた。

5.昨夜、長麻美と呑んだ。19時から寿司屋で演劇談義を始め、終わったのは朝の5時19分だった。20年以上も前に、26歳の青年教師と14歳の少女だった二人が真剣にぶつかった夏が、お互いの口からそれぞれの心象が語られる時間。これを至福と言わず何と言おう。教師冥利とはこういうことを言うのかもしれない。

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ラブレター

教え子の一人がFBで『エピソード…』を評して「スイスイ読みやすい」と書いている。本書に取り上げた教え子の一人だ。エピソードというものはそのエピソードを共有している人間にとっては「スイスイ」と表現されるような機能を果たすのだという顕著な例である。とすれば、一般的な読者にはやはりそう簡単には伝わらないと考えるべきなのかもしれない。

おそらく読者に難しいと感じられるのは、それぞれのエピソードとそのエピソードを通して主張される抽象とがなかなか結びつかないところにあるのだと思う。結びつかないから、堀が何を言っているのかが理解できないわけだ。しかし、エピソードを共有している者から見ると、両者がいとも簡単に結びついてしまう。おそらくそういうことなのだろう。

実はこの本はそんなに難しく考えて読む必要はないものだと僕は思っている。いろいろ理屈は語っているけれど、第1章は新卒で担任した1年2組への愛惜に過ぎない。愛惜でわかりにくければラブレターに過ぎない。第2章は学生時代へのノスタルジーと、現在の実学的な教員養成カリキュラムへのアンチテーゼである。第3章はこれまた僕の演劇を具現化してくれた主演女優たちへのラブレターである。そして僕がこの本で書きたかったのは、実はここまでだ。あとの第4章から第8章までは体裁を整えるために書いてはいるが、まだ現在進行形で進んでいるものであり、まだまだ未整理なのだ。言い方を変えればまだまだ発展するものなのだ。第1章から第3章までのエピソードだけが既に終わった「過去のこと」を書いている。この三つだけが僕のなかで整理が終わったことが書かれているのだ。

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5月9日(木)

1.授業は2時間。3組・2組ともに歴史的仮名遣いの九法則を解説。空き時間は野外学習関係の調べもの。午後の学活は自主研修のメイン研修場所について班での話し合い。放課後は生徒指導部会。更に副主任と一緒に自主研修の集合場所候補の下見。2箇所の下見をして一方に決める。これで全行程が決まる。

2.経験を重ねるほど主張はシンプルになっていく。こねくりまわす必要も、裏返す必要もないことに気づく。若い頃は、先達のそのシンプルさが大雑把な主張に見えて、どんどん思考を複雑化させていく。先達のシンプルさが複雑な思考の末に到達したシンプルさであることに気づくのは、それから20年かかる。

3.人間は我が儘なもので、期待が大きいとプレッシャーがかかると嘆き、期待が小さいとやる気が出ないと嘆く。人間は我が儘なもので、好きな人に大きな期待をかけすぎてつぶしてしまい、嫌いな人に期待できないと告げてやる気をなくさせる。

4.【拡散希望/定員増やしました/残席20】第5回教室実践力セミナーin東京/2013年6月23日(日)/上智大学/3000円/4年振りの担任復帰!4年振りの学年主任!学級経営・学年経営の原理原則/ALL堀裕嗣セミナー
http://kokucheese.com/event/index/89308/

5.拙著『エピソードで語る教師力の極意』(明治図書)に「すぷりんぐぶろぐ」(沼澤晴夫先生/秋田県)からコメントをいただきました。
http://blog.goo.ne.jp/spring25-4/e/7b78146f6d4a2a665c0ed5dedd892cca

6.拙著『エピソードで語る教師力の極意』(明治図書)に「すぷりんぐぶろぐ」(沼澤晴夫先生/秋田県)から書評をいただきました。この書評が公開されたことだけで私は満足です。申し訳ないことに、私は沼澤晴夫という読書人をこれまで見くびっていたかもしれません。
http://blog.goo.ne.jp/spring25-4/e/c95489c151e18dc15c3b563ab240038d

