見透かし
「見透かし力」も大切ですが、それ以上に大切なのは「見透かされ力」です。自分にやる気がないことを、自分がサボりたいと思っていることを、自分が待つことに耐えられずイライラすることを、自分が面倒なことにかかわりたくないことを周りに見透かされ、しかもその指摘を聞き流すことができるようになると、自分が楽をできるのみならず、仕事が滞ることもなくなっていくます。
「まったく、堀先生はこんなことにもイライラしちゃうんだもんねえ。仕方ないわねえ(笑)。」と、僕の代わりに笑ってその仕事をやってくれる女性教師の存在は、間違いなく私の仕事と精神を充実させます。「じゃあ、甘えちゃうね。今度、おごるからね。なんか食べたいもの、考えといて。」とでも言えば、社会は充分にまわるのです。
「いやあ、ダメだ。もうダメだ。この単純作業に耐えられない。手伝ってよ~」と向かいに座っている男性同僚に大きな声で言ってみる。すると、周りにいた先生方が寄ってきて、「堀さん、何さ。どしたのさ。」と手伝ってくれるものです。
私は職員室で、そんな日常を過ごしています。人に頼ってはいけない、人に見透かされるのはプライドが許さない、そんな完璧主義で、いったいどれだけの仕事ができるというのでしょうか。そういう完璧主義では実は何もできないのです。一人でできることなんてたかがしれてるのですから。
人に見透かされて笑っていられる人は、人を見透かしても笑ってもらえます。人を見透かして何かを指摘しても、喧嘩にならないのです。「そうなんだよなあ。なんか良い方法ない?」などと、逆にヘルプを出されてしまうほどです。こんな人間関係ができてしまえば、たいていのことはうまく行きます。むしろこういう人間関係がないために、職員室で多くの軋轢が起こるのではないでしょうか。
さて、「見透かし力」です。
私は他人に対してわざわざ見透かそうとしなくても、見透かせるものだと思っています。見透かされないように頑張ろうとすること自体、どだい無理な話なのです。そして見透かされないことではなく、見透かされるのが当然であり、見透かせることが当然であるという発想に立てば、世界は変わります。簡単に言えば、弱さを認める、苦手な分野を認めることができるようになるのです。
人の多くの悩みは〈見る自分〉と〈見られる自分〉との矛盾によって起こります。要するに、自分ではこういう人間だと思っている自己認識と、周りの人たちにこういう人であると他者からの評価との間にズレが生じている状態ですね。この状態に陥りますと、「自分は自分だ」と我が儘になるか、周りの評価に合わせて窮屈な感覚で毎日を過ごすことになるかのどちらかです。社会生活を送るうえでの自分の陰に、「ほんとうの自分」がいるという感覚に陥るのもこの構造によってもたらされます。
ところが弱い部分は弱い、できないことはできない、苦手な領域はこれとこれだということが自分と周りとの間に共有され、お互いにネガティヴな部分をフォローし合う関係が築けるようになると、人間関係は安定していきます。お互いの得意・不得意を理解し合っている関係、つくるべきはそういう人間関係なのです。詳しくは拙著『教師力ピラミッド 毎日の仕事を劇的に変える40の鉄則』(明治図書)を御参照いただければ幸いです。
もう一つ、教師の「見透かし力」で大切なのは、子どもを対象としたものでしょう。この子はこう見えるけれど実はこういう子、という子どもを評価する視点ですね。
これを考えるとき、多くの教師は子どもの見取りに必要な観点は何か、つまりどんな風に子どもたちを観察すれば適切な評価ができるか、そういう発想で考えます。しかし、私はこの発想が既にダメだと感じてます。まず、自分の目を疑う。すべてはそこから始まります。どんなに力量を高めたところで、一人の人間の見る目などというものはたかだか知れているのです。私が大切にしているのは「複数の目で見る」ということだけです。
私が「いい子」だと思っている子が、他の教師から見ると「裏のある子」と評価されていることがあります。そのズレは私に様々な認識をもたらしてくれます。例えば、私がその子を「いい子」と感じていたのは、私とその子との関係があまりにも良いために、その子自身が私の前では「いい子」のお芝居をしているのかもしれません。例えば、その子が生徒指導担当の私を怖れているために、私の前ではテキパキと物事をこなしているのかもしれません。例えば、その子が私の指導したことを具現しようとするあまり、他の子たちにもそれをさせようとして自己中心的に他の子のミスを指摘し続けているのかもしれません。いずれにしても、人が人を評価する場合、両者の間にある人間関係のコンテクスト(ここでは「状況」くらいの意味と捉えてください)と切り離せないものなのです。
小学校教師には少々きつい言い方になりますが、一人の教師の目など所詮その程度のものなのです。この構えをもっているか否かによってこそ、実は子どもたちへの評価の観点というものが広がったり深まったりするのです。教師は職員室で具体的な子どもの話をたくさんすべきとよく言われますが、それはそういうことなのです。自分の目を過信しない、自分の正しさを過信しない、見透かせるなんて思わない、教師としての基本のキです。
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