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〈公共性〉と〈共同性〉のバランス

民俗学的にいえば、〈共同体〉はケガレ(=異物)を共同体の外に排除しようとする機能をもっている。宮田登は明治から大正にかけて鉄道が全国に普及していくプロセスにおいて、「狸が機関車に化けて鉄路を走り本物の汽車とぶつかって死んだ」という世間話が全国に頻出していたことを指摘した。これは当時、この国に普及していく鉄道網が人々に異物として認知され、それがケガレに転移して捉えられたことを意味している。チョコレートが輸入される過程で「チョコレートは血を固めたものだ」という噂が広まったり、税制度が導入される過程で「血税とは血を税として取ることだ」といった噂話が流布したのも同じ構造である。それまでの自分たちの生活になかった西洋文化や近代制度を異物として認識し、そこにケガレを読み取って排除しようとする心象が、こうした噂話を流布させたのである(『物語消費論』大塚英志・角川文庫・一九八九年五月)。

〈共同体〉というとあくまで鄙(ひな)の話であり、山村の田舎町の話に過ぎないと思われるかもしれない。或いはあくまで近代に移行する以前のムラ社会の話に過ぎず、自分とは無縁だと思われることもあるかもしれない。しかし、そうではない。東京・大阪・名古屋といった全国的な中心都市であっても、或いは福岡・仙台・札幌といった地方の中心都市であってもこの構造と無縁ではないし、現在という時代状況においてもこの構造は意識的・無意識的に僕らを包み込んでいる。例えば、地方は常に都市のケガレを引き受けさせられる構造がある。原発が東京から離れた地域に置かれるのは、東京に必要な、東京が利用すべきケガレを自分たちに影響のないソトに排除しようという心象の表れである。ゴミ処理場や火葬場、在日米軍基地も同じ論理でソトへソトへと追いやられる。その結果が現在のこの国の産業地図である。僕は札幌に住んでいるのだが、泊原発が放射性物質汚染を引き起こしたときに風向きによってどこまで被害が拡散するかのシミュレーション地図を見て札幌の人たちが不安感を表明したときに、「札幌も危ない」とか「札幌は安心」とか言いながら、泊と札幌の間にある多くの市町村がまるで存在しないかのような議論を展開するのを聞いて、その感覚に驚いたことがある。

おそらく、かつてのハンセン病隔離やエイズ感染者差別はもちろん、高遠さんら三人のイラク人質に対するバッシングも地方巡業をさぼってサッカーに興じた朝青龍に対するバッシングも、どれもこれもみんな現代の人々に異物として忌み嫌われ、ケガレとして認知され、それが全国的な報道となってハレーションを起こしたのである。鉄道に恐怖し、チョコレートや全国一律の税制度を忌み嫌った集団心理と何ら変わりない。そもそも、僕らはここ数十年においても、あるファーストフード店のハンバーガーが猫の肉でできているとか、あるハンバーグレストランがアフリカの大型ミミズの肉を使っているとか、ある清涼飲料水を飲み過ぎると歯がとけるとか、様々な都市伝説を流布させてきたじゃないか。どれもこれも当時者の企業にとっては社運を脅かす話だったはずだ。僕と大沢美羽は当時ともにつくった〈共同体〉へのノスタルジーに互いに涙したのであり、軽口を叩いた若者は僕の研究会がもつ〈共同性〉からケガレ(=異物)として忌み嫌われ排除されたのである。それがどうしようもない日本人の習性なのだ。

