エピソードで語る教師力の極意
新刊『エピソードで語る教師力の極意』(堀裕嗣/明治図書)のamazonでの予約販売が始まりました。僕が何を考えて教職を続けてきたか、若い頃にどんな悩みを抱いていたか、そんなことを書き綴りました。
新刊『エピソードで語る教師力の極意』(堀裕嗣著/明治図書)が4月10日(日)に刊行です。明治図書のHPには「堀 裕嗣が具体的なエピソードで語る“教師の生き様” 教師・堀裕嗣が、20数年の教師生活を支えてきた方法や発想をエピソードとともに紹介。「新卒時代」「学生時代」「演劇部顧問」「『研究集団ことのは』代表」「振り子論者」「メタ認知論者」「学年主任時代」などの章による具体的なエピソードで、教師力の極意を直伝!」と書かれていますが、ちょっとかっこよすぎます。石川晋・山田洋一とともに3冊同時刊行です。
- ―礎(いしずえ)
- 一 教師が素の人間として生徒を愛すことは善か悪か
- 二 たとえそれが教育と背馳したとしても
- 三 子ども時代の自分と教師としての自分と
- 四 再び、教師が素の人間として生徒を愛すことは善か悪か
- ―弔辞
- 一 観の確立と、感性の陶冶と
- 二 機能し切ること、未来に開かれていること
- 三 新しい「大きな物語」を探し求めて
- 四 メタレベルの視座を生活世界内に投げ返す
- 五 度しがたい軽薄な兆候と、こっけいなアナクロリズムと
- ―「君をのせて」(堀裕嗣作・一九九五年)
- 一 教師は生徒たちの人生にどこまで責任をもてるのか
- 二 自己愛によるエゴイスティックな構造に陥ってはならない
- 三 悪ではないが善でもない、ただし、罪を犯すことが少なくない
- ―研究集団ことのは
- 一 一年半を費やした仕事は失敗に終わった
- 二 「研究集団ことのは」の曲折はすべて自分に責任がある
- 三 再び、ただの中学校国語科教育の研究サークルに戻る
- 四 書けば書くほど、書くべきことは増えていく
- 五 学びはできるだけ「異質なもの」を対象としなければならない
- ―学力形成派と人間形成派
- 一 最初の卒業生に喪失感より充実感を感じて
- 二 あっちの水の甘さを知ってこっちへ戻ると更に甘くできる
- 三 「学力形成」派の本質は「割り切ること」である
- 四 再び振り子を振らなければならないそんな想いに駆られる
- ―夏期研究集会に参加して
- 一 教師としての問題の本質は「他者の不在」である
- 二 自己と他者を見出し、その構造を思考させ表現させる
- 三 自分自身の認知過程をモニターし制御する
- 四 「成長せよ」と「そのままでいいんだよ」と
- ―「うらやましい」と言われたこと
- 一 私の若手育成は自分本位の打算から始まった
- 二 再び、メタレベルの視座を生活世界内に投げ返す
- 三 「チーム力であたる」は私としては苦肉の策だった
- 四 リーダーは若手に成長実感を保障しなければならない
- 五 教師人生にも往路と復路がある
まえがき
ここ数年、幾冊もの書籍を上梓させていただきました。内容はどれもこれも私一人では決して到達できなかった、多くの方々との共同作業で形づくられてきたものばかりです。また、これまで関わってきた生徒たちを抜きにしては考えられなかったものばかりでもあります。「エピソードで語る教師力」として一書をまとめよということは、そうした人とのつながりを綴れということなのだと感じています。
確かに私は二十年余りの教師生活において、幾多の先達と出逢い、数多の影響を受けてきたという自負があります。また、多くの若手教師たちとも日々関わり続けています。職場だけでなく、サークルや研究会など、一般の教師が経験できないような多くの出逢いを経験してきました。既に鬼籍に入られた方から現役の教員養成系大学の学生に至るまで、多くの出逢いと学びとを経験してきました。その出逢いと学びから私の得たものを綴れということなのだとも感じています。
本書は「新卒時代」「学生時代」「演劇部顧問」「研究集団ことのは」「振り子論者」「メタ認知論者」「学年主任時代」という七つの章からなりますが、すべての章に当時のエピソードを綴った私の文章を冒頭に掲載し、それを解説していく形で語り進めていきます。また、私の当時の問題意識が読者の皆さんに伝わるように、できるだけ具体的に出来事を語っていくことに努めました。加えて、その時々の教育活動に使った曲、或いはその時代に私がよく聴いていた曲を紹介し、当時に私と付き合いのあった方々には「ああ、あのときの曲だ」とわかる、そんな趣向も凝らしています。