7.明治図書のランキング。今日は堀が9位。んで、石川がジャンプアップで41位。「エピソードで語る教師力」みたいな本がある程度売れるってことは、僕らの本がコンテンツじゃなくて名前で売れているということの一つの証左だ。逆に見れば、いつかは名前がしぼんで売れなくなるということでもある。良い面もあるが、悪い面の方が大きいように感じてしまう。こんな書き方が不遜であることはわかるけれど、なんとも複雑な心境だな。僕にはどのくらいの人がちゃんと読んでくれるのだろうという懐疑的な気持ちがある。そこが売れれば単純に喜ぶ編集者と人生を切り売りしているような気持ちでいる著者との一番の違いであるような気がしている。

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関数

本稿は問題だけを提起し、敢えて答えは書かないことにします。読者の皆さんが自ら考えたり、周りの人たちと意見交換することによって、自分なりの答えを見つけていただければと思います。

【その1】スキル

「教師力」とは何か。これを考えるにあたっては、その反対の概念を考えることが有効です。

例えば、「教師力」の下位項目として「学級経営力」があることはだれもが納得するところでしょう。しかし、「学級経営力」とは何かと考え始めると、これまた「教師力」同様、途端に難しくなってしまいます。そこで、「学級経営力」とは反対の概念を想定してみるわけです。

「学級崩壊」という言葉があります。教育界では忌み嫌われる言葉ですが、思考の糧として使うにはなかなか良い言葉です。例えば、「学級経営力」の対立概念として、「学級崩壊力」というような言葉をつくってみます。4月の始業式からヨーイドン!で学級を運営し始め、一番早く学級を崩壊させたものが勝ち!のような力ですね(笑)。

ちょっと考えてみてください。どうすれば、いち早く学級を崩壊させることができるでしょうか。

例えば、差別をするとか、贔屓をするとか、子どもによって態度を変えるとか、ついさっき言ったことと違うことを正しいと言い張るとか、連絡していないことを連絡したと言い張るとか、常に上から目線で嫌みったらしく語るとか、すぐに忘れ物を取りに職員室に行くとか、まあ、考え出したらキリがないほど出るはずです。ためしに仲の良い同僚とやってみると良いでしょう。ゲラゲラ笑いながら、ほんとうに楽しい時間を過ごせるはずです。4,5人の呑み会で話題にしたら、時間を忘れて盛り上がれることを保障します。

しかし、この「学級崩壊力」の要素を本気で出し合ったとしたら、やはり力量の高い教師ほど、的確な「学級崩壊力」を指摘するものです。力量が高いということは、それだけやってはいけないことに自覚的であり、それに陥らない手立てをスキルとして身につけている状態をいうからです。力量の高さとは「これをやるといい」と「これをやってはダメ」とがどれだけ明確に意識されているかを指すのだと言ってほぼ間違いありません。

いかがでしょうか。「学級崩壊力」は決して冗談などではなく、一度、本気で考えてみるべき価値ある概念だということをわかっていただけたでしょうか。

【その2】キャラクター

ただ、同じスキルをもっていれば指導したときに同じ効果が期待できるのかというと、決してそうではないところがこの世界の面白いところです。スキルというものはその教師の人格と切り離せないもので、その教師が用いるからこそ機能する、しかしある教師が用いるとまったく機能しない、そんなことが厳然とあるのです。極端に言えば、想定した「学級崩壊力」をすべて実践しても学級崩壊しない教師もいれば、それなりのスキルを身につけているのに学級を崩壊させてしまう教師もいる、それが現実です。

この違いを教師それぞれの「人格」と言ってしまっては人間性とか徳とか威厳とか、教育界で古くから言われている何か崇高なもののように感じてしまいます。私の言うのは少しニュアンスが違うので、私はもう少しイメージを軽くして、教師それぞれの「キャラクター」の違いという言い方をしています。