この原稿を書いているのは平成二十五年の三月二十三日(土)である。僕は次年度、つまり一週間後から勤務校で一年生の学年主任になることが決定している。学年の担任団はとても若い。僕はこの一週間、その若い担任団でどのように学年を運営していくか必死で考え、様々な準備に奔走してきた。その間、初めて担任をもつ若い女性教師には、決して孤独にはしない、僕がやれることはすべてやるから安心して欲しい旨を伝えた。経験の浅い男性教師には、お前を全力で育てるから期待しろと励ました。学年運営の核となるであろう中堅の男性教師には、お前を信じて任せるから思った通りにやってくれと告げた。責任はオレがとるからとも告げた。すべては新しい学年団に〈共同性〉をつくることを目的とした発言である。少なくともその契機にしようとする発言である。そして僕は、自分がいくら孤独に苛まれようとも、彼ら彼女らを大切にしながら一年間を送るだろう。もちろんいくらかの人間関係トラブルはあるだろうし、うまくいかないこともあるに違いない。しかしそれでもなお、彼ら彼女らを大事にするというその一点だけは崩さないだろう。それがムラ社会の村長の仕事だということを僕が熟知しているからだ。しかしこんなことは特別優秀でなくてもわかることに過ぎない。僕じゃなくても、ただ日本人でさえあれば、直感的にわかってしまえることに過ぎない。僕らは仕事をするうえで、とにかく何はともあれ、〈共同体〉をつくろうとする。それが近道であることを知っているからだ。もちろん、〈共同体〉をつくらなくても仕事はできるだろう。「お互い大人だから……」とばっさり斬ることだってできなくはない。しかし、〈共同体〉をつくれなければ、この国ではその仕事が長続きしないこともまた僕らはよく知っているのである。こうした広い視座で考え、学年を運営することこそが学年主任の最重要の仕事なのだ。学年主任に限らず、人のうえに立つ者の最重要課題なのだと言っても過言ではない。

実は、子どもたちの人間関係も同じ構造にある。子ども集団で忌み嫌われるのはまずは何を措いても「何を考えているのかわからないタイプ」である。また、「自己チュー」や「空気の読めないヤツ」も嫌われる。すべて〈共同体〉の〈共同性〉から逸脱したと目される子どもたちなのだ。転入生がいじめのターゲットにされやすいのも同じ構図である。いじめを受けた側がいじめられても笑っていることがよく問題となるが、これも〈共同体〉から排除されることがいじめられること以上に辛いことだと認識されるからだ。八方塞がりになった子が自殺してしまうのも、おそらくは〈共同性〉から排除され、村八分にされることに耐えられない自分が想像されるからという側面があるのだろうと思う。すべて異物とケガレの排除と、一度排除されたら二度と戻ることができないという深刻さという、あまりにも日本的な〈共同体〉によるあまりにも日本的な〈共同性〉の問題なのだと言える。

事実、いじめ問題の解決にはこうした〈共同性〉を解体した方が良いという議論がある。例えば、内藤朝雄は中学校・高校も学級解体し、同調圧力を解体すればいじめは解消できるとの見解を示している。学級制度のない大学には深刻ないじめ問題がないではないかと(前掲『いじめ加害者を厳罰にせよ』)。確かに僕も学級を解体すればいじめ問題のかなりの部分が解消するだろうという見解に同意する。しかし、もし政策として学級を解体することが本格的に議論され始めたとしたら、現段階では強く反対するだろう。いじめ問題を解消するためにいじめ問題以上の問題を引き起こす可能性があると直感するからだ。大学では友人がいないと思われないように、いっしょに昼食を取る友達がいないときにトイレの個室で弁当を食べる学生が話題になっている。学問の出来不出来や将来設計の問題とは無関係な、友人のいるいないが大きな問題となって退学したり、アルバイト先の人間関係を優先することによって退学したりといったことが話題にもなっている。そもそも大学生は確かに学級制度のなかで生きてはいないものの、各種サークル活動によって群れる生活を送っているではないか。制度としての〈共同体〉が存在しない分、自らの意志によるプロジェクト的な〈共同体〉を組織したり所属したりということが頻繁に行われているではないか。これはやはり、大学生たちだって群れたいと思っているという傾向を示してはいないだろうか(『「意識高い系」という病』常見陽平・ベスト新書・二○一二年一二月)。

おそらく、中学・高校において学級を解体すれば、この「群れたい傾向」は発達段階から見てもっと顕著に現れてくるに違いない。そして大学サークルなんかよりももっと濃密な群れができあがっていくに違いない。所属するも自由。しないも自由、もちろん移動も自由、そうは言うけれど、多くの中高生の人間関係において、人間関係だけで組織にさえなっていない小グループにおいてさえ、その移動はままならない現実があるのだ。いじめ問題を解消するために、いくらその主たる要因になっているからと言って、別のシステムを解体してしまうという結論を出すのは早計である。学級を解体するか否かはいじめ問題だけを考えて判断して良いことではない。その他の考えられる要素をすべて検討し、総合的に判断したうえでないと政策としては採り入れられない。学校を舞台とした問題は決していじめ問題だけではない。内藤のような議論もまたいじめ問題という別の次元の〈共同性〉に縛りつけられ閉じられていて、もっと広い教育問題を総合的に考えないと判断できないような大きな問題にまで安易に判断してしまおうとする悪弊に陥っていると言わざるを得ない。内藤の論理は、少なくとも現段階では、内田樹が〈説明過剰〉と呼ぶ「その理屈では説明できないし、説明すべきでないことまで説明してしまうことによって、説明されることによって生成した局所的秩序を上回るような無秩序がそこに増殖してしまう」(前掲『昭和のエートス』)タイプの提案である可能性が高い。