そうした私のこだわりが成功しているか否かは読者の判断に委ねるしかありませんが、私としては精一杯、書けることについては書いたつもりです。どうぞ御笑覧いただき、御批正いただければ幸いです。
序章 エピソードで語る教師力
皆さんは「戦場のメリークリスマス」という映画を御存知でしょうか。一九八三年公開、大島渚監督の大ヒット作です。デビッド・ボウイ、坂本龍一、ビートたけし、トム・コンティらの出演した、私たちの世代にとっては想い出深い映画です。私がこの映画をロードショーで見たのは高校二年のときでした。
この映画に印象深いシーンがあります。
日本軍の捕虜となった英国軍人のデビッド・ボウイが軍律会議にかけられます。軍律会議にかけられても反抗的な態度を崩さないデビット・ボウイに対して、内藤剛志演じる審判官がその人物像を把握しようと問い詰めます。
You must tell us your pass history.
しかし、デビット・ボウイは即座に、吐き捨てるようにこう言います。
My past is my business.
「お前はこれまでの生育歴を語るべきだ」と言った審判官に対して、「過去は私だけのものだ」とデビット・ボウイが返した……といったような意味合いですね。もしかしたら、あくまで私にとって印象深いシーンであって、一般的には、この映画の根幹をなすシーンとはみなされていないのかもしれません。しかし、私はかなり重いシーンだと感じています。私が高校時代からこのシーンを印象深く感じているのは、おそらくここに日本人と西洋人との一番の違いがあるように感じたからなのではないか、自分ではそう考えています。
「エピソードで語る教師力」という企画が持ち上がったとき、実はちょっと引いてしまっている自分を感じていました。山田洋一先生の発案でした。私と山田洋一先生に編集者が三人、五人で飲んでいたときのことです。確か西新宿の魚と日本酒のおいしい小さな居酒屋でした。いろいろな先生方に、どのようにいまの自分が形成されてきたのかをエピソードを中心に語ってもらおう、それがこれから教師人生を充実させていこうとする若い読者のヒントになるのではないか、そうした発想での提案だったように思います。
私は「それはいいね」と応じました。その提案の時点で、私の頭の中には、自分がそれを書き綴るメンバーにされるという頭がなぜかなかったのでした。山田洋一先生の提案だったものですから、なんとなくこの企画は小学校の先生の企画だと感じていたのです。しかし、話が進んでいくと、執筆者は十人、小学校教師が七、八人に中学校教師が二、三人、そういう話になってきました。どうやら小学校教師の企画なのだろうと考えていたのは私だけで、その場にいた私以外の人たちは、みんな私も書くものだと考えていたようです。
それから数ヶ月、自分には何が書けるのだろうかとなんとなく頭の片隅に意識されている、そんな毎日が続きました。どうも自分には若い教師に「こういうふうに教師生活を送るといいよ」というようなエピソードがないのです。
確かに、授業力を高めるためにどんな授業技術をどんなふうに学んできたかということなら書けます。自分の話し言葉を鍛えるためにどんな取り組みをしてきたかということも書けます。そのような目的的に取り組んできたこと、自分で意識的に取り組んできたことならば、若い教師に役立つようにといくらでも書き記すことができます。しかしそれは、「○○という目的ならば○○するといいよ」という一点集中型の提案であって、私という教師の力量がどのように形成されてきたのかということとは距離があるのです。
私はこれまで幾つかの書籍を上梓させていただきました。しかし、それらは私の教師生活の一部を目的的に切り取り、まさに「○○という目的ならば○○するといいよ」という提案に過ぎないのです。決して、「私はこうしてきた」「こういう努力があっていまの私がある」というような報告的な提案ではないのです。むしろ私は、そういう提案の仕方を避けてきたところがあります。