スキルとか、ネタとか、新しい指導法とか、そういうものに教師は飛びつきがちです。しかも、ちょっとためしてうまくいかないと、それらを簡単に捨ててしまうという事例も多く見られます。しかし、スキルもネタも指導法も、自らのキャラクターに相応しいのか、自らのキャラクターがそれらを機能させやすいのかさせにくいのか、こうしたことをしっかりと検討したうえで導入しなければならないのです。

多くの教師がこのことに無頓着過ぎます。自分がどのようなキャラクターとして子どもたちや保護者、同僚の目に映っているのかということをほとんど考えない傾向にあります。それでいて、このスキルはうまくいかない、このネタには子どもたちが乗らなかった、この指導法は万能じゃない、そんな自分本位の評価を下しているというのが多くの教師の現実なのではないでしょうか。

【その3】チーム力

キャラクターに合ったスキルを身につけ、たとえそれらを機能させたとしても、一人の教師ができることなどたかが知れています。学年団のなかで、学校のなかで、その教師自身がどのような位置づけで機能するか、存在感を示すか、個人プレーばかりを志向せずにどのように周りと調和するか、それを考えなければなりません。

私は「教師力」を〈キャラクター〉と〈スキル〉と〈チーム力〉との関数だと考えています。〈キャラクター〉が10、〈スキル〉が10、しかし〈チーム力〉は-1、これでは3つを掛け合わせればマイナスになってしまいます。突出した教師がいることがかえって学校に迷惑をかけるという事例をしばしば目にしますが、それは比喩的にいえばこういう構造なのだと考えています。

一人でできると思うから失敗するのです。自分で何とかしようと思うから辛いのです。教師それぞれが〈キャラクター〉に応じた〈スキル〉を身につけると同時に、〈チーム〉で仕事にあたる、そういう時代がやってきたのです。詳細は拙著『教師力ピラミッド~毎日の仕事を劇的に変える40の鉄則』を御参照いただければ幸いです。

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いつでも変われること

今年度、中学一年生の学年主任を務めています。全七学級。私も含めて七人の担任陣で二四二名の生徒たちを受け持っています。

この担任陣が非常に若く、平均年齢は三二・一歳です。四七歳の私を含めてこの平均年齢ですから、他の担任がいかに若いかがおわかりかと思います。初めて担任をもつという者が二名、二度目の担任が二名、要するにある程度以上の経験をもつ者が私を含めてたった三人という学年なのです。おそらく教職にある者ならば、そのメンバーでの学年運営は大変だろうな……と思うことでしょう。

しかし、私は実はそうは感じていません。むしろベテラン陣が揃った学年の方が、それぞれが硬直した考え方をもっているために、その摺り合わせに気を使わなければならない、それに比べれば柔軟性のある若手中心の方が運営しやすい、そう感じています。それぞれ細かな失敗はあるにせよ、適切なフォローがあればその失敗を糧にして成長していける、それが若手です。自分のやり方に固執して聞く耳を持たない中堅・ベテランと一緒に仕事をするよりも精神的にはずっと楽です。

私は教師の資質として、五つのことが必要であると感じています。第一にいつも笑顔でいること。第二に孤独に耐える力をもつこと。第三に無駄とわかっていることに取り組めること。第四に子どもと一緒に馬鹿げたことを一所懸命やるのを楽しめること。第五にいつでも変われること、つまり、いまを壊し、新しい自分になるのを怖れないこと。

この五つの資質のうち、読者の皆さんは教師にとってどれが最も大切だと思われるでしょうか。私は確信を持って言います。「変われること」であると。若者はこの「変われる」という柔軟性を持っています。変われる人を相手にするのなら、その指導に時間と労力を割くことも、フォローに奔走することも苦にはならないではありませんか。

教師とはごくごく簡単に言えば、子どもたちに「変われ」と言い続ける仕事です。成長とは変わることなのです。子どもたちには「変われ」というのに、自分が変わることだけは断固拒否する、世の中にそんな教師が多いことに私は大きな違和感を抱いています。

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