この局所的秩序の維持ではなく常にそれを超えた全体を志向するようなベクトルで物事を捉え考える視座を、ここでは〈共同性〉に対置する概念として〈公共性〉と呼ぶことにしよう。内藤はいじめ問題の〈共同性〉に閉じられた議論を展開し、「学級の解体」というもしかしたら教育の〈公共性〉を損なう可能性のある提案を施している。学年主任は学年団の〈共同性〉をつくることに心血を注ぎながらも、自らはその〈共同性〉に浸かることなく常に〈公共性〉を意識しながら運営しなければならない。僕にとって両者はこんなふうに使う言葉だ。

僕が長年敬愛し続けている須貝千里という国語教育学者が、〈共同性〉の有限性を自覚することなしに〈公共性〉の問題を展望することはできないし、〈公共性〉の問題を抜きにして〈共同性〉の有限性を自覚することもできない、と指摘している(『これからの文学教育のゆくえ』田中実・須貝千里編著・右文書院・二○○五年七月)。人は自分の所属する場が全体において部分に過ぎないと自覚するからこそ全体とは何かを考えることができるのだし、全体を考えそれを基準に部分を相対化するからこそ自分の所属する場が全体にとって部分しかなく特殊であることをも自覚できる。また、人は自らの過去の経験が有限であると自覚するこからこそ、未来を展望するときに過去への相対化の視点をもち得る。しかし、人はこんなシンプルな原理を忘れてしまうほどに自分の「いま、ここ」に拘泥してしまう。それを正義として主張しさえする。その正義に懐疑の目を向けることをしなくなる。そして至る所で軋轢が起こる。軋轢を起こすことなく議論しようすれば、互いに互いの〈共同性〉に配慮しながら〈公共性〉を模索する過程のなかに常に自らを位置づけなければならないのだ。それを深く意識しなければならないのだ。こうした態度を日常の、当然の作法として身につけなければならないのだ。おそらく平田オリザはこうした態度を「対話の作法」と呼んだのだろうと想像する(前掲『わかりあえないことから』)。

僕は〈コミュニケーション能力〉とは、日本型な摩擦回避という〈共同性〉を前提としながらもその有限性を深く認識し、アメリカ型の自己主張力によって〈公共性〉の展望を図る力のことを言うのだと考えている。しかし、アメリカ型の自己主張力による〈公共性〉の展望もまた自らの〈共同性〉のなかにすぐにも回収されてしまうから、常にもっと広くもっと深くという永久運動のなかに自分を位置づける必要が出てくる。この永久運動の渦中にあれば、新たな自己主張が生まれた瞬間にもそれをもはや有限の〈共同性〉のなかにあると意識することができるようになる。そしてそれを意識した瞬間、新たな〈公共性〉への飢餓に囚われ、その意識は新たな〈公共性〉の展望へと向かわざるを得なくなる。

ここまでの議論をまとめよう。〈共同性〉はどちらかといえば〈情緒〉の安定に親和性をもち、〈公共性〉はどちらかといえば〈論理〉の先鋭に親和性をもつ。〈コミュニケーション能力〉とは私にとって、〈論理〉と〈情緒〉にバランスを取りながら〈共同性〉の有限性を自覚して〈公共性〉を展望する力のことであり、〈論理〉と〈情緒〉にバランスを取りながら〈公共性〉の無限性を自覚して瞬時に自らの〈共同性〉を自覚することができる、こうした永久運動に自らを位置づける能力のことであり資質のことである。そう。私にとって〈コミュニケーション能力〉sは、「能力」というよりは「資質」に近い概念なのだ。

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