本を書くということは、一般には「テーマ先にありき」です。テーマが先にあって、そのテーマに対応するような事例を自分の経験から引っ張り出してくる。そうした経験の中には、書いて良いものもあれば悪いものもある。読者に伝わりやすいものもあれば伝わりにくいものもある。そうした中から、書いて良いもので読者に伝わりやすいものだけが具体例やエピソードとして用いられる。そういうふうに出来上がっていくものなのです。決して、学級経営の本に著者の学級経営がまるごと書かれているわけではありませんし、生徒指導の本に著者の生徒指導がまるごと書かれているわけでもありません。そういうものなのです。
しかし、「エピソードで語る教師力」となると、そうはいきません。いまの自分の実践力がどのように形成されてきたのかを語る、しかもそれをエピソードを中心に語るということになると、書いていけないことは同じように書けないにしても、読者に伝わりにくい部分についてはなんとかして少しでもわかりやすく書くことをしなければ、表層的なものになってしまいます。しかも、私にはデビッド・ボウイの科白のように「過去は自分だけのものだ」という感覚がありますから、どうもそういうエピソードをわざわざ他人に読んでもらう必要はないのではないかと思えてしまうのです。
しかし、今回はせっかくの御依頼ですし、また、酔った上とはいえ一度書くと約束したことでもありますので、書いてみようと思います。しかも、「戦場のメリークリスマス」で私が感じたように、日本人の提案はその人の歴史といっしょに提示された方が、読者にとって心情的なわかりやすさが得られるということもわからないではありません。ですから、今回は思い切って書いてみようと思うのです。
ただし、最初に読者の皆さんにご了承いただきたいことがあります。
セミナーのQ&Aのコーナーで参加者から「堀先生はどんなふうに力量形成を図ってきたのか」と尋ねられることがあります。或いはここ数年流行している「ライフヒストリー・アプローチ」の手法を使って力量形成の歴史を語るということを経験したこともあります。いつもこういうセミナーで話をしての率直な感想は「どうも自分の教師としての成長の根幹をはずしているな」という思いでした。理由は幾つかありますが、ごくごく簡単にいえば、まずは、私自身がそうした自分史のようなものを語ることに意味を見出せていないこと、短時間で語ることは無理だと最初から感じてしまって端折って話をすること、という二つの理由を挙げることができます。そして実は、こういう場で私が自分史を語れない最も大きな理由は、国語教育の話と学級経営・生徒指導の話とを結びつけて話をしないと自分の意図が伝わらないという想いがあるものですから、国語教育のセミナーにおいても、学級経営・生徒指導のセミナーにおいても、その参加者の傾向からその両方を結びつけて語ることを避けてしまうという事情があるのです。
私は次章から、私が教師を志した学生時代からこれまでにどんな問題意識を抱き、どんな意識でどんなふうに生徒たちに接し、どんな意識でどんなふうに研究会に参加し、どんな意識でどんなふうに実践研究に取り組んできたのかを語ります。しかし、そこには、ある程度の国語教育の専門用語や先行研究などを掲載することが避けられないのです。しかもその中には、若い読者が知らないような、戦前に刊行された本とか戦後間もなくに流行した実践手法なども出て来ます。そこのところをご了承いただきたいのです。ただし、これから語られるエピソードの本筋に深くは関係しないという部分については、思い切って端折ります。言い訳にしかなりませんが、国語教育の専門家でなくても文意が理解できるように書いたつもりではあります。
私がこれから書くことは、おそらく教師としてはかなり異色だと思います。これまで様々な人たちに異色であるという指摘を受けたことがあります。もちろん、私は教員養成カレッジから公立中学校の国語教師になっただけの人間ですから、教師としての経歴はまったく異色ではありません。おそらく問題意識の立て方が異色なのでしょう。しかもこれほど振り子の振れる教師人生、それも自分で意識的に振り子を振るという教師としての在り方も異色なのだろうと思います。
仲の良いサークル仲間とか、呑んで話をした研究仲間とか、そういう人たちにさえ、あまり私の問題意識は理解されたことがありません。ですから、これから語る、私が教師を志して以来二十五年あまりエピソードが、読者の皆さんに役に立つのかどうか甚(はなは)だ心許(こころもと)ないというのが正直なところなのです。そしておそらく、読み物としてもそれほどおもしろいものではありません。
また、せっかく私にこの本を書くように薦めてくれた山田洋一先生や編集者の皆さんの期待を裏切ってしまうのではないかという不安も抱きます。「私が書いて欲しかったのはこんな本ではない」と。もしかしたら「こんな本は出版できない」と言われるのではないかという不安さえ抱きます。
この本はおそらく、私の実践にではなく、私という教師に、私という人間に興味を抱いてくれている数少ない読者にしか興味をもって読み進められないものでしょうし、私という教師に興味を抱いた人にしか役立つこともないものでしょう。それでも、学生時代以来の様々な資料を繙きながら、正直には書いていきます。学生時代や新卒時代のエピソードには、著者も気づいていないような過去の美化が若干はあるのかもしれませんが、私はいまでもその頃の想いを生々しく覚えているつもりです。少なくとも、いま現在、私の頭の中にある学生時代や新卒時代はこういうものであるということだけは確かです。
では、まずは思うところがあって、学生時代を後まわしにして、新卒時代のエピソードから語り始めたいと思います。はじまりはじまり……(笑)。
坂本龍一/Merry Christmas Mr. Lawrence を聴きながら
あとがき
二○一一年八月三○日、父が脳梗塞で倒れました。入退院を繰り返し、いまも病院にいます。同じ年の一二月七日には義父が肺癌で亡くなりました。学生時代以来の紆余曲折を綴ってきましたが、こうして好き勝手なことを書いていられるのも、自分が若く健康でいられるからなのだと実感します。
一九六六年四月七日。この世に生を受けて以来、様々な方々の影響を受けてきました。特に、両親から受けた影響は計り知れません。もちろん良い影響もあれば悪い影響もあるのでしょうが、この年になると、悪い影響があったとしてもそれを両親のせいだとはまったく思わなくなります。それなりにものを考えられる頭と健康な躰を授かっただけで満足。あとは自分の責任である。そんな気持ちがします。
先日、両親と妹と四人で、本当に久し振りに一泊二日の温泉旅行に行ってきました。父が入院中ですから、外泊許可をもらっての旅行です。そう遠くへは行けません。札幌市内の定山渓温泉と近場の旅行でしたが、おそらく四人で泊を伴う旅行に行ったことは、ここ三十年はなかったのではないか、記憶が定かではありませんが、そんなことを思いました。もうそんなに長い時間をいっしょに過ごせるわけでもないはずです。これからは年に一、二回はこういう機会をもとうと決意しました。思えば、既に家を出て独立してからの時間が、両親と過ごした時間を大きく超えてしまっています。時が経つのは早いものだと実感します。
ふと気づくと、教職に就いて二十年余りが経っています。本書では学生時代以降のエピソードを語ってきましたが、実は私の教育実践には小学校時代、中学校時代、高校時代のそれぞれの恩師から受けた影響を無視できません。特に小学校四年のときの担任大塚充健先生、同じく五・六年のときの担任高橋純先生、中学一年生のときの担任関義彦先生、高校二・三年のときの担任佐藤捷夫先生の影響が色濃く反映されています。十年ほど前だったでしょうか、著書をもって大塚先生を訪ねようと連絡した折、大塚先生は既に鬼籍に入っておられました。悔やんでも悔やみきれない経験でした。
私の教職人生は北海道にいたからこそ経験することのできた、北海道ならではの出逢いや北海道ならではの実践に彩られています。両親や恩師からいただいた恩恵を、あくまでこの北海道の地で若手教師たちに恩送りしていけたらと考えています。不景気が続き、学力調査でも最下位に近い北海道ではありますが、この地に再び「教育王国」の名が冠せられる日を今日も夢見ています。
最後になりましたが、この度も編集の及川誠さん、杉浦美南さんにお世話になりました。深謝致します。
松山千春/大空と大地の中で を聴きながら……
二○一二年一○月一九日 長麻美と呑んだ夜に 堀 裕嗣
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